017 お粥・無意識・気をつけて
結局、遥は5限の現代文の途中で早退した。
朦朧とする意識で一人歩く帰り道は相当苦しく、帰り着いた頃には死にそうになっていた。
学生服のままベッドに倒れこんだところまではなんとなく覚えているが、目覚めた今が何時かも分からなかった。
部屋は明るく、ほのかにいい匂いがしていた。
遥はベッドの上で身体を起こし、部屋の中を見渡した。
誰もいない。
が、キッチンの方から人の気配がする。
おそらく、雪季だろう。
時計を見ると、時刻は夜の9時半頃。
そこそこ長い間眠っていたらしい。
身体が揺れた拍子に頭痛が襲ってきた。
顔を歪め、頭を抑える。
喉の痛みも増していた。
熱もありそうだ。
汗をたくさんかいていて、気持ちが悪かった。
「……ふつうに、風邪ひいたなぁ」
試しに喋ってみると、喉が酷く痛んだ。
ううん、意外と重症かもしれない。
「遥!」
キッチンへのドアが開き、パジャマ姿の雪季が現れた。
こちらへ駆け寄ってきて、躊躇いもなく遥を抱きしめる。
「ゆ、雪季……苦じい……」
「……よかった」
雪季は涙の混じった声で言った。
いつもなら暴れているところだが、今はその元気もない。
遥はおとなしく抱きしめられながら、あぁ、汗が汚いのに、と呑気に思っていた。
「体調は?」
雪季の問いかけに、無言で首を振る。
できればあまり喋りたくはなかった。
「お粥、作ってる」
「え、料理……」
「ん」
雪季はテーブルの上にあったレシピ本を開いて遥に見せた。
それは、遥が一人暮らしを始めた頃に買ったものだった。
どうやって見つけたのやら。
ただ、遥は泣きそうになっていた。
口元が歪むのをなんとか抑え、溢れそうになる涙を押し返した。
もちろん、弱っているからだろう。
だが、ずっと一人で暮らしていた遥にとって、体調を崩した時に誰かが助けてくれるというのは、本当に嬉しいことだった。
以前風邪を引いた時は、それはそれは不便だったのである。
「どうぞ」
雪季がキッチンからお粥とレンゲを運んできて、テーブルに置いた。
食欲は無いが、食べた方が良いだろう。
それに、せっかく雪季が作ってくれたのだ。
いただきます、の意を込めて、手を合わせた。
冷ましてから口に運ぶと、なんとも優しい味がする。
遥がお粥を食べる間、雪季はずっと遥の後ろから抱きついていた。
時折、鼻をすするズズッという音がする。
もしかして、泣いているのだろうか。
心配をかけたのかもしれない。
迷惑もかけただろうな。
そう思うと、遥は申し訳なさでいっぱいになった。
なんとかお粥を完食し、器を置いた。
雪季が立ち上がり、食器を片付けてくれる。
戻ってきた雪季の心配そうな顔を見て、遥は居ても立っても居られなくなってしまった。
「……雪季」
気がつくと、初めて自分から、雪季を抱きしめていた。
頭はぼーっとしているし、すぐにでも横になりたかったけれど、なんとかして今の気持ちを伝えたかった。
雪季は微動だにしなかった。
遥を抱きしめ返すこともせず、ただ立っていた。
遥はほんの数秒で雪季から離れ、そのままベッドに倒れ込んだ。
雪季が黙ったまま、遥に布団をかけてくれる。
意識が遠のいていくのが分かった。
次に目覚めた時は、今より体調が良くなっているといいのに。
遥はゆっくり目を閉じながら、そう願っていた。
◆ ◆ ◆
気がつくと土曜日の朝だった。
幸い、意識はだいぶすっきりしている。
時刻は10時前らしく、外はすっかり明るかった。
ベッドの下の布団に雪季の姿はない。
「あー、ゴホッ」
喉の痛みがかなりマシになっていた。
まだ唾を飲み込むと痛むが、昨日ほどではない。
熱も少しは下がったようだ。
「雪季ー。いるか?」
名前を呼びながら、キッチンへ移動する。
雪季は冷蔵庫から出したお茶をグラスに注いでいるところだった。
「おはよう、雪季」
「…………ん、おはよう」
「……どうした?」
雪季はこちらを見なかった。
何か様子が変だ。
それに、いつもより一段と無口な気がする。
よく見ると少しだけ顔が赤い。
何かあったのだろうか。
「もしかして、風邪移ったのか? 大丈夫か?」
「……大丈夫」
雪季はふるふると首を振りながら、遥にグラスを手渡した。
素直に受け取り、お茶を飲む。
喉が渇いていたのだろう。
ただのお茶が一際美味しかった。
「ありがとな、お茶。でも、どうしたんだよ?」
「……昨日」
「昨日? 昨日、何かあったっけ?」
「……なんでもない」
昨日と言えば、雪季の作ってくれたお粥を食べたことくらいしか記憶がない。
なにぶんぼーっとしていたので、記憶が飛んでいるのかもしれない。
遥は思い出すのを諦め、再びベッドに戻った。
「……平気?」
「ああ、けっこうマシになったよ。今日一日休めば、元気になると思う」
「……よかった」
もちろん、まだ油断はできない。
明日には昼からバイトも入れてある。
確実に治さなければならない。
「……買い物、行く」
普段着に着替えた雪季が、ピースサインを作ってそう言った。
室内だと言うのに、なぜか水色のパーカーのフードを被っている。
恐ろしく似合うが、意味は分からなかった。
「どこ行くんだ?」
「駅前のスーパー」
「一人で行けるのか?」
「ん。当然」
雪季は得意げだった。
若干心配だが、今は任せるしかない。
それにどうやら、雪季は遥のために食料や飲み物を補給してくれるつもりらしい。
止めるわけにもいかなかった。
「気をつけろよ。何かあったら連絡するんだぞ」
「ん。大丈夫」
「自分の分の食べ物もちゃんと買うんだぞ。お金は後で返すから、値段は気にするなよ」
「……大丈夫」
雪季は少し不機嫌そうだった。
遥の過剰な心配が伝わったらしい。
雪季はそれ以上の言葉を聞こうとはせず、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「……まるで初めてのお使いの親の気分だ」
ポロリとこぼすが、もちろん返事は返ってこない。
遥はベッドから起きると、戸棚から冷えピタを一枚取り出し、自分の額に貼った。
大人しく待っていることにしよう。
そう言えば、昨日からスマホを見ていなかった。
横になる前に、一度チェックしておいた方がいいかもしれない。
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