003 呼び方・おかえり・ありがとう
次の日は土曜日で、学校は休みだった。
遥と雪季は同時に目覚め、「おはよう」と挨拶を交わした。
一緒に歯を磨いて、順番に顔を洗い、別々に着替える。
朝食にはトーストを一枚ずつ食べた。
そうこうしているうちに、雪季の私物の段ボールが届いた。
あまり見てはいけない日用品や、遥の高校の制服やカバンも入っている。
一体、どうやって用意したんだろうか。
「とりあえず、必要なものは大体揃ってるな」
「ん」
「足りないものが出てきたら、その都度言ってくれれば買い足すからさ」
「わかった」
雪季は素直にコクリと頷いた。
住まわせている、という立場であっても、対等な関係でありたい。
遥はこの同居が決まってすぐから、そう思っていた。
そしてもう一つ、遥が早めに決めておきたいことがあった。
これがまた、なかなか厄介な問題なのだった。
「……水尾さん」
「ん?」
「……雪季」
「……なに?」
「いや、その……うーん」
大変ポイントその2、呼び方。
「毎日一緒にいるなら、たぶんお互いを呼び合うことも増えるだろ? なら、最初から名前で呼び捨てにした方がいいんじゃないかと思いまして……」
遥の言葉に、雪季は不思議そうな顔をした。
首を傾げて、遥の次のセリフを待っている。
「ほ、ほら! 二人とも名前の方が短いだろ? 毎回水尾さん、月島くん、とか呼ぶのもあれだしさ……」
もちろん、名前で呼び合う気恥ずかしさへの抵抗もあった。
けれど長期的に見れば、そのほうがずっといいと思えた。
それに何より、こういうことがはっきりしていないせいで細かいストレスを感じるのが、遥は嫌だったのだ。
ただ、雪季が賛同してくれるかどうかだけが、遥には心配だった。
「べ、べつに下心とか、水尾さんのことを名前で呼びたいとかってわけじゃなくてさ! ……嫌だったら、いいんだけど……」
「……ん。いいよ」
「お、おお。そっか! よかった!」
遥は自分でも意外なほど安心していた。
言うまでもなく、名前で呼ぶことを了承してくれたことよりも、考えていることが伝わったのが嬉しかった。
ただ、とはいえ。
「じ、じゃあ……雪季」
「ん。遥」
(……可愛すぎるだろ)
ニコリと笑って繰り出された名前呼びの威力は凄まじかった。
恋愛が怖いといっても、やはりここまで可愛い女の子にはドキリとしてしまう。
「遥」
「は、はい!」
「……改めて、よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします……!」
正座して、二人でお辞儀し合った。
顔を上げて目が合うと、雪季がふわりと笑顔になった。
「ご、ごほん。じゃあ雪季、さっそくだけど、留守番頼めるか?」
「ん、どうして?」
不安そうな顔で雪季が言った。
しかし、これははずせない用事なのだ。
それどころか、これから共同生活をするにあたって、ますます重要になることだった。
「バイト行ってきます」
◆ ◆ ◆
「疲れたぁぁあ~」
疲労を吐き出すような声を出しながらドアを開け、玄関に倒れこんだ。
遥のバイト先は、土日にかなり忙しさを増す。
勤務時間が長いのも手伝って、エネルギーはもう残っていなかった。
「おかえり」
「え? あぁ……そっか」
疲れ過ぎて、雪季の存在をすっかり忘れていた。
家に帰ると人がいる。
それは遥にとってはかなり嬉しいことでもあった。
「……ただいま、雪季」
「ん。お疲れ様」
しゃがみ込んでいる遥の頭を、雪季がゆっくり撫でてくれる。
子供扱いされているようで少し恥ずかしかった。
「はぁぁあ~……」
靴を脱いでリビングまで歩いた。
テーブルの上には、本棚に立てかけてあったはずの少年漫画が積み重なっていた。
「これ、読んでたのか?」
「ん、そう」
「へぇ~。おもしろいか?」
「うん。とても」
(おお。まさか雪季がこの作品の素晴らしさを理解できるやつだとは)
長い間一人にしてしまうことに申し訳なさがあったが、どうやらうまく時間を潰してくれていたらしい。
ひとまず安心した。
「もうけっこう終盤じゃん」
「ん。あと四冊」
話しながら、遥は台所に立った。
もう夜の8時半、雪季もお腹を空かせているだろう。
「夕飯、食ってないよな?」
「うん」
「ごめんな、腹減ったろ。すぐ作るよ」
玉ねぎ、牛肉、ニンジン、ジャガイモなど、必要な食材を冷蔵庫から出す。
雪季には悪いが、今日はカレーにしよう。
「……手伝う」
「ああ、ありがとう。じゃあジャガイモ切ってくれるか」
「ん」
ちゃんと自分から協力を申し出てくれるあたり、やっぱり雪季はいい子だ。
それに、二人でやる料理も悪くない。
遥は少しの喜びを感じながら玉ねぎの皮を剥いた。
「いたっ」
「ん? あぁっ!!」
珍しい雪季の小さな悲鳴に顔を向けると、雪季の白い指に赤いものが付いていた。
どうやら手を切ったらしい。
「大丈夫か!? ってか早いな、怪我すんの!」
ダッシュで戸棚に向かい、急いで絆創膏を出す。
涙目になる雪季の人差し指に貼りながら、遥は疑問をぶつけてみた。
「……料理、不慣れ?」
「…………ううん」
「嘘つけ! いつもより間が長いぞ」
「……ごめん」
「いや、いいよ。とりあえず今日は一人でやるから、雪季は待っててくれ」
「……でも」
雪季はうつむき、何か言いたそうにしていた。
雪季が反論してくるのは貴重だ。
遥は彼女の言葉を、ゆっくり待ってみることにした。
「……私、何もできてない」
「何も、って?」
「……遥はバイトして疲れてるのに、ご飯も作ってくれる。私は、ずっと待ってるだけ……」
雪季はうつむいたまま、切ったのとは逆の手で遥の服の裾を掴んだ。
弱い力でくいくいと引っ張る姿が愛くるしい。
「あぁ……。いやぁ 、いいよ。そう思ってくれてるだけで嬉しいからさ。それに、お互い得意と苦手があるだろ?」
「……ん」
「俺が得意なことは俺がやるからさ。共同生活なんだし、それでいいと思うんだよ。それに、雪季が怪我するのは、俺も嫌だからさ」
何せ、人様の一人娘だし。
遥は頭の中でそう締めくくった。
が、雪季はなぜか、感極まったような表情でこちらを見つめていた。
相変わらず、美人だ。
「……ありがとう」
「お、おう。じゃあ、あとは俺に任せて、雪季は漫画の続きでも読んでてくれ」
雪季は今度は素直に頷き、とてとてとリビングに戻って行った。
さて、料理の続きだ。
他人が食べてくれるとなると、カレーでも少し調理に気合が入る。
それに。
(やっぱり、寂しくないなぁ)
遥は鼻歌交じりでコンロの火をつけた。
バイトの疲れは、既に忘れてしまっていた。
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