樹状世界
芳納珪
第1話
十六の季節の十五番目、「青い弦」が過ぎ去ろうとしていた。
重力の方向がゆらゆらと変化する日々は、もうすぐ終わる。
あたたかい朝、メメイはお気に入りの枝につかまって、甘いペウをしゃぶっていた。
オトナたちは重力酔いをきらって、次の季節「とがりつむじ」まではコブの中で溶けている。おかげでコドモは、オトナの面倒をみなくてすむ。
「おーい!」
声のするほうを見ると、ニニエがひらひらと枝を伝ってやって来るところだった。
うっすらと青い空間に、いくつもの軸索から広がった半透明の枝が重なり合っている。コドモは体が軽いから、重力が揺れ動いてもそんなに気にならない。
ニニエはメメイのそばまで来ると、息を弾ませて手を差し出した。
小さな手のひらに、灰色の粉っぽいかたまりが乗っていた。
「なあにこれ?」
メメイはペウの甘い匂いが漏れないように、あまり口を開けないで喋った。だってこれ、最後の一個なんだもん。
でも、ニニエはそんなことは気にならないようだ。すごく興奮して、灰色のかたまりを乗せた手を、もっとメメイに近づけた。
「枝の先に引っかかってたの。イキモノじゃないかな? 動くし、あったかいし!」
「へーえ?」
メメイはおそるおそる、そのハイイロを見つめた。
粉がついているように見えた表面はザラザラした皮のようで、ニニエの手に接している部分が、ゆっくりと伸びたり縮んだりしている。
上の方の表面を、指先でちょん、とつつくと、その部分がキュッと凹んだ。
メメイはひゃっと叫んで、枝から離れそうになった。とっさに触角の先を枝に巻きつけたので、平気だったけれど。
「でも、あったかくて動くだけじゃ、イキモノとは言えないって聞いたことあるよ」メメイは、いつかオトナに聞いた知識を披露した。「ココロを持ってなきゃ」
「ココロってなあに?」ニニエは聞き返した。
「うーんとね、例えばこの枝からあの枝に移る前に、まず『移ろう』って思うでしょ。そういうふうに思うのがココロだよ」
「うん? わたしがそう思ったとしたら、思うのはわたしでしょ? ココロが思うんじゃないよ」
「だから、それがニニエがココロを持っている証拠なんだよ。ココロがなかったら、思うこともできないんだよ」
メメイは自分でもよくわからなくなって、だけどなんとか説明したくて、ゆらゆら動く枝につかまりながら、ニニエの目を見て熱心に話した。
……それが起こったのは、一瞬だった。
ハイイロが、ニニエの手のひらで平たくなったと思うと、体膜の上を網のように伸びて、腕から顔の片側までぺったりと貼りついた。
ニニエの体から力が抜け、揺れ動く重力につられて、メメイにしなだれかかった。
「どうしたの!」
メメイは驚いて、ニニエの体をゆすぶった。
がくん! と、ニニエの顔が上向いた。
うつろな目。
口が動いて
「ソラ」
と言った。
ニニエのココロから出た言葉じゃない。
網目のようにニニエの体膜を侵蝕したハイイロが、ニニエの口で言ったのだ。
ソラ。
メメイが、あまりにも広すぎるようなその音の響きに不安になっていると、
ばしゃっ!
ニニエの背中から、ハイイロが噴き出した。
それは広がってオトナの翅のような形になったが、大きさははるかに大きかった。
ぶわっと羽ばたいて、ニニエが枝から離れる。
メメイはとっさにニニエにしがみついた。脚と触覚で、枝をつかむ。
翅のないコドモが枝を離してしまったら、重力の方へ行ってしまう。重力は軸索の森の外にある。そこは何もつかまるもののない、恐ろしい世界だ。
ハイイロの翅は、すさまじい力でニニエをつれさろうとする。
メメイは必死にしがみつく。
脚がちぎれるかと思ったとき、めり、と音がした。
ふたりのからだは飛び上がった。
あっ、と思って下を見ると、軸索の森がすごいはやさで遠ざかっていくところだった。脚は、折りとられた枝をつかんでいた。
怖い、怖い、怖い、
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
メメイはがたがた震えながら、ニニエの胴をぎゅうっと抱きしめた。
いつも、手を伸ばせば枝があった。枝につかまりながら、ペウをしゃぶって、ほかのコドモたちと追いかけっこをした。疲れてまどろむ、幸せな時間。
枝に戻りたい。
ソラなんかに行きたくない。
もう、どれくらい離れてしまったのだろう。
ここには、懐かしいものはひとつもない。
ニニエも、もうメメイが知ってるニニエじゃない。
寒い。風で、目を開けていられない。
……ニニエの背中に回した手に、何かが触れた。
ハイイロの翅だと気がついたとき、ぬるくてなめらかなものが腕をのぼってきて、ほおに貼りついた。
すると、それまで悲しくて混乱していたココロが落ち着いた。
ソラへ行きたい。
ハイイロのココロがそう言っていた。
風が穏やかになったので、目を開けた。
そして、自分の背中にもハイイロの翅があることに気がついた。
翅はかんたんに動かすことができたので、メメイはニニエから離れた。
ここが、ソラだ。
はてしない広さ。前にも後ろにも、どこまでも飛んでいける。メメイのハイイロは、その広さを喜んだ。
大勢のコドモたちが点々と浮かんでいる。みんな、ハイイロの翅を背中につけている。
ソラは、ハイイロと同じ色で、奥の方が円錐形に垂れ下がっていた。
あれが「とがりつむじ」だ。
メメイは、ほかのコドモと同じように、「とがりつむじ」に引き寄せられていった。
胸が焦げるほどの懐かしさ。
長い時間をかけて、「とがりつむじ」の近くまで来た。
圧倒的な大きさの「とがりつむじ」は、渦を巻いていた。恐ろしいいきおいでぐるぐる回りながら、下へ尖っているのだった。
さらに近づくと、横向きに吹きすさぶハイイロが目の端までいっぱいに広がった。
すうっ、と体がさらわれた。
「とがりつむじ」に巻き込まれながら、メメイのハイイロのココロは幸せで気が遠くなっていった――
枯れて、はがれていくハイイロの翅。
メメイのココロが戻ってくる。
砕けたハイイロが渦巻く中で、ほかのコドモたちともみくちゃにされ、「とがりつむじ」の先端から、ぷいっと吐き出された。
ひとつの方向に、強く引き寄せられる。
「青い弦」が終わって、重力が揺れなくなったのだ。
ハイイロが体からいなくなっても、広さは怖くなかった。安定した重力へ落ちていくことも。
加速の中で、背中が熱くなった。
めりめり、と身体の中から音がする。
体膜をつきやぶって、翅が生える。あざやかな黄色。
その瞬間、メメイは自分のココロで、まわりをはっきりと見た。
見渡すかぎりの中に無数のコドモたちが浮かび、黄色い翅を咲かせていた。
彼らも自分も、もうコドモではない。
そして、これから帰る軸索の森にいるオトナたちが目覚めることは、もう、ない。
コブの中で溶けたオトナは、次の世代のコドモになって生まれてくる。
オトナになったメメイたちは、「とがりつむじ」の終わりから「匂い爪」がはじまるまで、コドモの面倒を見る。コドモがひとりでペウを見つけられるようになるころ、急に体が弱くなる。もうほとんど動くことはなく、コドモが持ってきてくれるペウを舐めて過ごす。そして「青い弦」が来たら、重力酔いに耐えられなくなって、コブを作るのだ。
終わりはわかった。しかし、それがなんだというのだ。かわいいコドモたちが待っている。輝く黄色い翅がせわしなく枝を行き来し、話し声や叫び声が森にみちる、にぎやかな季節がやってくる。
懐かしい森が、近づいてきた。
樹状世界 芳納珪 @tennenya
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