7
「お邪魔します」
「適当に座ってよ。と言っても何もないんだけど」
狐月は居間に入りぐるりと見渡した。引っ越したばかりの室内には本当になにもなかった。そう言えば荷物も少なかったような。
「つめたっ」
床に溢れた水を少し踏んでしまったようだった。拭くものを貰おうと振り返ると、香墨は玄関から運んだトランクとその他諸々散乱していたものを仕分けている。夕暮れの日の当たらない場所で電気もつけずよく見えるものだ。
「荷物ってそのトランクだけなんですか?」
「そうだよ」
「少ないですね」
「旅してるからねぇ。これも殆ど商売道具」
「生活用品はどうしてるんですか?」
「服はこれがあれば十分だし、あとは旅先でどうとでもなるものだよ」
「じゃあ一式揃えないとですね」
「そうなんだけどねぇ」
水の入った瓶をちゃぷんと振りながら香墨が振り返った。
「売り物がなくなっちゃって。暫くはこのままだなぁ、あっはは」
「笑い事じゃないですよ?! 貯金とかは?」
「ないよ?」
「所持金は…?」
「確か2,000円くらいはあったかなぁ」
「にせんえん…」
「それよりも怪我は大丈夫かい? 生憎薬というものを持っていなくてね」
「問題ないです。服はぼろぼろですけど、かすり傷みたいなものばかりですから」
「そう、良かった」
そう言うと香墨は再びトランクに向き直った。まだアレは食べられてないみたいだな…えぇと空の遮光瓶に新月で染めた布と、あとは何がいるんだっけ。ああ、教えて貰った時にちゃんと聞いておくんだったなぁ。
−−と、ぴたりと手が止まった。
「…。君さ、もう帰りなよ」
「え?」
「地理がわからないから昼間は案内してもらったけど、もうその必要もないし。あの大きなお巡りさんには俺から上手く言っておくから」
「でも」
「元々今日は非番なんだろう? 付き合わせて悪かったね」
「この仕事に休みなんて関係ないですよ。急にどうしたんですか?」
「お巡りさんは真面目だなぁ」
「狐月です」
「うん?」
「僕の名前。まだ覚えてくれてないでしょう」
「覚える必要がないからね。大体君は色喰が見えないのに来てどうするんだい。さっきだって君が狙われた」
「大丈夫ですよ。何とかなったじゃないですか」
「何を根拠に。さっき君が捕まった木を見て確信した。やつはもう人を喰う」
「面ならスペアがあります!」
「そういう問題じゃない。分からない程バカじゃないだろう?」
「でも香墨さんはもう村民の一人です。一人でなんて行かせられません。そもそもあんな大物一人でどうにか出来るんですか?」
「うーん………多分?」
「行きます」
真面目だなぁ、ともう一度呟いて香墨の口から深いため息が漏れる。
外で鳴る17時を知らせる鐘が部屋に響いた。急にどうしたのだろう。トランクの方を向いたまま、香墨はこちらを向かない。確かに色喰を視ることは出来ないけれど、さっきのように時間稼ぎくらいは出来る。大きさや動きは凡そ掴めたし、次はもっと上手く立ち回れるはずだ。香墨にゆっくり近づき壁際に腰を下ろす。暗がりで表情は見えないが−−−元より面で表情そのものは見えないのだけど−−−今までとは違う不安のようなものを香墨から感じた。
「…大丈夫ですか?」
「うん? 何がだい?」
のらりくらりとそう言って、香墨は固く握りしめていた何かを引き出しにしまい込んだ。何をしまったんだろ。態度が急に変わったことに関係があるのかな…? 狐月は空気を塗り替える様にわざと声を大きめに言った。
「あ〜、僕にも色喰を見る方法ないですかねー?」
「あるよ?」
「そうですよねぇ、やっぱりない……え?」
「あるよ」
「なんでそれを教えてくれないんですか!?」
「あんまりオススメ出来ないから」
「危険なんですか?」
「方法自体は眼鏡をかけるだけなんだけど…」
「けど?」
「すごく体調が悪くなる」
「うん?」
「度の強い眼鏡をかけると目がクラクラして頭が痛くなるだろう? あれの上位互換みたいな」
「掛けますから貸してください!!」
「いやぁでもホント後が大変だよ? 頭痛がひどいわ吐き気はするわ。もう布団から起き上がれない。それが1週間とか続くんだ。」
「構いませんから貸してください」
「仕事に支障が出るよ?」
「多少そういった力の免疫はありますし、体力と回復力には自信があります!」
「えぇ…」
「えぇ…じゃないです。眼鏡があっても無くても付いていきますよ?」
有無言わせぬ様ずいっと手を出した。その意気に気圧されたのか香墨はまた一つため息をついて、トランクの別の引き出しから眼鏡を取り出した。黄金色の細い縁に、朝日のような赤とも朱ともオレンジともつかない色のレンズが付いている。光にかざすとちらちらと色が変わった。
「不思議な色の眼鏡ですね」
「それは朝日に晒した硝子で作ったものなんだ。順に朝日の色を吸ってそうなるんだよ」
「へぇ、綺麗だなぁ」
何の気なしにひょいと目に当ててみる。色がついているはずなのに向こう側の世界は赤くなることなく、ごく普通に見ることができた。空気中がダイヤモンドダストの様に、わずかにキラキラと輝いているようだ。
「香墨さん、別に平気そ−−−っ」
ぐらっと視界が揺れた。気持ちが悪い。急いで外したが胃から内容物が込み上がってきそうで呼吸が荒くなる。前かがみで浅く酸素を取り入れると、少しだけ楽になった。
「勝手に使うから」
背中をさすってもらうといくらかマシになった。強制的に別の世界を視るのだから体に負荷がかかるのだろう。数秒視ただけでこれだ。到底これをかけて動けるとは思えない。
「大丈夫かい?」
「はぁ、はぁ。なんとか…」
「帰る気になったかな?」
香墨に促され壁にもたれかかる。確かにこれはキツい。
「準備にはあと、どれくらい…かかりそうです?」
「一時間くらいかなぁ」
「じゃあ、その一時間…で、慣れます」
「無茶な」
「サクラさんのスパル、タに比べれば…これくらい」
頭にぽんと手を置かれた。これは分かる。困った表情をしてる。
「好きにしたらいいよ」
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