第44話下弦に冴える月(完)

 仕事が予定より早く片付いた綾子は荷造りの手伝いに行く事にした。彼女は地下鉄の駅を降りて朔郎の居るアパートの二階へ向かう階段を伝い合い鍵でドアを開けて玄関に立った。

 綾子は見知らぬ女物の傘と履き物に眼と足が釘付けになった。彼女には京都のブティックで見た佐恵子と云う女が脳裏を掠めた。だがあの人はもう迷う歳ではないと私に言った。そして亭主の居る女だからと驚きはしなかった。

 綾子は躊躇ためらわず奥の部屋に向かった。人の気配を感じた朔郎が奥から出て来た。綾子を見た朔郎はこれから起こる出来事に審判を下す者としてただ黙って傍観するしかなかった。

 綾子は朔郎の肩越しに佐恵子を認めた。綾子は北村と一緒に座ると間断かんだんなく言い切った。

「北村さんと結婚してこの日曜日から一緒に暮らすんです。ですからどう言う御用ですか」

 何処か落ち着かない綾子の瞳を見て、佐恵子はゆっくりと紅茶を飲んだ。余りにもふてぶてしい態度に綾子は苛立った。

「何も言うことはないのね !」

 綾子は語気を強めたが佐恵子はそれでも黙っていた。待ちきれずに返事をうながす綾子が喋る刹那に彼女はゆっくりと言った。

「冒険者は常に荒海に舟を漕ぎ出す、と云うじゃありませんか」

 佐恵子は自信に満ちた笑みを浮かべていた。

「あなた! 何が言いたいんですか!」

 病的なほど小刻みに瞳を震わせて綾子は声を荒らげた。

「この人は死ぬまで彷徨さまよう人です。決して安定した生活を望む人じゃありません」

 佐恵子は確信を持って言い切った。

「そんなことないわ、私がそうはさせないわ」

「束縛するつもりですか、善良なひとを」

 佐恵子は余裕ありげに笑みを浮かべて朔郎に一寸目を向けた。

「善良な人を振り回したのはあなたじゃありませんか。わたしはつい最近まで北村さんの過去を知りませんでした。でも最近、ええ最近ですとも、偶然に、本当に偶然にこの人の哀れな境遇を知りました。それは随分と昔に、これが真実の愛だと純粋に信じ切った、この人の信頼のすべてをあなたは裏切ったのです。同じ女としてこの背信行為は許せない。そんな愛と信頼の重さを知らない人によく子供が育てられたと、今でも不思議に思っています。ええそうですとも」

 佐恵子は微笑みながらも黙って聴いていた。朔郎には佐恵子の微笑みがヒステリックなほどに病的な感情の高まりから来ているのに気付いた。が綾子はなおも続けた。

「あなたはこの人に自分の理想の片鱗へんりんを見たのかも知れませんが、最後まで、いえ、そうですとも、最後まですべてを愛することが出来なかった。あなたは自分こそ理想だと思っている。そのうぬぼれた高慢な虚栄心の強さがこの人を平気で絶望の海へ落としてしまった。十七年掛かってやっと這い上がってきたこの人をどうするつもりなんです」

 佐恵子は言う事はそれだけ、と云う顔をして。

「今度こそ手を差し伸べてあげられるわ、真実の愛で」

 と佐恵子は綾子とは対照的に相変わらず感情を殺して繕った笑みを漂わせて喋っている。

「一生、その手を携えていけますか !」

 此の綾子の言葉に佐恵子は勝ち誇ったように更に眼を輝かせた。

「ええ、あなたと違って。いったいあなたはあの人の何を知ってると云うんです。言っておきますがあなたと会ったのはつい最近ですよ、だからそんないい加減な言葉ばかり並べないで下さい」

  本当の私を知らないと佐恵子はキャリアの違いを誇った。

「私はあのブティックの店で会った時にあなたと話しましたね。それに私は多恵さんからもあなたの事を伺いました。ですから私のさっきの言葉は多恵さんの言葉だと思って下さっても結構です」

 佐恵子は急に甲高い声で笑い出した。 綾子は気味悪そうに彼女の顔を覗き込んだ。

「今までの言葉はすべてあなたの創造から出た妄想に過ぎないってことを証明なさいましたね」

「でも遠からず当たっていると思います。此処に居る北村さんも同じ想いだと思ってますよ」

「ねえ、あなたそうなの?」

 佐恵子は初めて不安げに朔郎に訊いた。

「この人に、あなたなんて軽々しく言わないで下さい ! 」

「そうなの、あなた?」

 佐恵子はなおも問い掛けた。

「彼女が言っていることは真実だ」

 佐恵子の顔が急にこわばって瞳は怒りを露わにした。

 女は、まして佐恵子は恋に究極の選択を迫られた時には本能に賭ける。

「分かったわ、誰があなたなどとやり直すと思っているの。うぬぼれないで!」

 涙に咽ぶ最後の捨て台詞せりふと共に佐恵子は立ち上がり玄関に向かって駆け出した。後を追う朔郎の前に綾子は立ちはだかった。

「目を覚まして!」

「このままではあの人が可哀相だ!」

 綾子はこの人のこの優しさに惹かれた。そして事実、彼の優しさはより不幸な人に注がれた。表のドアが寂しく閉まる音が彼の心をわしづかみした。彼はゆっくりと綾子を払い除けた。

「ゆくの? あの女なところへ、ゆくの……」

 彼は黙ったまま綾子の前を通り過ぎた。

「ばかね。あなたはお馬鹿さんだわ……」

 彼女は通り過ぎる夢遊病者の背中に向かって言った。綾子には呆れ果てて涙さえ忘れていた。それどころか妙に滑稽にさえ思えた。

 雨上がりの夜は冷え込んでいた。佐恵子に追いついた朔郎は黙って一緒に並んで歩いた。

「また一緒に暮らしてくれるの?」

 彼女は病的なほど弱々しい声で尋ねたがその瞳は狂っていた。

「ああ……」

 その瞳に向かって正気を誘うように朔郎は力なく応えた。彼女は薄笑いを浮かべた。黄昏の後に続く何処までも暗い闇の中をふたりは歩いた。

 ふたりが闇に消えた後に雲間から出た下弦の月が煌々こうこうと夜空を照らし出し、冬を告げる最初の木枯らしが綾子の居る窓ガラスを叩いた。

 綾子は開け放った窓から下弦の月を見上げた。天空に映える下弦の月は凛として輝いていた。昨夜に正幸が見たようにそれは寂しいまでの美しさを湛えている。次第に欠けてゆくこの下弦の月に綾子の心は浄められていった。

「あの人は寒々とした夜空に冴え渡る下弦の月なのね」


     (完)下弦に冴える月

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下弦に冴える月 和之 @shoz7

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