第41話 一方で朔郎は
比叡山の谷底に消えた正幸。この死は関係する人々にとってこの先どの様に引き摺られるのか。とにかく正幸は何の解決策も示さずこの神経衰弱ケームから抜け出して行った。それによって彼が負うべきものはこれ以後は当事者自身が負わねばならなかった。
喫茶『篝火』で北村に会ったが、予想に反して一方的に割り込んで来た友美が抜けた。すると落ち着ける筈だったのに、掻き回して行った妹の澱みに嵌まり込んでしまった。その澱みから爽やかな流れの中で話したいと佐恵子は別に誘ったが……。
友美が興味を示したしたあの航海の話に佐恵子は何も寄与していない。その辛さを一度味わった朔郎は誘いを断った。あの渦中に巻き込まれたくなかった。綾子との約束を実行する期日が今は待ち遠しかった。
俺はもう前を向いて歩いて行くんだ。前を向いて……。朔郎は繰り返し囈言を言いながら佐恵子と別れたあと四条河原町の人混みの雑踏を歩いた。行き交う人々が奇異に感じるほど、彼の奇声は人目を惹いた。振り向きながら見る者、面白半分に覗き込む者。朔郎はそれらを無視して歩いていた。
<篝火>で佐恵子と別れてから朔郎は脇見も振らずに真っ直ぐ歩いた。四条から淀屋橋でなく梅田行きの特急電車に乗った。
彼は電車を降りるとすぐに梅田駅の構内から綾子に電話で呼び出した。ほどなく待ち合わせの喫茶店へ綾子はやって来た。
「電話していたのにまた居なかったのね。何処へ行っていたの」
彼は口を濁した。
「言えないところへ行っていたの。まさかあの女のところじゃないでしょうね」
彼は言うべきか迷ったがこの沈黙が肯定してしまった。
「そうなの……」
綾子は気落ちしてしまった。
「かおりが具合悪くて入院してるんだ」
彼は慌てて付け足した。綾子の顔に躊躇いながらも微笑みが戻った。
「じゃああの女だけの個人的な用向きじゃあなかったのね」
綾子には確かめようがないから気休めだった。
「君は会ったんだねえ。狭山から聞いた」
矛先を変えられたが眉を寄せながらも聞き流した。
「二人は同期で気が合うのね。その狭山さんも多恵さんも昔の事は何も言ってくれないのよ。口止めしているの」
「してないよ。もうすぐ一緒に暮らすんだから何もかも言うよ」
何が知りたいんだと朔郎は催促した。
彼かここまで断言するのは久しくなかったいや珍しかった。その実に穏やかな顔からも彼の今までにない爽やかさが伝わって来ると、そこから過去との決別がハッキリと読み取れた。
「どうして別れられたの?」
それまで聞きそびれていたことを今の彼の表情でハッキリと問えた。躊躇った彼の顔からは別れた女の面影は消えていた。
それとは違う愁いが彼の顔から浮かび上がった。それはもう随分と昔の事だったが、ある日から独りで実家を訪れる様になってから同じ質問を母がした。その時と同じ愁いが今の彼の表面を覆った。
あれは佐恵子と暮らし始めてから実家にはほとんど行く事がなかった。それで母はあんじょう行ってると思い込んでいた。それが別れてからはよく独りで帰るようになった。その時と同じ質問を綾子がして来た。あの時は母がこの質問で彼女の消息を尋ねたが、今の綾子の質問は絶縁を意味していた。
あれは母が大根を煮込んでいたから冬だった。母は大根の煮物が好きで気候が寒くなると長い時間を掛けてグツグツと大根をよく煮ていた。頃合いを見ては鍋を上下に振っては器用に大根を裏返しては水を足して一服していた。その時に火加減を見たままで母がふと漏らした「
「本当に分からないんだ」
「でもその兆候は有ったんでしょう」
佐恵子に陰りゆく時はなかった。夏空なら晴れた青空から急に降る夕立の様に。晴れて乾き切った冬空でも急に降る時雨の様に。これを狐の嫁入りとはよく言ったもんだ。
「ない。彼女の場合は痕跡すら全く残さなかった。そんな場合は返って逆行動を取るから、こっちにしてみれば突然の出来事に映ってしまってどうすればいいか戸惑うだけだった」
自然か相手ならいっとき物陰に身を寄せればいいが、佐恵子では心を寄せる場所がなかった。
「なぜそのままにしないで追いかけなかったの」
ーー振り返らさせてもあの人は
「追えば逃げる。だから心が通わなけゃあ追う意味がないんだ。だから彼女の心に僕の入る余地がないんだ」
今でも、と言い掛けて綾子は詮索を
二人は手を握りしめたままホームで電車を待った。若くは無いが新たな門出を間近に控えた二人には
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