第40話 正幸は引き戻される

 麻酔の効いた正幸をみんなで病院から運び出して裕次の車の後部座席に寝かせた。

「麻酔は朝まで効いていますから、ゆっくりと走って下さい」

 医者は確認するように後部座席で眠る正幸を見た。

 友美は医者に礼を言うと助手席に座った。裕次の運転で車は病院を離れた。

「何処へゆくの?」

 何を寝ぼけているのかと裕次を見た。

「自宅しかないでしょう」 

 友美は諭すように言った。

「あの~、桂まで。こんな夜中に東の果てから西の果てまで走るのか」

「こんな時でもそんなふうにしか考えられないの」

「ただちょっと言ってみただけさ。でもトモちゃんと夜のドライブするなんて久し振りだからさ」

「何言ってんの、夜は初めてじゃないの」

 こいつはなに考えてんだろうと友美はひょうきん者を見つめ直した。

「そうかなあ」

 裕次は惚けた。

「でもとんだドライブだったわね」

 それでも夜中に関わらず飛んで来てくれたことには感謝しながら後部座席の義兄を見た。

「よく眠ってるわ。しかしなんでお義兄さんはあんなところで自殺しょうとしたのかしら? 裕次くんは男だからその辺は理解出来るでしょう」

「いや全くの正反対ですよ。なんで雄琴なんかさっぱり分かりませんよ。第一に目立つし、それに見ず知らずの女の前ですよ。普通は考えられないすっよ」

「お姉さんへの当て付けかしら?」

「それは無いと思う」

「どうしてそう言い切れるの」

 裕次はちよっと間を空けた。

「怖かったんじゃない」

 課長は死の世界へ逝くのに心の準備が不十分だった。それで一度女を抱いてから琵琶湖で薬を飲んでから飛び込むつもりだったんじゃ無いかと思う。だけどそれは不謹慎と思い直して女を抱くのを止めてそのまま琵琶湖へ飛び込もうとした。がやっぱり女を先に抱くことにした。とにかくこの辺りになると課長はもう支離滅裂で自制力を失っていた。と云うのが裕次の分かりにくい推理であった。

「どうしてよ。死ぬ前に女の人を抱く必要が有るのよ」 

 友美は要点だけを訊いた。

「心神喪失で思い詰めて衝動的に、あるいは発作的に自殺する場合は女を抱いて死のうなんて考えないだろう。だが課長は心神健全で死を考えた」

可怪おかしいわよ、死ぬこと自体不健全なのよ」

「そうじゃない、多分、それは課長の死に対する美学だよ。心の準備を万全にしてから死を迎える」

「その為に抱くなんて女をバカにしている」

「心をリフレッシュするリセットスイッチみたいなものだ」

「他に方法はないの」

 友美は完全に呆れて仕舞った。

「だから健全な人間は心を通わない相手を選ぶんだ。これは心中じゃあないんだからね」

「そんな不謹慎な考えはあなただけよ。そんな相手は迷惑この上もないわ。そんな手助けなんてゴメン被りたい。もっとましな考えはないの」

「まあ幸いな事に課長は一命を取り留めたのだから、後でゆっくり聞いてみたら」

 云われなくてもそうしたいのはやまやまだけど、十七年間も沈黙を守った人がそう簡単に話すはずがなかった。

 薬を飲むタイミングがずれている。その辺りが僕の死の美学と相反すると裕次は語った。友美はもう真剣に聞いていなかった。

 裕次は坂本から国道を曲がって山道に入った。

「また比叡山を越えるの」

 行きしなのあの曲がりくねった道路が頭に浮かぶと友美は不安になって一度後部座席を見た。だが車はもう峠道に入っていた。

「この方が近道だから」

 国道を外れると車は一台も走っていなかった。ヘッドライトで浮かび上がる道路以外は全くの闇の中を走っていた。

 オートマチックでない車はこの辺から裕次は盛んにギアチェンジを繰り返していた。直進でギアアップしてカーブの直前でギアダウンさせる。裕次はこのタイミングが実に上手かった。車は適度なエンジンブレーキがかかり難なくエンジンの回転速度を落とさずに曲がりきって行く。こんな道が此の先は連続して続き、峠付近は更に厳しい曲がりくねった道だった。

「あのカーブでお義兄さん大丈夫かしら、あのまま真っ直ぐ行って国道一号線沿いに京都へ入った方が良いような気がするけど……」

「大丈夫さ、コーナリングには自信があるからさ」

「あなたの運転でなくお義兄さんよ」

「だから近道するんじゃないか。それにもう遅い」

 車は比叡山の山中越えに差し掛かっていた。いよいよ上り坂で今までより短い間隔で次々とカーブが目の前に迫った。

「裕次、もう一度電話してみる。あたし携帯を忘れたから裕次くん、あなたのを貸して」

 裕次は携帯をポケットから差し出した。

「病院から何度電話しても繋がらないなんてお姉さん何処へ行ってんだろう」

 友美は裕次の携帯を開けて驚いた。

「馬鹿! 何これ? 電池が切れてる。どうすんのよ!」

「どっちみちこの山道は圏外だと思うけど。頂上付近の売店に有る駐車場に公衆電話が有ったなあ。そこでいいか?」

「いいわ」

 ぶっきら棒に友美は言った。

 閉まっている店の駐車場の公衆電話に横付けした。駐車場の周りは深い崖になっていた。一台も駐車している車もなく下り坂の途中に有る公衆電話ボックスの灯り以外、辺りは真っ暗闇だった。

「怖いからあなたも一緒に来て」

 二人は車から降りて公衆電話に入った。友美はダイヤルを回して受話器を耳に当てていた。

「やはりいないのかしら」

「もう十時を回ってるぜ」

「こんな時に何処へ行ったのかしら。まさか北村さんのところかしら?」

 友美は公衆電話の窓越しに坂道に駐めた車を見た。

「ねえ? 裕次、車が動いてるわ」

 釘付けになった友美の眼は、下りの坂道をゆっくりと動き出した車を不思議そうに見詰めていた。

「そんなはずねえだろう」

 裕次は振り返った。

「あっ! 本当だ! 動いてる」

「サイドブレーキ掛けたの!」

 友美の思考が現実に戻った。

 友美の叫びと同時に二人は公衆電話を飛び出した。

「サイドブレーキが緩んだのか? いや、それより課長の信念がサイドブレーキに乗り移ったとしか考えられない」

「馬鹿な事言わないで! いいから早く止めて!」

 車は崖に向かって徐々に加速していった。

 裕次は走りながら運転席のドアの取ってに手を回してドアを開け始めた。

「裕次! もう間に合わないわ、崖よ!」

 裕次のすぐ後ろを走りながら友美は叫んだ。

「裕次降りて! おにいーさん!」

 車が崖から落ちる直前に裕次は飛び降りた。

 二人は比叡山の山裾から延びる谷底へ転げ落ちてゆく車の行方を見守った。

「お義兄さんは確かに後ろの座席に居たけれど……」

「確かによく眠ってた」

「ブレーキはサイドブレーキはどうだったの」

「確かに掛かっていたが……。ワイヤーが緩んでいたのかも知れない?」

「やっぱりボロ車ね、どっちにしてもお姉さんになんて言えばいいの」

「とりあえず百十番しなくっちゃ」

「そうね。だけどもしかして北村って人の執念が乗り移ったのかも知れないわね。ブレーキに」

 友美はあの男の船酔いの話をした苦悩に満ちた顔を思い浮かべた。

「やっぱり車のせいじゃないんだ。これは課長の執念なんだ。世の中、超自然現象ってやっぱりあるんだ。今ので俺は信じる」

 否定しないで合わせてくれる裕次も良いがこれ以上は付き合っていられない。

「裕次くん。本当にバカな事はもう言わないで、ボロ車のせいよ。いいわね」

 友美は裕次に念を押した。

「車はともかく。佐恵子さんはその人とりを戻すのかなあ? 」

 二人ともこの手の事ではそう簡単には気持ちの切り替えが出来る人たちじゃない事を友美は知っていた。

「さあどうかしら。どっちにしても二人とも一生この事を引き摺って生きることには変わりはないわ」

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