第39話 正幸の自殺未遂

外へ飛び出しても此処で彼が冷静に語れる友は皆無だった。だから頭を冷やす場所は無かった。それでも彼は表通りでタクシーを拾った。

「木屋町へ行ってくれ。いや、やっぱり琵琶湖に行ってくれ」

正幸は途中でドラッグストアに寄らせて買い物をした。タクシーは北白川から山中越えで琵琶湖に出ると湖岸通りを北へ走らせた。

男一人が夜に市内から比叡山を越えて行く場合はほとんど目的地は限られている。言わずと知れた湖岸に有る歓楽街であった。

その歓楽街へ向かう客は目的地を言わずに走らせそれらしいネオン街で進路変更を要求する。この黙る乗客にも運転手は気を利かして行き過ぎる前に雄琴付近で減速して行く場所を訊いてきた。

正幸は琵琶湖大橋へ行く様に指示した。運転手は意外に思ったが再び加速して雄琴を行き過ぎて琵琶湖大橋に差し掛かった。正幸は橋の中央の駐車帯で車を降りて待たした。

正幸は闇に閉ざされた湖を眺めた。眼下に広がる湖面を渡る冷たい風は彼の頭で無く心をました。中天に昇る下弦の月が波立つ湖面を哀しいまでに輝かせていた。

「あいつは毎日こんな海を眺めていたのか。しかも日本から何千キロも離れた荒れるベーリング海で、佐恵子の愛の為に……。それを俺は帳消しにして仕舞った。それでもお前は黙っている。強い男だ、いや粘り強く生死を簡単に乗り越えてゆく奴だ。だからお前は死ねない。ヘッセの「知と愛」と云う作品にこんな文章があったなあ『本当の愛を知らずにお前は死ねない』佐恵子はお前にまだ本当の愛を教えていない。本当の愛は憎しみを伴わないなんだ。それを俺は知った。俺は本当の愛を知っただから先に逝く。朔郎よ慌てることはない、ふたりでゆっくりこい。涅槃ねはんで待っててやる」

 正幸は待たしたタクシーに乗った。

「西方浄土に行ってくれ」

 運転手は悪い冗談だと思ったが客の真剣な顔に「ええ、なんですか」と一応は聞き返した。

「西方、西だ! 西に行ってくれ」

 タクシーは転回すると 元来た国道へ戻った。

「左へ曲がってくれ」

「雄琴へ戻るんですか」

「そうだ」

 タクシーは湖岸通りを今度は南へ走った。


 佐恵子と正幸が出た後を友美は一人で留守番をしていた。夜の九時を回りかけた頃に雄琴の病院から自宅に電話が掛かって来た。

 電話は正幸が農薬で自殺を図った知らせであった。友美はすぐに裕次を呼び出した。

 夜も遅かったが緊迫した友美の声に訳も聞かずに裕次は反応した。そしてひとつ返事ですぐに来てくれる裕次が嬉しかった。友美はこの時ほど裕次が頼もしく見えて、厚い信頼も受けて要るのを感じた。

 裕次が家に来ると飛び乗るように彼の車で雄琴の病院へ向かった。

「課長がいったいどうしたんですか」

 義兄が自殺未遂して病院へ収容されたが容態は軽く命に別状がない等を手短に伝えた。

 課長が自殺を図った事が裕次には意外と受け取っていた。友美も、義兄は一時は激しく興奮したが家を出る時はかなり落ち着いていた。だから義兄を知る状況は裕次と同じだった。

 裕次の話では正幸はバリバリと仕事をこなして社員からも信頼されて付き合いも良い。自殺を図るほど柔な神経じゃなくて塞ぎ込むタイプでもなかった。

 車を運転する裕次は可怪おかしい可怪しいと絶えず首を傾げながら正幸の説明をしていた。

「わたしにも解らないわ。お義兄さんがあんな事をするなんて有り得ない。ただ今までの裕次くんの話だと人当たりは良いけれど、自分自身はどうなんだろう?」

「そう言えば今までは人間関係で課長自身の身に降り掛かる出来事がなかったなァ、と云うより上手くかわしている。その点はさっぱりしていた」

 裕次は大型車の通行が多い夜中の国道を避けて山中越えで滋賀に向かった。比叡山の曲がりくねったカーブをタイヤを軋ませて登って行く。 その都度に友美は裕次を諫める。

「危ないわよ」

 友美はそうは言っておきながらも微笑んでいた。

「ここから落ちれば一緒に心中ですね」

 微笑む友美を見て裕次は調子に乗った。

「何を言ってるのよ。無理しない程度に急いで」

 友美の歪な注文に裕次は眉間を寄せた。だが裕次の運転は実に上手かった。お陰で予定より早く着いた。

 病院の前には赤い回転灯を点けたままのパトカーが一台止まっていた。回転する赤い光が友美の胸を締め付けた。二人は緊急車両を横目に一瞥して急いで中へ入った。

 正幸は救急処置室で横になっていた。雄琴の個室で女が風呂のお湯を出しに行った合間に薬を飲んだ。しかし発見が早くて解毒剤が効いて命は取り留めた。医者は気持ちが落ち着くまで今は何も聞かないように説明した。ベットの正幸は解脱して人間界から逃避した化石のようだった。

「連れて帰りたいのですが」

「今からですか」

 医者はちょっと考え込んで正幸をじっくりと観察した。

「大丈夫でしょう。じゃあ今から精神安定剤を処方して渡しますから暫く待ってて下さい」

「お願いします」

 友美は頭を下げた。

 医者は薬を取りに部屋を出た。友美は義兄の傍に寄り添った。義兄は医者の見立てどおり落ち着いていた。彼は友美を観た。

「佐恵子は?」

 義兄はやっと口を開いてくれた。

「あれから家でずっと待っていたけれど。でもまだ戻って来てないの。大丈夫、だからまだこの事は知らないはずよ」

「そうか……」 

 義兄はやっと薄笑いを浮かべてくれた。

「そうだ。友達の有美子さんのところかも知れない。僕の手帳に連絡先が書いてある」

「分かったわ、後で聞くから、とにかく具合よさそうね」

「佐恵子に連絡付いたら今夜は帰らないと伝えてくれ」

「まさか、これから何処へゆくの? これから裕次くんの車で真っ先に家に帰るのよ」

「松田が来ているのか、あいつはいい奴だ」

 正幸は半身を起こした。友美は慌てて手を肩に添えた。

「友美、途中で降ろしてくれ」

「お義兄さん。何を馬鹿な事を言ってるの。お義兄さんはこれから自分の家に帰るのよ」

 正幸の表情が急に厳しくなった。

「いや、俺はもう帰らない」

 友美は横坐りして正幸の正面に回った。

「お姉さんともう一度よく話し合って」

 正幸は友美をベッドから振り払った。

「だめだ!」

 正幸は両足をベッドから降ろして起き上がろうとした。友美は外で待たした裕次を呼びながら義兄を止めた。ドアを開けて飛び込んで来た裕次と今度は二人で制止しようとした。

「裕次さん、お義兄さんを押さえて」

 友美を払い退けて起き上がった正幸を今度は裕次がベットに押さえ付けた。

「松田! いいから手を離せ!」

 友美が医者と看護師を連れて戻って来た。

「帰りたくない死なせてくれ、このまま死なせてくれ!」

 正幸は死なせろと暴れ出した。

「今は何も喋らせないで下さい」

 看護師、友美、裕次が必死で押さえ付けてる間に医者は麻酔薬の注射を用意した。医者と看護師は正幸の腕を押さえ付けて麻酔薬を打った。

 やがて正幸は静かになった。

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