第38話 友美は正幸の心に踏み込む2
「あれは事実じゃあないんだ。二人で最後に登った山で起きたことは……」
佐恵子は暫く座敷机の端を見詰めた。そして急に顔を起こした。
「どう事実と違うと云うの」
「十七年前に君に言った事と実は立場が逆だったんだ」
おおやけなら時効が成立してチャラになるのに、もう取り返しがつかないと佐恵子は思った。
「嘘よ! 嘘に決まってるわ」
十七年前に言いたかった。それを何を今更、そんな真実は受け容れられない。朔郎に背を向け続けた長い年月をどう
「どうしてそう言い切れるんだ。北村の事は君より俺の方が付き合いは長いんだぜ」
心の付き合いはあたしの方が長いのよ。その違いは愛情と友情の違いかしらと佐恵子は心で叫んだ。
「そうですけれど、あなたは本当の朔郎さんを知らないわよ。あの人はあたしに心の底を見せても、あなたには絶対見せなかったはずよ」
「だからどうだって言うんだ。それほど知り尽くしている男をどうして捨てたんだ」
「今さらそんなこと言うの。あたしの責任だと言うの」
正幸の顔が初めて崩れて微かに瞳と口元が不安げに揺れた。
「佐恵子! 俺にも、親にさえも心を開かなかった男が君だけには初めて心を開いたんだ。そんな男から云い逃れするのか……。あいつはもう誰も信じない。あいつは貝になってしまっているんだ」
正幸は瞼の力が抜けるように視線を落とした。
友美はずっと卓にあるコーヒーカップを両手で飲まずに持ち続けていた。
「じゃ、なぜ、あなたはあの時、わたしに優しくしたの」
「苦しんでいる君を見てられなかった」
「それでッ」
「友情よりも貴いものを知った。いや、君が教えたようなものだった」
「そんな……、そんな言い方ないわ!」
「事実、あの時は君次第だったんだ」
「今さらそんなこと言わないで!」
佐恵子は込み上げてくる嗚咽に必死に耐えた。
「もうあの頃には戻れないのよ」
「俺は卑劣な人間だった。俺はあいつの性格を十分に知り尽くしていた。君と一緒になるためにそれを利用した。今はそんな自分が嫌で堪らないだ」
「お義兄さん、そんなに卑屈にならなくてもいいのよ」
「友美、君は事実を知らないからさ」
「じゃあ本当はどうなの?」
何を悟ったのか正幸の顔からはさっきの重い表情は消えていた。
「本当のことを話すよ」
友美にそう言ってから佐恵子を見据えた。
「佐恵子、もうあの頃に戻れないと言っていたが、もう一度だけ戻ってくれ」
佐恵子も正幸の顔をまともに見た。ただ正幸の瞳には陰りがなく佐恵子の瞳には輝きがなかった。
「戻ってどうするの?」
「君がその気ならあいつは昔に戻る」
佐恵子には過去も未来も見ずにただ正幸の目だけを見た。
「俺の話を聞くだけ聞いてくれ、それから佐恵子、お前が決めればいい」
ーーあれは夏の初めだった。連休を取って俺は北村を誘った。これを最後の想い出としてあいつも誘いを受けた。
夜行列車で出掛けて夜明けと共に登り始めた。昼頃から穂高へ続く稜線を歩いた。天気は良かったが時折薄いガスが掛かったが歩いた。次第に尾根は狭くなり稜線の細い岩場を登り始めた。その時に深い濃霧に包まれてしまった。滑落すれば谷底に向かってどれほど落ちるが分からず二人はそこで足を止めて休憩を取った。
北村は斜面に向かって腰を下ろした。俺は平らな場所にリュックサックを降ろして斜め下にいる北村の背中を見た。今突き落とせば確実に落ちる。そして深い霧がすべての視界を遮って誰にも発見されない。条件はすべて整って後はその決断を実行する勇気だけが残っていた。
俺はこのためにあいつを誘った。天気が良いのにこの場所にこれだけ深い濃霧が掛かると云う事はこれは天も運も有り、そして佐恵子までも引き寄せられる。このすべての条件が俺に目の前にいる男を突き落とす力へと加担させた。その時にすべての迷いも吹っ切れて仕舞った。俺は全身に力を込めて奴に向かった。だが全身に込めた力は突然彼が靴紐を締め直して前のめりした為に彼の肩辺りにしか働かなかった。俺の前向きの力は一部を除いてすべてが空を切るようにして俺は斜面を転がった。だが数メートルで俺の足が岩場に当たり止まった。この奇跡が卑劣を生んだ。
濃霧が晴れるとあいつは待ち構えていて、何の迷いも無くロープを俺に向かって投げてくれた。この時、すべての運に見放されたと思った。
此処でロープを掴めば命以外のすべてを失うが離せば命が消える。しかし命は残っても存在価値が消えれば生きる意味が無くなる。それに意味を持たすのは佐恵子だけだった。その為には卑怯な男にならなくては。まずこの事実を口外しない引き替えに彼女の前から姿を消す約束を北村と交わした。そして君には事実を曲げた。俺はすべてを裏切った。
「それがすべての結論だった」
「それが真実なのね」
佐恵子は念を押した。頷いた正幸は厳しい表情の佐恵子を黙って見ていた。
「朔郎さんが殺そうとしたあなたを助けたのね」
「俺は卑劣な人間だった」
「なぜその時に言えなかったの。あたしも同じ様に見られていたのかしら? ええ、そうよ、そうに決まっている !」
佐恵子の語尾は次第にヒステリックに高まっていった。
そうと解っていれば彼女が何も告げずに失踪するなんて有り得なかった。
「この数十年間はまるであたしは悪女のように思われてしまったかも知れないのね」
自問する佐恵子を正幸は見かねた。
「君は今まで何も知らなかったから君が悲観する事はないんだ」
知らなかったでまかり通る女にはなりたくなかった。とくに純粋な人に対しては。
「それに比べてあなたと云う人は……」
佐恵子は正幸に鋭い視線を浴びせて立ち上がり部屋をとびだした。
「お姉さん!」
友美も立ち上がった。
「なぜ止めないの。そこまでして一緒になった人を」
「まあ座りなさい、すぐに冷めてくるから」
「そうかしら。お姉さんは何をするか解らないわよ」
そう言いながらも落ち着く正幸を見て座り直した。
「でも冷めると苦しくなるのに……。山男同士なら山を
「汚すつもりじゃない、自然に帰してやるんだ。そうおもわないと実行出来るもんじゃないよ、この手のことは」
「他に解決方法はなかったのかしら?」
「思い詰めるとそう云う解決方法しか残らない」
恋は命がけか、しかも手段は選ばず。それがこの人の愛なのか?
「でもそんな人をなぜ姉に嘘をついてまで引き離して追い詰めたの」
「俺は追い詰める気は無かった。ただ闇の中を手探りで灯を求めた結果としてそうなった。あの時の若さが刹那的な生き方になってしまった」
勝手な言い分だわ。みんなそれでも曲げずに必死で生きているのに。
「なぜ好きな人を信じる事が出来なかったの。そうすれば嘘は言えないはずよ。その点では北村さんは姉を信じ切っていた。その信頼を見事に裏切ったのね」
「信頼。何を信じればいいのだ。北村は自分しか信じない、いや信じられない男だ」
「今はね、だけとあの時は唯一姉さんを信じていた。そんな行き場のない人を更に追い詰めてしまうなんて」
「たしかに……」
と彼は卑屈な笑いを浮かべた。
「もう他に言う事はないかのか ! 」
一転して正幸は青筋を立ててひとこと言うと腰を上げた。正幸は自分に対して怒っているのだ。
「何処へゆくの?」
彼は障子の前で立ち止まった。
「俺も頭を冷やしてくる」
正幸は静かに障子を開けながら友美に留守番を任せて部屋を出た。
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