第37話 友美は正幸の心に踏み込む

 友美が正幸の自宅を訪ねた頃には丁度食事も終わり佐恵子は食器を洗っていた。流し台の窓から見えたのか佐恵子はすぐに出てくれた。

「お義兄さんいる?」

「あの後は裕次さんとデートじゃなかったの」 

 前触れもなくやって来た友美に佐恵子は驚きながらも笑って迎えた。

「お姉さん、お義兄さんの前でいつもそんな優しい顔をしているの」

可怪おかしなこと言わないでよ」

 友美はそうだわねと取って付けた様な愛想笑いを浮かべた。

「かおりちゃんはまだ病院なの」

「そうだけど」

「好都合ね」

 さっき別れたばかりなのに何しに来たの、と云う顔で友美を見た。友美は訳有りそうな笑みを浮かべた。

「お義兄さんは奥?」

「そうだけど正幸に用事で来たの?」

「上がっていい?」

「良いけど、今日あの人に会った事は内証にしておいて」

 一応平穏は保たれているのか。でも時間の問題だと友美は思った。

「知ってるわよ。お姉さんその事は……」

「知ってるって ?」

「お義兄さんはお姉さんがあの人に会った事を知っているのよ」

 お義兄さんの事は裕次くんを通じて情報が不正確ながらも途切れ途切れに入って来ている。それにあたしの推測を加えると大体次の事が朧気に見えて来た。 

 ーーかおりの事で福井へ行った時から正幸は気が動転しているらしい。娘には愛情を十分に注いで来たつもりだったが、やはり血縁と云う越えられぬ一線を感じたらしい。これは彼にとっては犯すべからず神の領域になる。そして友との約束も本来は同格として扱うべきなのに片手落ちのまま今日がある。

 ーーこれは推測の域を超えた友美の妄想であると佐恵子は結論づける。

 ーー正幸は裕次にとっては人生の指標となる上司だった。それだけにすべてを自分の肥やしにすべく正幸の一挙一動には鋭い観察をしていた。時には頼みもしない物も仕入れて来ると、裏返せばあたしへの愛を痛切に感じる

「裕次くん、あの子は調子のいい子だからねぇ」

 そこで佐恵子は妹の偏った情報源に笑った。が心底しんそこ貶していなかった。裕次はお調子者だが何事も生真面目に取り組む男には違いなかった。だから佐恵子は本当は心底わらっていなかった。隠し事をしても責めない。そのわだかまりから来る哀しさを笑いで誤魔化しているのだ。

 突然に奥から「誰が来ているのか」と云う正幸の声がした。

 佐恵子は妹が来た事を奥に向かって伝えた。

「じゃあそんな所で立ち話しないでこっちへ上がってもらえよ」

 佐恵子は何を言い出すか分からない友美の顔を見て迷った。

「お姉さん、何事も早期発見、早期治療よ」

「此処は病院じゃないのよ」

 佐恵子は何処か寂しそうな笑いを浮かべたが、その瞳にはこれ以上は隠すのが無意味に見えていた。

「じゃあ治療を始めるわよ」

 そう言って友美は正幸の所へ行った。  


 奥の居間は八畳の和室で床の間には北山杉の床柱を中央にして、右には組違い棚があり左は墨絵の掛け軸が掛かっていた。

 床の間に置かれた小物以外は座敷机が有るだけのシンプルな純和風な作りだった。

この部屋だけは二人の要望に添って生活臭さが漂わない場所にしてあった。狭い敷地だがこの部屋に面して一方だけ僅かだが庭が造られていた。庭と部屋とは縁側と障子によって隔てられていた。

 友美はその廊下から障子を開けて部屋に入った。

 正幸は北山杉の床柱を背にして座敷机に片肘突いて煙草の煙を漂わせていた。正幸は友美の顔を見ると煙草を消して肘を治すあいだに友美は座った。

 ワンルームに家財道具を詰めるとベッドしか空間らしき物が残らない友美の部屋に比べると雲泥の差があった。

「此処でいつも寛いでいるのね」

「ああ、しかし時折この家のローンを考えると落ち着かないが……」

 そう言って正幸は無理に笑っていた。

「佐恵子はまだ用事が済まないのか」

「もう終わるみたい。後でお茶を持ってゆくって言ったからコーヒーにしてって頼んで来た。お義兄さんはお酒の方がよかったんじゃない?」

 正幸は苦笑した。

「そう云えばこの前の喫茶店でのコーヒーはごちそう様でした」

 正幸の顔が自然体に少し引きずった。

 彼は感じた事が顔や躰の一部に敏感に現れる。要するに嘘のつけない下手な人なのだ、友美がそう観察するとすぐに本題に入った。

「この前に見た北村さんの写真展の案内状はどうしたんですか?」

「どうしたって云うと?」

「お姉さんに分からないようにそっとしまったンですか」

「ああ、波風が立たないようにそうした」

「別に良いんじゃないんですかお友達の写真展でしょう」

「あいつはただの友達じゃない」

 ただのねーと友美は正幸の言葉を捉えてそれをいびつに強調した。それが応えたのか正幸は沈黙してキッチンに目をやってから友美に視線を戻した。

「裕次から色々訊いているんだなあ。まあいいが、そっとして置きたいんだよ」

「そんな先送りばかりしているとどこかでつくろわないと綻びが大きくなってしまうでしょう」

「これは佐恵子の問題だ」

「そうとは言い切れないでしょう、十七年前までさかのぼって考えてみたら」

「僕が誘惑したように言っているが佐恵子からやって来たんだ。それに今はある程度の肩書きが有るし、そんな事で家庭や生活を壊してどうするんだ。……今更蒸し返しても」

「真実さえ確かなら別にお義兄さんがおそれる事ないンでしょう」

「そんな話をすればきりがないよ。僕は怖いんだ、いや怖さを知ってるんだ。この結末の……」

「どう云うこと、それって……」

  正幸は障子の端を見た。

「佐恵子、そこに居るんだろう」

 正幸は静かにしかし張りのある声で言った。

 障子の端から「はい」と低いが澱みのない声が返って来た。

「じゃあどうして入って来ないんだ」

 先ほどより更に高い濁りのない返事をしてから障子に影が映り出して障子が開いた。

 佐恵子がコーヒーとお茶を盆に乗せて入って来て、正幸と友美の前に置いた。風の音が聞こえるぐらい佐恵子の一連の動作を正幸と友美は黙って見詰めていた。

 正幸は佐恵子が盆を置いて席に着くのを待って口を開いた。

「最近、北村と君が会っていたのは知っていた。だが昔の俺の友達に会っていたのだから何もそんなに大騒ぎする必要もないだろう」

 友美の横に座った佐恵子は飲みかけたお茶を卓に戻した。

「誤魔化さないで! 確かにあなたとは友達だったでしょうけれど、私は一緒に暮らした人なのよ。それを知っていて黙って見過ごすの」

「彼とは今でも昔の友情を信じている。それが証拠に彼が僕たち二人の事で詮索しなかったのが友情の証しだった」

 佐恵子は困惑して正幸の顔色を伺った。

「あんな事が有った後であの人が詮索するはずがないわ」

 あの人はトコトン探し出して乗り込んで来る人じゃない。自分に対しては執念深いが人に対しての執念は我が身に取り込んで葛藤する人だった。それが別な形で世に開花する夢を二人で見るはずだった。

 佐恵子の鋭い視線を浴びて正幸はたじろいだ。そして心の中に十七年間溜め込んだ異物を彼は吐き出した。

 

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