第42話 一方で佐恵子は

「込み入ったお話でしたね」

「マスターが話を聴いてくれたお陰で気持ちが落ち着いてこられました」

 佐恵子は正幸の家を飛び出してから タクシーで河原町まで来ていた 。彼女は人混みの中をあてもなく歩いた。いつしか知らぬ間にいつも利用する老マスターが一人でやっているいつもの"篝火かがりび"と云う喫茶店に辿り着いていた。マスターは閉店間際だったが快く入れてくれた。

 営業を終了した店内で佐恵子はカウンター越しにマスターと話していた。

「いつも昼間しか来ないから閉店時間を知らなかったわ。早く閉めるんですのね」

 この街の中心部で佐恵子がそう思うのも無理もなかった。

「この辺りはちょっと繁華街から外れてますからね。この時間になりますと用のない人は真っ直ぐ家に帰りますからね」

「そうね。マスターも今日は予定時間をオーバーしてしまったわね。ゴメンナサイ」

「いや、いいんですよ」

 電話が鳴った。時計を見てマスターは首を傾げながらも受話器を取った。電話は佐恵子に掛かって来た。マスターの態度で相手は突然の非礼を詫びるのももどかしく佐恵子への取り次ぎを頼んだらしい。

「お友達の有美子さんからですよ」

 マスターはコードを延ばしながら佐恵子の前まで電話を持って来た。佐恵子は恐縮しながらマスターが差し出した受話器を受け取った。マスターは食器を洗い出した。

「よく此処に居る事が分かったわね」

 受話器から有美子の激しい吐息が漏れて来た。

「そんな事より大変よ! 何を呑気な事言ってんの!」

「有美子、落ち着いてよ」

「何言ってんの! 正幸さんが雄琴で自殺を図ったのよ」

 じれったそうに有美子は続けた。

「ええ!」

 自殺は未遂に終わった。正幸の命には異常は無いと雄琴の病院に居る妹の友美さんから連絡があった。そしてこれから松田くんって云う人と一緒に正幸さんを自宅まで送るから姉に連絡が付けば急いで帰宅するように促していた。

 佐恵子は呆然として受話器を置いた。

「どうしたんです? 悪い知らせですか」

「先ほどまでマスターと話していた夫の事ですけれど自殺未遂をして妹が今、自宅まで送ってるんですって」

「そうですか、でも亡くなられなくて良かったですね」

 マスターも我が事のように安堵していた。

「ええ」

「早く帰ってあげて下さい」

「じゃあ帰ります」

 佐恵子は立ち上がりバッグを持って出口に向かったその時に再び電話が鳴った。

 妹さんからですよ、とマスターがカウンター席に戻った佐恵子に受話器を渡した。友美は有美子から姉の居場所を訊いて電話してきた。

「もしもし友美、正幸の事はさっき聴いたからすぐに家に帰るわ」

 友美は直ぐに応答しない。

「……今、比叡山の……道路の、そばにいるの……」

 先ほど居た公衆電話から回転灯を点けた緊急車両が見えていた。崖から引き上げたレスキュー隊員が正幸を待機していた救急隊員に渡しながら首を横に振っているのを友美は見ていた。その現場から祐次が両腕を斜めにクロスさせて駆け寄って来るのも見えていた。

「(何を言ってるのこの子は)それは解ったわ、あたしも直ぐに家に帰るから……もしもし友美どうかしたの」

 友美はまた黙ってしまった。

「もしもし、友美、どうしたの、大丈夫だったんでしよう……。聴いているのなら返事をしなさい」

 佐恵子が何度が呼び掛けてやっと友美は正幸が死んだ事を告げた。

「巡り合わせなんでしょうね」

 主人の訃報を聞いたマスターは腰を落ち着けながら静かに言った。

「電話をお借りしてよろしいですか」

「どうぞ」

 佐恵子は朔郎に電話をしたが、呼び出しベルだけが無常に鳴り響いた。


 朔郎は夜遅くに綾子の部屋を出て深夜に帰宅した。翌朝はスッキリ目覚めると朔郎は部屋を出た。彼は散策しながら今までの佐恵子の想い出をなぞるように歩きながら考えに耽った。自由意志以外のものに束縛される恋か。そう云うならば俺は本当の恋を知らない。いや本当の佐恵子を知らない。だからもう疲れた。あの女に振り回されるのに疲れた。

 朔郎は狭山に会いたくなって会社へ電話をしたが狭山は外出していた。綾子も仕事が忙しかった。今日は無理かと朔郎は空虚なまま家路に就いた。

 地下鉄を降りて駅前で夕食を済ませてアパートに戻った。 夏の間は座卓代わりに使っていた電気こたつに少し早いが布団を掛けてスイッチを入れた。目の前のCDカセットにベートーベンのピアノソナタ月光のCDを入れて寛いだ。

 今の彼は綾子と暮らす希望に充実していた。昔の正幸の裏切りが発覚しても冷静に思考出来るほど佐恵子に対して踏ん切りが付いていた。想えばこの十七年間は綾子のような女性には幾度となく巡り会った。だが結果として通り過ぎてしまった。やはり意識しないまでも佐恵子への思慕が残像していた。今も忍び寄る黄昏がかつての葛藤を奪い去ってゆき、今は綾子と一緒に暮らしたいと考えついた。

 いつしか降っていた雨は止んだ様だが今度は風が出て来た。風は時折窓ガラスを叩く。その内にドアも叩き出した。だが音が違った。変に思って朔郎はドアを開けた。目の前には女が立っていた。彼女の顔を見てしばし沈黙した。

「入っていい?」

 朔郎が頷くと佐恵子は咄嗟に避けた彼の傍をすり抜けて濡れた傘を土間に置いて上がった。朔郎は困惑顔で後ろ姿を黙って見ながらドアを閉めた。

 彼女は奥の六畳の和室を見回していた。彼は表側のダイニングテーブルで紅茶を用意して奥の座卓代わりのテーブルに置いた。立っていた彼女も向かい側に座った。

「これコタツじゃないの、あなたの事だから仕舞わないで一年中出して居るんでしょう」

「まあね」

 彼女は紅茶を一口飲んだ。


    

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