第30話 越前永平寺座禅修行2
朝課・朝のお勤めが終わると雲水が永平寺の七堂伽藍(山門・仏殿・僧堂・庫院・東司・浴室・法堂の七カ所)とくに僧堂、東司、浴室は三黙道場で一切の私語が禁止されていた。永平寺の伽藍を見たあとに朝食をいただいて
その足元からは夕べの映画で観た雲水の修行の跡がヒシヒシと伝わって来ると心の上に刃を置いた忍の一字が頭の中一面に広がっていった。
その文字の表層から朝一番に訪れたらしいた独りの凜とした女性が写った。女性の参拝者は長い廊下の端から登って来た。
こんな山里の禅宗の寺より、大勢の人が行き交う祇園町の方が似合いそうなあか抜けした女性だった。彼女はずっと足元の段を観ながら登って来ると若くはないのが判るが、それでも二十代後半から三十の枠に収まりそうだった。それほど
彼女は四段下で気配を感じたのか面 《おもて》を上げてから見詰め直してゆっくり微笑んだ。彼女を観た瞬間に北村の足が突然止まった。
「朔郎さん」
女は優しくそう語り掛けて二段上り詰めた。朔郎も一段下へ降りて間合いは一段を残して対面した。
「佐恵ちゃん」
朔郎が一段下りて横に並ぶのに併せて彼女も向きを変えて二人は並んでゆっくり下へ歩き出した。
「拝観はしないの?」
野暮だと思いつつ言って仕舞った。その言葉に手で押さえて笑いつつ佐恵子は「お疲れさま」と言った。
朔郎は一瞬意味を見失ったが此処が禅寺でこんな早朝に帰るのは参籠者だけだと知るとやっと頭を切り替えて言葉を理解した。それほどこの男は徳を積んでなかった。
「どうしてここへ ?」
「探したのよ 、もう大変だったのよ。やっと狭山さんから聞いたのよ」
微笑む彼女の顔からは大変さが伝わって来なかった。代わりに細やかな彼女らしい気遣いだけは伝わった。
「狭山に会ったのか?」
佐恵子は返事代わりに首を横に振って「電話したの」と言った。おやっと? 朔郎は控えめな彼女に違和感が生じた。
「向こうは突然で驚いただろう」
「ええ、まあね」
佐恵子は意味ありげな笑みを浮かべた。その微笑みは先ほどの控えめな表情からすれば際立った。朔郎は佐恵子が何かとんでもない事を言い出しそうな予感がした。
「かおりが大変なの」
予感的中。
「君がここまで来るほど大変なのか?」
参籠の印象も実の娘だと云う印象もまだこの男には気薄だった。
「どうしてもあなたが必要なのよ」
「……」(正幸はどうした?)
あいつ以上に必要だと知って優越感が湧いた。
「いやに落ち着いてるのね」
急に無愛想になった佐恵子の顔からはいやに皮肉っぽく聞こえた。
「座禅のせいかなあー」
間延びした言い方に彼女は苛立った。
「どう大変なんだ」
慌てて朔郎は真面目に言い直した。
「あなたかおりの父親でしょう……」
そこまで言い掛けて佐恵子は留めた。
「ひと言余分だったわね」
「いや、君の言ってる事は正しい、正論だ」
「さっきも言ったけど落ち着いてる場合じゃないのよ」
佐恵子の顔が少し厳しくなった。二人は通用門を抜けて参道に達した。
「こうなったら単刀直入に言うけど、かおりの手術に輸血がいるの、あなたの血がいるの」
「あーあ、君は吸血鬼か」
「何とでもおっしゃい。同じ血で繋がっているのはあなただけなのですから」
「本当に俺の血がいるのか」
「そうでなければここまで来る訳がないでしょう」
言ってる事とは反対に堂々と会える理由付けが出来たとそんな佐恵子の表情だった。それにつられて朔郎は賑わう門前通りを素通りして近くの駅までタクシーを飛ばした。二人は私鉄駅から福井で特急列車に乗り換えて、京都へ着くとかおりの居る病院へ向かった。妻と云う存在を残して二人はこの道中ですべてのわだかまりを乗り越えてしまった。
病院に着くと佐恵子は主治医と連絡を取りふたりは別室へ入った。そこで簡単な検査を受けて寝台に横たわり採血が行われた。
終了後に佐恵子は朔郎にかおりに会うように勧めた。躊躇う朔郎を佐恵子は無理やり病室へ連れて行った。
かおりは眠っていた。そのせいか感動も印象も薄く、要するに親としての心構えが出来ていなかったのだ。それでもかおりの間近までゆき暫く見詰めてから病室を出た。
ーーこんな時に親として何も出来ないのが堪らなく辛いと正幸は佐恵子に漏らしていた。血の繋がりだけはどうしても自分では
佐恵子の説明に朔郎は正幸が俺の何に怖れているのか解らなかった。正幸の抱く影の部分が何なのか佐恵子に尋ねられても今ひとつピント来なかった。それよりせっかく会ったのだからこれから四条に出ないかと誘ってみたが、佐恵子はかおりの様子と正幸の帰宅時間が気になり今日の事をひと言詫びて断った。
代わりに朔郎は有美子の連絡先を聞いて別れた。有美子に何を聞くのか気になったようだが今日が今日だけに佐恵子は深追いしなかった。
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