第28話 狭山家への寄り道2
「もう無責任過ぎる。女が乳飲み子を抱えたまま蒸発するなんて余程のことじゃないの、あたしはそれを言ってるんです」
「おい、北村を責めるな。佐恵子さんは普段は穏やかでもいざとなれば世間体も無視して激情に走ってしまう人なんだから。そんな無茶なところがあるんだあの人は、まあ北村も似たり寄ったりだが……」
狭山にしては珍しい物言いに朔郎はこの男への人柄を増幅させた。
だからこの話は傍で大騒ぎしても何も変わらないからと狭山は沈静化に努めた。
多恵もそれは納得したらしいが、北村のかおりちゃんに対する態度が余りにも他人事過ぎた。それが言い過ぎの原因だった。
「しかし多恵、お前以上に北村は腹の中での葛藤は凄い、それを黙して語らず、ペラペラ言って仕舞うより腹に収める方がつら過ぎるんだ」
そう言って狭山は北村を見やった。朔郎はこの渦中に有っても話ここに有らずと頭の中は昔に飛んで行った。
* *
「ねえ見て凄く感じの良い家ね」
そう云えば昔、十六歳にして「あなた」と云う曲でデビューした人が歌っていた家は多分こういう家だと二人の意見は一致した。佐恵子はその歌を口ずさみ終わると「こんな家いつ建ててくれるの」と言った。
モダンな屋敷の前で微笑みながら言った佐恵子の顔が急に浮かんだ。
あれは
「この辺りは良い家が多いなあ」
「そうね」
彼女は羨ましそうに言った。
「どの家がいいんだ」
大見得を切って言った。
「あの家が素敵!」
彼女は目を輝かせて指差した。
「なーんだこんな家でいいのか」
朔郎は笑っていたがそのうちに目許に漂う一抹の寂しさに、リカちゃん人形のようにそうよと佐恵子は愛くるしく応えていた。あの笑顔が堪らなくいじらしく可憐に見えた。
あの時の佐恵子からは全身に広がる温もりを感じていた。彼はこの時に佐恵子と言う羊水に包まれていると感じた。それがある日に突然に破水して厳しい現状に放り出された。
思えば不満が少しずつ蓄積され続けていたのか。その不満が今も解らない。それだけに彼女のこの行動が拭い切れない対人不信に
* *
「それでも北村、お前はかおりちゃんとの血の繋がりは一生付きまとうんだ」
子供が出来ればふたりの愛情の半分は子供に注がれると云うが、あの状態では親子の情を求めるのは北村には酷だった。
多恵はそれでも必死なって探し求めなかった北村を非情だと問い詰めていた。だが非常なのは佐恵子の方だとあの時も狭山は多恵には言って聴かせていた。そもそもこれは二回目の出来事だった。一回目は正幸と云う男のちょっかいが原因だったらしい。
「今の辞めた会社に来る前は佐恵子さんの友達の有美子さんがかなり説得してくれたンだと言っていたなあ」
「あの時はお互いにとことん話し合えた」
「それで佐恵子さんが折れたんだなあ」
「だって彼女が全面的にやったことでこっちには全くの落ち度がない」
彼は
「そうだなあ写真展の作品を作りに出掛けた留守中の出来事でしかも佐恵子さんの両親を納得させる為の写真展だったから北村にすれば寝耳に水の出来事だったなあ」
だから二回目は全く有美子さんは関与出来ないほど急だったらしい。誰の目にも触れずに雲隠れしたのだから多恵の言う子供の事を考えていないのは当てはまらない。あの時は俺も相談を受けたが全ての意見を無視して、ただ帰ってくれるのを待った北村を責められなかった。
「だってあたしは最初の出来事は一切知らなかったんですから、それにしても朔郎さんは佐恵子さんのためでなくかおりちゃん為に行動すべきだったわよそこは間違ってるわよ」
「ウ~んそこは難しい所だなあ、まだ乳飲み子だ、子供に関してはやはり彼女に責任がある」
狭山は下手な北村を代弁した。
「じゃ子供のために我慢しろって言うのまだ人権が未熟な乳飲み子だからこそ双方がこの場合は朔郎さんが探しに行くべきなのよ一番身近な人の責任です。子供がいなければ話は別でしょうね。子供に関しては取り違えてる。佐恵子さんが意志の強い人なら目的をかおりちゃんに変えて元に戻す努力を、朔郎さんは捜す努力をすべきよ。その上で改めて二人で子供の将来を考えて最良の道を探す。どちらも無視するのは良くないわ。この時の答えを見つける為にも朔郎さんはかおりちゃんに会うべきでしょうどっちが正しかったか、同じ女性であり将来の母親として綾子さんはそれを確かめに行ったと思うわよ」
「だけどボクは綾子からかおりの事は会った事さえ何も聞いていないよ」
綾子にそこまでの洞察力が有ったとは思えなかった。
「そうでしょうね。朔郎さんに語れるほどのかおりちゃんのイメージを掴めてないから意見も相談も出来ないでいる綾子さんの身になってあげなけゃあ私はダメだと思う」
「要するに最初の危機は二人の機転で回避したが二度目はかおりちゃんがネックになったんじゃないか」
ーー狭山の解釈は間違っている言葉も知らない子がどうして俺と佐恵子との仲に割り込めるんだ。逆だ佐恵子はかおりの為にも自我を捨てて妥協点を探る努力をしないとダメなのに一足飛びに消えて仕舞うなんて。間違っている彼女は気の動転があったとしても正しい判断をすべきだろう。
「それはお前にとっての正しい判断だろう。佐恵子さんには彼女なりに、しかし公正さを欠いたが本人には妥当と思える判断をした」
狭山は推測の域のままに断定している。
「彼女はかおりちゃんを含めて判断したが北村は子供を無視して真理を探った」
「オイ無視はひどすぎる」
「じゃ少しでも考えたか」
朔郎は絶句せずにはおれなかった。いったい我が子にこの時点でどれほどの感情を、いや一個の人格を捉えていたか答えは零だった。
なのに非は佐恵子にあると言い切れるのかと。絆は佐恵子と共に乳飲み子のかおりにも等しく寄せるべきだと子育てと格闘した夫婦二人の共通の認識だった。
心の基礎段階の子にこそ強い絆を持つ必要があった。この段階では子供はお前に百パーセントの信頼、絆を求めているのだ。しかし子供の発達と共にお前への支持率は下がり始めるだろう。何故なら相手が人格を持ち始めると客観的にお前を評価し始めるからだ。
その時は自分を飾るか、ありのままをさらけ出すか、そこからはお前の勝手だが。この騒ぎの渦中では自立心零パーセントの子供を優先すべきところを完全に無視した。聞こえが悪いなら怠った。
狭山は中々言い表せないあの時の判断の起点をこうしてまとめ上げて、それを重々承知の上でかおりちゃんに会ってやれと忠告した。
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