第19話 個展の帰り2
船乗りと云う職業は船種にもよるが大抵は一旦仕事を覚えると毎日が同じことの繰り返しの狭い世界だった。だから操業が止まれば船を動かすのに必要のない漁船の
朝に目覚めて甲板に出れば日の丸を付けた二万トンの船が見えた。今まで自分の乗る船以外は何もなかった海原に突然現れた大型船は実に頼もしい恋人に見えた。
船は独航船が捕ったスケソウダラを船内ですり身に加工してしまう母船だった。この船に魚を降ろせばまた操業が始まる。次はいつ母船と出会うか分からないから離れる時は佐恵子と別れる様に切なくなった。
燃料切れになるとアラスカの港へ補給に向かった。港がアンカレッジでなく地方のダッチハーバーと聴かされてみんなはがっかりしていたが初航海の朔郎にはどっちでも良かった。彼には踏みしめた動かぬ大地が初めての外国だったからだ。
チョッサ(一等航海士)やボースン(甲板長)は年季が入ってるから買い物以外では上陸しない。そこで若いセコンド(二等航海士)とビリヤードをした。セコンドは俺の手を見て「これは漁師の手じゃないなあ、どうして船に乗った」と訊かれた。向こうの親に認められて入籍する為と云っても今の世の中では笑われるから言えなかった。
この話を狭山はしみじみと聴いていた。
「佐恵子さんがどうしても親に認められてから入籍したいと言い張ったのか」
「無理押しする人じゃないことは狭山も知ってるじゃないか」
「まあなあ。基本的には愛が有れば何も要らないと云う人だけど。しかし完全に冷めて仕舞えば話は別だが、まだそうじゃあないんだなぁ」
「あくまでも彼女の希望だったが、押し切らないところがかえっていじらしくてそうしてやりたいと思ったから三ヶ月ほど船に乗った」
いっぱしの男に成り切り、生まれる子供の為にも。
「それでいっぱしの船乗りに成り切ったのか」
「個展を開けるまとまった金も出来たから後は一押しの作品作りに旅に出た」
ーー男としての見栄えも良くなりこれで作品が脚光を浴びれば言う事はなかった。が正幸が色々とちょっかい出したから個展どころじゃ無くなったんだ。あいつにすれば俺達の説得のつもりだったが、結果は向こうの親にすれば自分の売り込みみたいになって仕舞った。
「彼女の為にしたお前の苦労がその篠原の為に空回りになってしまったのか」
北村は返事に困って馬鹿笑いをした。その笑いに狭山は怒りの
「休学までして乗り切ったのに結果は、正幸は一流商社に内定が決まり俺は留年が決まる。これって何処かで間違ってると思わないか」
胸のつかえを押し潰して自分自身に言い聞かる北村が解り過ぎて、狭山はどうしょうもない男だと苦笑いで応えた。
「親としては間違いじゃないだろうが決めるのは佐恵子さんだが、それで彼女は心機一転して住む場所も変えて仕事も見つけて、新たな一歩をスタートさせたが半年も持たなかった理由はなんなのだ」
「そこで正幸がこれでお互いの進路が順調に進みだし俺は商社マンとして第一線に出ればもうお前との登山は一生無理かもしれんと最後の記念登山に誘われて穂高に行った」
「友人としての最後の想い出か。最後は山男同士の清い友情で全てを水に流して人生の再出発に当たって山登りを企画したんだなあ、佐恵子さんにすればさっぱりした男に見えただろうなあ」
俺もさっぱりしていたと北村は抗議した。
「いざ一緒に行くとあいつはさっぱりしてなかったんだ。あいつにはまだ迷いが、いや 未練があったんだ」
そこで北村が一呼吸間を空けたから狭山は『どう云う事だ!』と先を急かした。
北村には狭山をじらす気はなく、ただ云うべきがちょっと躊躇してしまったのだ。だが彼の勢いに押されて言った。
「あいつは俺を尾根から突き落とそうとした」
やはり思った通りに狭山は一瞬沈黙してから次の言葉を吐き出した。
「それを佐恵子さんは知らないのか」
それを言う前に彼女は消えて仕舞った。居場所が分からないから連絡のしょうがなかった それから十七年そのままだった。
「登山から帰ってから佐恵子さんがお前の様子が可怪しいと気付いた時にどうしてその事を言わなかったんだ」
「あの時にあいつと約束したんだこの事は誰には喋らないと」
お前は人が良すぎる。そんな口止めに等しい一方的な約束は、お前には何の得もないし守る義務もないと狭山は説教をした。それでもその時は律儀に実行していた。
「そうか。それで何も言わないお前に業を煮やして佐恵子さんは篠原の所へ行ったんじゃないのか?」
「それが行ってないらしい後で有美子さんから実家に帰ったと訊かされてその後にこれから一人で人生を生きたいからと語学留学とかで海外へ行ったらしいんだ」
この男は何処まで丸め込まれているんだろう? それとも正論であれば時が解決してくれると黙り込んだのか。
「乳飲み子のかおりちゃんを連れてか? 実家に帰れると思うか? まあ説明はもういい。その先はどうした」
狭山にはこの男はいかれているとしか言いようがなかった。
「その先はもう何も彼女に関しては何も知らない、情報がないんだ。ただ『ただいま』と玄関を叩いてくれるのを十七年間も待っていただけだった」
佐恵子さんも無茶苦茶ならそれをほっとくお前も無茶苦茶だと、狭山はすっかり呆れたのを通り越して笑った。
酒宴は終わった。京橋で狭山を降ろした電車はまるで一本の闇の様に街中を断ち切って地下の専用軌道へと伸びていった。淀屋橋に着くと辺りの闇をたっぷりと吸い込んだ地下鉄は闇と乗客を地下から地上の出口に向かって一斉に吐き出した。
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