第18話 個展の帰り

 陽が落ちると裏通りは人気ひとけも消えて鴨川の河原を吹く風が肌にいやでも秋を知らせた。 

 この日は展示時間を終了すると狭山と北村は堀川を先に帰らせて一緒に先斗町ぽんとへ出掛けた。居酒屋風でそれでいて落ち着いた品の良い店を見つけてそこで二人は酒を呑んだ。

わざわざ帰りの電車を気にしながら呑むより大阪で飲んだらと云う堀川の提案には「ネオンが浮かぶ道頓堀と提灯が揺れる鴨川では風情ふぜいが違う。第一、ビル街の上も下も車が行き交う道路を眺められるか」と言って居残った。

 店は狭い間口だが奥行きがあった。長いカウンターと通路を挟んで衝立越しに座敷席があった。端の座敷席に座った。

 狭山はビールで疲れを癒やすと、とにかく早く家庭を持てと堀川を散々に称賛した。それから本題に入った。

「なあ北村、今日は佐恵子さんを前にして駄洒落交じりに色々と昔の話をしてくれたが、お前は水臭いぞ。お前は籍はまだだったが共に新婚時代を家族ぐるみの付き合いをしたんじゃなかったのか、あの当時は正幸と云う男なんか一度も聴いた事がなかったぞ」

 あの頃お前たち夫婦は肝心なことは何も話してくれなかったと狭山はぼやいた。

「ところで正幸か、苗字みょうじはなんて言ったっけ」

「篠原」

「しのはらか、彼女が北村から篠原にどうして変わったんだ、さっきの話では分からん。はっきり説明しろ」

「俺も彼女が正幸の所へ行くとは思わなかった。いや思いたくなかったと云うのが正直なところだ」

 ーー大学へ入ると同時に彼女を知った。お陰で勉強どころじゃなかった。大学は中退せざるを得なかった。彼女は俺を愛すると同時に、俺を何処に出しても恥ずかしくない人間にしょうとした。彼女は俺に自信を持たすために人のやらない世界へ飛び込む事を勧めた。俺は船に乗った。

「それは知ってるし、今の辞めた会社へ入る前だなあ、だが大学にも籍を置いていたんだなあ」

 ーー卒業はいつでも出来るし、性格は持って生まれたものだけど人格は変えられる。それは今しかないと云うのが彼女の口癖だった。

「しかし思い切った事をしたなあ」

 人間は壁に当たって乗り越える時にふた通りのタイプがある。自分を変えて乗り切るタイプと、変えられずに躰ごとボロボロになっても乗り切ろうとするタイプ。後者である北村には鬼気迫る物がある。生まれる子供の為にもそれを実行するために彼は船に乗った。

 それは自分の中に閉じ籠もり、自分だけの世界に埋没して、隠遁者のような孤高の世界を極める為でもあった。その為にまず生きる糧に変革を求め、探して乗った船の話を始めた。


 北村の乗った船は三百五十トンの遠洋底引き漁船だった。

 船は釧路を出ると十三ノットの全速で千島列島沖を北へ進んだ。北緯五十度カムチャッカのロバトカ岬を更に東へ北へ、アリューシャン列島を掠めてアッツ島からベーリング海の漁場へ釧路から一週間掛けて向かうスケソウダラ漁だった。

 最初は良かったが得撫ウルップ島を過ぎてから北村は船酔いに悩まされた。夏の一時期を除いて北太平洋は海が荒れた。二日目には食べては吐きの連続だった。最初は吐くと気分が楽になるが直ぐに脱力感に襲われてしまう。その内に吐き気に襲われる恐怖感に苛まれると食欲も落ちて食べたくなくなった。それでも安心さそうとみんなと合わせて無理矢理に食べた。がすぐに吐いてしまった。

 漁師仲間達は吐いた直後の気分の良い時しか食べる気がしないからすぐ食べろと云って食を進めた。しかしまた吐き気に襲われると思うと堪らなく嫌になる。だから今のままでいた方が気分が楽だった。だが彼らは知っていた。吐く物がある内は躰が保証されていると 、吐く物が無くなり胃液を吐くと命の保証が出来ないと言われた。

 ただここで死にたくないという思いだけで吐いては食べた。食べて吐き、吐いてまた食べる。苦しいがここで死ぬ訳には行かなかった。これはかなり苦しい勤行ごんぎょうだが彼女を思うその一心で続けた。

 吐いた直後などはこのまま機雷にでも触れて船が沈んでくれと二段ベッドの下で横たわっていた事もあった。こうなるとある人への意地でしかなかったがこれが命を繋いだ。

 その内に食べてすぐ吐いていたのが少しずつ間隔が延びて来た。少しずつ食べた物が消化され始めたのだ。躰が慣れて来たのだ。もう大丈夫だと思って油断してしまった。次の食事の直前に吐いてしまった。

「北村、お前まだ吐いてるのか」と呆れていたがこれを最後には吐かなくなった。操業海域に着く直前だった。

 船はアッツ島からベーリング海に入って最初の網入れが始まった。四時間後に網を揚げ始めれば休憩時間などなく食事は交代で取るこの連続だった。網入れは少ない人手で済むが網上げは総勢で掛かるから網入れの当番日は睡眠時間が少なくなった。

 連続操業に入ると網揚げが終わるとみんな二段ベッドに倒れ込むように横になった。そして眼を覚ませば次の網揚げが始まる。もう日にちの感覚も無くなり頭上に照る月の満ち欠けで日にちの経過を知った。

 釧路から三千キロ、ベーリング海のど真ん中、北緯六十度には北極星がほぼ頭上に輝いていた。烈しくローリングする甲板の作業では郷愁に浸る余裕もなく、一瞬でも気を抜けばケガをする。

 ゴムのカッパを通して寒気が肌を刺し、頭から被ったカッパで視界も狭く急に頭から波を被る事もあった。そして常に足腰に力を入れて揺れる甲板で踏ん張った。

 網を巻き上げるウィンチに併せての作業で、下手をすれば自分の手が巻き込まれてしまう。冷たい北の海に落ちる危険もある。この緊張の連続で船倉が一杯に成るまで続いてゆく。

 船倉が一杯になれば操業を打ち切り、母船の待つ海域へ移動する。

 船長、航海士、機関士以外は仕事がなくなる。我々甲板員は船内をゴロゴロするだけで、食べては寝るだけの楽しみになる。

 この頃には出港した時はあれほど苦痛だった食事が唯一の楽しみに変わっていた。


    

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