第5話 決められぬ就活2


 受話器を置いてからお互いにまだ携帯番号を知らせていないのに気付いた。

「お互いどうでも良いのかしら」

 北村は就活でそれどころではないかも知れないが、呼び出された綾子はどうなんだろう。

 何となく綾子はそれが可笑しくなりながらも鏡を見た。

 彼女は鏡の前で化粧を直して紅を引き直した。

「あの人からこんな電話の呼び出しを受けたのは何度目だろうか。そしていつもあたしは会いにゆく。何度あっても同じ事の繰り返しばかり……」

 慌ただしく綾子は化粧を直しただけで部屋を出た。マンションの出口でいつもの猫が囲いの植え込みの木から顔を見せた。綾子は思わず足を止めて歩み寄った。

「暫く見なかったのに元気?」

 綾子はこの猫の名前を知らない。だからネコちゃんと呼んで頭と喉を撫でてやった。こうやって猫と戯れると自分の心が落ち着いて来るのが分かった。

 実は電話を切った時から不愉快になっていた。わたしを愛そうとしてくれない人の言いなりになる自分が情けなかった。それでも鏡の前に置いたハンドバッグを引っ掛けて出て来てしまった。

猫は気まぐれである。いつまでも綾子の相手をしてくれなかった。プイと踵を返して生け垣の中へ消えてしまった。その時に橋の袂で待っている彼の顔が猫と入れ違いに脳裏に現れた。

「まあいいか」

 綾子は駅に向かった。あの猫に会ってからなぜかヒールの足音まで軽やかになって来た。

 この時間になると御堂筋線も通勤ラッシュから解放されていた。前のシートに座っている人はさっき撫でてやった猫の様に心地よさそうに眠っていた。彼らの多くがこれから家族の待つ家庭にたどり着ける安堵感に浸っている。口を開けて眠っているあの男は明らかにそうだ。だが瞑想に耽る隣の男はどんなつらい家庭が待っているのだろう。

 北村も家庭を持てば前の男のような人生が待ち受けているのだろうか。いえ、あの人から愛されたいと望まなければその様にはならないはずだ。


 電車は大きな音を軋ませて淀屋橋に着いた。綾子は前のシート座席に居た二人の男を見比べながら降りた。

 時計は約束の刻限を過ぎていた。だが綾子は急ぐでもなく重くもないそのままの足取りで改札を抜けた。

 昼光色に照らされた通路をゆっくりと出口に向かった。ぽっかりと空いた階段の上がり口の向こうに真っ暗な夜空が見えた。それは地下通路の明るさを吸い込んだ闇の様に見えた。一歩、御堂筋に出ると外は車のライトと 店の照明ライトが洪水となって溢れていた。大阪の繁華街、キタとミナミを結ぶ中心部の証しだった。

 綾子は土佐堀川に掛かる淀屋橋を渡った。

 朔郎は一度振り返って彼女を確かめた。しかし傍に来るまで袂の欄干に肘をついたまま川面を眺めていた。

 二ヶ月前は綾子を見つけるとすぐに手を振って、目の前に来るまで見守っていた。それが今では来るのを知っていながら声を掛けてくれるまで気付かない素振りをする。慣れと照れ臭いのが染み込んでしまった。

「何を見てんの」

 綾子も隣に立った。

「別に……」

 川面を眺めたまま答えた。

「何が別になの。すぐに来て欲しいかったようだけど……。そうでもないようね」

 切羽詰まった声で呼び出してあまりにも素っ気ない返事に綾子は眉間を寄せた。がこの人はいつもこうなのだと自分に言い聞かせた。

 彼女の沈黙に背筋に冷たい物を感じて朔郎は振り返って綾子を見た。

 綾子はこの人の気まぐれを二年以上見て来た。付き合ったのは二ヶ月だが、これが長いのか短いのか分からない。裕子は長すぎると言ったが……。

「ちょっと歩こう」

 この人のちょっとはくせ者である。黙っていると何処まで歩くか分からない。それでも綾子は朔郎と並んで中之島公園に向かって歩き出した。

 御堂筋から一歩足を踏み入れると目的のある人と車は通らないから急に静かになった。

  彼は歩きながら考えている。何を考えて良いか分からないがとにかく考えてみる。それが唯一自分が存在する証しだった。

 行き詰まった。先がない、だが明日は来る。その明日を待つのがつらい日もある。それが今日なのか分からないが。

「いつもあなたはそうなのね。呼び出しておいて口も利かずにサッサと自分ひとりで歩いて行くなんて……」

「目的がない。ただそれだけなのだ」

「じゃあなぜ電話したの」

「ひとりがつらい。ただ寂しいだけさ」

「それで電話したの、すぐ来ると思って、ただそれだけで呼ぶなんて。やはりいつものあなたと変わらないのね」

 朔郎は眉を寄せた。

「変わりたくとも変われない」

 古い事を常に引き摺って歩いているせいか、それとも、その為だけで変われないのか。

「なぜ、なぜなの。あなたの言っている事は間違ってる」

「そうかなあ」

 朔郎は先ほどの言葉の裏にある、どうしょうもなく心の底から地を這うように湧き上がる不安が気になった。それをなすすべもなく崩れようとする病的な恐怖を理解しょうとしない綾子に苛立ちを覚えた。佐恵子なら……。

 佐恵子にはつまらぬ意地を張ったもんだ。いや向こうが頑固すぎたのだ。突き放しても戻って来ると思ったのに帰らなかった。あの時に何が彼女をそうさせたのか京都へ行けば解るだろうか……。

 今更、聴いても過ぎた日々がそのままの姿で戻る訳がない。それでも朔郎を振り返らす彼女の魔力には勝てないのか戻した想いが居座った。目の前の綾子は遠い人でも見るように彼を見ていた。

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