第6話 回想
佐恵子と出会ったのは学生時代だった。
普通でない人間、と言っても常識を逸脱した者でなく馴染めない人。その為に世間から背を向けたそんな秘めた人に佐恵子は興味を引いた。
万人の中でなぜこの人だけが違っているのか。その疑問に佐恵子は活発で何事も自分から積極的に話しかけて解こうとする。
大学の新学期は受け付けの窓口が混む。佐恵子もこの日に用件を済まそうと順番を待っていた。順番と云っても整列している訳ではない。窓口に近い者が我先にと用件を済ませて行くのであった。
佐恵子の前の男も窓口に到達していながら横から来た人々らが先に用件を済ませてしまう。
「あなた、黙っていれば中々順番が回って来ないわよ」
じれったくなった佐恵子が口走った。その良く冴え渡ったソプラノの声で朔郎は振り向いた。
その顔に『あの人だわ』と佐恵子は子供の様に眼を輝かせた。朔郎も羨望の眼差しで何度も見掛けたその人に初めて声を掛けられてときめいた。
彼女は何度も人差し指で受付の窓口を指差して用件を急かすように指示した。
朔郎は佐恵子の瞳に励まされて用件を済ますと「待ってて」と云う彼女の声で人垣の外で待った。
やがて彼女も用件を済ませて人垣をかき分けて出て来た。
「待った?」
彼女は屈託のない笑みを浮かべていた。戸惑いながらも朔郎も笑って応えた。
「よく見かけるけど、あなた、いつも用事があるみたいにサッサと行ってしまうけれど、今日も忙しいのですか?」
「い、いや、べつに……」
朔郎が言い終わらない内に佐恵子が歩き始めた。
「どこへ行くんですか」
彼も慌てて歩き出した。
「この近くに桜の綺麗な所があるんです行きません?」
彼は「ハア」と呆気に取られて気の抜けたような返事をしてからふたりは自己紹介をした。
ふたりは大学を出て通りに沿って歩いた。小さい小川に出ると今度は土手に沿って歩いた。確かに土手に桜の木は並んでいたが花は半分散っていた。風が吹くたびに花びらが舞っていた。
こないだまで満開だったのに早いものねと彼女は言った。だが花が散り始めた事を惜しみながらも 口調は軽やかだった。
朔郎が物の弾みで花言葉を語るとそれには賛同したが、占いや性格判断に及ぶと「わたし、その様なものは一切信じないんです」ときっぱりと否定した。
そのようなものに自分の人生を左右されたくない。一見すると着物が似合いそうな古風な容姿だったが 、運命は自分で切り開くものであると云うのが彼女の持論だった。 その為に日頃から自分の知性と感性を磨く事に日夜努力するものだとも言った。
「あなたにはその素質があると思うの」
「何の素質ですか」
「今日初めて親しく話したのですからそんなこと知りません」
彼女の口調は強かったが目は笑っていた。
話題はお互いの身の上話に代わった。
朔郎は地元で親の家から通っていた。だが学費と生活費はバイトで賄っていた。それには彼女も感心した。
佐恵子は熊本出身で今は下宿している。ここの下宿屋のおばさんが気さくで物わかりが良くて時々話し込んでしまいそれで試験前になると困ると笑いながら語った。
桜並木はとうに過ぎて静かな住宅街を抜けて、頻繁に車と人が行き交う通りに出てしまった。結局ふたりは一キロほど歩いて互いに良い印象を残してその日は別れた。
それからはどちらともなく誘い合って良くふたりは出掛けた。
佐恵子はふた月もすると朔郎は思った通りの人だと確信するようになった。
思い込みと云うものは目に見える所を美化して、見えない所は心の中で飾りたてた。
ふたりの仲が更に発展すれば良くないところは見過ごさずに良くしたい、いや自分の手で磨き上げたいと佐恵子は思うようになった。
あの人は今は解らないが、その何かに向かって生きている。それが何なのか探し出して道しるべを示してあげたい。その為には佐恵子自信なにをすべきか迷っていた。
まず第一にこの人は物事に付いて消極的過ぎた。それは人間不信から来ていた。相手を信頼してその相手を受け入れる前に身構えてしまう事が多かった。もっともほとんどの相手とは最初から受け入れようとしなかった。
そんな彼にも
それでも佐恵子は朔郎と云う人間に望みを抱いた。それに朔郎も良く応えて彼の理解力と感性は確実に膨らみ続けた。
「どうしてもっと人の中に入って行こうとしないの? 自分の為にも良くないわよ」
彼の信頼を受けて佐恵子も熱がこもった分、お説教じみた言い方になってしまった。それだけに珍しく朔郎の反応も意固地になってしまった。
「人の心は移り気だ。特に本音と建前を使い分ける世間なんて息が詰まる。第一、完全な平和主義者なんて完全な欺瞞者だ」
朔郎は珍しく興奮して云った。
しまったと佐恵子は感じた。思ったより根の深い人だわ。時には世の中の矛盾と妥協して生きる事も知らねばいつか破滅する。要するに不器用にしか生きられない人なのだ。
佐恵子が口出ししなくなると彼との会話が途切れる。あるいはあたしからの一方的な会話になる。
干渉を控えてから彼は遠くの山を見る。と云うより遠い所を見詰めていた。けして佐恵子の話を聞いていないのでなく、問えば応えてくれた。だから気にしなくなった。それより佐恵子も話を止めて同じ様に見た。
「何を考えているの?」
と笑みを浮かべて優しく語り掛ける。そんなとき彼は本音を言ってくれる。決して言葉を選ばない。おそらく正幸と云う人にも言えない事も云ってくれる。彼にとってそんな時が一番嬉しい時に違いなかった。
「自然はいい。自分を裏切らない。いつ行ってもそこで待っていて迎えてくれる。そんな時に心が緩み自然の中に溶け込める、一緒になれる」
ーー彼の熱のこもった持論だが、自然に同調出来ても人の心だけは誰もあなたに働きかけてくれないわよ。
「こころをひとつにする相手が違うわ。そんなの淋しすぎるわ。そんな出来そこないイヤよ」
「君に解りはしない」
「あなたこそ解ってないわ。そんな血の通わぬ物に心を寄せてどうなると云うの。人は社会に生きる以上は情けを借りて持ちつ持たれつなのよ、自然はあなたに何もしてくれないわよ」
佐恵子は此の時からこの人の心の逃げ場所になってあげると決めた。
この恋人宣言をしてから朔郎は佐恵子から遠ざけていた正幸をまともに紹介した。この時から佐恵子は正幸ともゆっくりと語り合った。
正幸は朔郎と性格は似ていたが考え方は全く違っていた。
此の時には正幸は一流企業の就職内定が決まっていた。彼は企業で出世して幹部になる安定した人生観を持っていた。
朔郎は大学も卒業出来るか危なかった。それどころか。
「決められたレールの上を歩くのはゴメンだ」
そう言ってアルバイトに明け暮れて、まとまった金が出来るとカメラを担いで旅に出た。
「良い作品が出来るといいわね」
佐恵子は笑っていつも送り出していた。だがその後には期待と寂しさが複雑に混じり合っていた。
やっとあの人はわたしの仕向けた希望に向かって歩み出した。しかしその裏腹に生活に保障のない哀しさも漂い始めた。
一緒になると云う事が漠然と有った頃は良かった。それが現実味を帯びて来ると色んな障害が立ちはだかった。佐恵子はそれをひとつひとつ取り除かねばならなかった。一番大きな問題は佐恵子の両親を納得させることだった。
今のままではとても両親に紹介出来ない。早く何処に出しても恥ずかしくない人になってもらいたい焦りがあったが、無理をさせない、追い詰めないようにそっと見つめていた。そしてひとつ上の目線で朔郎の前では順調に行っているように装った。
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