第4話 決められぬ就活

 狭山さやまと別れた朔郎さくろうは淀屋橋から川面を眺めていた。川の右側は道路と家が建て込み、人と車の往来が激しかった。

 川面から左の岸に目を移せば中之島の公園が見える。そこで何人かのホームレスが目に映った。彼らを見ていると朔郎は不安を覚えた。

 「誇りだけは捨てたくない」

 この言葉が脳裏をよぎった。彼は意識的に川の左側を見るのを避けた。

 多くの採用担当者から得た感触では、この歳で同じ様な仕事を探せば若手を指導する立場の人間しか社会は求めていなかった。管理能力が乏しい朔郎には荷が重くまた飛び込む気力もなかった。

 退職金と云う独立資金の一部に出来る金も有るが人使いが苦手な彼では無理で、まして得意先は開拓出来そうもなかった。感性を捨てれば仕事はあるが……。

 佐恵子はブティックを任されている。そこへ行けば使ってくれるかも知れない。い~や考えが甘い、それより俺のプライドはどうなる。

「働かざる者食うべからずか」

 遊べば半年、質素にしても長くて二年で蓄えは食い潰す。その先を考えると止めどもなく恐怖が湧いてきた。それは生への執着心のなせるごうなのか。彼は尚も己に問い続けた。


   

 黄昏が川面を染めて暮れかかる頃に仕事の終わった綾子は、桜宮さくらのみやの近くの喫茶店で友達の裕子ゆうこと会っていた。

 裕子とは大学時代からの友人である。彼女はあの頃に比べて着飾る事もなく、自分を忘れるほど熱中する物もなくなっていた。

 あの頃は行動力があって後から理屈が付いて来た。今は物事に慎重になる、と云えば聞こえが良いが要は億劫になった。だが話題は豊富だった。

 裕子は某会社の受付嬢をやっている。三人が交代制で一人は二十歳そこそこのギャルでもう一人は四十に手が届くおばさんだ。彼女もそのおばさんのグループに入っていた。

 その娘が受け付けの時は用もないのに男どもがうろつき、あたしの時は静寂過ぎて裕子には面白くなかった。時には裕子にその若い娘とのデートの仲立ちを頼む油のギラついた中年の男まで現れる。

「あの連中奥さんも子供も居るのになに考えてんのだろう」

 裕子は普段の鬱憤うっぷんを一通り綾子に聴いてもらってから話題を変えた。今度は結婚すると言い出した。綾子には前の続きの様に聞き流した。

「そう結婚するの……。いいわね」

 そう云うと綾子は幸せそうな裕子から目をそらして淀川に目を移した。

 淀川にはビルの谷間から射し込む夕陽を浴びて渋い褐色の朱に染まる。川面のさざ波が川一面に魚の鱗の様に輝かせていた。

 裕子は思い口調の綾子を眺めた。

「綾子、北村さんとはどうなの」

 裕子は今の会社に入ってから北村に気に掛けている綾子を見ていた。だが綾子にとって北村にはときめきが有った訳でもなく、まして熱烈な恋を抱いたものでもなく、また冷たい関係でもなかった。要はこの歳になると相手を冷静に見られた。だが二ヶ月前の送別会から二人の間は大きく変化していた。

「どうって?」

「綾子はさっきあたしが結婚するって言ったらひとごとみたいに聴いていたわね」

 ひとごと、そう云えば北村とは母性本能だけで綾子にはなぜここまであの人に振り回されるのか解らない。

「まあ、綾子も無理もないか、あの人は掴みどころのない人だから」

「結婚か……」

 綾子はため息交じりに言った。

「やはり考えてないのね。私がさっき結婚するって言った時の綾子の言葉、あまり実感がこもってなかったもんね」

「そうじゃないの」

 否定はしたが男女の恋の目的が結婚にあるなら、北村との恋は無駄な恋なのか。じゃあ無駄な恋って何なのだろう。

 綾子にはアバタもえくぼに見えた時代はとっくに過ぎていた。それどころか悪い所も直視し、良い所も気に入らなくなっている。要は人の目を気にしなくなった。それでも手間の掛からない恋なら良いかって思うほど男女の仲は簡単でもなかった。

「そうじゃないのよ。確かに裕子が言う様に掴み所のない人だけど。そんな相手を理詰めで考えても割り切れない。でも恋は理屈でもないから。だけど辛くて苦しい……。でも何か切っ掛けがあれば決断出来そう」

 あの人が好みであるのならそして先の事は誰にも分からない以上は、縁は繋げる価値があると裕子は言った。

「そんな安易なものじゃないでしよう」

「そやろうか? 決めてしまえば楽なものよ」

 冷静に分析し付き合えるのなら結婚しても良いと裕子は結論づけた。

 結婚する裕子を見ると北村との恋を整理したくなった。どう整理するかはあの人しだいなのが癪だが……。

 裕子と別れた後で江坂えさかへ向かう電車の中で綾子はどう整理すれば良いか考え出した。すべてのものが夕暮れに霞む町並みを背に受けながら帰った。


 部屋に帰り着くと電話のベルがけたたましく鳴っていた。

「はい、堀川ですけど」

「もしもし、ボク」

「北村さん?」

「そう」

「どうしているの?」

「逢いたい」

「……」

「今から淀屋橋まで出て来られないだろうか」

「こんな時間に」

「まだ八時だよ」

「今すぐに出ても三十分はかかるわ」

「じゃ八時半に橋の袂で待ってる」

「もう、夜に急に用も無いのに呼び出すのはやめて」

「分かった。もう急に呼び出さないから。だから待ってる」

「……分かったわ」

 彼女が言い終えると余韻を残さず電話は切れた。電子音だけが短絡に鳴り続けていた。静かに人差し指で回線を切った。

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