第3話 友人の狭山
地下を走っていた電車は膨張して抱え切れないほどの様々な人間を抱え込んで郊外から地上に飛び出した。
それまで電車の揺れに任していた綾子は明るくなった窓の外に目をやった。閉ざされた空間が急に無限の彼方まで延びるとふっと気持ちが落ち着いた。
ーーあの人はどうしてああなのだろう。同期入社で一番親しかった
『そうだなあ活発なお嬢さんって云う感じかなあ。二人は外見は正反対だけど内面は似ていた。性格は違うが性質は同じってところかなあ』
狭山さんは北村さんの奥さんをその様に言っていた。性格は違っていて、性質は同じってどう言う意味なのかしら。
綾子は無限に続くあの人の心の闇に眼を凝らした。
職安がハローワークと云う横文字に代わっているのにもあの人は馴染めない。確かに十七年の重苦しい雰囲気に比べればモダンになっている。それでもあの人は馴染めなかった。
朔郎が辞めた会社は妻になった 佐恵子が見つけて来た。住む場所も働く所も彼女が探し出した。それだけ佐恵子は結婚に焦っていたのだろうか? だが言い換えれば彼は佐恵子に振り回された格好になった。挙げ句が彼の前を去った。彼にとって彼女の存在は一体何だったのだろう。
これに乗れば佐恵子の居る京都へ行ける。行ってどうなると云うのか、軽蔑の目で見られるだけだ。いや、知り合ったあの頃の佐恵子なら親身に相談に乗ってくれるかも知れない。
朔郎の足は駅に向かった。料金表を眺めていると突然に北村と云う声に振り向いた。
「どうしてるんだ」
呼び止めたのは狭山だった。狭山はデザインの原稿を届けての帰りだった。会社の近くだから誰かに会うかも知れないと思っていたがそれが狭山で安堵した。
狭山は腕時計に目をやってから喫茶店に誘った。
この歳になれば希望の職種に付けない不満は募るばかりだ。それなら自分で独立してやる手もあったが、得意先との個人的な繋がりを付けて来なかったことが悔やまれた。
「ハローワークの帰りか、やっぱり四十過ぎでは無理だろう。しかし帰る方向が違うじゃないのか、家なら地下鉄に乗るんだろう」
狭山はなぜ京都方面の駅にお前が居るんだと云う顔をした。その何かを匂わす顔が思わず懐かしくなった。
「狭山、お前、新婚時代は俺のアパートにも遊びに来ただろう多恵さんと一緒に」
「何だ、どうした急に昔の話を持ち出して、何を言い出すんだ」
「佐恵子と別れてからは一度も来なかったなあ、気を使ってるのか」
朔郎は離婚してからは佐恵子の事は一度も口にしなかったし狭山も禁句にしていた。それがあの日以来初めて口にして狭山は一瞬驚いた。狭山は朔郎の顔を見てすぐに悟った。
「お前、最近、奥さんと会ったなぁ」
朔郎は頷いた。
「いつ会ったんだ」
「二月ほど前だ」
「ふたつきほど前か……。まさかあの送別会の日じゃないだろうな」
朔郎は浮かぬ顔をして黙った。
「図星か。それであの日あんだけ荒れたのか。……で彼女の方から訪ねてきたのか?」
「ああ。前日の晩にアパートに電話があった」
朔郎はぶっきらぼうに言った。
そりゃあ携帯が分からなけゃあアパートに電話するわなぁと狭山は笑った。
「しかしなぜ急に彼女が電話したんだ」
「分からん」と更にぶっきらぼうになったが、急に目を曇らせて「女心は」と 付け加えた。
狭山は苦笑した。
「それっきりか。だがお前が淀屋橋に居たってことは京都の彼女の居場所を知ってるンだなあ」
「彼女、名刺を置いて行ったよ」
狭山に名刺を見せた。
「北山通りか、この店はブティックか」
「そこで働いているらしい」
狭山には朔郎が淀屋橋に居た理由を理解した。
働いているらしいか、と云いながら狭山は名刺を朔郎に返した。朔郎は難しい顔で受け取った。
「狭山、実ははっきり言おう。そのあと一週間後に会いに行ってしまった、それから会ってない」
「なぜそれっきりにしたのだ」
「昔の彼女じゃなかった」
「嘘をつけ。あの人が変わる訳がない」
お見通しかと朔郎は薄笑いを浮かべた。
「つまらん男の意地さ」
それで十七年も無駄にしたか、本当につまらん奴だと云って狭山は時計を見た。会社へ戻らないとやばい時間になっていた。
別れた妻の事はお前だけの胸に納めておいてくれと約束させてその日は狭山と別れた。
辞めた会社は淀屋橋から心斎橋に向かう御堂筋沿いに在り、イラストやデザイン、イベントの企画等も手掛けていた。
佐恵子は朔郎の写真以外に図案のセンスに目を付け、図案の仕事を伸ばす為に朔郎にこの会社を勧めた。今は仕事の大半を パソコンでやっていた。朔郎が パソコンで製作するようになると構成や色彩感覚にそれほど神経を注がなくなった。
狭山は制作部門でなく注文や打ち合わせ等の外商部門だった。会社は地下鉄御堂筋線乗り換えて二駅だが少し淀屋橋方面に戻る。
狭山は地下鉄を降りて本町方向に歩いていた。九月の半ばで暑さはまだ残っていたが陽射しは緩やかになり、銀杏並木の木立は長い影を落とし始めていた。
狭山と北村は同時期の入社で、部門は違ったが新人同士で唯一気が合った。お互いに同棲していることも知り夫婦どうしで旅行にも行った。だがそれも半年ばかりで朔郎が離婚してからは家族同士の付き合いは疎遠になった。以後狭山とは個人的な付き合いに戻ってしまった。それも細々と今日まで続いたに過ぎない。
狭山は会社に戻り報告を済ますと今日は真っ直ぐマンションに帰った。
家には妻の
多恵は夫の早い帰宅に目を丸くして迎入れ、何も聞かず急いで食事の支度をした。いつもの定時に帰宅する夫には多恵は尋ねるが、早かったり遅かったりした場合は聴かずとも夫の方から話すからだ。
今日も狭山は食事が始まると妻に北村に会ったことを話した。夫婦間では北村が離婚してからは彼の話は久しくなかった。退職時にいっとき話題になっただけだった。
「そう佐恵子さんは再婚して京都で暮らしていたの」
「十七年も音信不通だった人が急に北村を訪ねて来るなんて、どういう心境だろうね」
「佐恵子さんは思いついたらすぐに行動に移す人でしょう。だから何かあったんじゃないの」
「何かって?」
「そんなこと私が知ることないでしょう。ただ旦那さんでなければ子供のかおりちゃんかしら。あの子に何かあったんじゃないの……。それとも違う子かしら」
「違う子ってどういうこと?」
一緒に食事をしていた長女が口を挟んだ。
狭山と多恵は話題を変えた。食事が終わって子供達が部屋に戻った。
多恵は食事の後片付けをしてからコップをひとつ持ってきた。狭山は先にひとりでビールを飲んでいた。
「今日はあたしも一緒に飲むわ」
狭山は多恵のコップにビールを注いだ。
「貴方に入れてもらうのも久し振りね」
佐恵子と朔郎の話題は二人の新婚の想い出とだぶった。だが二人が朔郎と佐恵子の子供の話になると表情が厳しくなった。
多恵には狭山から佐恵子が再婚しても子供は一人だと聴かされて気になった。
彼女は再婚したあと最初の子が逆子で、しかも胎盤が首に巻き付いてお産の時に死なせたと、狭山は朔郎からさきほど聴いた話を伝えた。
「それでそのあとは子供が出来なくなったらしい」
「そんな込み入った話までどうして長いこと会わなかった北村さんに佐恵子さんは言ったのしかも突然会って……」
「そう言われてもなあ、なんせ佐恵子さんは思い切った事をやる人だからなあ」
「あの人、余程そうしたい何かがあったのかしら、でもかって過ぎると思わない、自分から捨てておきながらどんな理由があろうと許せると思うかしら。まさか彼女から連絡先をもらっても行くわけないわよね」
「それが行ったらしい」
「うっそー、北村さん行ったの!」
「ああ、一週間後に。どうしょうもない奴だ、あいつは。淀屋橋をうろついてまた今日にも行くつもりだったらしい」
「それでどうしたの」
「そこで別れた」
「で、それっきり」
一週間後に行ったのは佐恵子が大切にしていた預かり物を、北村は返しに行った。だが彼女は『そんな物どうでもよかったのに』と あっさり受け取った。北村には昔の彼女と結びつける身代わりの様な唯一の記念品を無造作に扱われた事に失望してすぐ帰ったらしい。
「それじゃあ、かおりちゃんは北村さんが本当のお父さんとは知らないでしょう。そのまま会わずに別れて来たの?」
多恵は朔郎のアパートでまだ一歳にならないかおりをあやしている自分を思い出していた。
「あのかおりちゃんならもう高校生になっているんでしょうね? 可哀相に何処まで知ってるのかしら?」
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