第2話 就活

九月に入っても今年の夏は暑かった。冷房を節約していたので余計に暑い。開け放たれた窓からは一向に風が吹いて来なかった。

 ダイニングテーブルに両肘をついて気怠さの中で朔郎は先ほどから隅の電話とにらめっこしていた。彼は意を決して受話器を取って電話した。

「求人情報誌を見て電話したのですが……」 

「ああそうではすか失礼ですがお幾つですか?」

「四十一です」

 歯切れ良い電話の声に朔郎さくろうは安堵して歳を言った。

「ああそうですか」

 電話の相手は急に声をトーンダウンした。彼は急に不安になった。

「年齢はそこに書いてあるとおりうちは若い人しか採らないんですよ」

「若いと言うと幾つまでですか?」

 何度かの問い合わせの後にささやかな抵抗を試みた。

「良いところ三十代ですね」

「三十代と言いますと……」

「とにかく貴方の年齢ではダメです」

 ちょっと間を空けてから相手は呆れたように答えた。

「そうですか……」

 朔郎は力なく受話器を置いて求人情報誌を丸めて部屋の隅のゴミ箱に投げ入れた。

 朔郎は十七年勤めた会社を二ヶ月前に辞めた。彼に落ち度はなかった。ただ会社の経営方針に落ち度があった。彼は意にそぐわぬ転勤を断った。その結果会社を辞めざるを得なかった。

「なかなか再就職はやはり難しいか」

 深いため息を付いて奥の和室に戻って寝転んだ。

彼の脳裏には二ヶ月前の送別会が浮かんだ。

ーー酔いながら英断だと言った奴もいた。ある仲間は、嫌な物はイヤと言える君が羨ましいと羨望の眼差しで言った。その歳で行くとこないぞと心配してくれる奴もいた。だが誰の言葉も心地良い酔いの中に消えてひとり酔い潰れた。見かねた綾子がアパートまで送ってくれた。


 翌朝、朔郎は昨夜の酷態をいた。己の弱さをさらけ出した事を悔いたのである。そして二週間後にまた繰り返していた。

「あんな悪酔いしたのは二十年振りか……」

 遠く生駒の山並みを見ながらつぶやいた。

 電話で求人を断られたあと朔郎は暑い陽射しが残る夕暮れの御堂筋を歩いた。綾子との待ち合わせ場所である心斎橋に向かって歩いた。

 以前は会社のあるビルに向かってひたすら歩いた。同じ道を今日は定まらぬ歩幅で歩き続けた。行き交う人々にすれば彼の歩幅は歩道での人の流れを乱していた。

「俺は十七年間、何の為にこの道を歩き続けていたのか……」

 ぼやき続ける朔郎の前にヨレヨレの普段着の五十絡みの男が眼に止まった。彼は自転車の荷台に寄り掛かりくわえ煙草のまま新聞を読んでいた。

「何して喰ってるんだろう?」

 仕事を辞めてからの朔郎は暇な人を見つけると口癖の様に浮かんで来る言葉だった。その時に同じ様な視線に気付いた。

「生気のない人ね」 

 視線の先に立っていた綾子が笑いながら言った。

「まあ仕方ないわね、ずっと部屋に居ればたまにはお陽さんに当たらないと葉もしおれるから」

「俺は観葉植物か」

 朔郎は肩を並べて歩き出した綾子に向かって愚痴を溢した。

「仕事、探してるの?」

 綾子は世話焼きな方である。だがそれも三十女だと疎ましく感じる事が多分にあり朔郎もそう思った。その考えは送別会で悪酔いしてから彼女も悪くない、いや望ましいと気持ちが一変した。

「探してるよ」

 成り行きで答えた。

「合うのがないの?」

「難しいね、選り好みしなければ割と有るんだが……」

「じゃあ取りあえず繋ぎで決めれば」

「もう若くはないんだよ。歳なんだ」

 彼はパソコンを使ってイラストやデザインを作る技術職である。カメラのレンズを通して決めていた構図がパソコンに置き換えられたダケの平凡な技術職であった。芸術的な物は別にして、この人でなければ出来ないと 云うものでもなかった。この手の職人は人件費を抑える為に若手を採用した。

「じゃあ仕事はないの?」

「肉体労働ならあるよ」

「じゃあどうするの」

「一、二年は失業保険と退職金でなんとかなるが……」

 彼はその先を詰まらせるとそのまま顔を曇らせて黙ってしまった。


 綾子はとにかく朔郎と一緒に彼のアパートへ行った。六畳と四畳半のダイニングと別に風呂とトイレの付いた部屋だった。それは一七年前に佐恵子が見つけたアパートだった。

 朔郎が離婚したのは会社の多くが知っていて住所も変えていない事も知っていた。

 最初に彼の部屋を見た綾子は、本当に面倒くさいのかそれとも未練がましいのか見当がつかなかった。納得するより呆れていた 。その当時の物をそのまま使っていたからだ。一人暮らしには目障りな物まであった。

「邪魔な物が多いわね」

 朔郎は別れた妻がほとんどの物をそのまま置いて行ったから仕方がないと言った。

「だったらサッサと処分すれば良いのにこれじゃあ部屋が狭すぎるわ」

 綾子は朔郎の会社に二年前に入って来た。それが二ヶ月前の送別会で酒に溺れた朔郎を見てから母性本能がどっと吹き出して無視できなくなっていた。

「何か一緒に暮らしてくれそうな口ぶりだなあ」

 綾子は入社以来、朔郎には愛嬌を振りまいていた。彼はその延長で軽いノリで言わせた。

「職もなくぶらぶらしている人とやっていけると思ってんの」

 綾子は本気で言っていないのは眼を見れば分かった。しかし半分は嘘でもないことも伝わって来た。やはり生活を考えると不安なのだ。

「それに付き合ったのはまだ二ヶ月よ。そんな言葉はよしてよ」

 彼女まだ新鮮な気持ちを持続したかった。

「会社では二年も一緒じゃないか」

「同じ職場に居るからそう云う事になるわね。……それより仕事の事を考えてんの」

 綾子が軽い気持ちで言っているのは分かったが、今の朔郎には最大の不安であった。それを指摘されるとやはり気が重くなる。

 彼は窓際に座り込んでけだるそうに外を眺めた。彼のいい加減な態度にむかっと来たが、彼女は掛ける言葉を失い出直すことにした。

 送別会から綾子は朔郎のアパートを頻繁ひんぱんに訪ねる様になったが今日も泊まることなく帰った。



 

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