下弦に冴える月
和之
第1話 序章
定刻で仕事を切り上げてから
昨夜、随分と昔の恋人から突然に、まったく唐突に会いたいと云って来た。しかも恋人を奪った亭主の
その昔の恋人、
朔郎は懐かしさと半ば後悔が頭の中で止めどなく激しい渦になってさらされていた。ビルから一歩出るとムッとする暑さに顔を舐め尽くされた。
「しつこい夏だ!」
朔郎は思わず叫びたくなった。彼は気持ちが
「いかん! いかん! 。落ち着け、落ち着け。しかし何でまたあの女は急に会いに来るんだ」
朔郎はビルの前の通りから御堂筋へ出た。心斎橋から思い鉛を付けたような足取りで御堂筋を歩いた。
仕事の終わった此の時間は、軽快な足取りで若い二人連れが、次々と彼を障害物のように通り過ぎていった。行き過ぎた連中にしてみれば確かに四十二歳の彼は歳を取り過ぎていた。だがこれから会う人は彼ら若者の年代にタイムスリップさせる想い出の人である。なのに心は決して軽くない。なぜならそれは十七年前に朔郎を捨てた女であった。
「今さら会いたいなんてどう言う了見なんだ」
心の叫びとは裏腹に気持ちは
長堀を少し過ぎて堺筋にある喫茶店に彼は入った。心斎橋の賑わいにすればここは場末のおもむきがあった。そこは時間の観念から解放された客だけが紫煙をくぐらせていた。彼らはコーヒーを味わいながら時の流れの外に身を置いていた。
薄暗い仄かな灯りの中に髪こそ少し短めだが昔の彼女の姿が浮かび上がっていた。彼は少しばかり心ときめかせてテーブルに座った。間近に観る彼女はやはり目尻や肌に十七年の歳月を映していた。
朔郎は気落ちしたがすべてが昔のままなんて有り得ないと言い聞かせた。それでも彼女は若く見えた。朔郎を見る佐恵子の瞳が反射的に微笑んだ。
「驚いたでしょう」
そう言いながら輝かせた佐恵子の瞳が彼を戸惑わせた。そのすべての意味を失いかけた時に、脳裏の片隅で冬眠した記憶が蘇った。その時に佐恵子は昔の笑顔を浮かび上がらせた。
「朔郎さん……」
佐恵子の瞳が変化した中で長い空白の月日が埋まっていった。その瞳は長年にわって凍り付いた彼の執念を溶かし始めた。
彼女の見せた笑顔に昔の慈愛が満ちていた。彼の不安は一瞬に霧散した。
「元気そうね。あれから結婚したの?」
「いいや」
彼は無表情で答えた。心の不安は消えても硬直した表情まで行き渡らなかった。
「でも女の人、いるんでしょう」
朔郎はやっと作り笑いを浮かべた。
「まだあのアパートに住んで居るのね、繋がらないかも知れないと思いながら電話したけれどすぐに貴方が出てホットして懐かしくなってきたの」
十七年振りに佐恵子に会って彼は慎重に言葉を選んでいた。なぜ電話したのか、なぜ会いたくなったのか詮索したが澄み切った彼女の瞳が断念させた。
「……、正幸は元気なのかい?」
「ええ」と佐恵子は急にトーンを下げた。が「かおりは元気よ」と再び元のトーンに戻した。
自分の娘の名を聞きいて朔郎は静かに頷いた。そして煙草を取り出して紫煙をたなびかせた。ほろ苦い味だった。
「まだ煙草吸ってるのからだに悪いわよ」
「何いってんだ君が教えたんだ」
「あら、そうだったかしら」
彼女は笑って茶化した。
「それより電話では何も訊かなかったけど、あなたかおりの事は心配じゃないの」
「他にもあるが……、それより幾つになったんだろう?」
「十七で高校三年になるわ」
「じゃ次の春に卒業するのか」
躰の線は崩れていない。あれから子供は産んでいないのか? 正幸がそれで納得しているのだろうか? 此の疑問に今一度、佐恵子の瞳を見直した。
彼女は、此のひとは何を考えているのだろうと云う目をしていた。
これは恋人時代からそうだった。悪意はないのは分かり切っていた。だがなんだか自分が尊敬に値しない人に取られて不愉快だった。今も朔郎は佐恵子のその瞳に押されぱなっしだ。彼はその瞳に向かって切り返した。
「正幸とは上手くいってるのか?」
「え、え」
彼女はちょっと言葉を詰まらせてから。
「上手くいってるわよ」
それがどうしたと 彼女は押し返した。
「正幸か……。あいつは卑怯だ!」
「貴方にそんな事を言う資格はないわよ」
「さあ、どうだろうねぇ」
「どう云う事なのよ」
「まあいい。あいつはあいつで苦しんでいるだろうなあ」
一瞬、彼女の顔がこわばった。
「まだそんなこと言ってるの。もう何しに来たのか分からなくなってくるでしょう。あなたがそんなに執念深い人とは思わなかったわ」
次に彼女は呆れたように作り笑いを浮かべた。佐恵子は表面では笑っていても瞳は動揺していた。
「本当に何しに来たんだ」
ふたりは心斎橋から地下鉄御堂筋線に乗った。三つ目の駅が梅田である。結局ふたりは話らしい話も、約束もせず梅田で別れた。
朔郎は駅前の雑踏を抜けて御堂筋から東通り商店街を曲がり、中程にあるチェーン店の居酒屋に入った。時計は七時を少し回っていた。
やばいなあと思いながら店員に案内された部屋に到着した。二十人でいっぱいになる小部屋の座敷の流しテーブルにはみんな揃って座っていた。一番奥の上座だけが空いていた。
みんなは彼を見るなり拍手や野次を送り奥の空席を示した。一番に会社を出た人間が一番後に来るなんて。
何処へ行っていたのですか、随分遠回りして来たなあ、どっか寄り道でもして来たんか。と彼が一番奥の席に着くまで上司や同僚、後輩の野次と果ては女子事務員のひそひそ声までも鳴り止まなかった。
彼が着席して上司の一声でやっと静まり返った。おっせいかいな同僚が
さっそく司会から指名された上司は北村朔郎との関わりと、形ばかりの贈る言葉をもったいぶって演説していた。
退屈な朔郎は神妙な格好で聴き入る会社の連中を眺め回した。同期入社で一番仲のよい
狭山は愛嬌たっぷりに眼だけで何かを言っているようだった。朔郎も色々と仕草を変えながら相手をしていた。みんなは見て見ない振りをしていた。知らないのは立って挨拶している上司だけだった。
端にいる
ビールの栓があちこちで抜かれ、コップに注ぎ合って乾杯となり、後は各自バラバラに雑談が始まった。
朔郎は綾子を見ながら「あの子は色々と世話を焼いてくれたがいまいちかなぁ」と呟きながらビールを空けた。待っていましたとばかりに隣の片山がビールを注いだ。
「北村さんどうするんですか」
「片山は幾つだったっけ?」
「二十一です」
「二十一か、若いなあ、羨ましい。俺は丁度お前の歳に一度結婚したんだよなあ」
「話によりますと十何年前に離婚されて今も独身だそうですね」
「十七年前だよ」
しかし俺はその女とさっき会ってたんだよなあと口の中で呟いてビールを一気流し込んでに空けた。片山は奥からの黄色い声に誘われて行ってしまった。
すると待っていたように司会を買って出た二宮がビールを勧めにやって来た。
彼は英断ですねと言ってからその歳での再就職を心配してくれた。そして上司が来て、今度の転勤拒否は遺憾だと小言を並べた。
朔郎は適当なところでトイレ中座して、戻って来て空いていた狭山の隣に座った。
「狭山、長い付き合いだったなあ」
「何言ってんだ北村、此の会社でお前の元奥さんを知っているのは俺だけだぞ、会社を辞めてもお前との付き合いが終わる訳じゃないんだぞ」
嬉しい事を言ってくれると朔郎はまたビールを一気飲みした。朔郎は酔いが回り出したが狭山はまだ酔っていなかった。
「結婚当初は家族ぐるみの付き合いでよくお互いのアパートを行き来した付き合いじゃないか。多恵も今度の事では心配しているぞ」
「そう言えば奥さんの多恵さんとは佐恵子と別れてからあんまり会ってないなあ」
朔郎は周囲に勧められるままコップを何度も飲み干している。彼の舌はかなり回りにくくなっていた。
「おい今日は呑みすぎだ。お前らしくない。そんなに呑むのはあの時以来だなあ」
「あの時はサエコさんに看病してもらってお世話になったなあ」
「オイ、俺の女房の名前を間違えるな」
「何か言ったか」
ーーもうこいつは完全に酔っている。
狭山は呆れて「佐恵子さんにでも会ったのか」と手ラッパで冗談ぽく朔郎の耳元で囁いた。
「何言ってんだ! そんなことあるわけないだろう」
とうとう彼は酔い潰れて訳の分からないことで怒鳴り始めた。
狭山は話にならんと席を移動した。
彼の耳には宴会のざわめきが耳鳴りのように聞こえて頭も痛み出して横になった。
宴会の終わりかけに朔郎は起こされて「北村さんお水よ」と言う綾子の声で彼は半身を起こした。
ーー酔いながらもイヤな者はイヤだと言える君が羨ましいと羨望の眼差しで言うものもいた。その歳で行くとこないぞと心配してくれる奴もいた。だが誰の言葉も心地良い酔いの中に消えていった。
お開きの後は見かねた綾子が看病しながら彼のアパートまで送ってくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます