第52話:よかったですね

 公園にやってきた誰かの姿を、私は見ることが出来なかった。

 何故ならミズハさんがぎゅっと金属板を握りしめて、私の視界を遮ったから。

 辺りは完全な暗闇。ただ、じゃりっじゃりっと砂を踏みしめて、誰かが近づいてくる声が聞こえてくる。

 

「大河君……」


 ミズハさんが小さく呟いた。


「柚……」

 

 大河さんがミズハさんの名前を呼んだ。


 ふたりがどんな表情を浮かべているのか。笑っているのか、泣いているのか、見えないから分からない。


 だけど、ふたりの間に流れている空気はなんとなく分かる。ふたりともなかなか次の言葉が見つからずにいる。だから、私にも分かった。

 

「ごめん、大河君!」


 先に空気を破ったのはミズハさんの方だった。

 すごく緊張しているのが、金属板を握りしめる手がかすかに震えていることからも伝わってくる。

 

「私が保健所の申請をちゃんとチェックしていたらあんなことにはならなかったよね。ライブだってもっと安全体制をしっかりしておけばよかった。それに……それに」


 ミズハさんが言葉を詰まらせた。言うべきか、言わないでおくか、しばしの葛藤の後、

 

「文化祭が上手くいっていればあんな噂も出回らなかったよね……本当にごめんなさい」

 

 おそらく大河さんが一番気にしているだろうことを口にして、ミズハさんはもう一度謝った。

 

 さっきの話の限りでは、ミズハさんは何も悪くない。悪いのは大河さんを陥れようとした役員たちだ。

 ああすればよかった、こうすればよかったって話も、あんな結果になったからこそ反省するもので、本来ならそこまでミズハさんがする必要なんてないんじゃないかなって思う。

 

 それでもミズハさんは、大河さんを助けてあげられなかったと謝った。

 それは真面目なミズハさんらしい、心からの謝罪に違いない。

 

 でも、噂の件を出したのはマズかったんじゃないかな?

 大河さんにとってこの件は触れられたくない、とりわけ当事者であるミズハさんには知られるのすら嫌なはずだ。

 下手したらせっかく大河さんから会いたいと言ってきたこのチャンスも、全て台無しになってしまうかもしれない。

 穏便にことを進めるには、噂には知らんぷりするのが賢明だと思う。

 

 にもかかわらず、ミズハさんは一度躊躇しつつもあえて踏み込んだ。

 何も考えず、ただ口が滑ったんじゃない。勇気を出したんだ。大河さんとしっかり話をするために。

 目の前の問題から逃げずに立ち向かうために。

 

「…………」


 大河さんの声は最初にミズハさんの名前を呼んで以来、何も聞こえてこない。

 だからミズハさんの覚悟が届いたのかどうかも私には分からなかった。

 人の心は不思議なもので、濁っているとどんな透明なものでも汚れて見えてしまう。

 歪んだガラス越しにはすべてのものがいびつに見えるように、どんなに相手のことを思った言動もそうとは受け取ってもらえないことがある。

 

 大河さんはどうだろう?

 友人たちに裏切られた心は、またまっすぐに戻すことが出来たのだろうか?

 それともまだ無惨にも捻じ曲げられてしまったままなのだろうか?

 

「……柚、違う……んだ」


 ようやく紡ぎだされる大河さんの言葉。

 その声を聞いて、私は心配が杞憂に終わったのを理解した。

 大河さんの声は震えていて、途切れ途切れで、そして

 

「柚はなにも……悪くない。全ては俺が……俺がバカだったからなんだ」


 言葉ひとつひとつが、涙で滲んだ音をしていた。


「俺……柚を兄貴に取られた気がして……どうしても……取り戻したかった。だから、生徒会長になって……そうすればきっと……昔みたいに……」


 時々言葉を詰まらせ、涙でしゃっくりをあげながら、大河さんの告白が続く。

 

「でも、生徒会長になったら……俺の知らない奴らが柚と仲良くしていて……だから、だから俺は」

「大河君!」


 ミズハさんのひときわ大きな声が聞こえたかと思うと、私の世界に一瞬光が差し込んだ。

 ミズハさんが金属板から手を離したんだ。

 だけど、大河さんの顔を見ることは出来なかった。

 だって。

 

「もうそれ以上言わなくていいよ」

 

 ミズハさんが立ち上がって、うなだれて震える大河さんを抱きしめる。

 ミズハさんの首から垂れ下がっている金属板の中にいる私は、密着したふたりの間でゆらゆら揺れた。

 あまりに近すぎて、やっぱり窓からはほとんど何も見えない。ただ時折大粒の涙が降ってきて、窓を濡らした。

 

「柚……」

「ごめんね、大河君が寂しい想いをしているのに気付いてあげなくて」

「……ゆ、ゆずぅ」

「本当に、本当にごめんなさい」


 ミズハさんが謝るたびに、大河さんがぶるぶると大きく体を揺らした。

 感情の堰が崩壊して、もう言葉にはできなかったけれど、大河さんが何を言いたいのかは分かる。


 良かった。

 ミズハさんが相手を思いやる優しい人で。

 大河さんがそんなミズハさんの気持ちへ素直に応えられるようになって。


 こんな場面に第三者である私が立ち会っていたのを知ったら、きっと大河さんは顔を真っ赤にするだろう。

 でも、落ち着いたら「よかったですね」と一言お祝いを言いたいなと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る