第16話 ステンナの魔眼
教卓の前に突如現れたステンナは、笑みを絶やさず俺の眼前までゆっくりと歩いてきた。
まとう雰囲気は朝に会った時のように冷たく、気を緩めれば一気に呑まれてしまいそうな程に重たかった。
「こんにちは、先生。あ、もうこんばんはかな?まぁ、どっちでもいいか」
「お前……今までどこに……」
「どこって、ずっとここに座ってたよ?酷いなぁ、気付かなかったの?」
ここにいた?
ありえない。何度か教室を見に行ったが、ステンナの姿なんて確認していない。
フィンドーラたちも、彼女の姿は見ていないと言っていた。
「誰も……お前を見てなんか……」
「見てなくても、私はココにいたよ。この椅子に座って、ずぅっと貴方を見てたの」
そう言って、彼女は胸元から一枚の紙切れを取り出す。それは日本の巫術に使われそうなお札であった。
お札には簡単な棒人間に×が描かれており、そこから青白い光が放たれている。
「認識疎外の魔法……!?」
「そう、これって凄く簡単で単純なんだけど、だからこそ気づきにくいんだよね」
クスクスと笑うステンナが、俺にはどこまでも恐ろしく思えた。
そう、言ってしまえばモンスターのソレ。
蛇に睨まれた蛙、なんて生易しいモノでは無い。
弱者が圧倒的な強者に拘束され、その心臓を鷲掴みされているかのような。そんな感覚が、全身を襲ったのだ。
「そもそもさぁ、先生」
「なん、だ……」
「先生はここがどこだか分かってるのかなぁ?」
何言ってんだ、ステンナ。
ここは俺たちが毎日会っている学校、ミスカトラル高校だろうが。
人を不安にさせるようなことを言うんじゃない。
「……ふふ、まだ分かってないんだね先生」
そう言って、ステンナの目が怪しく光る。
今朝と同じだ。目が合った瞬間俺の体は一切動かなくなり、指先一本動かなくなった。
「La……♪」
透き通った声が彼女から聞こえる。
幻想的で、この世のモノとは思えない程に美しい。
その声は波打つように広がると、やがて衝撃波となって辺り一面に叩きつけられた。
ビシリとひび割れる音。
次いでガラガラと崩れていく音。
他にもさまざまな音が響いては消えて、また響く。破綻しているようで、一種の音楽のようだった。
ソレと同時に、壁やドア、机、椅子、黒板。
ありとあらゆるモノにヒビが入っていく。
その様子は、まるで全てが一枚の絵の中で起きているかのように平坦で、現実味が無かった。
「そもそもここは、学校じゃないよ」
彼女の声と共に、パチンと指を鳴らしたかのような音が聞こえる。
その音を最後に、辺りから聞こえていた音は全て消えた。
ソレと同時に、なぜか俺の体は自由になる。
「え……?」
ゆっくりと周りを見ると、その景色は慣れ親しんだ教室のソレではなくなっていた。
先程見た、ひび割れた風景……ですらない。
「なんだ……これ……」
一言でいえば、夜空。
真っ暗な闇の中で、遠くの方で星のような光が散っている。
だが様子がおかしい。
空ってのは上の方にのみ広がる筈だ。
それなのに、なぜ今見ている空は横にも下にも広がっているんだ?
足場でさえ、底が見えない程の深淵が広がっている。
それなのに、俺の足には床を踏んでいる感覚があった。軽く力を入れても、足場が崩れるようなことは無い。
空中を歩いている、とでもいうのか。
その事実が、純人間の俺には容認できない程に摩訶不思議なことであった。
普段ファンタジーなんて見慣れていたというのに、いざ自分が直面するとどこまでも恐ろしい。
「う……ぐ……」
思わず蹲り、突如襲ってきた強烈な吐き気で動けなくなってしまった。
突然襲ってきた異様な光景、ありえない感覚。その全てが恐ろしい。
「んふ、先生ってば怯えちゃって……可愛いなぁ」
そんな俺のすぐ近くから、クスクスと笑い声が聞こえる。
俺の無様な恰好が、ステンナには大層ウケたようだ。
「先生ってさ、なんていうか……無防備なんだよね」
「なに……言って……」
「先生はいつも堂々としてて、獣人の私達にも怯えずに接してるよね。でもそれは、別に勇気があるからじゃない。どっちかって言うと、自分は関係ないって……他人事のように思ってたでしょ」
その言葉に、思わず体がブルリと震える。
図星だ。確かに俺は獣人に対して、いやモンスターに対してそこまで恐怖を感じていなかった。
でもそれは、俺に度胸があったからってワケじゃない。その重大さを理解せず、浮ついた気持ちで軽く考えていたからだ。
モンスターといえば、意思疎通すら出来ない化け物の総称だ。
しかし、目の前に存在する獣人やモンスターは話すことが出来る。しかもしっかりと知性があって、優しさも存在する。
力が純人間とは比べ物にならないといっても、話し合いさえできれば問題ないと。
本気で思ってしまっていた。
そして今現在まで、その認識のまま生きていた。
しかし、その考えが何処までも甘かったことを証明するように、ステンナの気配はさらいおぞましいモノへと変貌していく。
「ふふ、ねぇ先生。私のこと、怖いかな?」
「……」
「どうしようもなく怖くて、とにかく逃げ出したいのに指先一本も動けない。そんな恐怖を感じないかな?」
ステンナの言葉を聞き、俺の中でソレは完全に形になってしまった。
目の前のステンナが怖い。どこまでも恐ろしく、触れてはならない化け物に見える。
今度は彼女の能力によってではなく、自分の恐怖によって体が動かなくなってしまっていた。
「あ、ぎ……!?」
「あれぇ、もうちゃんと言葉も話せなくなっちゃったかな?ホント、純人間って脆いんだね。ほんのちょっぴり、威嚇しただけなのになぁ」
変わらずクスクスと笑うステンナ。
もう手を伸ばせば届くくらいに、彼女は俺に近づいているのだろう。
なぜ彼女が俺にこんなことをするのか、未だにわからない。
本当は只の冗談なのかも。そんな甘っちょろい考えが浮かんでしまう自分の思考が、どこまでも愚かしく感じた。
「うぐ……」
「あはは……ホント、可愛いね先生。可愛くって甘くって、石にして食べちゃいたいくらい」
「ぐッ……!?」
唐突に、肩に激痛が走る。
次いで、何かを吸い取られるような感覚。
恐らく、ステンナに血を吸われているのだろう。この感覚は前に味わったから、よく覚えていた。
「あはぁ……血まで甘い。こんなんじゃ、いつどこで襲われても仕方ないよ。ねぇ、先生?」
耳元で囁かれる。
身がガタガタと大きく震え、俺の精神は限界に達しようとしていた。
恐怖に怯え、気を失いそうになる。
「……?」
しかし右ポケットから感じる異様な熱が、俺の意識を辛うじてつなぎとめた。
「……?」
「なぁに先生……あれ、なんで手が動かせるのかな?」
その熱をはっきりと感じるようになると、体の自由が戻ってきた。
震えは止まらないが、今なら腕をなんとか動かせる。
そう思った俺は、藁をもすがる思いでポケットに手を突っ込んだ。
ゴソゴソと中を探るうちに、その正体を知ることが出来た。
「これ……は……」
ポケットの中には、今朝校長との話に出てきたお守り代わりの小瓶があった。
常日頃言われていたことだ。
何か大変なことが起きた時には、瓶の中身を飲んで呪文を唱えるのだ、と。
「……」
途端、小瓶から発せられていた熱が一気に全身へ伝わっていった。
温かく、優しい。まるで怯える俺を慰めるかのように、包み込んでいく。
凍えるように冷たく、ガタガタと震えていた体に熱が戻っていくようだ。
この熱の正体は分からない。おそらくこれも魔法の一種なのだろう。
冷静に考えると、恐怖がないワケではない。
だが、それを度外視する程の慈愛を、この小瓶から感じることが出来た。
そしてしっかりと温かくなった俺の中には、恐怖ではない別の感情が少しだけ生まれてきた。
俺はゆっくりとポケットから小瓶を取り出し、ステンナに見せつけるように眼前へ出す。
「ッ……それって、まさか!」
直後、ステンナの顔が驚愕に染まり、彼女は数メートル後方に飛び退いた。
あの慌てた様子を見ればわかる。
この小瓶の中身は、彼女に対しても有効なシロモノだ。
暗い夜空のような空間の中、煌めく星々を背後に俺は瓶のふたを開けた。
「……ステンナ」
「なにかな、先生。先生のお話は最後までゆっくり聞きたいんだけど……まずはその瓶、捨ててくれないかな?それがあると、私とっても困っちゃうんだ」
「あぁつまり、俺にとっては非常にありがたいモノってワケだな」
「もぅ、聞かん坊だなぁ先生は。その瓶の中身は、どことも知れない宇宙から来た化け物の技術、その一部が詰まってるんだよ?そんなもの、怖くて使いたくないって思わないの?ひ弱な純人間じゃ、使っただけで死んじゃうかもよ?」
「……そうだな、確かに怖い。だがなステンナ、これだけは言っておくぞ」
瓶の中からは、以前と同じ甘い匂いが広がってくる。
とても美味そうな、蜂蜜酒の匂いだ。
だが、明らかに俺の知る蜂蜜酒ではない感じがする。
なんというか、嫌な予感がプンプンする代物だ。
持っているだけで分かってくる。コレは通常、人間を決して幸せにはしないモノなのだろう。
改めて、本当に怖い。何が怖いって、この世界の全てがだ。
当たり前のように存在するモンスター、当たり前のように存在する魔法。
あぁそうだ、俺は全部怖い。どれだけ能天気であっても、相手が恐怖すべき相手であることは変わらないんだよ。
だが、怖いだけで服従するワケにはいかない。現状に留まるわけには、いかないんだよステンナ。
「あまり純人間を、人間を簡単に考えるな。遥か昔に俺たちの祖先は、自分の意思で暗闇を掻き分けて生きてきたんだ。いつまでも、怖がってはいられないんだよ」
「……先生、もう一回動けなくしてあげようか?」
「遅い、それよりも先に俺はこの中身を飲み干せる!」
怪しく光る眼を視界に入れないよう、背後を向く。
後ろから迫ってくる足音を聞きながら、俺は勢いよく小瓶をあおった。
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