Age

「あなたは今、何のために生きてるの?」


 梅雨が過ぎ、雨が降らなくなって一週間が経とうとしていた。

 真夏、人が密集している都心の交差点で信号待ちをしていると、声が聞こえた。

 なんだか自分に言われているような気がして、声が聞こえた方向を振り返ってしまう。

 ただ、この人混みの中では誰が何のために発せられた言葉なのかがわからない。だから余計、自分に向けられた質問なんじゃないかって思う。

 信号が青に変わる。今まで立ち止まっていた人が一斉に動き出した。まるでスイッチを入れたロボットのようだ。その波にのまれてしまい、体が前に押し出される。

 この波に飲まれてしまったらこれから先、楽しみもない平凡な人生を送ってしまう気がした。だから、その場で必死に踏ん張った。足は地面につけたまま、口が動く。

「俺は将来、後悔しないために生きている」

「じゃあ、今、後悔してるんだ!」

 声のする方向を見ると、背の小さい女がこちらを見て笑っていた。

 信号が赤に変わった。


 その女はまるで、こちらの考えなんて全て見通しているかのような顔つきで俺の顔をジッと見ている。口が開く。

「ねえ、君は今、後悔しているんだよね」

 明らかに年下に見える女に「君」なんて言われると腹が立つ。怒ってやろうかとも考えたが、図星すぎて何も言えなかった。

 そう、俺は今、後悔している。何もやってこなかった自分に腹が立つ。目の前に立っている女が言っている通りなのだ。

「ねえ、君だよ君!分かる?おーい」

 わかってる、別に無視をしているつもりはない。しかし、こんなうるさい奴がいるのに、それでも周りの人は一切表情を変えず信号待ちをしている。

 まあ確かに、変な奴には関わらないのが一番なのだが。

「ああ、俺は後悔している。自分の人生に」

 俺が反応を示すと、彼女は笑顔になる。

「だよね、そんな顔してた。私、わかるんだ、何となく」

 何がわかるんだと言ってやりたい気持ちでいっぱいだったが、それを遮るように続けて言葉を発する。

「今、何がわかるんだって思ったでしょ?私、本当にわかるんだよ。全部。君が思ってること」

 彼女はずっと俺の目を見て話している。「私を信じて」と真っ直ぐ。その強い眼差しに吸い込まれてしまい、自然とこう思った。

「こいつなら信じていいかもな、でしょ!」

 俺はそんなに心を読まれやすい男なのか…。それとも、彼女が本当に心を読めるのか。でも、今更そんなことはどうでもよかった。俺の心の中ではもう彼女を信じきっていて、彼女に全てを話しても良いと思っていた。


 この一日で俺の人生は変わった。



 真夏日に道路に立ち話をするというのも可笑しなことだったので、すぐ目の前にあるファストフード店に入り、席に座った。休日の昼にしては客が少なく、カップルや高校生の集団がチラホラと見えるぐらいだ。

 彼女の目も肌も透き通っていて、美しかった。口が開いた。

「心の中で思うだけでいい。言葉って辛いからね。いままで生きてきて、どんな後悔をしているのか考えてみて」

 自分は信じやすい性格だとわかってはいたが、こんなにインチキくさい奴に引っかかるとは…。そうわかっているものの、信じてしまう。彼女にはどうしても惹かれてしまう。あの眼差しは本当だと、心の中に住む俺の感情がそう言っている。

「無駄なことは考えなくていいからね。自分のことだけを考えて」

 …やはり本物なのか?


 今まで生きてきた二十三年間。ただ後悔している。小学校から大学まで夢なんて物は持ったことがなくて、できることを必死にやってきただけ。

 そんな自分だから勉強だけは人一倍できて、周りの人からは尊敬の目で見られてた。

 ただ、俺は周りの奴らが羨ましかった。自分の夢を叶えるため、趣味に全力になって取り組んでいる友達が羨ましかった。そんな友達をみて、俺は自分の夢を必死になって探した。勉強も捨てて探した。様々なジャンルに手をのばしてみた。

 だが、大学の四年間を使っても俺の心を捉えられる夢は現れなかった。

 夢とは何なのかを探す日々が続き、結局、大学を卒業する間際までやりたいことが見つからず、迷った挙句、待遇が良い企業に就職することに決めた。

 そこで俺は働き続けた。何をするわけでもなく上司に命令されたことをこなし、信頼度をあげる。簡単なゲームを攻略しているかのような日々だった。

 入社して半年ほど経ったある朝、いつも通り会社に出勤するための支度をしようと顔を洗い、鏡の通して自分のやつれた顔を見て不意に「俺は何をしているんだ」と今までの人生に対する後悔が襲ってきた。

 その日、俺は初めて『休憩』というものを経験した。携帯からは着信音が鳴り響いていたが気にならなかった。

 一日何もしないでボーッとしていると、いろいろな感情が浮かんでくる。その感情同士が心の中で交差する。混ざり合って、絡み合って、もう答えなんて出ないのに答えを探そうと必死に考えている。終着点を探している。

 出るはずのない答えが出ないまま外を見てみると、いつの間にか朝日が夕日に変わっていた。

 そして、俺は会社を辞めることを決意した。

 心の中で答えが出なかったからではない。終着点が無いことは当時でも何となくわかっていた。ただ、何の刺激もないまま萎れていくだけの人生を送るのだけは嫌だった。少しでも刺激を与えれば何かが変わるかと思った。

 その日のうちに会社に電話をして無理を言っているのを承知で退職した。

 当然のことながら、仕事を辞めたからと言って何か変わる訳ではなかった。唯一変わったことといえば、朝の起床が遅くなったことぐらいだ。

 俺は後悔している。会社を辞めてことではない。勉強しかしてこなかったことでもない。夢を見つけられなかったことでもない。

 人生そのものに。生まれてきた自分自身に後悔している。そんな所だろうか。本当に後悔しかしていないなと、自分でも笑えてくる。もういっそ自殺をした方が楽に、

「それ以上はもういいよ、辛いんだね。君はね自分を追い込みすぎてるの、自分を追い込めばいいと思っている、そんなんじゃ甘いよ」

 今までの生き方。自分の人生をすべて否定されると、さすがに頭にくる。

「お前に俺の何がわかる!」

 店内は沈黙に包まれる。

 周りの視線がこちらに集まる。でもそんなことは気にしてられない。

「いきなり話しかけてきやがって!少しは信じてやったのに、結局は俺をバカにして、そんなの楽しいか?人をバカにして楽しいか!」

 そして時が止まった。周りの人間は何も言えずに、何も行動できずに、目の前の少女が喋りだすのを待っている。彼女なら何とかしてくれるとでも思っているのだろうか。こんな体の小さい女に何ができるというのか。

「辛いんだよね、今はもう何も考えなくていい。辛いなら泣けばいい。泣いていいんだよ。一緒に泣いてあげるから」

 そう言って彼女は涙を流す。

 優しさで心が痛くなる。暴力なんかよりもっと痛い。心の痛みが俺を襲う。そして、静かに涙を流した。



 俺は彼女を連れて自分の住むアパートに来ていた。彼女は

 初対面の女性をいきなり家に呼ぶというのも抵抗があったが、彼女の家は遠いと言うし、他にいい場所が思いつかなかった。なにより、泣いている姿を彼女以外の人に見られたくなかった。

 もう彼女には、俺の人生のすべてを見られてしまったわけで、涙を見られるぐらいどうでもよかった。

「全く、いきなり大声なんて出して。泣いて少しはスッキリした?」

「ええ、ありがとうございます。急に怒鳴ったりしてすみません」

 自然と敬語になってしまう。

「いいんだよ、大丈夫。君って本当にわかりやすいね」

「そんなことないと思いますよ。これでも頑張って『大人』してきましたから」

 冗談を交えながら時間と言葉を紡いでいく。楽しい、人と話すことがこんなに楽しいなんて思ってもいなかった。話をしているだけでも心が落ち着く。

 彼女の言葉には一つ一つ重みがあり、かつ柔らかさがある。辛かった思い出を一瞬にして忘れることができる。全てがまるでのようだ。

「自分のことを『大人』って思ってる割には、考えてることは幼稚なのね」

「まあ、心の中ぐらいは幼稚じゃないとやっていけませんね。魔法があれば信じたいです」

「魔法はあるよ、絶対」

 彼女に言われるとそんな気がする。なぜかって、もう魔法みたいなことが目の前で起こっているから。

「そういえば君、名前はなんていうの?」

 ああ、そうえいば。ずっと君とか彼女とかで会話してたっけ。

「そうだね。もう知り合いなんだから『君』は卒業しないと」

 そうか、俺は話さなくてもいいんだ。彼女とはそれでも会話が出来てしまう。それはそれで楽。だけど怖い。

 声を聴いていたい。

「声を出さないで会話ができるって怖いですね。すみません」

「いや、大丈夫だよ。心配しないで。まあ、出してくれてる方が話してる感じがして嬉しいけどね」

「すみません、これからは気をつけます。で、俺の名前は一真です。友達からはそのままカズマって呼ばれてます」

「カズマかぁ…。じゃあ、カズくんって呼ぶことにするね。うん。決めた」

 昔から「カズマ」としか呼ばれてこなかったので、いきなり「カズくん」なんて呼ばれるとドキッとする。

 それと、同時に幸せという感情に心が包まれる。小さなことだけど、いままでになかった出来事であり、新鮮で自然と笑みが溢れてしまう。

「幸せそうでよかったよ。あのね、カズくん。私は榎那っていうの。だから、カナでもいいし、カナちゃんでもいいし適当に呼んでね」

「じゃ、じゃあ、カナちゃんって呼びます」

 いきなり呼び捨てにする勇気は俺にはなくて、でも、ちゃん付けにするもの恥ずかしくて。両方を天秤にかけた時には「カナちゃん」の方が呼びやすかった。

 子供みたいで背も低いし。

「背が低いからって子ども扱いするのはよくないぞ。でも、だんだんでいいからいつか『カナ』って呼んでほしいな」

 それはもちろん、そう言いたいところだったが、カナちゃんと呼ぶだけでも恥ずかしいのにこれから先、カナと呼べる確証がなかった。

 約束をして守れなかった時、相手が少しでも残念そうな顔をするのを見たくなかった。だから、言えない。

 言いたくない。

「できないならできないって言っていいんだよ。自分の中で溜め込まずに、しっかり相手に伝えないと。こういう小さなことを溜め込んで、いつの間にか大きなストレスになって、今日みたいにいつか爆発しちゃうんだから。大丈夫。私はカズくんのこと全部わかってるから。言っていいよ。そんなに簡単に人は傷つかないから」

 そうか、この人には言わなくても伝わるんだ。言わない方がカナちゃんを傷つけてしまう。初対面だからって遠慮する必要なんてないのに。

 言葉として全部伝えよう。そうじゃないと伝わらない。文字だけじゃあ伝わらない。

「カナちゃんって言うこと自体恥ずかしいんで、約束することはできないんですけど、頑張ります。努力して言えるようになるまで頑張ります。今はそれしか言えません。すみません」

「うん。よくできました。それともう一つ。カズくんのダメなところがあるんだけど、わかる?」

「ダメなところ…。すみません。わかりません」

「はい、また言った。すぐに謝らないこと。謝る必要なんてないんだよ。仕方ないんだから」

 カナちゃんの言う通りだった。ただ、癖というのは中々直るものでものでもないし、直し方もわからない。直す機会もない。

「カズくんはいろいろ悩み事があるんだね。うーん、どうしようかな。…そうだ!いいよ。私にはまったく気を使わなくて。何をしても謝らなくてもいいし、無視してくれたっていい。自分がダメだって思って不安になっていることを、私で直してこ」

 本当にこの女性は心を読んでいる。俺の悩みをすべてわかってくれている。

 謝ることもそうだが、何かの作業中に話しかけられると、集中しすぎて無視してしまったり、自分を取り巻くたくさんの欠点が怖くなって不安になってしまったり。

 彼女は優しい。優しすぎる。

 なぜ初対面の俺に、あって数時間の俺に、ここまでしてくれるのかがわからない。何をしたわけでもない。

 なぜ―――

「はい。カズくん。そんなに考えすぎない。私は困ってる人がいたから、助けなきゃって思ったから助けてるだけなの。さっきも言ったでしょ。私のことは気にしないでいいよ」

「はい。す――いや、なんでもないです。わかりました」

 また謝ろうとしている自分がいる。そしてそのことについて考えている自分がいる。このままじゃあ、無限ループだ。気にしないようにしよう。

 そうして段々と不安を消していこう。

「その調子だよ、カズくん。それでいいの。さあ、そろそろ本題に移ろうか」

「本題。ああ、自分の人生について」

 二人で過ごす時間が幸せすぎて忘れていた。なぜこの女性が俺の悩みを聞いてくれたのか。

 その要因となった言葉。

『あなたは今、何のために生きてるの?』

 そうだ。自分の人生に後悔してるからこそ、今、こんな状況になっているんだ。

「そうだよ。カズくんは自分が生まれてきたことに後悔してるって思ってたよね。何でそうなったかっていうと夢がないから。勉強しかしてこなかったから。でもね、カズくんがいなかったら生まれてこなかった人だっているんだよ」

 その言葉が理解できなかった。意味は理解できる。でも、この女性が何を言っているかわからない。頭を必死に働かせて考えてみるもわからない。

『生まれてこなかった人もいる』

 お前は誰なんだ。一体、誰の目線で俺に語りかけているんだ。

「それだけ言いにきたの。急だけど私はこれで帰るね。また明日」

 いやいや、ちょっと待て。自分だけ話すだけ話して帰るって。止めないと。まだ本題について全然話してないのに。

 そう考えているうちにカナちゃんは玄関まで歩いていってしまう。急なことで体が処理に追いつかない。

 ちょっと待てって。心が読めるんだろ?

 俺は今「待て、止まれ」って思ってる。心を読んでくれよ。

 だけどカナちゃんは止まってくれない。そこでようやく声になる。

「カナ、ちょっと待てって!止まってくれ!」

 ドアの開く音がする。そして、彼女は振り向いて笑う。

 小さくも一文字ずつしっかりと口を動かし、こちらには聞こえない声で何か言っている。

『大丈夫』

 俺にはそう聞こえた。

 会って数時間だけど何回も聞いた言葉。

 魔法の言葉『大丈夫』。

 全然大丈夫なんかじゃない。俺はまだカナちゃんがいないとダメなんだ。不安なんだ。

 もう一度、彼女の口が動く。

「絶対、大丈夫」

 今度は聞こえる声で、力強い声で俺に届くように言葉を発する。

 そしてすぐ、静かにドアが閉じる音がした。




 彼女がいなくなった部屋はとても広く、寂しく感じられた。体こそ小さいものの、心が、器が大きい。何もかも飲み込んでしまいそうなほど大きい。

 彼女が隣にいればなんだってできる。そんな気持ちになれる。

 ただ、彼女はいない。

 残っているのはさっきまで座っていた椅子に残る温もりと、香りだけだ。

「カナちゃん」

 そう呟く。

 名前を呟けばどこからかひょっこり顔を出すんじゃないかって思った。

 俺の家の中はそれっきり静寂に包まれる。まるで時間が止まってしまったかのように静かな時が流れていく。

 心が締め付けられるように痛い。

 また明日なんて嘘だ、そのぐらい俺でもわかる。

 明日会えるなら、魔法の言葉なんて言わない。

 たった一日だけの短い時間だからこそ、彼女の言葉を思い出す。

 一つずつ忘れないようにしっかり心の奥底に刻む。

 彼女の言葉は自然と俺の心に浸透して順応する。

 そして、初めてその言葉の重みを感じる。たった一言で俺の心を変化させた言葉の重み。

 彼女の優しい語り口だからこそ、何も怪しまずに信じられた。

 今日を振り返ってはっきりと思う。

 俺は変わった。

 上辺だけでなく、しっかりと心の底まで濃密に。

 彼女に会えてよかった。またいつか彼女に会うために人生を終わらせたくない。後悔なんてしてられない。

 一つだけ、夢ができた。




 静かな時間に邪魔な音が入り込んでくる。

『ピンポーン』

 インターホンの音だ。普段はインターホンなんて押す人はいない。もしかしたらと思い、体を信じられない速さで動かし玄関へと急ぐ。

 短い廊下がとても長く感じられた。

 彼女が戻ってきてくれた。そう考えると胸がドキドキする。

 玄関に到着するのには、三秒もかからなかったと思う。

 急いでドアを開ける。

 そこには、見たことのある女性が一人、苦笑いで立っていた。

 すぐにその女性を好きになった。

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