第19話 朝火先輩

 ――次の日、私は学校を休んだ。

 授業の内容は水谷さんがノートのコピーをくれるって言うから安心した。いっしょに勉強してわかったけど、彼女のノートはゲームの攻略サイトみたいに、よく出来ている。

 咳をしたら脇腹が痛くなって、辛かった。反省します。


 金曜日の朝にはもう、大丈夫だった。さすがにしっかり栄養もとって、丸一日寝込むとケロッと動けるようになる。……念のためちゃんとお薬は飲む。無事に学校に出てこられたし、熱が上がる様子もなかった。なんとか放課後である。


 明日からゴールデンウィークと言うこともあって教室は落ち着かない。すでに友達同士で出かける約束をしているグループもいるようだ。ちょっと羨ましい。

 とは言っても、土日を挟んで月曜日、火曜日は普通に学校だ。なので私的にはまだあんまり盛り上がってない。家族旅行とかの予定はないし、なにか天文部で集まれる日があればいいのだけど。


 水谷さんが帰る前にはもうコピーをくれたから、はやめに整理をして次の授業に備えたい。土日でやればいいかなとは思ったんだけど、この際、自習室として部室を使わせてもらうことにした。図書室よりも静かだし、お茶も飲める。

 自分の席と決めているテーブルで、一時間ばかり集中してやっつけたところで、がらりと音を立てて朝火先輩が入ってきた。そうか、これからは彼女が来ることもあるのだった。


「あれー? 今日は小日向ちゃん一人なんだ? 風邪はもう大丈夫?」

「おかげさまですっかり。

 今日は月宮先輩も水谷さんも用事があるらしくて、私一人なんですよ。

 休憩がてらお茶を淹れようと思うんですけど、もしかして朝火先輩のマイカップもここにあります?」

「あるよ。ちょっと待って、あたしが自分で出すから」


 そう言って朝火先輩は、私がお客さん用だと思っていたマグカップの中から、自分のものらしいカップを取ってくる。白くて大きく頑丈そうな、実用性重視のものだ。私のよりも一回り大きい。

 ……もしかして歴代の先輩のカップが全部あるとかではないだろうか。


「コーヒーでいいですよね? 砂糖とミルクはどうします?」

「ありで。砂糖は二個ほしい」

 意外と甘党だった。私もマイカップにスティックのカフェオレを用意する。

 隣に座るのかなと思っていたけど、朝火先輩にも自分の席があるみたい。少し離れて座る。

 いっそ今度、クッション買って持ちこもうと決めた。


 五月の半ばにはもう中間テストだから、もう気が抜けないですねなんて話して、二人だけでお茶を始めた。

「そういえば朝火先輩はなんで天文部入ったんですか? やっぱり星に興味があってですか?」

 このくらいは聞いていいだろうと尋ねたその質問に、しかし朝火先輩はたっぷり五秒は考えてから、口を開いた。


「一言でいうと、退屈だったからだなぁ」


「退屈、ですか?」

 私の感覚からすると、それは意外な理由に思えた。陸上部、体を鍛える趣味もある、そんな健康的な人が退屈で?

 綺麗に足を組んだ朝火先輩が、思案しながら爪先で床を三回だけ叩いた。


「去年の年末、一ヶ月くらいだけ、あたしは怪我をして、陸上部でなにも出来なかったんだよね。

 それで何をしていいのかわからなくて、毎日毎日ぼうっと教室に残ってた。

 そしたら月宮がだ。お茶でも飲もうって、あたしを地学準備室に連れこんだんだ。マクドナルドとかじゃなくて、この部屋にだよ? それで毎日走れなくて、退屈で仕方ないって、月宮にもらした」


 その光景が、見てきたように、思い浮かぶ。

 十六時頃にはもう外は暗く、油断をすれば一人きりの教室はすぐに真っ暗になってしまう。乾燥した空気からは匂いもしない。冷気が肌を刺し、乾燥で切れた唇から鉄の味がする。それがずっと続く、退屈な冬の日だ。

 なにをやっていいのかわからずに、ただ過ぎていく時間が繰り返される。

 そこに訪れる、紺色のセーラー服を着た小さな魔女――月宮先輩。


「それであいつはあたしに向かって、こう言ったんだ」


 ――どうせこの部室、私しかいないから、いつでも好きに使えばいいよ。


「ついでに、気が向いたら、天体観測もしてって笑ってたな」

 いかにも月宮先輩が言いそうな言葉だと思った。


「それで入部届を金城先生に渡して、ここですごせるようにした。

 天文のことは全然わからなかったし、月宮もとくにあたしには教えようとしなかったよ。少しは雑誌読んで勉強したりもしたけど」

 この部屋にいるときは、不思議と寂しくなかったなと、だからここは好きなんだと、先輩は言う。


「月宮とはすこし星を見たりはしたけど、天体望遠鏡を使うような本格的なのは、一回もやったことがないんだ」

 年が明けて、怪我が治ってからはすぐに陸上に戻ったんだけど、その頃からちょっと体調が悪い時が増えて、調べたら喘息が悪化していたそうだ。

 念入りに薬を使ってから陸上の練習を開始するというのが、だんだんと朝火先輩にはストレスとなって来たという。


 話を聞いているうち、私の胸には、なにか冷たいものが宿っていた。チクチクする。


「そもそもスポーツのやりすぎは体に悪いんだ。だからどっちもよくある話なんだ。怪我も病気もね」

「私、スポーツのやりすぎが体に悪いって言っちゃう人、始めてみましたよ」

「トップアスリートの四人に一人は喘息持ちだっていうんだよね。多いよなー」

 朝火先輩は私の目を見て話を続ける。


「野球とかのニュース見てると、外科的な故障する人も多いでしょ」

 誰かしらの調子が悪いみたいなニュースは、ほとんど毎日報道されている。気になるかっこいいスポーツ選手が怪我をしたみたいな経験、誰だってある気がする。


「念のため、誤解がないように言っておくと、普通の運動、ウォーキングとかは健康にいい。だからしたほうがいいよ。あたしもランニングは続けるし」

「……なんかすみません。私、下手すると一日千歩くらいしか歩きませんね……」

 歩数はスマートフォンアプリ調べである。

「え、どうやったらそんなに少なくなるの? 家が近所? でもそれはもう少し努力したほうがよくない、小日向ちゃん? 運動不足でも三千歩くらいは欲しいぞ」

 ……はい。検討します。


「しかし、こうして話すと、うーん。あたしは月宮と違ってバカだからうまく整理できてないな。なんか関係ないこと、たくさん話したよな。月宮ならスラスラ説明するんだろうけど」

「いえ。言いたいことは大体わかりますよ」

 なにせ聞きたいことの返事はまっさきに返ってきたしね。

 でも、なにかに夢中になったことなんて、私にはないから、朝火先輩がどういう気持で話してるのか、よくわからない。


 星の見すぎで風邪を引いた。油断してさらに熱が出た。そんな笑い話とは、違う世界だ。


 冷たいものの正体がわかった気がする。

 私が抱いたことのない、その熱意への、嫉妬。


「危なくてもスポーツしたいから、スポーツをするんだって思ってたよ。好きってつまり、そういうことだろ?」

 その笑顔は、星に恋をした乙女の表情と同じだった。

 ――朝火先輩、月宮先輩に似てるな。

 そんなことを思った。

 でもその顔は長く続かない。次の言葉を話すときには、恋を諦めた表情になっていた。


「ランニングとかはこれからも続ける予定だけど、選手ではもういられない。そういう気持ちの変化があたしに起きちゃったんだよ。まるで失恋だな」

 そして私はその時どういうわけか、もやもやしてしまっていた。それはどうしても拭い去れなくて。

「この話をしたら、月宮が言うんだよ。じゃあこのまま天文部にだけいればって。なんなら幽霊部員のままでもいいって」


「じゃあ、いっしょに星を見ませんか」


 気がつくと、ちゃんと天体観測をしたことはないという、幽霊部員の先輩に、私はそう訴えていた。


「私は朝火先輩とも、いっしょに星を見てみたいですよ」

「ありがと。社交辞令でもうれしいよ」

 それでこの話題は、この日おしまいで。


 その後、朝火先輩とは、ふだんはしないようなおしゃべりをけっこうした。テレビの話題とかを部室でするの、はじめてだった気がする。

 最後には朝火先輩、部室にあったけん玉で遊び始めちゃったけど、ものすごく上手で、私は惜しみない拍手を送った……真似しようと思ったら一度も成功しなかったので、あとでけん玉の練習もしたい。

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