第10話 雪どけの日
――そして翌、水曜日にはもう課題テストの結果は集計された。
放課後の部活前に私と水谷さんは「せーの」で見せ合う約束をした。
私の結果はかなりいい。予定では平均点で終わるくらいだったのだが、クラス上位に食いこんでしまった。お母さんには自慢できる。しかし水谷さんもクラス上位のはずだ。
私の机をはさみ二人で向き合う。伏せたまま順位表を交換する。緊張で手に汗がにじむ。
「せーの」
声を上げてお互いにオープン。結果はと言うと……なんと驚き、私の勝ちだった。
「うそ」
唖然とする水谷さん。冷静に考えると、私に対して失礼なことに、私よりも驚いている。……が、まあそうだよね。なにせ、総合点、わずかに二点差。当然順位も私の次が水谷さんである。辛勝だ。
先輩のスパルタコーチがなかったら確実に負けていた。
水谷さんはしばらく悔しそうに机に顔を埋める。なにもそこまで落ち込まなくても。傷つくぞと思ったときだった。
「ねぇ、小日向さん」
顔を上げた水谷さんは私の目をのぞきこむ。
「私、あなたが苦手だったの」
……あちゃあ。はっきりと言われた。
「中学の時からね。あなた、いつもぼうっとしてなにを考えてるのかわからなかったし。なにをするにも退屈そうだったよね」
それは……たぶんそうだろう。自覚はある。
あんなにも退屈していた人間が、話して面白い相手だったわけはない。先輩が「クラスの友達」と言う話にあんな反応した理由、私はわかっている。私も先輩もお互いに「同世代の他の誰かの話」をほとんどしたことがないのだから。これは「普通」ではないのだ。
去年までの私は誤魔化していた。適当に話を合わせて、空気を読んで親しくもない人と笑っていたけれども、月宮先輩の前でそんな事をするつもりはなかった――神聖な秘密をわかちあった月宮先輩には。
「でも、小日向さんは天文部に入って、突然変わったわ」
そう。変わったのだ。今だって胸は熱い。
「正直に言うね。今の私は、退屈してないの。なんにも興味ないままっていうのもう終わった。
今は天体観測がしたいの。すごく……楽しかったから」
彼女のことを先輩に友達って紹介したのだから。
彼女にも教えてあげたい。わかちあいたい。
「自分の好きな星空に出会えば、水谷さんもわかるよ」
「そっか」
その「そっか」は、今まで私の聞いたことのあるどの「そっか」とも違う不思議な「そっか」だった。深く響く澄んだ声で、私は不思議と木琴の音色を連想した。
「ほんとに天文部にはいるの?」
「入る」今度は異様に意地のこもった声だ。「ダサいよね、ここで引き下がるの」
「そんなことないと思うけど」
正直、あんなノリでした約束をいちいち守っていられないと思う。水谷さん、負けず嫌いだったんだなと思う。
「入るからにはちゃんとやるわよ。だから――私を宇宙に連れて行って、小日向さん」
「その前にまずは部室に連れて行くね? 今日は顧問の先生も来るから、入部届持っていこう」
*****
私は小日向さんが苦手である。
星占いによると、彼女と私の相性はそんなには悪くないが、とてもそうとは思えない。
――私の呼びかけが全然聞こえていないとは思えないのだが、真っ赤な顔をした小日向さんは走り去った。
まるで振り向いたら、魂を奪われるとでも言うかのようだ。ホラーならここで「もう大丈夫」と呼びかけられ振り向くと……と言うのが定番だろうか。
彼女が耳まで真っ赤になっているのははじめて見た。なぜ天文部の話がそんなに恥ずかしいのか、気になってきてしまった。ちょっと意地悪だろうか?
しかも彼女、ちょうどいいことに忘れ物をしていった。テプラで「天文部」と書いてある。これは、届ければ様子を見に行けるのではないか。場所は聞いている。図書室のある文化棟の二階のはずだ。
実を言えば私は天文に少しだが興味がある。私は星占いだとか神話だとか、そう言うものが好きな方なのだ。星座はかなり覚えている自信がある。
――それでどうしてこうなるのか。
「天文部にはいらない?」
全然わからない。
いただいたチョコレートクランチは美味しかったし、けっこう会話を楽しんでしまった。
実は私は、占いにかかわらない星座はろくに知らない。
だから今日聞かせてもらった「おおぐま座こぐま座」のような話題は新鮮に感じる。
それで興味を持ったので、自分の本で調べてみると、これだけよく知られた星座だというのに、この二つの星座、正体がはっきりしない。諸説ある。
紀元前一世紀、オウィディウスの『変身物語』では、おおぐま座の正体はアルカディア王の娘カリストーである。ゼウスによって見初められた彼女は子どもを身ごもってしまう。その事がゼウスの妻ヘラの怒りを買う。呪いは彼女を獰猛な獣へと変えてしまった。死後、彼女がゼウスによって天にあげられたのが、おおぐま座であるとされる。
しかしここにまるで対比のようなこぐま座の物語は、ないのだ。カリストーの息子アルカスがこぐま座になったと言う本もあるが、彼はうしかい座になったという本のほうが多い。
ところが紀元前三世紀頃のギリシャの詩人アラトスによれば、おおぐまとこぐまはゼウスを育てた妖精のヘリケー、そしてキュノスラである。ここでは『変身物語』のような凄惨な出来事は起きていない。
……こんな具合だ。
紀元前の人物の著者を参考にしているとあるので、はっきりしないのも無理はないかもしれない。
これはそれだけ長く、私たちが空を見て、その中に物語を見出してきた証でもあるだろう。
星座は地図だと教わったが、ただの地図に、これだけの物語を人は求めるものだろうか?
人は星空に、物語を求めずには、いられなかったのではないか?
そのあまりの神秘に。
話を戻そう。
先輩と一緒にいるときの小日向さんは、中学の時とはまるで別人で驚いた。
この二人の正体もはっきりしない。でも、もし、中学の頃からこんな風だったら、同じ学校に入ろうねと励ましあう間柄になれていたかもしれない。
あまつさえ、懸命な様子でこう言った。
「……いっしょに部活できたら楽しいかもって思って」
終いには勢いでこちらも変なことを口走ってしまった。
でも、いいだろう。約束をしてあげよう。なんだったら彼女につきあって宇宙まで行っても構わない。
小日向さんに負ける気はなかった。
ところが。
負けた。負けてしまった。
自分の好きな星空ってなんだろう。
私にもそんなものが見つかるのだろうか。わからない。
なにもわからない。
小日向さんのことが全然わからない。
でも。
知りたくなってきてしまった。
彼女のことも、星のことも。
うん。まいった。
これは私の負けだ。
あの日の凍った時を思い出す。
書架の隙間には人はおらず、席についた人々はペンを走らせ乾いた音を立て続ける。その中、窓辺で微笑む少女だけが、白銀に輝く世界を見下ろして――気だるい表情をしていた。決して幸せな人間の表情ではなかった。美しいものを前に、なおも退屈な目をしていた。
今、こみ上げてくるものはない。
少女は星の物語を知り、彼女には、今、春にいるのだから。
*****
その日の放課後。
予定通りに、金城先生も部室に来た。水谷さんの入部届も受理され、これで天文部は部員三人体制となる。四人でいると案外部室は狭く感じる。
準備室の黒板の前に先輩が立ち。「注目ー」と声を上げる。黒板の前に立つといよいよ小さく見える。
「さて一年生二人とも、二十二日って空いてる? もちろん昼じゃなくて夜の話なんだけど」
「あいてます! また先輩のマンションで観測ですか?」
逸る私。「私も大丈夫です」と水谷さんが小さく手を上げた。
「――学校と金城先生から許可は取れた。早速だけど学校観測をやるよ」
学校観測!
――学校に天文部員で集まり、夜に天体観測をするというイベントだ。校則が厳しい学校だとなかなか難しいって聞いている。うちの学校OKだったんだ。月宮先輩、そんなことを企んでいたのか。
そこで先生が言った。
「みなさん成績がよいようで安心しました。これなら許可が出せます」
え。
「はい、ありがとうございます」と先輩が一礼する。
じゃあ勉強するように私をしたの、このため?
最初からこのつもりだった?
勉強教えてくれたのも?
金城先生が厳しいことをわざわざ教えたのも?
水谷さんと勝負させたのも?
いや、まさかなあ。そんなことはないと思うんだけど……だって金城先生がどこまで本気かも怪しいし。目は全然笑ってないんだけど……いや、まさか。
「親御さんからはきちんと許可をとってきてください。ただし時間は二十二時半までになります。それ以上は警備上の理由で禁止で許可は出来ないそうです」
「はい!」三人揃って威勢の良い返事をする。
「さて。一年生達。格別に綺麗な星空ってわけじゃないけどさ」
ふわりとスカートを翻し一回転。まるでアニメの一コマのような動き。舞い上がる高揚感のなか、先輩は高らかに宣言した。
「――学校の屋上で、制服で……こと座流星群の降る宇宙を見上げよう!」
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