第4話 ランデブー

 夕食を食べ終わって歯を磨く。夕食はお母さんと学校の話にならないようにして食べたからか、緊張してあんまり味がわからなかった。


 出発には一時間程度時間があいていた。準備のチャンスは今しかない。


 部屋でファッションショーだ。夜はまだ寒いからタイツはちゃんとはいていかないと。スカートは動きやすいほうがいいだろうか。コートも少し前の時期のを用意したほうがいいだろう。先輩はなにも道具はいらないと言っていたがなんとなく手ぶらなのも落ち着かない。


 悩んだ末、財布だけベージュのピーコートのポケットにいれた。四月にはやや厚めのコートだが、大げさすぎて目立つと言うほどでもない。着替えが終わると少し手持ち無沙汰になる。


 ヒマつぶしにと試しにSNSで「木星」と検索してみたが、これはダメだった。変な名前のアカウントやロボット(たぶんガンダム)の話ばっかりで、今日の星空のことなんて出てこない。少しくらいは有益な情報があっていい気もするけど、出てこない。検索って本当に知りたいことを調べるときほど、あんまり使えないと思う。


 スマートフォンもコートのポケットにしまって、いよいよあとは出発するだけとなる。

 まだ私には迷いがある。……たぶん中学生の私ならばお母さんに話してしまうのを選んでいたと思う。「やめておきなさい」と言って欲しい。そう言う気持ちが、高校生の私の中にもある。


 冒険には勇気がいる。なにより、変わらないことを選ぶのはいつだって楽だった。

「――よし!」

 だからわざと声に出して、自分を動かす。戦う勇気を出そう。この時間ならお母さんはまだリビングに居るはずだ。私の部屋からなら見つからないで外に出ていける。

 スニーキングミッションの開始である。


「えっ。お母さん?」


 はりきって階段を降りるとお母さんがいた。明らかに待ち構えている様子だった。もうミッション失敗だ。SNSで流れてくる即落ちニコマ漫画のような伏線回収の速度である。

「こんな時間にどこに行くつもり?」

「高校でできた友達と待ち合わせ。時間がないので、通してくれると嬉しいかな……」

 ウソをついても仕方ないけど、しっかり話すには時間が惜しかった。迷いながら説明したらこの、ウソではないけど正確でもない。と、言う始末である。


「夕食からなんだか上の空だし。怪しいと思ったわよ。どうしてこそこそするの? 相手、男の子だったりする?」

「ううん。それはないよ。女の子。一個上の先輩。危ないことはないと思う」

「そう。そこは信じるね。悪いことするんじゃないのよね」

 親としてそれを心配するのは理解できる。今まであまり心配はかけたつもりはないが、だからこそよけいに心配されるだろうし。

 うなずく私を見ながらお母さんは言った。

「それなら今日は見逃してあげるけど、あとでちゃんとなにをしてきた説明してくれる?」

「それで、いいの?」

 わりとあっさり許可してくれるものだから、思わず聞いてしまった。

「門限破りも高校になったらあるだろうとは思ってたから、予定の範囲内。とはいえ、一週間経たずにとは予想してなかったけどね」

「……はい。それは自分でもそう思った」

 自分が親だったら、平手打ちの一発でもすると思う。お母さんの表情を盗み見ると、眉間に皺が残っている。


「先輩の趣味につきあうの。私もやってみたいの、天体観測。詳しくは後で話すね」

 もう少しだけ勇気を出して、それだけは告げた。

「そう。いってらっしゃい」

 そう返すお母さんの声は、少し安心したものに聞こえた。


 息が白いほどではないが、手袋はしてくるべきだった。夜の街は寒い。この時間に遊びに出かけているということが現実感を乏しくさせる。自転車もなんだかまっすぐ走っていないような、そんな錯覚が少しだけする。もちろんライトはつけているけど、街灯が少ないから気をつけないといけない。


 この時間だと、どこを走っていても灰色の変わらない景色に見えてくる。

 ちょっと息切れする頃にマンションの前に到着した。すっかり手が冷えてしまって指先が痛い。聞いていた駐輪場に自転車を停めて、待ち合わせ場所のエレベータ前まで急いだ。時間も手順も予定通り。


 そこには私服姿の先輩が立っていた。すらっとしたデニムパンツは格好いいけど、なんだかずいぶんかわいいアップリケがついた冬用のコートを着ている。もしかして子供服では?


「やあ、こんばんは」

 そんなかわいい格好で少しハスキーな声で話されると、ギャップ萌えを感じてしまう。

「こんばんは。本当にほとんど手ぶらで来ちゃいましたけど、大丈夫ですか?」

「うん。構わない。道具は全部用意してあるよ。

 事前の説明だけど、スマートフォンはなるべくしまっておいて。できれば光源は少ない方がいい。意外と近くに光があると、気になるものなんだ」

「なにか天体望遠鏡の他に、特別な道具とかは必要なんですか?」

「そうだね例えば……こう言うのがある」

「コンパス?」


 NとかSとか書いてあって、赤い針があるからコンパスだろう。でも普通ののコンパスではないようで、大きいし、なにかのボタンもついている。ポップでかわいいデザインなのは先輩の趣味だろうか。ピンクのボディに玩具っぽさがある。


「LEDで針だけが光る。真っ暗闇でも方向を確認できるし、あまり光が気にならないんだよ。天体観測では方向が大切だから重宝する。ただ今日は使わないかも」

「どうしてですか?」

「詳しいことは後でわかるよ」

 先輩がちょっともったいぶる。

「それとこれ。寒そうだから。使って」

 ポケットから使い捨てカイロを取り出して、私に渡す。自分はちゃんと手袋をしている。これは……私の不手際を予想して用意してくれていたのだろうか。

「ありがとうございます」

 受け取ったカイロを両手で包む。うん、温かい。


 私と先輩はそれきりでなんだか黙って、そのまま屋上へ向かった。エレベータで直通ではなく、少しだけ階段を登る。急いできたから少し足がしんどい。

「ここだよ」

 そう言って先輩が扉を引く、その先にあったのは星の海――と言うほどではない、ありふれた夜空だった。それでも街灯が少ないから、私の家の周りよりはよく見えるし、今日は雲がある様子もない。


 なにより周囲の建物より高いから、つま先からもう夜空が広がっているように思えた。なるほど、満天と言うのはこういう景色なのだなと思う。


「さあ、宇宙旅行へようこそ」

 芝居がかった台詞を言いながら、先輩が私に双眼鏡を渡す。

「まずは月をみて」

 ほぼ満月、綺麗だとは思うが特別なものという感じはしない。いつものお月さまである。

「ほら。月のすぐそばに少し大きな星があるの、わかるでしょう」

「ああ。言われてみれば」

 確かに月の周囲に目立った星がある。ものすごく明るいという感じではないが、それは月明かりのせいだろう。わりと大きな星で見失いそうにはない。なるべくその星に向かって手を伸ばすように真っ直ぐ、夜空を指差す。

「わかります。あれですよね?」

「それが木星だよ」

「えっ」


 ……夜空に見える星はだいたいが恒星のはずだ。学校でそう習ったし、テストでもそう答えて点数をもらった記憶がある。金星と火星は見えると習った記憶はあるけども、木星がこんなにはっきり見えるとは全然書いてなかったと思う。


 考えてみれば肉眼でも見られるって先輩はいっていたわけで、見えなくてはおかしいわけなんだけど。先入観、思いこみ。こんなにくっきり見えると言うイメージはなかった。


「太陽系の中では、木星は金星の次に大きく見える惑星なんだ。ましてや今日は月と接近しているから見つけやすい。ね、だから今日は初心者を誘うには最適だなって思ったんだ」

「なるほど……」

 地学準備室で言われたときにはピンとこなかった「初心者向け」だが、あっさり納得してしまった。これなら確かにコンパスも使わない。見たいものを見失うという事は、まずないだろう。

「こんなに月が丸いときに木星と月が接近するのは珍しいよ。さ、あれに向かって双眼鏡を向けて。それからここを操作して。そう。倍率は大丈夫だね?」


 先輩に言われた通りに双眼鏡を操作していく。すぐに視界にあるのは月ともう一つの天体、つまり木星だけとなった。木星と言えば環に囲まれたイメージだが、それは見えない。写真でおなじみの木星のその縞模様すら、はっきりとはしていない。それでも大きな褐色の姿は、他とちょっと違った存在感を持っている。


 実物だから迫力がある――というわけではなかった。


 しかしそれが確かにそこに存在し、それを自分の目でみているのだという強い感触があった。手の中に世界の秘密がある。子供の頃に捨てたはずの宝箱に、押し入れの奥で出会ったような興奮と、その鍵を外す高揚感。


 ああ。その中に私の胸の熱が眠っていたのだと、自覚する。


「気に入ったみたいだね。慣れてきたら周囲もよくみて。今日なら衛星も見えると思う」

「昼間に言っていた、ガリレオ衛星ですか?」

「そうだよ。ガリレオ・ガリレイが見つけたからガリレオ衛星。人類で始めて望遠鏡で木星をみたのも、ガリレオだと言うね」


 思い浮かぶこと、不思議なことがいくらでもあった。


「どうして、今日、木星と月がこんなに近いって知ってたんですか」

 私の質問に、先輩はまずこう言った。

「いい質問だね」

 神聖な秘密を分かち合うかの様な表情。微かに声は震えていた。


 ――まだ桜も咲かない四月、七階建てマンションの屋上、満天の二十一時。冬用のコートを着こんだまるで小学生のような月宮先輩が、一式十キログラム近い大きな望遠鏡の横に立つその姿を、私はきっと、生涯忘れない。


「すべての星はきちんと物理法則に従って動いている。だから長い年月の天体観測と緻密な計算で、私たちは未来の星空を知る事ができる。もちろんわかっている範囲の話ではあるんだけどね」

「過去はどうなんですか? 記録とかあるんですか?」

「人間はピラミッドを作る前から星空を観測しその結果を記してきたんだ。そこから得られた結果を生活に利用し続けて来た。地図を作ったり建築に役立てたりね。だから過去の記録は大量に残っている。調べると過去の星空もわかったりするよ」

「自分の誕生日とかも?」 

「ああ。そうだね。私たちの年齢なら、誕生日の星空はネットに載ってたりもするかもね」

 そうか。そんなこと、できるんだ。


「ガリレオ・ガリレイが木星をみて記録を残したのは、四百年と少し昔の空のことになる。これは日本で言ったら戦国時代になる」

 その夜も星は規則正しく動いていたのだろう。そしていま私たちがしているように、ガリレオ以外にも星空を観測していた人たちもいたはずだ。

「星空を書きとめてきた先輩達に、感謝しないといけないよね」

 静寂の中、自分の心臓の音がうるさく聞こえた。しばらくその鼓動をBGMに、私は双眼鏡で木星を見つめていた。


 何分そうしていただろうか。先輩が天体望遠鏡を使おうと私に声をかけた。


「そろそろ本番だよ。だいたい位置は合わせてあるけど微調整するから少し待って」

 慣れた手つきで確認するようにしてから、満足そうに頷いて私を促した。

「よし。じゃあ、どうぞ」

 星明かりの中で先輩が微笑えむ。

 私はレンズをそっとのぞきこんだ。

「わあ……」

 感嘆の息が漏れた。

 白い屈折式望遠鏡。そのレンズの向こうには、木星の縞模様がはっきりと見えていた。双眼鏡でみたのと、まるで別の顔のように思える。


 いつもの町、いつもの星空。その中にいつもは気にもしない景色が広がっている。

 今私はそれをこの目で見ているのだ。

「地球に比べて木星の自転は早い。一日が十時間以下なんだって。だから木星の模様は雲のようにゆっくりと動いて見える。これは木星ならではだね」

 先輩の言葉に耳を傾けて。

 私は望遠鏡を覗き続けた。

 先輩はずっと黙ってそばにいて、星空を眺めていた。


 また、やりたい。

 素直な気持がこみ上げる。

 また、私は天体観測をしたい。先輩といっしょに、いろんな空を、星を、みてみたい。

 この気持を、この高鳴りを、こみ上げた好奇心を、私はきっと生涯忘れない。

 宝箱の中にあった熱に従って、よかった。


「月宮先輩。私、天文部に入ります。募集していなくたって、押しかけます」

「いいよ。こうなったら、いっしょにやろうよ」

 先輩のくれたカイロで、悴んだ手を温め、私たちは笑いあった。

 月と木星だけが、その様子を見つめていた。

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