第3話 クッキーアソート

 天文部の部室だという地学準備室のテーブルに広げられたお茶菓子は、ブルボンのクッキーアソートだった。ちょっとお高い。それにインスタントだけどコーヒーまで出てきた。先輩はブラック。私にはありがたいことにミルクと砂糖を出してくれた。さすが高校生、大人である。


 ……飲食物の持ちこみは大丈夫なのか気にはなるけど、気にしないことにしよう。


 授業はどうとか、なにげない話をするうちに、気がつけば私は先輩に朝からの悩みを相談をしていた。なにをしているんだろうと、私の中の冷静な部分が指摘してくるが、美味しいお茶菓子に気を許してしまったのだ。


「じゃあ家は学校の近所なんだ? 私もだよ。自転車で十五分くらい」

「はい。なのでまあ、部活しないとあんまりにもヒマでもったいないかなと」

「勉強に専念するのも、遊びに専念するのも、それはそれで貴重な時間の使いみちだと思うけどね」

「それは、確かに正論ですね」

 そうなのだ。別に勉強や遊びも悪いことじゃない。学校の外でやることだって見つかるかもしれない。

「たぶんちょっとしたコンプレックス? なんですよね。中学でなにもしなかったから、なんとなく高校では部活をすれば解決するような気がしちゃって」

「それは人間心理だよね。わかる気はする。しかしやりたいことがない、か」


 先輩はホワイトロリータをポリポリと食べ、それをコーヒーで流しこみ思案する。それから不意に、私にこう尋ねてきた。


「ねえ、天体観測、したことはある?」


「え? いいえ。ないです」

「双眼鏡とかも使ったことがない?」

「はい。そういうの、なにもしたことがないです」

「そうか――ねえ、君。今晩いっしょに天体観測しない? 趣味にしろって話じゃないけど、ヒマつぶしに体験してみない」

「えっ? 今晩? えっ、今晩はいくらなんでも」


 興味が全然ないと言えばウソになる。ちょっと……いや、かなりやってみたい。少なくても野球の応援とかよりはやりたい。

 しかし初対面の人と夜にでかけると考えると、さすがに抵抗がある。この先輩が突然豹変して私の財布の中身を要求するとか、そういう心配はまったくいらないとは思うが、新学年早々に門限を破る覚悟が必要になる気がする。


「天体観測って帰りは何時くらいになるんでしょうか」

「君の都合も考慮して。開始二十時から一時間ちょっと。終了二十一時半予定。どうだろう」

「遅いですよ。高校生になったばっかりでそれは、ちょっと難しいです」

 やっぱり門限に引っかかる。

「そう? 中学の頃だって塾とかそんな時間になってなかった? うちの生徒、そういう子多いんだよね――ああ、やっぱり?」

「でも、塾以外の理由ではうちは十九時半以降、外出禁止なんです」


「今日は月と木星が接近するんだ。こういうコンディションはとても初心者向け。ちょっと運命的なくらいだよ。今日天体観測に興味を持ってなんにもしないのは、正直もったいないと思うんだよね。このまま天気が悪くならなければ、双眼鏡でもガリレオ衛星が観測できると思うよ」


 なんだか早口で、熱のこもった喋り方になった。

 もし今日が初心者向けコンディションだとしたら、都合がよすぎる気がする。しかし先輩はウソは言ってないと思う。ずいぶん真摯に説明している印象はある。だいたい、なにか猛烈に好きなものがあって、そのことについて話しているときの人間は、こういう様子になる。アニメファンの子に多い。


「双眼鏡……天体望遠鏡じゃなくてもいいんですか? そもそも木星って簡単に観測できるものなんですか」

 思わず質問を返してしまった。子供に戻ったみたいだ。なにかしらの熱が私を動かし始めている。


 この熱に従っていいのかは、わからない。

 たぶん、私が生まれてはじめて感じる衝動なのだ。

 それだからか、その熱の意味をうまく言葉にはできない。

 いつの間にかうつむいてしまっていた顔を上げた。


「木星は初心者向け天体で肉眼でもわりとみえる。でも双眼鏡と天体望遠鏡だと違う顔になるのが面白くて、私は好きだな」

「どこで、やるんですか? 学校じゃないですよね。その時間ってことは。許可が取れるとは思いませんし」

「うん。私のマンション。教えるけど、場所わかる?」

 月宮先輩の家は家からなら自転車で十分程度だった。中学の友達が近くに住んでいたはずだ――七階建てと、このあたりにしては大きな建物だし、迷わずたどり着けるだろう。


「十九時五十分集合で大丈夫?」

「必ず行くとは言えませんよ。時間すぎたらもう来ないと思ってください。その場合、連絡できるかも怪しいですし」

「それでいいよ。無理を言っているのはこっちだからね」


 秘密めいた空気。二人きり、静まりかえったの地学準備室。窓から差す陽光が私たちの影を床に描く中、私と月宮先輩は、魔法の呪文みたいなメッセージアプリのIDを交換して、約束を交わした。


 ――画面を見るため寄ってきた先輩の顔が近い。背丈の差があるからまつげが長いのがよく見える。


 なんで魔女と契約でも結んだみたいな空気になっているんだろうと、冷静になりはじめた頭で考える。実際これから、少し悪いことはする。お母さんには黙って家を出ないといけないだろうから。

 暗くなってから出かけるの、見つかったら止められる。

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