最終章 “色”持ち生まれる、朝焼けに
決着をつけ、立ち尽くすハル。
決着を目の当たりにし、言葉を失うリノア。
そんな二人の意識を、巨大な地響きの音が現実に引き戻す。
こけそうになりつつ、リノアは思わず声を上げてしまった。
「な、なに!? どうしたの?」
いち早く事態に気付いたのは、ハルだった。
すぐさま力を振り絞り、リノアのすぐ横に転移する。
両腕を失ったハルの姿に、リノアは驚き悲鳴を上げてしまった。
「ハル!」
「俺のことは大丈夫……ただ、ここはもうやばいぜ。“あいつ”がいなくなったことで、崩壊が始まった。早く出ないと、手遅れになる!」
「崩壊……そんな、街が消えてしまうというの!?」
「ああ。“高次元存在”の片割れが消えちまったんだ。今まで保ってきた街のバランスが壊れちまう!」
ハルは肩で息をしつつ、リノアに「俺の近くに」と
混乱しながらも、リノアは目の前の光景に絶句してしまう。
彼方にそびえ立っていた摩天楼が、次々と地面に飲み込まれ始めていた。
とにもかくにも、言われるがままにハルに近寄る。
ハルもすぐさま力を振り絞り、強く念じた。
銀色の光が二人を包み込み、その場から一気に移動させる。
一歩遅れて、二人が立っていたビルもまた、消えゆく地面の奥底へと飲み込まれ、落ちていった。
ハルに宿った力を使い、何度も転移を繰り返し、街の外を目指す。
だが予想以上の速度で、モノクロームは瓦解しようとしているらしい。
どれだけ座標を移動しても、空間が即座に組み替えられ、でたらめに移動することで外への道が見えてこない。
最後に二人がたどり着いたのは、丸い石柱が並ぶ古代遺跡のようなエリアであった。
だが、ここもすでに崩壊が始まっている。
建物は次々に崩れ、地面がそれらを根こそぎ飲み込んでいく。
再び力を使おうにも、ハルの肉体は消耗が激しい。
両腕から溢れ出る血と共に、その場にがくりと倒れ込んでしまった。
地に伏せるハルに駆け寄り、その体を起こすリノア。
汗と血と泥にまみれたその真っ白な姿に、声をかけた。
「ハル! しっかりして、ねえ。ハル!」
「悪い……どうにも……“あいつ”とドンパチやるのに……張り切りすぎたらしい。これ以上は……」
石畳が揺れ、すぐそばにある柱が倒れて砕け散った。
悲鳴を上げつつも、リノアは必死にハルに寄り添う。
離れた位置に見えていた巨大な建造物が、瓦礫へと姿を変えた。
破壊の波がこちらへと、着実に近付いているのが分かる。
リノアは必死にハルの体を担ぎ上げ、前へ進もうとする。
しかし、非力な彼女に大人の男一人を運ぶだけの力は備わっていない。
何度も転び、その度にハルを支え、立ち上がる。
「諦めちゃダメよ。せっかく、全て終わらせたんじゃない。こんなところで止まっちゃダメ、行かないと!」
弱るハルを叱咤し、歯を食いしばるリノア。
再び転び、膝を大きく擦り剥く。
だがそんなこともかまわず、リノアは白い肉体を持ち上げようとしていた。
その必死の横顔を、ハルは見つめる。
また一つ、石柱が崩れ落ち、数本を巻き込んで砕け散った。
もうこの場所も、長くはないのだろう。
汚れ、乱れ、それでも決して輝きを失わない緋色の髪を見つめ、ハルは告げる。
「なあ、頼む。あっちに行ったら、あいつらによろしく言っておいてくれ」
息をのみ、足を止めるリノア。
驚き見つめたハルの顔は、なぜかひどく穏やかである。
「ゼノやミオに……ありがとう、と伝えてくれ。助かった、って」
「何を……何を言ってるのよ? ねえ、ハル――」
「それにあんたも……ありがとう。ここまで――こんな俺を、信じてくれて」
銀色の髪がざわめく。
虚ろなその眼差しの中に、再びエメラルド色の光が輝きを取り戻した。
ふわり、と肉体が浮く。
その超常現象は、リノアの体だけに働きかけた。
直感的に女史は気付いてしまった。
だからこそうろたえ、取り乱し、地に伏せる彼に叫ぶ。
「ダメ……ダメよ、そんなこと! ハル、何してるの! あなたも一緒に――!」
「あんたの言った通りだった。ちゃんと、この街にあったんだよ……俺がこうして、生き残った“意味”が」
顔を上げ、ハルは微かに笑った。
そして宙に浮かぶリノア目掛けて、力を込める。
ハル――女史が自分を呼ぶ声が、確かに聞こえた。
だが、緋色の髪持つ彼女は、光に包まれて消えてしまう。
残された最後の力を振り絞り、ハルは彼女を遠くへと転移させた。
消える間際、リノアはしっかりと見てしまう。
遠のく景色に、破壊の波が追いつくその様を。
地に伏せた白い姿が瓦礫に飲まれ、その奥底へ落ちていく姿を。
ありったけ、力を込めて吐き出した悲鳴が、虚空に消える。
彼方の街へと手を伸ばすも、その体は宙に散り、やがて溶けてしまった。
***
暗闇の中で、微かに目を開ける。
肉体の感覚がひどく鈍い。
だがそれでも、背中に伝わる妙な感触が、意識をほんのわずかに覚醒させた。
横たわった自分の体は、何かによって引きずられている。
真っ黒の大地を、ある方向に向けて、ゆっくりと。
おもむろに顔を上げた。
遥か遠くに、光が見える。
その光に向けて、力なく横たわった自分は進んでいるのだ。
ボロボロになった肉体を、小さな影が運んでいた。
少しずつ、着実に、その光にたどり着くため。
顔は見えない。
だが、酷く優しい言葉が耳元で響く。
「ありがとう――本当に感謝するよ。この街を止めてくれて」
どこか聞き覚えのある声だ。
穏やかで、透き通った波長。
柔らかく、心にすっと寄り添ってくる。
自分の肉体を持ち上げるだけでも、一苦労なのだろう。
何度も立ち止まっては、その度にゆっくりと、確実に前へ進む。
その緩やかな前進の中で、なおも“彼”は語りかける。
「君がいてくれたから、救われたんだ。これできっと、“世界”はあるべき形で進むべきことができる。この街はまだ、人間が手にするには早すぎた。“高次元存在”と我々が出会うのは――もっと先であるべきだったのだろう」
目をこらすも、どうしても視界がぼやける。
“彼”の顔の横で揺れる、大きな耳のようなものが見えた。
ずるり、ずるりと、ハルの体と共に“彼”の持つ尾が暗闇を擦る。
「人々が学び、悩み、自分達の足で歩み――その果てに待つ“正しい進化”のその時に、きっとまた“高次元存在”は姿を現す。それがきっと、本来あるべき――人類にとっての夜明けなんだ」
光がどんどん近付いてくる。
真っ白な輝きに照らし出され、その小さな体が浮かび上がった。
ボロを全身に身にまとい、灰色の肌を持つ小さな“住人”。
彼は最後に穏やかな目をこちらに向け、いつもの優しい笑顔を見せた。
「本当にありがとう。“あの
言葉を絞り出そうとした。
だが、肉体が疲弊しているせいか、はたまた不可視の力に縛られているのか。
声はまるで湧いてこない。
困惑する青年に、“彼”は笑ったまま告げた。
「君は帰らなくてはいけない。“あの娘”達の所へ。君にはまだ未来へ進むべき――“意味”があるんだからね」
視界が白に包まれる。
はっきりと見えた“彼”の顔が閃光に包まれるその刹那、別の姿に移り変わる。
優しく微笑む、男性の顔。
どこかで見覚えのある、不適で勝気な笑顔。
全てが白に染められた。
かつて街を包んでいたあの“霧”よりも、もっとまばゆい閃光が肉体を溶かす。
***
再び目を開けた瞬間、真っ先に飛び込んできたのは、目も覚めるような黒――夜空であった。
「あ……あれ……?」
どうやら、仰向けに横たわっているらしい。
生え揃った短い草の感触が、チクチクとかすかに肌を刺激する。
硬い大地を伝い、地響きが肉体の芯に響いた。
困惑し動けずにいるハルのその視界に、見覚えのある金髪の女性が映り込む。
ぎょろりと見開かれた目が、嬉しそうにこちらを覗き込んでいた。
「おー、やっぱそうだぁ。ハル、ひっさしぶりぃ! なんだ、どうした? 髪の毛、随分伸びたんだなぁ。劇的イメチェンじゃんかぁ」
「え……あ……ミ、ミオ?」
思わず上体を起こす。
飛び込んできた光景に、
色を失った芝生の上に、ハルは座っていた。
周囲に立ち並ぶ民家は、大昔の中世にあったような、のどかな農村のそれである。
忘れもしない。
そこはハルが初めて、モノクロームに足を踏み入れたエリアであった。
吹き抜ける風に、かさかさと無色の草花が揺れる。
あの時と違うのは、やけに強い風が肌を撫で付けていた。
風は街の奥から外へと流れている。
すぐ隣の色無き石畳の先には、あの煤けた荒野が見えた。
ちょうどここは、街の外と中を繋ぐ境界なのだ。
モノクローム――色を失った街はガラガラと音を立てて、崩壊している最中だった。
街の中心部から風と共に、まばゆいばかりの光が溢れ出ている。
瓦礫の音が響くたび、ごおごおと大気がうなり、閃光がばらまかれていた。
自身が置かれた状況と共に、その肉体についても目を丸くしてしまう。
失ったはずの両腕が、綺麗に再生されていた。
思わず目の前で手を握りしめてみるが、痛みも何もない。
混乱してしまうハルには構わず、ミオは遠くにいる“彼女達”に大声で告げる。
「おぉ~い、やっぱりハルだよ! 戻ってきたみたい。いつの間にか随分変わっちゃってらぁ!」
吹き抜ける風の中に、足音が連なる。
石畳を、芝生を駆けるその慌ただしい音に、おもむろに顔を持ち上げた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、こちらに向けて抱きついてくる女性の姿だった。
荒れ狂う風が、彼女の緋色の髪をもてあそぶ。
「ハル――!!」
「リノア……」
再会した彼女の重みを、なんとか受け止める。
女史は目に涙を浮かべ、泣いていた。
か細い腕から、微かな温もりが伝わってくる。
「馬鹿……ほんっとに、馬鹿! なんて、身勝手なことするのよ!!」
「無事……だったんだな。良かった、なんとかなって」
あくまでリノアの身を気遣うハルに、女史は大きな声を上げて泣いた。
雫がポタポタと肩を濡らし、熱さを伝わらせる。
一時は瓦礫に埋もれたはずの彼が、こうしてまた目の前にいるのである。
彼女にとってはまさに、“奇跡”というべき事態なのかもしれない。
泣き声を上げるリノアの肩を、そっと抱くハル。
そんな二人に、精鋭部隊の隊長は歩み寄りながら、ため息を漏らした。
「いやはや、驚いたよ。リノア博士が姿を現したのと、君が出現したのはタッチの差だったのだ。ミオが『見つけた』とはしゃぎ出した時は、まさかと思ったがね」
ゼノは微かに笑う。
彼に対し、ミオも嬉しそうに頷いた。
「ねっ、言ったでしょう? 間違えるわけないって。私、視力4越えだからさぁ。ハルの鼻の穴まで見えたよ!」
「疑ってすまなかったな。やれやれ。最後の最後までこの街は、予想外の事態だらけだ。参ってしまうよ」
笑顔で言葉を交わす二人は、ボロボロである。
戦闘服には無数の傷跡が刻まれ、出血も見られた。
ハルが街の奥で戦いを繰り広げている間、彼らもまた群がるヴォイド達を食い止めてくれていたのだろう。
彼らとの再会に、また一つ安堵してしまう。
リノアはようやく涙をぬぐい、なんとか冷静さを取り戻した。
ゼノはその姿に微笑んだ後、崩れていく街に視線を向ける。
遠くでまた一つ、摩天楼が崩れ落ちる大きな音が響いた。
ハルもようやく立ち上がり、顔を上げる。
稲光のように空間が明滅し、その度に風と地響きが波打つ。
転ばないように石畳に立ったまま、四人は街の奥を見つめていた。
崩壊は依然として続いているのだろう。
主を失い、均衡の崩れた仮初めの街は、再び異なる次元の海に沈み、瓦解しようとしている。
もう、ここに「魔王」はいない。
この世界がここにあるべき理由は、無くなってしまったのだ。
明滅する光のその奥を見つめつつ、ゼノがどこか悲哀に満ちた瞳で言う。
「終わったのだな、全て。過去から続いた因縁も。世界を巻き込んだ戦いも」
対し、ハルはしっかりと頷く。
傷は治ったとしても、その体に刻まれた数々の痛みと感触が、確かに思い出せた。
「ああ。あいつは――『魔王』は消えたよ。この街もこれで無くなるはずだ。全て、終わった」
各々が各々の戦いを切り抜け、この場に立つ。
傷だらけではあっても、決して止まらずにここまでたどり着いた、四人がいる。
翻弄され、苦しみ、戦い抜いた彼らにとっての戦場――消えゆくモノクロームの奥を見つめたまま、しばし立ち尽くす。
その街が最後に放つのは、ただただ“真っ白”に輝く光だ。
明滅し、溢れ出る閃光を皆、静かに見つめていた。
外へと流れ出る風は一同の顔を洗い、熱を奪っていく。
彼方で着実に進む“終焉”を見つめながら、リノアが呟く。
「この街はきっと、人間が手にすべきものじゃあなかったのよ。“高次元存在”は確かに、私達に力を与えてくれるのかもしれない。でもきっと、力にはそれ相応の“責任”が存在する。この街に踏み込んだ人達は、それをあまりにも
その言葉に弾かれるように、彼女の横顔を見つめるハル。
先程、闇の中で見たはずの光景が、なぜか記憶から薄らいでいく。
女史の一言に、ゼノ、そしてミオも頷いた。
「力、知識、未来、進化――あらゆるものに対する人々の“望み”が、この街を成長させたのだろうな。希望もあれば、欲望もある。その中でもとりわけ強かったのが、あの『魔王』の抱いた“絶望”だった、ということか」
「“高次元存在”の横取り合戦も、これでやっと終わるんだなぁ。40年もずっとやってたんだから、すっごいもんだよぉ。私だったら飽きちゃってリタイアするね、絶対」
あっけらかんとした言い方に、肩の力が抜けてしまう。
だがある意味、彼女の言う通りなのだろう。
全てこれで、終わる――数十年という時を経て続いた戦いが、ようやく終わりを迎える。
リノアは微笑み、頷いた。
「これで良いの。行き過ぎた力がもたらすのは、ただの災いよ。こうなることを、きっと“父”も望んでいるはずだわ」
ハッとし、顔を上げるハル。
リノアの横顔を見つめながら、先程の記憶を呼び覚ました。
意識を失いかけ、それでも暗闇の中で“誰か”に引きずられていた、あの時の記憶を。
あの顔は――だがなぜか、記憶はぼんやりと輪郭を失っていく。
覚えていたはずの“彼”のあの顔が、どんどんと霞んでいってしまう。
困惑するハルに、リノアは振り向き、笑った。
「どうかした、ハル?」
「あ、いや……そうか、親父さんは結局……見つからなかったんだな」
残念だ――少しだけ心苦しくなるハルに、それでも女史は強く頷く。
「できれば、会いたかったけどね。だけど結局、父のことも私の憶測――いえ、“願い”だったのよ。残された手がかりのその先に、父が待っているんじゃあないか。そう思いたかっただけなのかもしれない」
幼き頃に失い、今日まで探し求めたその背中は、結局どこにもない。
リノアがこの街で探していたものは、彼女の前に影すら表すことはなかった。
その結果に、女史は悲嘆することはない。
ただ強く、凛とした眼差しでハルを見つめる。
「だから、これで良いのよ。街が消えて、全て終わる。無理矢理に作り上げた人間の進化や進歩よりも、きっと父は――そんな当たり前の世界を守りたいはずよ。あるべき正しい世界の中で、私達に進み続けて欲しいんじゃないかしらね」
彼女の奥底で確かに燃える固い意志に、言葉を返せない。
今日この日まで引きずった過去に決着をつけたのは、ハルだけではないのだ。
女史の強かな眼差しに、ただハルはため息をつく。
隣に立つゼノもまた、彼女の気持ちを汲んだ。
「さて、そうとなれば我々も早く撤退せねばな。このままここにいては、崩壊に巻き込まれるぞ。あいにく、モノクロームと共に、別の世界に旅立つつもりはないからな」
この一言に、ハルもたまらず頷く。
「ああ。せっかく全部終わったんだ。俺らは俺らのいるべき世界に帰ろうぜ。あるべき時、あるべき場所へ、な」
リノアも迷うことなく同意した。
彼女は緋色の髪と白衣をはためかせ、まっさきに
歩き出す女史にハル、ゼノが続いた。
振り返ればすぐ目の前に、夜の闇に包まれた荒野が広がっている。
何もない殺風景なその景色も、“色”があるというだけで随分と落ち着く。
あの荒野の先が、ハル達のいるべき場所なのだ。
街から脱出するべく、石畳を歩くハル達。
その背中からたった一人――立ち止まった、女性隊員が告げる。
「そっかぁ。じゃあ、ここで皆とはお別れだねぇ」
目を見開き、足を止める一同。
思わず振り返ると、先程よりも街の崩壊が進み、光は強さを増していた。
その閃光を背負った彼女の、三つ編みが暴れている。
突風を受けながら、それでもしっかりと立ち、彼女は笑っていた。
いつも通りの、無邪気な笑顔。
だがその表情に、なぜか少しだけ悲しい色が覗く。
あっけにとられた三人に向けて、なおも立ち止まったまま――ミオが言う。
「ハル、ほんっと良くやったねぇ。偉いよ、大金星! ほんっとーに、不思議な奴だなぁ。においはやっぱりバケモノなのに、超良い奴なんだもん」
「ミオ……何を言って――」
力なく、問いかける。
そんなハルにまるで変わらぬ笑顔を見せ、ミオは告げた。
「ハルも、リノアも、隊長も――皆々、頑張ったんだ。だから私も、もうちょっと頑張らないとねぇ」
「何言ってるんだよ、ミオ。なぁ、早く来いよ! 急がないと――」
予想外の事態に
リノア、そしてゼノもどこか不安な眼差しで彼女を見つめていた。
そんな一同に向けて、彼女は笑顔のまま告げた。
「見つけたんだ、さっき。私の――家族の姿をさ」
息をのむハル達。
金色の三つ編みが、ふわりと揺れた。
逆光を受けたその笑顔に、もはや凶暴さなど微塵もない。
優しく、穏やかに笑い、彼女は告げる。
「ここに逃げる時さ。一瞬、確かに光の中に見えたんだ。私の家族――いなくなっちゃった、皆の姿が」
「それは……」
「分かってるよぉ。もしかしたら、ただの幻かもしれない。本当はもう皆――どこにもいないのかもしれないね」
先手を打たれ、言葉が出ない。
ミオは、けどさ――という言葉と共に、笑う。
「たとえ皆がいる可能性が、1パーセント――いや、もっと低くてもさ――0じゃないなら、行かなきゃ。ずっとずっと、探してたんだから」
迷いはない。
恐怖も、戸惑いも、彼女の表情からは感じられない。
ハル達がそうであったように、彼女もとっくの昔に決めていたのだ。
それがあったからこそ、ここにこうして辿り着いたのだろう。
覚悟――その笑顔が放つ輝きは、ただただ眩しくて仕方がない。
言葉を返すことができなかった。
光を背負い、風の中に立つ彼女の姿が、ただ輝いて見える。
こんなに、優しい笑顔を浮かべる女性だったのか――今まで牙を振り回し、戦場を駆けていた獰猛さはどこにもない。
そこにあるのは、ただ慈しみに満ちた“聖母”のような優しい姿だ。
殴ってでも、止めるべきなのだろう。
きっと、力づくでも連れて帰るべきなのだろう。
一般的な人間の価値観が、常識が、隊長である男の拳を震わせる。
足を止めたままの部下に向かって、ゼノは一歩歩み出て、問いかける。
「ミオ――初めから、決めていたんだな。こうすることを。あの街と共に――行くことを」
こくりと頷くミオ。
ゼノはまっすぐ、その笑顔を見つめた。
「戻れないかもしれない。それは、理解しているな?」
「うん。でも、戻ってくるよ、絶対! ハルだって、40年もずっとあそこにいたんだよ? だったら、どれだけ長くても、いつか外に出れる時が来るかもしれない」
「そうか――迷いはないんだな。お前自身のその選択に」
「うん! 今までずっと探してたんだもの。まだ見つけれてないんだから、行かなくちゃ!」
どれだけ問いかけても、まるでぶれない。
そしてだからこそ、その純粋な笑顔に心が締め付けられる。
これからあの場所に戻ろうとする彼女に、かけれる言葉がない。
また一つ、ゼノは「そうか」と告げる。
毅然とした彼の表情に、苦痛なのか、はたまた悲哀なのか――初めて見る、重く、静かな感情が覗く。
痛いほどに拳を握りしめているのが分かる。
隊長はただただ歯噛みし、湧き上がる感情を押し殺す。
彼は少しだけうつむくも、やがてすぐに顔を上げた。
視線はブレない。
まっすぐ、しっかりと部下を見つめ、言う。
「ならば、私からも隊長としての命令だ。必ず帰ってこい――絶対にだ」
息をのむ、ハルとリノア。
だがミオは嬉しそうに笑い、「イェッサー!」と敬礼する。
これが、彼らなのだ。
これこそが、彼らの歩んできた関係なのだ。
ミオもゼノも、心から信じている。
何一つ、疑っていない。
彼女が帰ってくるということを。
戸惑い、唇を噛み締めるハル。
言葉を失い、息を荒げるリノア。
そんな女史に向けて、突然ミオは駆け寄ってくる。
「そうだ。向こうであんたの親父さん、探しておいてあげるよ!」
「えっ――」
狼狽え、言葉に詰まる女史に、やはりまるで動じずミオは笑う。
「親父さんに会えたら、ちゃんと伝えるから心配しないで! あんたのところの子供、超賢くなってたよって! 私が聞いても話、ぜんっぜん理解できないくらいに!」
ケラケラと笑うその姿に、リノアは目を潤ませ、口元を押さえながら向き合う。
湧き上がる涙を、必死に押し殺しているのだろう。
共に過ごした時間がわずかだとしても、この場にいる四人の歩んできた歴史は浅くなどない。
だからこそ、ミオがとったその選択に、ただただ体が震えてしまう。
だがそれでも、涙を流すべきではない。
一人の女性が――戦士が下した決断に、リノアもまた報いようとしているのだ。
敬意を――送り出す者として、最高の祝福を持って。
歯を食いしばり、必死に笑みを作って答えた。
荒ぶる風が緋色をかきあげる。
その中でもしっかりと、目の前の彼女に告げた。
「ありがとう――父に……よろしくね。あなたも……元気で」
振り絞った言葉に、ミオはいつもの笑顔で頷く。
その変わらない純粋さが、リノアにはただただ辛い。
隣に立つハルもまた、体を打ち震わせ、耐えていた。
だがリノアのそれと同様に、ミオはハルにも変わらぬ笑顔を投げかけてくる。
「ハル! これ、あげるよ! 頑張ったご褒美!」
えっ、と困惑するハルに向けて、ミオは迷うことなく、腰のホルスターから愛用の斧を一本引き抜き、手渡してきた。
唖然としつつ、ハルは黙ってそれを受け取るしかない。
「え……いや、これ……」
「私のこと、これ見て思い出しな~。そしたら大丈夫。絶対また、会えるからさ!」
すぐ目の前で笑うミオの顔に、言葉が出ない。
隣に立つリノアが、涙をこらえているのが分かった。
たとえ短い間だったとはいえ、共に歩んだ彼女の行く先を考え、胸が打ち震える。
「隊長は持ってても使わないからさぁ。ハルなら大丈夫、きっと使いこなせるさ。あ、でも、もうケモノとも戦わないのかな? なら、どっか家に飾っときなよ」
最後の最後まで、掴み所がない。
その目に熱いものが湧き出るも、ハルはぐっとこらえる。
必死に耐えながら、目の前で笑うミオに告げた。
激励の言葉を。
彼女がこれから歩むその先に、続くべき励ましを。
そんな簡単な一言を吐き出すのが、ただひたすらに辛い。
「ミオ……頑張れよ。家族に――よろしくな」
必死に作ったハルの笑顔に、ミオは「おーう!」と笑って答える。
再び彼女は踵を返し、何ら緊張することなく、街の奥へと歩み寄っていった。
その背中を、三人はじっと見つめる。
引き止めたくなる気持ちを、ぐっと堪えた。
ハルは手にした小さな斧を握りしめ、歯を食いしばる。
光のすぐ目の前―――崩壊する世界の手前で止まり、ミオは最後に振り返った。
大きく手を振り、笑いながらこちらに叫ぶ。
「皆――まったねー!!」
なんのことはない。
いつもと何ら変わらない、まるで特別ではない別れの挨拶。
再会を信じ、疑わない笑顔。
そんな彼女に三人はただ、手を振る。
きっとこぼれ落ちた涙が、彼女の視力ならば見えてしまったかもしれない。
光の中に消えていく、ミオ。
彼女を見送り、ハル達もまた全力で街の外へと駆け出した。
音を立て、風を生み、光を散らし―――やがて目の前にあった街が、完全に消え去る。
真夜中の荒野だけが、そこにあった。
本来あるべき無の大地には、夜の無慈悲な風がひゅうひゅうと音を立てて吹きすさぶ。
色持つ荒野のその上に立ち、かつてモノクロームがあった虚空を、三人は見つめていた。
どれくらい、そうしていたのだろう。
黙したまま闇の中に立ち尽くし、思いを巡らす三人。
また一つ、荒野の風が頬を撫でる。
リノアはかすかに濡れていた目元をぬぐい、ようやく呟いた。
「あの街で皆、色んなものを探していたのね。力に知識、過去に家族に――自分を」
そこに集まった旅人達は、幸せだったのだろうか。
きっと、そんなことはどれだけ考えても、答えは出ないのだろう。
消え去った街を思うと、どこか虚しさが湧いてくる。
だが同時に、心の奥で確かに動き続けている、熱い想いがあるというのも事実だ。
何を失い、何を得たのか――きっとそれは、あの街で何かを探し続けていた、それぞれの旅人にしか分からないのだろう。
肉体に宿った熱が、吹き抜ける風に乗って宙へ散る。
立ち尽くす三人は誰に合わせるでもなく、自然と夜空を見上げていた。
人工の灯りのない純粋な大地のその上で、降り注ぐ無数の星々の光を見つめる。
澄み切った夜の闇に各々の気持ちが浮かび、舞い、消えていく。
いったい今は、何時なのだろうか。
大地と風の冷たさを肌に感じつつ、ハルはおもむろに言う。
「もう少ししたら、夜明けかな」
かすかにこちらを見つめるリノア。
彼女はフッと笑い、頷く。
「そうかもね。日の出が見えるかもしれないわ。またいつも通りの――朝がやってくる」
星が回り、時が巡る。
今が過去となり、新たな未来がやってくる。
おもむろに自身の胸に手を当てるハル。
とくん、とくんと脈打つ確かな鼓動が、奥底から響いていた。
過去と今が繋がり、そして明日へと続いていく。
暗闇の荒野で三人はいつまでもいつまでも、眠る世界を見つめていた。
やがて昇るであろう朝日を思いながら、ふぅ、とため息が漏れる。
舞い降りた色持つ世界はいつもと変わらず、ただ静かに夜明けを待ちながら、変わらぬ速度で回っていた。
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