第29章 明日を望む剣
巨人の咆哮が大気を揺らし、突風を生む。
ビルのガラスが全て吹き飛び、音波は離れた位置の二人すら襲った。
たまらず顔を覆うリノア。
その前に立ち、ハルは右手をかざす。
銀色の光が幾何学模様を空中に生み出し、不可視の壁を作り上げた。
飛来した瓦礫の山は、全て見えざる力に弾かれ、反れていく。
荒れ狂う嵐の中で、ハルは前を向いたまま告げた。
「ここにいてくれ。この中なら、ひとまずは安全だからさ」
「ハルは……あなたはどうするの? まさか――!」
「ああ、行かなくちゃあいけない。きっとこれが最後なんだ。ここで全て終わらせないと」
飛来する無数の瓦礫の奥――咆哮の先に待つ巨人を見つめた。
全ての元凶が、そこにいる。
ハルという長い歴史の中で、最大の友であり、敵だった存在がそこにはいる。
偉大な力を授かってなお、やはり恐怖は消えてくれない。
一歩を踏み出せば、この殺意舞う嵐の中に己が身を
傷付くのは嫌だ。
痛い思いも、辛いことも嫌だ。
だがそれでも、ハルは歩みを止めない。
託されたものを、先に続けなければいけない。
“あの子”が望んだ未来へ。
顔を上げ、目を見開く。
“あの子”と同じ光を持つ瞳で、彼方の“彼”を見据えた。
流されるままの生き方は、もうやめたのだ。
「“唯一の道”って言ったな。あいにく、そんなものは必要ないよ。生き方も、死に方も――自分の道くらい、自分で決める!」
地面を蹴り、まっすぐ飛び出す。
底すら見えない果てなき漆黒に、迷うことなく身を晒す。
背後で確かに、リノアが自分を呼ぶ声が聞こえた。
その力強い声を背に受け、ただただ念じる。
曲がることなく、まっすぐだ――時間と空間が歪み、一瞬でハルと巨人の距離はゼロに縮む。
飛来した風も、残骸も、瓦礫も、全て突き破って至近距離に到達した。
軌道上の物体を破壊して飛ぶハルを、巨人も――「魔王」もまた認識し、動く。
同様に時間と空間を“圧縮”し、時間軸から逸脱した速度で巨人は腕を振り上げる。
“時”の流れが限りなく無となった空間で、二人はぶつかり合った。
巨人の放った拳をすれすれでかわし、あまつさえそこに着地するハル。
腕を蹴ってさらに走るも、もう一方の手が上から落ちてきた。
巨大な一撃に弾き落とされ、降下してしまう。
しかし、すぐさま身を翻して着地し、アスファルトを蹴って上に跳んだ。
道路が波打つも、破壊が始まるよりも早く、ハルは巨人の手に到達する。
ありったけの力を込め、渾身の一撃を蹴り込む。
巨人の左腕が砕け散り、天へと散らばった。
ハルはその瓦礫を足場に、縦横無尽に駆け抜ける。
残った腕で拳を作り、「魔王」は打ち込んできた。
どれだけ巨大で、どれだけ脅威だろうが、まるで退かない。
向かってくる規格外の鉄拳に、ハルもまた大きく引き絞った右腕で応える。
銀髪がざわめき、瞳が光った。
向かってくる脅威に、固めた“覚悟”をありったけぶつける。
ハルの拳打が炸裂した瞬間、瓦礫の拳が砕け、その先の腕までが空圧で吹き飛んだ。
一撃で巨人の残った腕が消え、頭部までの道がガラ空きになる。
空間を蹴って、さらに加速するハル。
大きく口を開く巨人の頭部を、あらん限りの力で蹴り抜いた。
怪物の首がちぎれ飛び、隕石のようにアスファルトを
砕け飛んだ岩や土すら、歪な時の流れに巻き込まれ、宙で停止してしまった。
ハルは強い眼差しのまま、破壊された巨人を見つめる。
しかし、残されたボロボロの胴体の中から、あの声が響いた。
「随分と強くなったな、おい――褒めて欲しいか?」
息をのんだ瞬間、巨人の胴体を突き破って「魔王」が飛び出す。
その常識はずれの速度に、対応できない。
放たれた蹴りがハルの胴体を深々とえぐり、吹き飛ばしてしまった。
回転しながら必死に手を伸ばし、空を“掴む”。
自身の体から“速度”を消し、吹き飛ぶ体を無理矢理止めた。
眼下にいる「魔王」は瓦礫の上に立ったまま、こちらを見上げている。
顔に炸裂したハルの一撃が、その口元にかすかな血を滲ませていた。
とはいえ、彼の肉体に目立った損傷はない。
「魔王」は右腕を持ち上げ、もう一方の手でその手首を掴んだ。
右手の人差し指と親指を立て、それを頭上のハルに向けている。
同じ“高次元存在”を取り込んだからか、はたまた二人が同じ肉体に宿った者だったがゆえか。
ハルには直感的に、彼がやろうとしていることが分かってしまう。
まずい――防御を固めると、真っ白な体の表面に銀色の光が張り付き、鎧のように保護する。
そんなハル目掛けて、「魔王」は迷うことなくその力を放出した。
人差し指の先――“銃口”に見立てたそこから、不可視の弾丸が無数に放射される。
火薬など使っていないにも関わらず“ドンッ”という砲音が響き、機関銃のように連なった。
見えざる弾丸が次から次へとハルに突き刺さり、その体を後方に吹き飛ばした。
背後にあったビルに流れ弾が当たり、瞬く間に破壊していく。
蜂の巣になった摩天楼が、再び支えを失って崩壊を始めた。
ここまででようやく、“時”が動き出す。
今まで蓄積された世界への変化が、その刹那に収束された。
リノアの目の前で立て続けに衝撃音が響き、巨人が砕け、ビルがズタズタになる。
二人の「ハル」がぶつかり合った一瞬の攻防が、現世にいるリノアにまとめて知覚できた。
空中でその身を刻まれ、穿たれるハル。
激痛に歯を食いしばりつつも、負けじと対抗する。
意識を集中し、授かった“力”を発揮した。
この身に宿ったエリシオの意思が、その使い方を本能に刷り込んでくれる。
“高次元存在”の干渉力により、ハルは自身の時間を“巻き戻す”ことで肉体を元どおりに復元していった。
屋上に立ったまま、ハルが作り上げてくれた即席の防護壁ごしに、彼方の光景を見つめるリノア。
彼女にとって、目の前で起こる全てが規格外であり、想定外であった。
“時”と“空間”――人間が追求し、解明しようとし続けた不変の概念が、彼方でぶつかり合う二人によって、
距離を無視した攻防、強度を超越する一撃、傷をものともしない再生。
互いの身に宿した“高次元存在”の力によって、ただひたすらに世界の“理”にアクセスし、改変することで自身の有利を生み続ける。
二人の「ハル」が繰り広げるそれは、もはや人間同士の衝突などではない。
この次元の外に生きる新たな存在が、人間を置き去りにしてぶつかりあう。
きっとそれは、人々の目に様々な形となって映るのだろう。
異形、妖怪、怪物、魔物、超人――そのどの言葉でも、まるで足りない。
熱心な宗教家ではない。
そう、自身のことを把握していてもなお、リノアは宙を見つめて心に抱く。
神――彼方でぶつかり合うその二つの存在は、彼女の中にそんな一言を浮かび上がらせる。
だが、拳を握りしめて頭を振った。
麻痺してしまう感覚を奮い立たせ、前を向きなおす。
あっけにとられている場合ではない、しかと見届けなくてはいけない。
ここまで歩んだ「ハル」のその戦いを――彼が対峙すると決めた「ハル」の姿を。
リノア自身、自分が人質としての価値を持っていないことなど、分かっている。
この色なき街の中心に踏み込めたことなど、あくまで「魔王」の気まぐれなのだ。
偶然という“神”の采配。
しかしそれでも、リノアは眼差しに力を宿し続ける。
見届けなくてはいけない。
この先にある真実を――この街がたどる結末を、その目に焼き付けなくてはいけない。
きっとそれこそリノアが、“父”を追い求めた先に待っていた“意味”なのだ。
“機関銃”に見立てた指先から、不可視の力を叩き込み続ける「魔王」。
対するハルは身を
すぐさま跳びのき、そのまま壁面を走ることで弾丸を避け続ける。
ガラスが、コンクリートが、ハルの踏み込みと「魔王」の連射によってみるみるうちに破壊されていく。
砕けた破片が地表に降り注ぐよりも速く、真っ白な肉体が動く。
重力を無視し、たてがみを振り乱しながら
その眼からもまた、一寸も強さは消えていない。
本能が“力”の使い方を告げる。
己の中に宿る“あの子”を信じ、ハルもまた腕を振り上げた。
突き出した人差し指と親指。
そこから感じる濃厚な殺意に、「魔王」だけでなくリノアまでもが気付く。
来る――ハルはガラスを蹴り砕きながら跳び上がり、空中で顔を上げた。
指先を彼方の“彼”に向けて、歯を食いしばる。
その瞳の“エメラルド”が、強さを増した。
瞬間、大気が吼える。
ハルの指先から発射された“力”は、一瞬で「魔王」の元へと到達する。
向かってくる見えざる脅威を肌で察し、「魔王」もまた真横に飛び退いた。
時間を圧縮し、限りなく停止した時の中で、肉体を超高速で退避させる。
先程まで「魔王」が背にしていたビルが、一瞬で消え去る。
真横から叩きつけられた“圧”が建物自体を根こそぎ吹き飛ばし、粉々に砕いてしまった。
「魔王」のそれが機関銃ならば、ハルのそれは“大砲”である。
ハルは宙に浮いたまま、残った腕で手首を押さえた。
意識を集中させ、さらに攻め立てる。
一発、二発と世界が揺れた。
飛びのく「魔王」を追いかけるように、ハルの放つ砲弾がビルを、道を、景色を消していく。
軌道上のビルに、道路に、大穴が
その圧倒的な一撃に、息をのんでしまうリノア。
対して「魔王」はというと、回避しつつも、とある過去を思い出していた。
「相変わらず、派手な一発が好きだな、お前は。あのベネットという男を撃ったのも、時代遅れな旧式のベアリング弾だったか」
「魔王」も負けじと対抗する。
身を翻しながらも両手をかざし、指先から“力”を一斉掃射した。
ハルと「魔王」は互いに跳びのき、ひたすら射線上から身をかわしながらも、互いを狙い撃つ。
人智を超えた二者の撃ち合いに、瞬く間に摩天楼が砕け散り、夜の街は廃墟へと変貌していった。
互いに一歩も譲らず、一歩も引かず――十数のビルが崩れ落ち、ようやく二つの砲門は動きを止める。
もうもうと煙が立ち込める瓦礫の山を背に、空中に浮かんだまま二人はにらみ合っていた。
ふぅ――とため息をついたのは、色を持つ「ハル」である。
「武器の好みも、思想も、何もかも違う。そりゃあ、そうか。そういう風にして俺が生まれたわけだからな」
離れていながらも「魔王」の言葉は、ハル、そしてリノアの脳内に鮮明に響く。
「街一つ容易くぶっ壊せる力を手にしたのは、どんな気分だ? 最高――とは言わないよな、お前は。俺らにとってこんな力は、あの頃を思い出すだけだ。家族も村も――全部奪っていった、あいつらと同じだからな」
吐き捨てるように告げる「魔王」に、ハルも歯噛みする。
彼の言う通り、崩壊していく町並みは“あの日”を如実に思い出させる。
自分達が作り上げている景色は、幼少期に体験した内紛のそれとまるで同じだ。
「結局、そういうことなんだよ。誰であろうが変わらない。“力”ある者が、気に入らないものを壊し、潰し、奪う。その構図は、世界がどれだけ進もうが変わらない。それを持っていたのが誰なのか――その程度の違いだ」
昔も今も、まるで変わらない。
それこそがもう一人の「ハル」を突き動かしていた、たった一つの理念そのものなのだろう。
「英雄も暴君も変わらない。“力”持つ者が成し遂げたことを、周囲がどう伝達するかだけの違いだ。だからこそ飽き飽きだ。世界平和だの、人類平等だの――耳障りの良い、綺麗な綺麗な言葉を並べるのは――綺麗事だらけの世界は、吐き気がする」
表情こそ変わらない。
だがそれでも「魔王」の肉体から、彼を突き動かす“負”の念が染み出す。
空間を歪め、景色を潰し、沸々と湧き出る敵意となって、陽炎が揺らぐ。
感情の炎を湧き上がらせる“彼”を、リノアも離れた位置から
世界そのものを憎むがゆえの、絶えることのない破壊衝動。
人間の心そのものを拒絶するがゆえの、飽くなき独占欲。
「魔王」を突き動かすその漆黒に、もはや言葉が出ない。
彼を否定しようにも、用意できる言葉ではあまりにも
女史の心が震え、「魔王」の肉体が怒りによって
そんな中、前を向いた“白銀”が静かに言う。
「ああ、分かるよ。あの時からずっと、俺もそう思っていた。それはきっとお前よりも先に――俺が抱いた気持ちなんだ」
息をのむリノア。
そして――「魔王」。
瞳に翡翠の光を宿す、ハルが告げる。
「世界を憎んださ。運命を、生まれを、時代を、偶然を――あの時、あの場所にいた全てを憎んだ。だからこそ、お前が生まれた。もう、否定も拒絶もしないよ。この事件を始めた全ての元凶は、この俺だ」
自身の胸に手を当てるハル。
そんな彼に、「魔王」は言い返す。
どこか苦々しい色を、表情に浮かべながら。
「開き直るつもりか? 今更、知った風な口を聞いたところで、何かが許されるわけでもないだろう」
「ああ、そうだろうな。俺が許されることなんて、きっと一生ないんだと思う。俺自身、許されて良いとは思わない。どんな理由があれ、“力”を求めたのは俺――ハル=オレホンなんだから」
どれだけ「魔王」の言葉が心をえぐっても、決してハルは引かない。
刻まれる傷を、打ち込まれる
それらを受け入れ、考えた。
死の狭間という暗闇の中で、対峙する“自分”に向けた言葉を、ただひたすらに考えたのだ。
うまく言うことはできない。
この存在を納得させるだけの何かを、持ち合わせていない。
だからこそハルは、自身の心に焼きついたあの言葉を思い浮かべる。
忘れるわけがない。
きっとそれは――忘れてはいけない。
「死んで償うって考え方も、あるんだと思う。罪人らしく苦しみ、最後は首をはねられて幕を閉じる。そんな選択肢もあったんだと思う。でも、ダメだ。どんなに苦しくて、どんなに虚しくても、自分から終わることはできないよ。だって、託されたんだ――“生きろ”って。“歩み続けて”って」
無慈悲な銃弾に貫かれ、それでも自分を抱きしめていた、母に。
死にゆく自分を蘇らせるため、一つになることを選んだ、あの子に。
汗が引いた。
震えが止まった。
ハルの肉体の奥底に、まるでぶれない一つの“芯”が固まる。
「正義の味方にはなれない。英雄にも王にも、何にもなれない出来損ないだ。だったらそれで良い。俺は、俺が生きているこの場所で、俺のできる限りのことがしたいんだ」
握りしめた拳の重さが。
食いしばった奥歯の硬さが。
叩きつけ、暴れる鼓動の強さが。
巡り、周り、駆け抜ける血の熱さが。
ハルの身に、強さを宿す。
ハル=オレホンという確かな“歯車”を軸に、彼の生きる“今”が動いていく。
たった一人だったら、対峙することすらできなかったろう。
出会った人々がいて、渡り歩いた景色がある。
この世界で生きていた全てがあったからこそ、こうして“彼”をまっすぐ見据えることができる。
「俺の全てを使って、お前を止める。“明日”を消そうとするお前を、絶対に止めてみせる。それがきっと――俺が今日、この場まで生きてきた“意味”だ」
透き通った波長が、夜の空気を震わす。
砕かれ、崩れ落ちた摩天楼の荒廃した景色に、彼の決意が確かに染み込んだ。
言葉を受け止めたリノアの体からも、震えが消える。
代わりに、まるで説明できない暖かさが、肉体の中心部に宿った。
だが逆に、「魔王」もまた肉体の奥から別の“熱”を湧き上がらせる。
ハルが叩きつけた“決意”が、それを否定する極上の“憤怒”を呼び起こす。
「夜明けなんてこないさ。お前の“意味”もろとも、全て消えるんだ。この世界そのものが“無意味”になるんだからな」
前を向いたまま、右腕を振り上げる「魔王」。
周囲の瓦礫がひとりでに浮き上がり、瞬く間に彼の腕に吸い付いていく。
コンクリートが、鉄骨が、送電線が、ガラスが――あらゆる物質が接合され、変形し、成形されていく。
けたたましい音を立てて作り上げられる“それ”を、ハルとリノアはじっと見つめる。
「魔王」の右腕には、いつしか巨大な“瓦礫の剣”が握られていた。
正確には、肘から先を覆うように、剣が肉体と融合している。
数百という部品が緻密に組み合わされ、結びついていた。
揺らめく送電線はまるで血管のように剣そのものに纏わりつき、未知のエネルギーを刃に注ぎ込んでいる。
わずかに湾曲し、発光する長大なブレードを持ち上げ、「魔王」は吠えた。
「首をはねられて、駆除されろ――負け犬は、負け犬らしくな」
瞬間、「魔王」が一気に加速し、ハル目掛けて飛んだ。
カンマの下にいくつゼロが並ぶかも分からない刹那で、ハルの至近距離に到達する。
彼のすぐ目の前に、あまりにも巨大なブレードを振り上げた「魔王」がいた。
だが、ハルは怯まない。
「魔王」の動きを肌で察し、すでに手を振り上げている。
前を向いたまま、片手を開いて念じた。
世界そのものに、訴えかける。
肉体に宿った力で、この瓦礫のどこかに落ちているであろう“それ”を呼び寄せる。
ぼっ、と音を立ててコンクリートを突き破り、小さな金属が飛来した。
「魔王」が刃を振り下ろす寸前で、ハルの手に“それ”が戻ってくる。
握りしめた“柄”に添えられた、トリガーを引いた。
内部の液体金属が展開し、瞬く間に巨大な黒い刃を生み出す。
とある老人に託された、極上の科学の刃。
落ちてくる「魔王」の牙めがけて、ハルもまた剣を振り上げ、叩きつけた。
液体の姿持つ、高位にて“無”を屠り去る、折れない鋼鉄の剣。
託された自身の“牙”に、ありったけの“力”を込める。
いつしか、作り上げられたテクノロジーの刀身の上に、銀色の光が更なる刃を生み出していた。
ハルと「魔王」の剣がぶつかり、衝撃波が世界を揺らす。
轟音と共に瓦礫が吹き飛び、もろくなった摩天楼を薙ぎ払った。
凄まじい突風に、顔を覆うリノア。
だがそれでもなお、彼方で切り結ぶ二人をじっと見つめた。
止める、壊す。
進む、終わらす。
肯定する、否定する。
相反する二つの“決意”だけを頼りに――二人のハルが吠えた。
神代の世界の、最後の斬り合いが始まる。
力任せに弾かれた刃を、至近距離で互いにぶつけ合うハル。
刃と刃が炸裂するたびに火花が散り、天災とすら呼べるほどの大気の波が生まれた。
行き場を失ったエネルギーは決して死なず、斬撃となって周囲の摩天楼を切断していく。
響く音、壊れる景色、吹き荒れる風――それらの中で確かに、ハル=オレホンが放つ咆哮が聞こえた。
己の全存在を賭けた、魂の声が響き渡る。
小細工はない。
謀計も打算も奇襲もまるでない。
まっすぐ――ただ真正面から、目の前の相手に向けて剣を叩きつける。
黒い
時に押し、時に引き、互いに一歩もその場から譲らず、ただ一心不乱に思いを叩き込む。
斬り結ぶたびに、幾度も肌が裂けた。
骨が軋み、痛みはとめどなくやってくる。
もはや肉体を修復することなどしない。
刻まれる証を命に知らしめ、ただがむしゃらに相手目掛けて斬る。
二つの命が燃えていた。
仮初めの摩天楼のその上で、二つの“覚悟”が交差していた。
リノアはついに、顔を隠すことすら忘れてしまう。
色なき街の空に浮かぶ星々。
その光に照らし出され、二つの“力”が互いを確かめるように、ただひたすらにぶつかり合う。
敵意も、憎しみも、確かにそこにあるはずだ。
だがそれでもなお、リノアの目には二人の姿がなぜか輝いて見える。
綺麗だ――混じりけのない命を燃やし、ぶつけるその姿に、なぜかそんな場違いな感想を抱いてしまう。
剣が弾けるたびに、火の花が咲くたびに、二人の“覚悟”が圧となって肉体を叩く。
それがどこか、心地良い。
ぶつかり合い、前へ進もうとするその意思に、己が命が共鳴していく。
数十の斬り合いが、数百の破壊を生んだ。
渾身の一撃と共に互いを弾き、ハル、そして「魔王」は距離を取る。
互いに顔を持ち上げ、歯を食いしばり、力を込め直した。
「魔王」の肉体から溢れ出た漆黒の殺意が、ハルの目に巨大なヴィジョンを錯覚させる。
ハル=オレホンの背後で巨大に笑う、黒い影――「魔王」が確かに、そこにはいた。
その姿に、たまらず退いてしまいそうになる。
ハルの中の本能が、先程から警鐘を鳴らしていた。
弱虫で、臆病で、出来の悪い自分が――“負け犬”と呼ばれた過去が、ただただ訴える。
逃げろ、と。
屈してしまいそうになる。
立ちはだかる恐怖に、負けそうになる。
負の感情がいたるところに入り込み、ハルの中の“歯車”を絡め、止めてしまおうとしていた。
少しだけ目を閉じ、暗闇の中で考える。
何も見えないその永遠に続く無の中に――彼女がいる。
小さな小さな少女が、それでも笑っていた。
彼女だけではない。
不敵な笑みと緋色の髪持つ女史が、尖った個性を持つ黒い隊員隊が、自身にこの剣を託してくれた老人が。
もっともっと、大勢が見える。
幼い自分が過ごしていた街で出会った、大人、子供。
死してなお自身の中に寄り添い続けてくれた、母。
身勝手なのだろう。
いなくなってしまった誰かが、常にそばにいてくれると思うことは。
だが、同時に思う。
きっとそれで良い――心に連れてこれたことが、自分が彼らと出会った“意味”になるのだろう。
支えとし、勝手に強くなり、前を向ける。
それがきっと、人が人と出会う“意味”なのだろう。
ハルという存在の中心に位置する大きな“歯車”を、ありったけの力を込めて回す。
絡みつき、はさまった黒い不純物が粉々に砕け、一気に再駆動し始める。
負け犬なら、それで良い。
出来損ないなら、それで良い。
そんな程度で――生きることは捨てない。
歯を食いしばり、目を見開いた。
ハルのそのあまりにも強い眼光が、「魔王」が抱く邪気を突き破る。
ありったけの力で、あらん限りの声で、吠えた。
咆哮が空気の波となって、「魔王」の体を前から貫く。
一瞬、確かに“彼”は怯んでしまった。
こん限りの脅威を叩きつけてなお、再び前を向くこの存在に。
ハルが空気を蹴って駆け出す。
最短を最速で、最大と最強を持って、ただまっすぐ切り込んだ。
獣哮と共にこちらに駆けてくる彼に、ついに「魔王」の心が折れる。
「ハル」は刃ではなく、もう一方の腕を持ち上げ、指先から力を放った。
見えざる“弾丸”が向かってくるハルの左肩に炸裂し、大穴を穿つ。
激痛と共に、少しだけ白い肉体がのけぞった。
ハルの真っ白な腕が千切れ、宙を舞う。
溢れ出る“赤い血”がしぶきをあげるも、それよりも早く、さらにハルは加速した。
残った一方の手で、剣を下から振り上げる。
対し「魔王」もまた、上から叩きつけるように刃を振り下ろした。
一手早く炸裂したのは――「魔王」の剣だ。
剣先がハルの残った腕を切断する。
ばっくりと裂けた両腕の傷からは、おびただしい量の鮮血が溢れ出た。
行き場を失った剣はついにハルの手を離れ、宙高く放り上げられてしまう。
「魔王」としても、ギリギリの攻防だったのだろう。
刃を振り抜いたまま、遅れてハルを見つめた。
両腕を失い、大きく仰け反る彼を見て、やっと笑みを浮かべる。
終わった――戦うすべを失い、鮮血に染まる彼を見て、純粋なる勝利を確信した。
奇跡など起こらない。
綺麗事は綺麗事のまま、世界の隅で瓦礫に埋もれる。
それこそが「魔王」の望んだ、この世界の在るべき形だからだ。
刹那の攻防を、ようやくリノアも知覚した。
有り余る衝撃で、ハルの背後にあるビルが砕け散る。
しかしそんなことよりも、両腕を切断され、天を仰いでいるハルに絶句してしまった。
「魔王」がゆっくりと前を向く。
再び剣を持ち上げ、完全なるとどめを刺すべく身構えていた。
ハルもまた、両腕から伝わる激痛に目を見開く。
体から力が抜けてしまう。
渾身の一撃を砕かれ、なす術がない。
期せずして見上げた夜空に、無数の星が見えた。
これからきっと、朝が来る。
日が昇り、夜が退き、再び世界は動き出す。
当たり前の摂理が当たり前のように巡り、そこで生きる全ての人々が前へと進むのだろう。
ここで止まれば、そんな“明日”は来ない。
巨大な剣を持ち上げ、ついに笑みを浮かべる「魔王」。
夜空を見上げたまま、歯噛みするハル。
星々が浮かぶ黒い海の中を、弾きあげられた“剣”がくるくる回り、落ちてくる。
腕を奪われ、力を奪われ――そんなハルの中に、それでも確かに湧く感情がある。
嫌だ。
こんな場所で止まるのは嫌だ。
どんなにワガママでも良い。
綺麗事だと
進むと決めたのだ。
終わらせないと――あの子と約束したのだ。
加速する「魔王」の刃。
湧き上がる狂笑。
終わろうとする世界。
その中で、ありったけの力を込めて、リノアが叫ぶ。
彼の名を――必死に足掻く、一人の不器用な“人間”の名を呼んだ。
「ハルーーーーーーーーーーーーーッ!!」
輝く星々よりも、広がる黒い海よりも、落ちてくる“それ”がはっきりと見えた。
ハルの元に戻ってくる、ハルが持つたった一つの“牙”。
女史の声に、白い肉体の中で何かが弾ける。
思いが、記憶が、本能が、過去が――ハルの中で消えない、命の火を
落ちてくる巨大な科学の剣。
その柄をハルは――己の“口”で受け止めた。
息をのむリノア。
そして、「魔王」。
真っ白な歯にひびが入り、数本が砕けた。
口から流れ出る鮮血が、喉元までを赤く染める。
びりびりとした激痛が肉体をかけるも、気迫と覚悟が押しのけた。
歯を食いしばり、巨大な剣を噛み締め支えながら、ハルは前を向く。
「魔王」がいた。
自身と同じ顔を持つ、自身が憧れた、力持つ“彼”。
自身の抱いた憎悪をそのまま受け継いだ、ハルにとっての友だった“彼”。
巨大な刃を振り上げ、“彼”は雄叫びを上げていた。
そんな“彼”目掛けて、ハルもまたあらん限りの力を込め、動く。
噛み締めた剣を、頭で、首で、胴で、全身の力でありったけ振り抜く。
「魔王」の作り上げたそれよりもかすかに早く――負け犬の“牙”が世界を薙ぎ払った。
景色そのものが割れる。
瓦礫が、闇夜が、真っ二つに断たれる。
突風となった斬撃は、その場から見えるありとあらゆるものを切断した。
そこら中から崩落の音が聞こえる。
ビルは崩れ、道が割れた。
仮初めの街が雪崩のように、跡形もなく消え去っていく。
ハルはぜえぜえと息をし、前を見上げた。
緩んだ口元から剣が落ち、もうもうと立ち込める煙の中に消えてしまう。
やはりそこには、“彼”がいた。
振りあげた剣は止まっている。
組み上げた瓦礫はボロボロと崩れ、その光を失っていった。
表情から、どこか険しさが消えていた。
ただ彼はふぅ、とため息を漏らす。
肩から腰にかけて、真っ二つに断裁されたまま――「魔王」は気だるそうに告げた。
「本当に、嫌になるよ。それだけ自分で歩けるなら、最初からそうしておけよ。馬鹿馬鹿しい」
両腕を失い、それでも体を持ち上げて前を見るハル。
そんな彼に対し、「魔王」はなおも穏やかな表情で言う。
「『魔王』が倒され、めでたしめでたし、か。つまらないエンディングだ。ありきたりで、ひねりがない。けどまぁ、そういうことなんだろうな――きっと“世界”が望んだから、こうなるわけか」
何かを悟ったかのように、こちらを見る「魔王」。
そんな彼にハルは、言葉が出ない。
何か言わなくては――必死に言葉を探すハルに“彼”が――「ハル」がため息まじりに言う。
「なんて顔してるんだ。もっと堂々としろ。お前は選んだんだからな。誰に言われるでもなく、自分で」
息をのみ、目を見開くハル。
一瞬、ほんのわずかに――「ハル」が微笑んだような気がした。
「消えないさ、俺は。ずっと。お前を見てるからな。だからもう、誰かを頼るなんて情けないことはするな。選んだからには、歩いてみせろ。これから来る“世界”を。お前が望んだ“今”を」
断末魔の雄叫びではない。
ましてや、怨念を込めた呪詛でもない。
「魔王」が消える間際の一言。
それはただただ純粋な、叱咤であった。
かつて迷い、うろたえ、泣きじゃくっていた“自分”へ。
そしてこれから、進んで行こうとしている“自分”へ。
ハルは前を向いたまま、歯を食いしばる。
霞み、消えゆく“自分”から目をそらさず、その想いに応える。
「ああ。かっこ悪くても、泥臭くても、これからも歩いていく。悩んで、苦しんで、歯ぁ食いしばって――それでも、選んだことを迷いはしない」
ただ一度だけ、力強く頷く。
今日まで歩んでくれた“自分”に。
不適で気だるい笑顔と共に、消えゆく“自分”に。
「ハル」の姿が、真っ黒な塵となって消え去った。
瓦礫が崩れ落ち、無機質に響く。
壊れていく街の音が、なんだかひどく物悲しく聞こえた。
主が消えた仮初めの街で、再び夜空を見上げるハル。
子供の頃から眺めていた星々の色が、なぜか少しだけ潤んで見えたような気がした。
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