第28章 白銀、暁へ向けて
いつしか、街には雨が降っていた。
この街独特のサイクルが生み出したものなのか。
はたまた、“奴”が作り上げた演出なのか。
仰向けに倒れたまま、ハルはそんなことを虚ろに考えていた。
ビルを突き破り、アスファルトに落下した彼の周囲には、まるで隕石が落ちたかのようなクレーターが出来上がっている。
その中央でハルは、仮初めの夜空を見上げたまま、身動きが取れない。
右足と左腕がちぎれていた。
落下の衝撃で背骨も折れたらしい。
口からはすでにおびただしい量の血が溢れ、意識が遠のいていく。
呼吸もできず、指一つ動かすことのできないハル。
彼の隣にいつしか立っていた“彼”が、感情のこもらない眼差しを投げかけていた。
「なあ、死ぬっていうのは――やっぱり怖いか」
答えることができない。
どれだけ力を振り絞ろうとも、肺が潰れているのか、うまく肉体が機能してくれない。
「魔王」は雨に濡れたまま、周囲を見渡す。
「どこだったかな、お前に撃たれたのは。確かこの辺りだったと思うが―――あの時はがむしゃらだったから、うまく覚えてはいないんだ」
40年前の思いを語る「ハル」。
倒れ、死にゆくハルにも、当時の光景が蘇っていた。
ビルの隙間に隠された“核”――あの少女が“力”を凝縮し、銀色の宝石として作り変えた、この街の“鍵”。
それを手にした“彼”を、たまらずハルは撃ち抜いた。
再会した“自分”と撃ち合い、殴り合い――もはや、どのような会話を交わしたかも、どのような痛みを負ったかも定かではない。
40年という時を経て、再び訪れたこの地で倒れているのは、白く変容したハルだ。
「どんなに厄介でも、お前は“俺”だ。それだけは、しっかり覚えておくよ。この街は俺にとっての理想の世界であり――お前の墓碑でもある」
天に腕をかざす「ハル」。
頭上からこちらを見下ろす彼の顔が、どこか少しだけ悲しそうに見えた。
それでも彼は――「魔王」は止まらない。
不可視の力が、彼の背後にあったビルを切断する。
巨大な建造物がまるでバターでも切り裂くように、たやすく、鮮やかに、他愛もなく真横に寸断された。
斬り裂かれたビルそのものが、こちらに落ちてくる。
それはいわば、ハルにとっての完全なとどめだったのだろう。
落ちてくる瓦礫を背に、こちらを見つめていた「魔王」。
彼はやがて、最後の最後――乾いたため息をつき、光に包まれて消える。
逃げることすらできない。
ただ自分に向けて落ちてくる、巨大な塊を見つめることしかできない。
死――それを考えたことは何度もあった。
「ウォッチャー」の一員として振る舞う中で、何度も命を危険にさらす場面はあったはずである。
恐怖も不安もある。
もちろん、嫌だと心が叫んでもいる。
だがそれ以上にハルは――虚しかった。
記憶を失い、奔走し、やがて戻ってきたこの場所で、やはり自分は何もできなかった。
今もどこかで、ゼノやミオは戦っているのだろう。
きっとビルの上で、まだエリシオとリノアは待っているのだろう。
この眼前に広がる夜空は、モノクロームの外まで続いているのかもしれない。
きっと世界のどこかで、誰かがこの空を眺めているのかもしれない。
そんな“世界”が消える――それをハルは、どうすることもできなかった。
落ちてくるコンクリートの塊。
ガラスと鉄骨のシャワー。
それを前にしてなお、ハルは何もできない。
視界を覆い尽くすビルの陰。
ただ一瞬、ハルのすぐ隣に、銀色の光がポッと灯った。
轟音と地響きが辺りを埋め尽くす。
空が消え、岩と鉄が砕け、散乱していくのが見えた。
その絶望的な終わりの最中に、あの銀色の模様が浮かんでいる。
ハルはかすかに首を動かし、真横を見た。
そこに立っていた“彼女”の姿に、息をのむ。
いつの間にかすぐ隣にたどり着いていたエリシオが、両手を持ち上げて“力”を発揮していた。
落ちてくるビルを不可視の壁によって受け止め、押しのけている。
だが、歯を食いしばるその姿は、実に苦しそうだ。
どれだけ彼女が“高次元存在”の力を持っていたとしても、この圧倒的な質量を押し返すだけの出力は秘めていないのだろう。
銀の幾何学模様が押し負け、瓦礫がこちらに近付いてくる。
「くっ……あぁ――!」
汗が滲み出し、少女の全身を伝っていた。
涙を浮かべ、それでもエリシオは必死に腕を持ち上げる。
噛み締めた口元から一筋、血が流れ落ちるのが見えた。
瓦礫が砕け、その奥の鉄骨が落ちてくる。
エリシオが片膝をつき、“終わり”との距離がまた少し縮まった。
ハルは必死に手を伸ばす。
声ならぬ声で、少女に向かって叫ぶ。
逃げろ――もうこれ以上、自分を守らなくていい。
もうこれ以上、無駄に傷付く必要はない。
かすれた息の音だけが響くも、瓦礫の
ここぞという場面で、もはや声すら上げることのできない自分に、ハルはどうしようもなく嫌気が差す。
エリシオの膝が擦り剥け、血が滲む。
痛みに耐える少女に、またハルは告げた。
もういい。もういいんだ――その心の叫びを、少女の叫びがかき消す。
音を発さずとも、心の震えを彼女は聞き取り、否定した。
「良くなんてないよ……お兄ちゃんが死ぬなんて、全然良くない!!」
目を見開く、ハル。
霞む景色の中に、涙を浮かべ、それでも耐えるエリシオが映った。
「あの時から、いっつもそう――お兄ちゃん、頑張ってたもの。あんな怖い場所で、ずっとずっと――」
めきり、と瓦礫の圧が増す。
苦痛の声と共にエリシオの両手が裂け、血が流れ落ちる。
それでもなお、激痛に小さな体を軋ませながら、少女は叫んだ。
「私が逃げたら……お兄ちゃん、ひとりぼっちになっちゃう……一人は――寂しいから」
霞む景色の中で、必死に耐える少女を見つめた。
涙と腕から落ちる血が混じり、白い衣服を染めていく。
この少女はずっと、一人だったのだ。
この虚ろな街の中で、なぜ“高次元存在”の片割れが、少女の姿として自我を得たのかは分からない。
きっとその理由を知るのは、世界の何処かにいるであろう“神様”だけなのだろう。
少女は悠久の時を
悪意、欲望、敵意、
そんな大人達の中でたった一人、ただ純粋に――馬鹿正直に、彼女に“少女”として接した男がいた。
きっとその瞬間、彼女は“一人”ではなくなったのだ。
それこそが、エリシオがハルに執着する理由なのだろう。
自分を“ひとりぼっち”から救い出してくれた、唯一の人間。
その彼を、今度は彼女が“一人”にしたくないのだろう。
エリシオの力が限界を迎える。
覆いかぶさる質量に耐えきれず、ついに不可視の壁が砕け散り、瓦礫が迫った。
押し負け、尻餅をつく少女。
迫る無機質な“色”無き残骸。
どこにそれだけの力が残っていたのか、自分でも分からない。
だがそれでもハルは飛び起き、彼女の上に覆いかぶさっていた。
エリシオを抱きかかえ、かばうその背中に、鈍く重い衝撃がのしかかる。
偶然にも突き出した鉄骨が――ハルの背中を貫いた。
がふり、と口から大量の血が溢れ出る。
身を貫いた鉄柱が地面に突き刺さり、ようやく瓦礫が止まった。
彼の胸の中で、少女は泣き叫んでいた。
何度も何度もハルを呼ぶ。
だがもう、彼に応えるだけの力は残っていない。
痛みすら感じない。
音も、随分と遠くに聞こえる。
そんな中で、優しく触れた少女の温もりだけは、しっかりと感じていた。
ゆっくり、かすかに口を震わすハル。
胸の中で目を見開き、唖然とするエリシオに、ただ告げた。
こんな自分を、受け入れてくれて。
こんな自分を、好いてくれて。
こんな自分を、信じてくれて――ありがとう、と。
***
ビルが崩れ去り、瓦礫の山が積み重なる遥か上空から「魔王」はその光景を見下ろしていた。
もうもうと土煙が立ち込めるその奥を、気だるそうな瞳が見据えている。
彼のすぐ隣に浮かぶ檻の中から、リノアはわなわなと震えながら、声ならぬ声をあげていた。
「魔王」の力によって転移され、気が付いた時には眼下に無数の瓦礫が散乱していた。
その意味するところを、「魔王」は端的な言葉で告げる。
「味気ない、気品も何もない“墓碑”だな。戦場に生きてきたお前には、おあつらえ向きか」
不安に表情を歪ませたまま、リノアはきっと睨みつける。
「どういうこと……それって、一体――」
「死んだぞ、あいつ。あの片割れも時間の問題だろう。あいつの力じゃあ、限界だろうしな」
ビル風を受け、「魔王」は――ハル=オレホンはただ眼下を見つめている。
彼の口から告げられた事実に、リノアの震えがさらに加速する。
「嘘……嘘よ、そんなの!」
「良く頑張ったと思うよ。出来損ないにしては、上出来だ。ここまでたどり着いただけでも、大金星じゃあないか」
「ハルが……エリシオが死んだなんて、そんな嘘、信じられるものですか!」
リノアの叫びに合わせるかのように、「魔王」は足元に手をかざす。
瞬間、不可視の力が瓦礫を上からさらに圧し、押し潰していく。
大地が揺れ、周囲のビルにまでも亀裂が入りだした。
駄目押し、と言わんばかりのその非情な攻撃に、ついにリノアは悲鳴を上げる。
「やめて……やめてぇ!! ハル、エリシオ!!」
瓦礫の奥にいるであろう彼らに、必死に呼びかける。
だが、土煙の中から返事はない。
コンクリートが転がり、ガラスが割れる音だけが無情に響く。
ため息をつき、「魔王」は後ろ頭をかいた。
「分からないな、その感覚。お前にとっては、どちらも赤の他人だろう。たまたま作戦任務中に出会った“良い人”を信じるあたり、本当はそこまで頭が良くないのか?」
うんざりだ、と言わんばかりの気だるそうな瞳を投げかける「魔王」。
対し、リノアは檻を両手で掴んだまま、眼鏡越しに彼を睨みつける。
涙を浮かべ――しかし、目の前の男への敵意をまるで捨てずに。
「良い加減にしなさいよ……賢いふりして、知った風な口を効かないで! 目の前で誰かが傷ついて悲しむのは、そんなに変なことなの? あなたの言う通り、ハルもエリシオも赤の他人――だったらなによ!? 少しでも一緒にいた二人が苦しむ姿を見て、何も思わないほうがどうかしてる!」
負けたくない。
心まで、この存在に屈したくない。
賢い彼女だからこそ、その状況がどれだけ絶望的かは、的確に理解しているつもりだ。
あの瓦礫の奥にハルとエリシオがいるというならば、その結果がどうなるかは脳が自動的に導き出してしまう。
だがそれでも、諦めたくない。
二人が生還し、また目の前に現れてくれるという“奇跡”を信じたい。
父を失った、あの日と同じだ。
諦めてしまった瞬間、心にいた“彼ら”すら消え去ってしまう。
リノアの涙を見ても、「ハル」は動揺しない。
ただ淡々と、乾いた心で打ち返す。
「いかにも人間的だな。生憎、そういうのは全部、“あいつ”のほうに置いてきたんだ。代わりに俺は、こうして欲しいものを手に入れた。人間的だとか、良心だとか――そんなものはやっぱり、クソの役にも立たないよ」
ぎりっと歯を食いしばり、睨みつけるリノア。
顔を赤くし、涙が溢れ伝う彼女から「魔王」は視線をそらす。
気だるそうに、実に面倒くさそうに、彼は空を見上げた。
「あいつは――ハル=オレホンの人生は、本当にくだらないものだったよ。出来が悪い上に不条理な世界に全て奪われ、一緒に歩んだはずの“自分”にすら裏切られる。こればかりは同情してしまうよ。仮にもあいつは“俺”だったわけだからな。本当――無意味な生き方だ」
彼の言葉にまるで抑揚はない。
緊張感も、罪悪感も、高揚感も、なにも。
彼はとにかく、目の前に起こったことを淡々と処理しているだけだ。
彼にとって“力”の使い道など、どうでも良い。
世界を統べることにも、さほど興味はない。
ただ彼にとって、この“世界”が無意味なものになれば、それで良いのだ。
自身の母親を奪った“世界”が無茶苦茶になれば、それがベストなのだろう。
かつての“自分”がどうなろうが、まるでそんなことは重要ではない。
フゥ、とため息をつく「ハル」。
再び視線を瓦礫の山に落とした。
そんな彼に、リノアの言葉が刺さる。
「無意味なんかじゃあないわ。“彼”の生き方は」
静かに視線を持ち上げ、檻の中の女史を見つめる。
涙で濡れ、真っ赤に染まった眼が、まるで力強さを失っていない。
無力で、しかし負けず嫌いな人間の
そう「魔王」は分かっていながらも、どこかリノアの言葉を無視はできなかった。
「生きることに価値があり、生きているだけで尊い――とでも言うんだろう? よく聞くお行儀の良い道徳的な言葉だ」
「いいえ。生きているだけと、生きていこうとすることは違うわ。“彼”とあなたは全然違う」
明らかに、金の瞳を持つ「ハル」の目に、苛立ちの色が浮かぶ。
どれだけの脅威を秘めていようが、どれだけの圧倒的力を有していようが、それでもリノアは目をそらさない。
彼女の心の奥底で、熱された“歯車”はまだ、回っている。
「“彼”の生涯は、確かに恵まれてはいなかったかもしれない。だけどね、“彼”は記憶をなくして、全て分からない世界でも、必死にここまで進んできたの。あなたに翻弄され、怪我を負って――そのたびに悩んで、選んで、ここまでたどり着いたのよ」
檻を握り締める手に、力がこもる。
頬を伝う涙をまた一つ乱暴にぬぐい、睨み返す。
「不器用な人だなんて、接してればすぐ分かったわ。あれこれ考えすぎる性格だっていうのもね。普通の人より明らかに要領の悪い、不出来な人――でも、だからこそ、それが“彼”の本質だと思えた。姿形は異なっていて、怪物級の力を持っていても、苦悩するその姿は間違いなく“人間”だった。だから私は、彼を信じたのよ」
初めて“彼”と瞳を交わらせた時のことを思い出す。
真っ白な部屋で覚醒した彼に、反射的に首を掴まれた。
万力のような指の力が、それでも自分を見たときにかすかに緩んだことを覚えている。
あの時からずっと、“彼”はがむしゃらに進み続けた。
誰を信じるかも分からない世界の中で、それでも“霧”に覆われたその先へ、足を踏み込むことはやめなかった。
見えないものを見ようとすることは、とても怖くて、痛い。
あえて目を閉じ、耳を塞ぎ、都合の良い“今”を生きることだってできたはずだ。
それを“彼”は、良しとしなかった。
どんなに汚くとも、霧の奥に隠れた“真実”を見ようと進み続けた。
不出来で、不器用で――どうしようもなく真っ直ぐな彼に、知らず知らずのうちに誰もが引き寄せられ、ここへたどり着いたのだろう。
目の前に浮かぶ“彼”の顔は同じだ。
だがそれでも――“彼”とは違う。
「あなたはこれからどうするの? 奪った力を使って、それこそ世界の“王”にでもなるのかしら? くだらない――どっちみち、あなたじゃあなれっこないわ」
「随分と安い挑発をしてくれるな。どれだけ汚い言葉を投げようが、鋭い指摘を差し込もうが、無駄だよ。どう転んだって形勢は変わらないぞ。なにをどうしたところで“力”はこちらにある。世界そのものの生殺与奪は、この俺が握っている」
「ああ、そう。なら、消してしまえば良いじゃない。気に入らない私も。この外の世界も、皆! そうすればあなたは――またひとりぼっちよ」
他愛のない、聞き流すべき言葉だったはずだ。
だがそれなのに、リノアの放ったその一言が「魔王」の目を見開かせる。
負けてたまるか――リノアに戦うすべはない。
剣も、怪力も、銃も、何も持っていない。
だからこそ、彼女は自身が手にした唯一の武器、“言葉”だけは捨てない。
「どれだけ世界を作ろうが、そんなもの全てまやかしよ。あなたの“家族”が戻ってくることはない――人は過去になんて戻れないんだもの」
「それは、人間という枠に縛られた考え方だろう。完全な“高次元存在”は時間も、空間も支配する。なんなら、戻る方法はこの世界を壊した後で考えるさ。そうして“あの時”を変えてしまえば、全て解決する」
「そう。なら、そうすれば? でも――できなかったら、どうするの」
戯言だ――そう、分かっている。
人間という、“高次元存在”から見れば蟻にも等しい矮小な存在が放つ、負け犬の遠吠えだ。
そう、頭では分かっているのだ。
「魔王」はリノアに手をかざす。
一瞬、女史はその行為に息をのみ、身を
「やはり女は嫌いだ。最後の最後まで、きーきーと吼えたてる。もうお前も用済みなんだ。さっきも言った通り、生かすも殺すも、全ては俺が握ってる。この世界の“王”たる、俺の手にな」
あの手を一捻りすれば、きっとリノアは死ぬのだろう。
塵に変えられるのか、押しつぶされるのか、切り刻まれるのか。
その苦痛を予感するだけで体が震え、どうしようもなく鼓動が早くなる。
涙を流し、呼吸を荒げ――だが、それでもやはり、リノアは前を向く。
“彼“”だって進み続けたのだ。
ならば自分だって、諦めることだけはしたくない。
「そうね、私じゃあなたに勝てない。でもね――あなたは“王”になんてなれないわ。私を殺して、気に入らないものは全部壊す――だけど、絶対にあなたなんかに屈してはあげないし、理解もしてあげない! どんな痛みを負っても、絶対にね!」
歯を食いしばり、耐える。
湧き上がる絶望に、退こうとする本能に。
遥か下にいるであろう“彼”に聞こえるように、ありったけの声でリノアは叫ぶ。
「魔王だろうが、神様だろうが――あなたじゃあ、人の“心”なんて動かせない! あなた程度に、私達が生きた“意味”は消せないわ!」
静かに手を持ち上げたまま、黙す「魔王」。
震えと必死にせめぎ合い、涙に溢れる視界の中、前を向き続けるリノア。
儚く、脆く、しかし気高い彼女の頬から、一粒の涙が宙へと落ちる。
落下したそれは瓦礫に染み込み、その奥へ奥へと流れ落ちていった。
石と土と鉄――感情持たぬ無機質な牢獄の中で、“彼”はしっかりと少女を抱きしめていた。
“彼”にはもはや、リノアの言葉は届かない。
だがその“彼”に守られた小さな存在は、頭上で戦う女史の一言をしっかりと受け止めていた。
泥と血にまみれ、暗闇の中でゆっくりと手を伸ばす。
すぐ目の前に、光を失った“彼”の顔があった。
まだ、かすかに暖かい。
だがその熱が、流れ出る黒い血と共に、どんどん失われていくのが分かる。
少女の涙は止まっていた。
彼女は物言わぬ彼”の顔に、語りかける。
「お兄ちゃん、覚えてる? 一番最初に、私と会った時のこと。怖い人達は私のことを、お兄ちゃんに任せたの。お兄ちゃん、小さい子と話すの慣れてなくて、いつも無理矢理、笑顔作ってた」
少女の言葉に、返事はない。
それでもなお、彼女はかすかに微笑む。
「他の大人の人達に、その変な笑顔を笑われてた。でもね、私は――あのお兄ちゃんの笑顔が一番、安心できた。なんだか変だけど、それでも心が楽になったの。この人は嘘をついてないって。心から――私に笑おうとしてくれてるって」
少女の血だらけの手が、“彼”の頬に触れた。
虚ろな眼をしっかりと見据え、少女は頷く。
「嬉しかった。格好が変わって、全て覚えてなくても――お兄ちゃんは、そのままで戻ってきてくれた。あの時から変わらない。この街でお兄ちゃんは、私にとっての――大切なヒーローだもの」
とくん、と“彼”の中の鼓動が、脈を打つ。
徐々に小さくなり、消えようとする命の灯火が、かすかに明るさを増す。
少女は決意し、まっすぐ“彼”を見た。
もう、迷いはない――これから起こることに、少女は後悔はない。
そう決めたのだ。
今まで自分と歩んできてくれた、この“人間”を最後の最後まで信じると。
だから怖くない。
暗闇の中で少女は両手を持ち上げる。
小さな手が、“彼”の両頬に触れた。
「大丈夫、終わらせなんかしない。お兄ちゃんはもっともっと、もっともっと――“未来”に行かなくちゃあいけない」
微笑み、ゆっくりと“彼”の体に腕を回す少女。
消えていくかすかな温もりをしっかりと抱きしめ、己の鼓動と重ねた。
隣りあい、大きさも速度も違う二つの命が、ゆっくりと溶け合う。
「ありがとう、お兄ちゃん。あなたはいつまでも、何にも変わらない――私が大好きな、お兄ちゃん」
暗闇の中に、光が灯る。
少女の体が光に包まれ、抱きしめた“彼”の体へと溶け込んでいく。
銀色の文様が浮かび上がり、空間を走った。
少女の抱いた無数の思いを、異なる次元の文字としてありったけ、そこに刻む。
エメラルドに輝く瞳で、優しく笑う少女。
温もりと温もり、鼓動と鼓動、命と命が重なった。
抱いた決意にただただ優しく微笑み、彼女は――エリシオは笑う。
「お願い、歩み続けて。“未来”へ――あなたが生きる、“今”を消さないで」
少女の肉体が溶ける。
銀色が“彼”の体に染み込み、光を宿す。
消えかけていた意識が、止まりかけていた鼓動が、終わりかけていた命が。
少女の固めた“覚悟”で、再び生きることを決めた。
***
光が瓦礫を押しのけ、天へと立ち上る。
溢れ出る閃光に、空中に浮かんだままの「魔王」、リノアが息をのんだ。
「なんだ、おい――おいおいおいおい、何やってるんだ」
天に向かってごおごおと立ち上る、白い光。
そこら中にあの幾何学模様が浮かび上がり、瓦礫や建物に染み込んでいく。
溢れ出た力が起こす“奇跡”に、「魔王」とリノアは絶句した。
瓦礫がひとりでに動き出す。
ビルや街灯の残骸が逆再生のように再び宙に浮き上がり、破壊された部分へと戻っていった。
コンクリートが、アスファルトが、ガラスが、金属が――寸分狂うことなく、粉々になる前の形へと復元されていく。
立ち上る瓦礫の群れを、ただ唖然としてリノア達は見上げるしかない。
気が付いた時には、「魔王」が破壊したビルの上半分が、元どおりに修復されている。
慌てて振り向き、再び視線を落とす「魔王」。
足元の道路に、あの二人の姿はない。
今まで感情の揺らぎの見えなかったその表情に、初めて苛立ちの色が覗く。
「ふざけるんじゃあないぞ、おい。何だこれは――あの片割れの
視界を走らせても、二人の姿は見つけられない。
“力”によって存在を探っても、まるでどこにも見当たらない。
押し潰したはずの二人が、この“街”から消えてしまっている。
不機嫌な眼差しで、色無きビルとビルの隙間を探した。
「うんざりするなぁ、おい。最後の力を振り絞って、あいつだけ逃したというわけか。面倒なことを増やしてくれるよ。やはりもっと徹底的に、粉々にしておくべきだったか――」
どうしようもなくなり、“片割れ”の力でこの場から退いたか。
「魔王」はそんな下らない一手を察し、ため息をつく。
害虫並みのしぶとさに、嫌気が差す。
そんな憂鬱な眼差しを、ふっと檻の中の彼女に向け――視線が止まる。
黒い檻を掴んだリノアは、目を見開いて宙を見つめていた。
涙は止まっている。
先程までのような怒りや、恐れはどこにもない。
ただひたすら唖然とし、口をかすかに開いて一点を凝視している。
視線が向けられているのは、「魔王」のその背後だ。
どくん、と鼓動が跳ねた。
今までまるで感じることがなかった巨大な気配を、自身の背後から感じる。
どういうことだ――この“街”において、「魔王」の力は絶対だ。
いわばここは、“高次元存在”の領域。
知覚できないことなどあるはずがない。
確かにさっきまで、そこには何もいなかった。
にも関わらず、今はしっかりと感じ取れる。
大きく、強い鼓動を。
自身と限りなく近い、巨大な“力”を。
ゆっくりと、振り返る「ハル」。
背後の存在を捉えた金色の瞳が――ついに驚愕の色に染まる。
風を受け、長い髪がバサバサとなびいていた。
星の光を受け、輝く鮮やかな“銀”。
長く、雄々しいそれは、まさに獅子のたてがみである。
対する肌の色は、雪のように白い。
だがその白の所々に、髪の毛と同じ銀の幾何学模様が浮かび上がっている。
戦闘服はボロボロに破れ、しっかりとした骨格の上半身が露わになる。
その真っ白なキャンパスの至る箇所に、銀色が刻まれ、光を放っていた。
真っ黒な目の中心に据えられた、銀色の瞳――その真ん中で、三重の輪を描いたエメラルドの光が栄える。
雨はやんでいた。
立ち昇った光が雨雲すら振り払い、色無き街の頭上にまばゆいばかりの星空を覗かせる。
世界が巡り、明日へと進む。
どくん、どくんと鼓動の音が大気を揺らした。
力強く、確かに脈打つそれは、着実に“今”の時を刻み進む。
宙に浮かび、だらりと手を下ろした自然体のまま、“彼”はこちらを見つめていた。
リノアの目から、涙が落ちる。
心のどこかで、常に諦めてしまいそうになった。
もう、“彼”が息絶えたのではないかと。
“彼”の返事は、二度と戻ってこないのではないかと。
その不安が全て、目の前の姿に消し飛ぶ。
色なき摩天楼のその隙間に浮かぶ、新たな“色”の彼に、ただただ体が打ち震える。
「魔王」もまた、絶句していた。
目の前に再び現れた“彼”を見つめ、苦々しい顔で唸る。
「おいおい、何だよ、それは。いい加減にしろよ。あのまま終われただろうが?」
「魔王」が拳を握るのが分かった。
湧き上がる苛立ちに、再び抱いた憎悪に、ついに表情が歪む。
「大人しく、今まで通りしょげかえってろよ。お前はそういうやつだったろう? 何もできないし、何も変えれない。お前は俺に利用されるだけの存在――ここにいる“意味”なんてないんだよ!」
ついに「魔王」はしびれを切らした。
腕を振りかぶり、ありったけの“力”を目の前の“彼”めがけて放つ。
不可視の一撃はまっすぐ飛び、大気と共に空間を貫いた。
“彼”は何もしない。
ただ少しだけ「魔王」を見つめ、そして念じる。
ごぉ、という音と共に“彼”の背後のビルが吹き飛んだ。
炸裂した箇所が塵に変わり、摩天楼に大穴が空く。
その威力には、もちろん驚愕すべきだろう。
だがそれ以上にリノア、そして「魔王」は動揺してしまう。
目の前の“彼”が、その一撃を無効化したことを。
瞬間、“彼”は空間を蹴って加速し、前に出る。
その踏み込みをリノアは知覚できなかった。
唯一、“高次元存在”の力を操る「魔王」のみが、向かってくる“彼”を認識する。
間に合わない――気が付いた時には“彼”は至近距離に到達し、大きく拳を引き絞っていた。
腕を持ち上げ、防御しようとする「魔王」。
そんな動きの何分の一――否、何億分の一の“刹那”で、意識の中に“彼”の言葉が響く。
まっすぐ「魔王」を見据え、その上で“彼”は――ハルは言う。
「黙っているだとか、大人しくするだとか。もう、そういうのはしない。そんなことをしたら“あの子”に失礼だ。エリシオがくれたこの命が――無意味なわけがない」
時を加速させ、防御する「魔王」。
だがその数千倍に加速させた時間の流れを、堂々とハルが押し勝つ。
右拳は「魔王」の顔面に突き刺さり、その肉体をまっすぐ後方へ吹き飛ばす。
かつてハルがされたのと同様、今度は「魔王」の肉体がビル群を突き破り、瓦礫の奥へと叩き込まれてしまう。
「魔王」が吹き飛んだことで、リノアを拘束していた檻がバラバラに破壊された。
「きゃあ!」と言う悲鳴とともに、女史は落下を始める。
しかし、一瞬でハルが真下に移動し、彼女を受け止めた。
「大丈夫か? “あいつ”相手に、よく頑張ったな。さすがだ」
「あ――あ、えっと……」
抱きかかえられたまま、すぐ目の前の“彼”を見つめる。
人間離れした瞳、髪、皮膚。
しかし、それでもそこにいるのは、確かにリノアが出会ったあの“白い青年”――ハルだ。
返答に困っていると、再びハルの肉体が“加速”した。
正確には時間と空間を圧縮し、人間の知覚できない高速移動を成し遂げる。
リノアが気が付いた時には、すぐそばのビルの上に二人は降り立っていた。
ゆっくりと、丁寧に彼女を下ろすハル。
「大丈夫か、立てるか?」
「え……ええ、大丈夫。ありがとう。本当に――ハル……なのよね?」
改めて見ても、その姿は異質だ。
真っ白な肌はもちろんだが、タトゥーのように肉体に刻まれた銀の幾何学模様。
長く、視界を埋め尽くしそうなほどに伸びた、ざわめく銀髪。
そして、こちらを見つめるエメラルドの輪を持つ瞳。
それだけの異形の姿をしていながら、彼は今まで通り、どこか困ったように後ろ頭をかいた。
「ああ。まぁ俺もまだ、結構驚いてるんだけどさ。どうやら最後の最後に、助けられたらしい。あの子が――エリシオが力をくれたんだ」
「エリシオが……そ、それってつまり、あなたも――」
「理屈はさっぱりだが、それでも確かに感じるよ。あの子は消えてなんかいない。俺の中に、確かにいるんだ」
かつて“高次元存在”に触れたハル=オレホンがそうしたように、この時代に生きるハルもまた、少女が宿した力を継ぐことで命を再生し、新たな存在として生まれ変わった。
エリシオの“力”と“意思”を、新たな鼓動のそばに感じる。
思わずハルは胸を押さえ、少女がくれた言葉を噛みしめる。
結局、最後まであの子に救われてしまった――いなくなってしまった少女のことを思うと、少しだけその手に力が込められる。
だが、失ったなどとは思わない。
彼女の思いを、犠牲だなどとは考えていない。
エリシオは託したのだ。
自身が宿した力ごと、その思いを新たな世界へ繋げるために。
モノクロームの“風”が、向きを変える。
地響きが、二人の顔を同時に持ち上げさせた。
「魔王」が吹き飛び、崩れ落ちたビルの残骸が持ち上がっていく。
それは空中で互いに絡み合い、ある一つの“像”を作り上げていった。
屋上に立ったまま、リノアは唖然としてしまう。
立て続けに起こるその規格外の状況に、もはや思考を追いつかせるのがやっとだ。
ここではもはや、理論などは意味をなさない。
「何が――これから、何が起こるっていうの」
彼方に作り上げられていく“それ”を見て、戦慄するリノア。
その隣に立つハルも拳を握りしめる。
「このまま奴も、おとなしくする気はないんだろうな。もうこうなったら、全て奪い去るまで止まりはしないさ。あいつはもう、人間だった頃のやつじゃない。全部を壊し尽くす――『魔王』なんだ」
法律や戒律、正義や悪という人間の理論は、もう通じない。
彼は自らその名を語り、周囲にそう公言していたのだ。
人々を導き、光を示す“王”ではない。
破壊と混沌、闇を持って世界を支配する「魔王」として。
ずん、とまた大地が揺れる。
瓦礫同士が組み合わさって作られた巨大な“腕”が、小さなビル群を押しのけ姿を現した。
その破壊した建造物すら取り込み、肉体として利用している。
上半身だけの瓦礫の巨人が、そこにはいた。
ビルを砕き、無理矢理に接合し直すことで頭、首、胴体、そして両腕を作り上げた、異形の姿。
その巨人の喉元から、あの声が響く。
「“意味”なんて、どこにもないと泣け。“明日”なんて、二度と来ないと嘆け。それだけだ。それだけがお前らに許された、唯一の“道”だ」
巨人の
その肉体の奥底にいる「ハル」が、ありったけの憎悪を持って吠えた。
真正面から叩きつけられる、純粋な拒絶。
その異形の姿を目の当たりにしてもなお、ハル、リノアは退きはしない。
明日を肯定し、暁に向けて歩む者。
明日を否定し、混沌に向けて堕ちる者。
異なる次元を内に宿した二人の「ハル」は、人ならざる瞳に、しっかりと互いの姿を焼き付けていた。
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