第27章 バケモノの王

 とあるビルの階段を登り、ただひたすら上を目指した。

 霧が立ち込める中、階段の先に待っていた金属製のドアの前で立ち止まる。


 屋上に続いているであろうそれは、どこにでもある何の変哲も無い扉だ。

 しかし、対峙するハルとエリシオは、向こう側から伝わる明らかな気配に緊張を隠せない。


 何度も深呼吸し、蓄えた熱を吐き出す。

 すでに足元も真っ白な霧で覆い隠され、見えなくなっていた。

 街の中心部に近付けば近付くほど、霧は濃さを増し、視界を覆い隠そうとする。


 エリシオの案内がなければ、ここまで来れなかっただろう。

 少女はエメラルドに光る瞳のまま、まっすぐ扉の奥を睨みつけている。


 そんな彼女に、汗をぬぐいながら問いかけた。


「いるんだな、この先に――“奴”が」


 こくり、と頷く少女。

 半ば分かっていたその回答に、それでもハルは「そうか」と前を向きなおす。


 静かだ――今となってはヴォイドの獣哮も、兵器の無粋な発砲音もまるで聞こえない。


 まるで時が止まった世界のように、霧に包まれた街は穏やかだ。

 そんな静寂の中にあってもなお、扉の向こうから感じる強烈な気配に、肉体が戦慄する。


 ゆっくりと、ドアノブに手を掛けるハル。

 そんな彼に、少女は前を向いたまま告げた。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 手を止め、振り向く。

 ハルの視線を受け、エリシオもまたこちらを見上げた。


 人ならざる光を宿した、しかしどこまでもあどけない少女の眼差しが、震えず、うろたえず、ただじっとこちらを見つめる。


「私、最初は二度とお兄ちゃんが戻ってこないと思ってた。そうすれば、“あいつ”もなにもできないだろう、って。だけど、それじゃあダメだったんだね。それはきっと、逃げていただけ――何かを終わらせるには、どんなに辛くても、向き合わないとダメなんだ」


 それこそが、幼く、純粋な彼女が学んだ唯一のことなのだろう。

 ハルを見上げたまま、彼女は確かに笑って見せた。


「すっごく、怖いよ。でも、同じくらい『大丈夫だ』って思えるの。お兄ちゃんがまた一緒にいてくれる。見た目は変わっても、何にも変わらない、“あの日”のお兄ちゃんがいてくれるから」


 前を向きなおすエリシオ。

 人々の“善意”という無垢から生まれた彼女は、この先に待つであろう自身の片割れを見据えている。


 その圧倒的な“悪意”を前にしてもなお、ハルもやはり気持ちは揺らがない。

 前を見つめ、再び手に力を込める。


「こちらこそ、ありがとうな。こんな俺を――“英雄”になれない出来損ないを、信じてくれて」


 扉を開け、外に出る。

 周囲を覆っていた霧が晴れ、飛び込んできたのは一面の“夜景”だった。


 歩み出たのはビルの最上階――広大なヘリポートの上である。


 かなり高いビルにいるようで、周囲を取り囲む摩天楼の光と、その隙間に漂う霧の白い海がはっきりと見て取れる。

 空を見上げると、黒い闇の中に無数の星の光が浮かんでいた。

 ここに来るまでに見た空とはまるで違う。


 いつのまに夜がやってきたのか。

 その答えは、二人の眼前に立つ“彼”が知っていた。


 その存在をまっすぐ見据え、ゆっくり前に出るハルとエリシオ。


 “彼”はこちらに背を向けたまま、言う。


「おめでとう。よくぞたどり着いた、勇者達よ――とでも、言うべきか? 『魔王』である以上」


 かすかな風に、身につけた外套がはためく。

 黒いフードを被った“彼”は、そのまま続けた。


「その様子だと、もう取り戻してるんだな? 以前の自分を。出来損ないのあの頃を」


 挑発に歯を食いしばり、怒りをあらわにするエリシオ。

 だがあくまで冷静に、ハルは“彼”に切って返した。


「ああ、全部思い出したよ。お前の言う通り、自分の不甲斐なさが嫌になったさ。俺がもっとしっかりしていれば、こんなことはもっと早く解決したんだ。確かに俺は――とんでもない罪人だな」


 まるでうろたえないハルの一言が、「魔王」の心を刺激する。


 ようやく“彼”は振り返り、こちらを睨みつけた。

 フードのせいで顔は見えない。

 だが整った口元と、ギラギラと光る目だけが覗く。


しゃくだな、その言い方。皮肉のつもりか? いつからそんなに饒舌じょうぜつになった」

「さあな。打ちのめされて、迷って、悩んで――そんなこんなしてたから、成長できたのかもしれないな」


 こうしている今もなお、対峙する“彼”から放たれる濃厚な殺気を、ビリビリと感じていた。

 今まで立ち向かった黒い怪物達とは、明らかに質が違う。

 姿形は人間のそれでも、本能がまるで別の怪物を錯覚している。


 押し負けてはいけない、攻めろ――自身を奮い立たせ、ハルは言葉を叩きつける。


「リノアはどこだ。無事なんだろうな」


 この問いかけに、「魔王」は重々しいため息をついてみせた。


「焦るな。ちゃんと用意しているさ。癖のある女だ、本当にわずらわしいよ」


 “彼”は構うことなく、空中に手をかざす。

 瞬間、何もない空間に大きな“穴”が開く。

 まるでブラックホールのように渦巻く黒い穴から、宙に浮かぶ“檻”が姿を現した。


 その中に囚われた緋色の髪の女性が、檻を両手で掴み、声を上げる。


「ハル! エリシオ!」


 宙に現れた見覚えのある姿に、ハル達も息をのむ。

 空に浮かぶ黒い檻の中には、「魔王」に連れ去られた女史・リノアがいた。


 ひとまず命に別状がない様子に、胸をなでおろすハル。

 だが依然として、彼女が囚われている状況は変わらない。


「良かった、ひとまず元気そうで何よりだよ。待ってな、すぐに助けてやる」


 ハルの力強い一言に、不安げにこちらを見下ろすリノア。

 しかしこれには、また一つ「魔王」がため息をついた。


「勇ましいことだ。気分はすっかり“英雄”気取りか。お前の昔からの夢だったものな。世界を救うヒーローになるのは」

「自分が“英雄”になんてなれないってのは、理解してるつもりさ。けどまぁ、それでも――夢は夢だ。憧れは捨ててないよ」

「懲りない馬鹿だな。なれるわけがない。ヒーローがヴィランを倒して平和が訪れるのは、人間が生み出したつたないテンプレートな物語だけだ。現実は非情でえげつない――お前だって“戦場”にいたんだ、知っているだろう?」


 彼の言葉に、ハルはどこか心の奥底で納得してしまう。


 現実というのは常に非情なものだ。

 法や道徳など、極限状態においてはまるで役に立たないことを知っている。

 世界平和を謳ってなお、人は奪うために人を殺すし、快楽のために人を犯す。


 その姿はさながら、“獣”のそれと同じだ。

 歯噛みするハルに、「魔王」はさらに追撃する。


「この街並みに、本当は覚えがあるだろう? どれもこれも、貧しいあの村で見た“街”の光景だ。覚えてるよな?」


 ずきり、と心が痛む。

 拳を握るハルの顔を、エリシオ、リノアが不安げに見つめた。


 静かに、重々しくハルは頷く。


「ああ。このビルの群れを見て、やっと思い出したよ。ここだけじゃない、最初から今まで全部――これは“俺達”が憧れた、外国の街並みだ」


 今度は「魔王」が頷く。


「街の酒場にあるオンボロなテレビを、食い入るように見ていたよな。美しい街並み、活気付いた人々の姿、発展するビルの群れ――遠い海の向こうにある文化と進化に、いつだって心がおどった。持たざる者にとっては、そんな景色すらただの“異界”なんだ」


 その言葉と共に、魔王も静かに拳を握りしめた。

 内に湧き上がる思いが、殺気となって一同を威嚇いかくする。


「願っただけだろう、“俺達”は――こんな街で、摩天楼の上から見る景色を眺めてみたい。そう思っただけだろう。なのになぜ、奪われなきゃあならなかったんだ。“俺達”の大切なもの、全てを」


 その言葉の意味するところを、誰しもが察する。


 貧しい村で、それでも家族と幸せに暮らしていた。

 しかし、内紛というあまりにも不条理で理不尽な“力”の群れが、ハルから全てを奪い去ってしまう。

 その過去こそ、目の前の存在を生み出したきっかけに他ならない。


 つまりそれこそが、「魔王」を今日まで突き動かしてきた、全ての元凶だ。


「始めたのは奴らだ。俺から全てを奪った、クズみたいな人間の群れだ。あいつらが奪ったから、俺がこうしてここにいる。それの一体――何が悪いんだ?」


 誰しもが理解してしまう。


 この「魔王」が、これからなにをしたいのか。

 この“街”を奪い去った、その理由はなんだったのか、を。


 一同の思いを、ハルは拳を握りしめたまま代弁する。

 “彼”を最も知る者として、決して視線をそらさずに。


「お前は俺の――あらゆる“理想”だった。母さんが言ったように、強くて、明るくて。俺の望む“俺”を全て持っていた。全てを奪われたことに対する、“怒り”までも」


 そんな、単純なことだったのだ。


 “高次元存在”かどうかなど、どうでも良い。

 重要なのは、目の前に立つ“彼”が成し遂げたかった、たった一つの願望そのものなのである。


 全てを奪われ、全てを終わらされた。


 そんな“世界”に鉄槌を――たった一つ身に宿った、果てしない底抜けの“怒り”こそが、「魔王」を生んだ。


 また一つ、ふぅとため息をつく「魔王」。

 彼は少しだけ顔を持ち上げる。


「結末なんてどうでも良いさ。興味がない。この街を世界に広げて支配しようが、星ごと“高次元存在”の力によって壊滅させてやろうが、どうにでもなる。人間というクソのような生き物が消えれば、それで満足だ」


 ついにこの一言に、リノアが声をあげた。

 告げられた「魔王」の真意に、堪らず身を乗り出す。


「たったそれだけ……本当にその“執念”だけで、あなたは世界を支配しようというの?」

「分かってるさ、ギャーギャーわめくな。おかしいし、狂ってるよな? 結構、その通りだ。まともじゃあない。立派な異常者の考え方さ、これは」


 あえて自身を卑下し、それでもなおまるで弱みを見せない姿は、“皮肉”そのものが形を成しているかのようである。

 人間としてのロジックが、この存在には当てはまらない。


「そんな異常者の狂った怒りも、もうすぐ成就してしまう。お前を殺し、そいつを手に入れればな」


 エリシオを指差す「魔王」。

 だが少女はキッと彼を睨み、吠える。


「させないよ、そんなこと。奪われたから奪い返して、気に入らないから全部壊す――そんな“わがまま”、絶対にダメ! そんなことに、この力は使わせない!」


 少女の腕は震えていた。

 対峙する怪物を前に、やはり彼女の心は純粋すぎる。

 目の前に立つ存在が持つ暗黒に、恐怖が湧き上がるのだろう。


 だがそれでも、目を背けることはしない。

 それはエリシオの見せた、明らかな抵抗の意思だ。


 だからこそハルも引かない。

 ゆっくりと“柄”を握り、前を向く。


 摩天楼の上に漂う無味無臭の空気を吸い込み、吠えた。


「お前がわがままで世界を壊すっていうなら、それでいい。だったら俺は、俺のわがままでお前を止める。そんなくだらない理由で、ここに来たんだ。これは――40年前の“喧嘩”の続きだ」


 英雄と魔王による、決戦ではない。

 時を超越した存在同士の、聖戦でもない。


 これから行われるのは、ただの喧嘩。


 ハル=オレホンという“二人”の人間が、互いに譲れないからこそ起こる、そんな下らない力比べだ。


 風が駆け抜け、肌を撫でる。

 きっとこれもまた、“彼”の中にある憧れの都市に吹く、仮初かりそめの風なのだろう。


 どれだけ美しくても、どれだけ穏やかでも。

 ここにある全ては間違っている。


 身構えるハルとエリシオ。

 固唾を飲んで見守るリノア。


 彼らの視線を受け、また一つ「魔王」はため息を漏らす。

 彼はおもむろに、被っていたフードを脱ぎ去った。


 息をのむエリシオとリノア。

 そして、心を締め付ける思いに、歯を食いしばるハル。

 

 荒々しく跳ねた黒髪と、同様に黒く、雄々しく生え揃った眉毛。

 開かれた眼に浮かぶ瞳は少し小さく、ぎょろりとこちらを見据えている。


 整った顔立ちを持つ青年だ。

 かつて過去のデータで見たままの、“彼”の顔である。


 それでいて、その金の瞳は発光していた。

 彼の宿した野心の輝きが、視線と共に叩きつけられる。


 快活さなどもはやない。

 誰かを楽しませる仮初めの笑顔など、あるわけがない。


 彫刻のようなただ冷たい表情を浮かべ、“彼”は――もう一人の「ハル」が言う。


「もうあれやこれや、問答を繰り返す気なんてないさ。だから、おいで――叩き潰してやる。“希望”を抱くことなんて、馬鹿馬鹿しいと思えるほどに」


 戸惑いは消えない。

 迷いも焦りも恐怖も、確かにその身に宿ったままだ。

 それでも前を向き、対峙する“彼”へと向かう。


 やっとたどり着いた、あの日の姿に向けて、吠える。


 摩天楼に、ハルの雄叫びが響いた。

 アスファルトを蹴り、前へと肉体を押し込む。

 向かい風を突き破り、真っ白な男は一気に距離を詰めた。


 あまりの速さに息をのむリノア。

 だがまるで躊躇ちゅうちょすることなく、ハルは展開した剣を真上から振り下ろす。


 ドンッ、という音と共に刃が止まる。

 剛剣は「魔王」の体に触れるスレスレで、見えざる力に受け止められてしまった。

 ひるむことなく、すぐさま刃を引き戻し、再び切り込む。


 一撃、二撃、三撃――横から、下から、上から、あらゆる角度と速度、緩急を込めて剣を振るい続ける。

 そのたびに、空気の爆ぜる音と共に衝撃が殺され、「魔王」には到達しない。


 歯を食いしばり、重厚な刃を振り続けるハル。

 その猛攻を前にしてなお「魔王」は手を下ろし、自然体のまま直立している。


 うんざりだ、と言わんばかりに彼はため息をつき、軽く手を持ち上げた。


「勇ましいことだな。身の丈ほどの剣、いかにも“勇者”のそれだ」


 掲げた「魔王」の手を見て、リノアが眉をひそめる。

 親指に人差し指を引っ掛けたまま、力を込めるその形に見覚えがあった。


 剣を振り上げ、渾身の一撃を打ち込もうと飛び上がるハル。

 その猛々しい顔めがけて、「魔王」は人差し指を弾いた。


 でこぴん――そんな誰しもが知っている他愛ない動作が、パァン、という乾いた音と共にハルを吹き飛ばす。

 額に叩き込まれた衝撃が白い肉体をぐるぐると回転させ、背中からアスファルトに落下させた。


 激痛と共に、おびただしい量の血が溢れ出ている。

 たった一撃で肉体が大混乱を起こし、視界がグワングワンと揺れた。


 意識が飛びそうになるも、歯を食いしばって耐える。

 なおも握りしめた柄に力を込め、あらん限り振り抜いた。


「なめるな――!」


 身をひるがえしながら乱暴に、がむしゃらに剣を振り抜く。

 剣先がアスファルトをえぐり、削り飛ばした。

 怪力をこれでもかと乗せた剛剣は、ヘリポートに三日月のような爪痕を残す。


 しかし、それも当たらない。

 顔を上げた先に「魔王」の姿はなく、一瞬、混乱してしまうハル。

 だが、彼を呼ぶリノア達の声で、察してしまう。


 視線を走らせ、絶句する。

 振り抜いた刃のその切っ先に、「魔王」が静かに乗っていた。


 ハルが腕を引き戻すよりも早く、「魔王」が素足を振る。

 もはや蹴りとも呼べないような軽い動きで、またもハルの顔面が弾き飛び、後方へ吹き飛ばされた。


 血と砕けた歯を撒き散らしながら、何度もアスファルトの上を跳ねるハル。

 すぐさま立ち上がろうにも、激痛と共に脳が揺れ、視界が定まらない。


 リノアがたまらずハルの名を叫ぶ。

 その女史の声に、なんとか立ち直り顔を持ち上げた。


 「魔王」はなおも非情に攻め立てる。

 立ち上がろうとするハルに両手をかざし、念じた。


「ここでは全てがお前の敵さ――味方なんていない」


 瞬間、「魔王」の手から、ありったけの火炎が湧き上がり、大蛇のようにハルを飲み込んだ。

 ヘリポートの上が一瞬で火の海と化し、熱波にリノアとエリシオは顔を覆う。


 さらに腕を振り抜く「魔王」。

 一同の頭上に雨雲が姿を現し、おびただしい量の雨が火の海へとなだれ込んだ。


 そして、その雫を縫うように落雷が駆け下り、火柱に包まれるハル目掛けて何度も炸裂する。


 目の前で引き起こされる超常現象に、唖然とするリノア。

 ペテンやトリックの類ではない。

 「魔王」はそれらの自然現象を、自在に操って見せている。


 なおも腕を操る「魔王」。

 実に気だるそうに動く掌に合わせて、今度はハルの周囲の空気が動く。


 火炎と落雷、雨粒を巻き込み、巨大な竜巻がヘリポートの上に生まれる。

 風の柱はハルの体を覆い隠し、瞬く間に飲み込んだ。


 空間が軋み、ヘリポートが揺れる。


 人智を超越したその猛攻の数々に、リノアはとにかく前を向き、その名を呼び続けることしかできない。


 これだけの超常現象を起こしておきながら、「魔王」はただため息をつく。

 “高次元存在”の力によって操る“理”の力は、離れた位置にいるであろうもう一人の“彼”を容赦なく攻め立てた。


 風が渦巻き、その中で踊る火炎と、何度も打ち込まれる稲妻。


 それら自然の牙が一瞬にして吹き飛び、砕け散った。

 風が止み、炎が散り、雷が反れる。


 息をのんだのは、リノアだけではない。

 力を操っていた「魔王」も同じであった。


 ハルはまだ生きている。

 巨大な剣を地面に突き立て、盾のように身を隠して己の身を守っていた。


 とはいえ、そんな物理的な障壁で、荒れ狂う自然を受け止めることなどできない。

 戦闘服は焼け焦げ、所々が破れてしまっていた。


 ハルの周囲に広がる、銀色の幾何学模様――その“防壁”の正体を察し、「魔王」が振り向いた。


 離れた位置で、エリシオもまた“力”を発揮している。

 両手をハルにかざし、彼を守るために“ことわり”の力で守り続けていた。


 ざわざわとなびく銀の髪。

 そしてエメラルドの光を煌々と放つ瞳。


 小さな片割れに向けて、「魔王」はうんざりした眼差しを向けた。


「やはりお前は、初めに潰しておくべきだったな。いつだって“善意”というやつは、くだらない邪魔をする」


 そんな「魔王」に向かって、エリシオが両手をかざす。

 歯を食いしばり押し込むと、「魔王」の顔が大きく後方に弾け、のけぞった。


 何度も意識を集中し、“力”を叩き込み続ける。

 摩天楼の屋上に不可視の衝撃音がいくつもこだまし、周囲のビルのガラスを軋ませた。


 どれだけ肉体を弾かれようと、「魔王」は何事もなかったかのように体を起こす。

 再び、金色とエメラルドの瞳が交差した。


「くだらなくなんてない……私達がここまで歩いてきたことは、絶対にくだらなくなんてない!」

「“高次元存在”でありながら、滑稽だな。“善意”なんていう綺麗事がもたらしたのが、そのガキの姿か。何も知らず、馬鹿のように何かを信じる。だから周りの誰かを不幸にするんだ。あの“馬鹿”がそうだったようにな」

「お兄ちゃんを――馬鹿にするなっ!!」


 ありったけの怒気を乗せ、「魔王」目掛けて力を放つエリシオ。

 しかし、ついに巨悪も片手を持ち上げ、切り返す。


 世界そのものが軋んだように錯覚した。

 少なくとも、遥か頭上からその衝突を見つめるリノアには、そう認識できたのである。


 エリシオと「魔王」の間で見えざる力がぶつかり合い、せめぎ合う。

 空間が何度も歪み、不可視の攻防を第三者にも悟らせた。


 軽く「魔王」が手首をひねると、押し負けたエリシオが後方に弾き飛ばされた。

 尻餅をつきつつ、彼女は向かってくる“力”をなんとか反らし、弾く。


 行き場を失った「魔王」の一撃は、遥か後方にあるビルの壁面に炸裂した。


 ガラスが全て砕け、ビルの中間部分が円形に吹き飛ぶ。

 その規格外の光景に、リノアは言葉が出ない。


 音を立てて崩れていくビルを背に、それでもなおエリシオは立ち上がって見せた。


 再び手を持ち上げ、狙いを定める「魔王」。

 しかし、彼の真横から振り抜かれた斬撃が、その一手を止める。


 ハルが再び至近距離に到達し、剣で襲いかかっていた。

 やはり刃は「魔王」に到達せず、スレスレで受け止められてしまう。


 何度も切り込むハル。

 そして幾度となく「力」をぶつけるエリシオ。


 二人にできる最大限の抵抗を、最大限の力で行使し続けていた。

 それを俯瞰で見つめるリノアは、己が胸を押さえ、湧き上がってくる恐怖に歯噛みする。


 勝負にならない――ハルの身体能力と剣も、エリシオの持つ“高次元存在”の力も、常人からすれば圧倒的な脅威なのだろう。

 事実、この二人は幾度となくそれを使って、あの黒い獣・ヴォイドを打ち倒してきたのだ。


 だが、今回ばかりは違う。


 あそこに立つ「魔王」――もう一人の「ハル」に、それが通用するイメージが湧かない。


 ハル達に勝ってほしい。

 それは、まごうことなく事実であり、リノアが抱いた最も強い願望に他ならない。

 だがそれでも、こうしてヘリポートの上の光景を見て、分かることがある。


 今の二人では、あの存在には勝てない、と。


 エリシオの“力”を片手で受け止めつつ、「魔王」は荒れ狂う刃のその先を見つめた。

 猛獣のように牙を剥き、剣を振り抜くハル。

 そんな彼に向けて、「ハル」は静かに問いかけた。


「もう分かっているはずだぞ。勝てない、と。無駄な努力はすべきじゃあない。疲れるだけだ」


 対し、それでもハルは刃を止めない。

 汗を吹き飛ばし、ありったけの熱を抱き、それでも加速を続ける。


 数十年ぶりに出会う“自分”に向けて、刃の一撃と共に吼えた。


「勝てるからやるとか、勝てないからやらないとか――そんなんじゃねえよ。俺は俺自身の“決着”をつけるために、ここに来た。だからやる、それでいいんだ!」


 振り下ろされた剛剣が、やはり「魔王」の首元で止まる。

 その言葉に少し俯きつつ、それでも「魔王」は気だるそうに答えた。


「昔からそうだったな、お前は。弱々しくても、その実、ひたすらにわがままなんだ。だからこそ厄介なんだよ。こうと決めたら、どれだけ揺さぶっても曲げやしない。やっぱりお前は、変わらないな」


 ここで初めて、「魔王」がハルに対して動く。


 向かってくる刃を指差し、念じた。

 キィン、という甲高い音と共に、見えざる力が刃を弾き飛ばす。

 衝撃に耐えきれず、柄はハルの両の手を離れてしまった。


 くるくると宙を舞う剣。

 同時に押し負け、またも尻餅をついてしまうエリシオ。

 押し負けたその姿に、息をのむリノア。

 仰け反り、それでもなおこちらを睨みつけるハル。


 そんな状況下において、やはり「魔王」の口から漏れたのは、ため息だった。


「だから奪われるんだよ。あの時も、そして――今、ここでもな」


 「魔王」は一歩を踏み出し、直接ハルの首を掴み上げる。

 たまらずハルもその手を外そうともがくが、万力のような力にビクともしない。


 あがき、苦しむハル。

 そしてそれを見上げ、無表情の「魔王」。


 かつての自分を少しだけ眺めた後、「ハル」は一手に出た。


 あらん限りの力で振りかぶり、ハルの体を投げ飛ばす。

 真っ白な肉体はヘリポートを真横に飛び、そのまま空中へと投げ出された。


「ハル――!」

「お兄ちゃん――!」


 リノア、エリシオが彼を呼ぶ。


 ぐるぐると回転する視界の中で足場が消え、浮遊感がその身を襲った。

 そんなハルに静かに手をかざし、「魔王」は念じる。


 終焉を――ドンッ、という音がハルの中心で響く。


 衝撃が腹部で弾け、白い肉体を彼方へと吹き飛ばしてしまった。

 再び、彼の名を叫ぶリノア。

 しかし、ハルは彼方のビルを突き破り、更に飛んでいく。


 一瞬、ふわりと「魔王」の体が浮いた。

 次の瞬間、彼の体は光に包まれ、その場から消えてしまう。


 混乱するリノアだったが、唯一事態を把握したエリシオが立ち上がり、同じように念じた。

 少女の体もまた、銀色の光に包まれて消えてしまう。


 訳も分からず、ビルの上空に取り残されるリノア。

 不安と恐怖に包まれたその眼差しは、遠く離れたビルを見つめている。


 ハル――心の中で彼の名を呼んだ。


 霧に包まれた摩天楼のその奥から、不穏で嫌な破壊音が遠く響いていた。

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