第25章 心の海

 真っ白な霧の海で、もはやリノアはあちこち駆けまわることは止めた。

 どれだけ走ろうが、どちらに向かおうがまるで無駄。

 霧は際限なく視界を包み込み、脱出の糸口すら見えない。


 大人しく白い空間に腰を下ろす彼女に、声が響く。


「物分りが良くて助かるよ。ギャーギャーわめき散らされては、耳障りだからな。事が始まるまで大人しくしていてくれ」


 リノアは周囲を見渡すことすらしない。

 そんなことをしても、“彼”がそこにいないことは分かりきっていた。


 ただ、だからと言って黙っているのもしゃくだ。

 座り込んだまま、虚空に向かって吠える。


「大人しくして欲しいなら、もう少し気を利かせて欲しいけどね。せめて椅子くらい、どうにかならないのかしら? それこそ、金切り声でもあげたら支給してくれる?」


 リノアの言葉が途切れた瞬間、彼女の体がふわりと浮き上がる。

 息をのんだのも束の間、気がつけば一人掛けのソファーに座っていた。


 唖然とし、リノアは迂闊にも「どうも」とつぶやいてしまう。

 悔しいことに、実に快適かつ高級な革仕立ての椅子である。


「女というのは昔から大嫌いだよ。身勝手でわがままで――それでいて狡猾だ。かつての部隊にも一人いたが、あいつもろくな女じゃあなかった。明るく振る舞うその実、“殺人衝動”を満たしたいがために“暗部”に加入したサイコパスさ。狂っている。虫唾が走るよ」


 かつて「ウォッチャー」に所属していた際の思い出を、苦々しく語る「魔王」。

 リノアは脳に響く声に耳を傾かせつつ、慎重に考えた。


 このままペースを掴まれたままではダメだ。

 何か突破口を考えなければ――少しでも牙城を崩すべく、とにかく言葉を持って切り返す。


「あら、意外ね。随分と女運がなかったみたい。『魔王』になっても、恋愛ってうまくいかないのね」

「逆上させて隙を作ろうと考えているなら無駄だぞ。お前はあくまで、“あいつ”をおびき寄せるための釣り餌でしかない。逃げ出すことは絶対に許さん」


 ギョッとし、息をのんでしまう。

 こちらの思惑が、やはりこの存在には手に取るように分かるらしい。


「そう……来るかしらね、ハルは?」

「そうやって、分かっていながらあおるように問いかけるのも無駄だ。不愉快だぞ。お前だって分かっているはずだ。あいつらは――必ず来る、と」


 負けるな、押し返せ。

 リノアは歯を食いしばり、霧の中を睨みつける。


「どうかしらね? なにせ私とハルは、作戦こそ一緒にこなしてたけど、そもそもが赤の他人よ。血縁関係でもなく恋人でもない、関係ない女一人のために、わざわざ危険を冒して戻って来るかしら?」

「戻って来てるさ、すでに。あの“片割れ”を先頭に、勇ましくな。まるで聖者の行軍だ」


 再びギョッとしてしまう。

 “片割れ”というその言葉にも、ことさら強く反応してしまった。


「奴――今は『エリシオ』と名乗っているか。こんなことになるならば、もっと確実に潰しておくべきだったな。そうすれば既に、こんな下らない争いも終わっていたかもしれん」


 椅子に浅く腰掛けたまま、リノアは慎重に問いかける。


 思わず、自身の胸元に手を当てていた。

 深々と貫かれた傷は、衣服ごと綺麗に“再生”――否、“巻き戻されて”いる。

 その超常現象をしっかりと噛み締めながら、虚空に向けて言う。


「あの子もまた、“高次元存在”の一端なのね。しかも、彼女はあなたとは違う。きっとあの子は――純粋な“高次元存在”そのものが、形をとった存在」


 一瞬、目の前の霧は沈黙する。

 だが、すぐにあの気だるく、傲慢な声が跳ね返ってきた。


「ご察しの通りさ。だが、純粋か不純かはさほど関係はない。現にこうして、街を操る力を有しているのはこちらなのだからな。実に邪魔な存在だ。そもそも、奴が“力”を隠しさえしなければ、こんなことにはなっていない」


 連れ去られ、霧の海に囚われてから、もうどれくらいの時間が経ったのだろうか。

 どこにいるかも分からない「魔王」とこうして、随分言葉を交わしたように思う。


 彼の口からさらりと語られるのは、学者として生きるリノアにとってはあまりにも規格外かつ、興味深い内容ばかりだった。


 “奴”の意識をかき乱すため、そして何よりこの一連の事件を紐解くため、リノアは思い切った一手に出る。


「ずっと分からなかったのよ。仮にあなたとあの子が“高次元存在”をその身に宿しているとして、そもそもその二つを分けたのは何なのか――40年前、あなたがあの街で追い求めた“力”の本質とは、なんなのか――」


 間違いなく、目の前――否、霧の中に隠れた“彼”はそれを知っている。


 そもそも“高次元存在”とは、彼らが手に入れた“力”とはなんなのか。


 それを、この「魔王」という存在が答えてくれる保証はない。

 これはリノアにとっての、完全な賭けでもあった。


 聞き出すチャンスは、もはやここしかない。

 ある意味で冷静に、争いもなく「魔王」と対話できる今、この瞬間しか。


 やはりしばらく、霧は静寂を保っている。

 視界を走らせても、人影すら見えない。


 音もなく、匂いもなく、温度もない空間の中で、たった一つ与えられた椅子に腰掛けて、リノアは待つ。


 やがて、仮初めの大気が震えた。


「人の“感情”とは、なんだと思う?」


 唐突な質問に息をのむ。

 身構えていたはずなのに、完全にガードをかいくぐられてしまった。

 冷静に取り繕いつつも、リノアは考えた。


「感情――それはつまり、脳の電気信号による人間特有の心持ち――とでも言えば満足なのかしら?」

「いかにも学者らしい、小難しくて、どこか無知を下に見た回答だよ。そういうのじゃあない。湧き上がった“感情”は――人の“思い”とは、どこに行くと思う?」


 眉をひそめ、回答に困る。

 そもそも感情が“行く”とは、どういうことなのだろうか。


 リノアにとって人の“心”とは、人が人たる上で最重要な要素だと理解している。

 その上で、それは発達した脳が作り上げる喜怒哀楽の揺れ幅であり、進化した脳だからこそ生み出す事ができる概念だと、理解しているつもりだ。


 言葉を詰まらせるリノアに、「魔王」は告げる。


「人間は生きている上で、ありとあらゆることを“考え”ている。無数の“思い”が生まれ、そのたびに人は行動し、また新たな“思い”が生まれる。人が生きるという事は感情の連鎖であり、“思い”なくして人は進めない」

「急に随分と、道徳めいたことを言うのね。あなたにもまだ、人を賞賛する気持ちが残ってるのかしら?」

「賞賛するか、罵倒するかなどはどうでも良い。重要なのは――“思い”が消えず、どこかに蓄積されていたとしたらどうする?」


 思いが蓄積される――リノアは霧の海を睨みつけ、考えた。


「物体とは常に変化し、決して消えずにこの世界に漂っている。氷が溶ければ水になり、さらに温度が上がれば蒸気になる。目には見えないレベルに変化しても、確かに物体はこの世界のどこかに存在している。“思い”も同じだったんだよ。人間の“思い”は消えるたびにある次元に格納され、また次の“思い”を生み出すために使われる。いわばそれは――次元を超えた共通の“心”だ」


 唖然とし、身を乗り出しそうになった。

 高次元存在という眉唾な存在だけでも、リノアにとっては荷が重い。

 さらにその上、この「魔王」は新たな概念を堂々と、惜しげも無く披露してきた。


 世迷言か、あるいは――探りをいれるように問いかける。


「つまりそれは、人間の“思い”もエネルギーとして形を持ち、それが“質量保存の法則”に伴って、別次元に格納されている、っていうの? 途方もない話ね。さすがに理解しかねる超理論よ」

「理解して欲しいなどと思っていないさ。ただ、不可解だと言うから教えてやっているだけだよ。我々が出会った高次元存在は、その“思い”の溜まり場――“善意”と“悪意”のそれぞれが渦巻く、意識の海の存在なのだと」


 うろたえまいと覚悟していても、リノアは息をのんでしまった。

 彼女を待たず、「魔王」は続ける。


「その上で、人間という生き物は実にくだらない。“善意”を尊いとのたまうくせに、実際は遥かに“悪意”の量も質もが上をいく。そうして高次元存在は育っていったのさ。人間達が長い歴史で蓄え続けて来た、極上の“悪意”を餌にな」


 拳を握ると、自身の汗でじっとりと濡れていた。

 呼吸を必死に整えつつ、リノアは眼鏡越しに霧を睨む。


「つまり、こういうこと? “高次元存在”は、私達人間が抱く“思い”を糧として、別の次元に存在し続けていた。あなた達がその身に宿したのはそれだ、と」

「この身に宿った“悪意”だけでも、この世界などどうにでもできる。だが何事も、中途半端は良くない。どこかに不安を残したまま生きていくなど、矮小な人間がやる事だ。完璧になるためには、もう一方を手に入れなければな」


 その言葉で、リノアは理解する。


 とんでもない理論だ。

 これを学会に持って帰ったところで、「世迷言だ」と嘲笑の嵐を受けるだけだろう。


 だが、もしそうならば説明がつく。

 この戦いの構図に、ある程度の納得がいく。


 彼が――かつての肉体から分かれたハル=オレホンが、その身に宿した“悪意”の存在。

 そして、街を逃げ回りながら、常に人間達を遠ざけようとした“善意”の存在。


 そうか、あの少女は――だからずっと、争い続けていたのだ。


 記憶を奪われ、不完全な存在になっていても、その本能が理解していたのだろう。

 自身の“対”となる存在の本質を。

 その危険性を、分かっていたのだ。


 だからこそ、二度と人間が「魔王」に近付かないよう、あの街から人々を遠ざけようとしていたのである。

 その“善意”を宿した銀髪の少女は、今まさにこちらへと近付いて来ている。

 ある意味それは、「魔王」の望み通りの展開だ。


 なんとかせねば――だが、そんなリノアの思いは、やはりいち早く“彼”に見抜かれてしまう。


「なんともできやしないさ。たとえ奴らが逃げたとしても、いずれは“街”が追いつく。どのみちこの戦いは、お前達にとっては“詰み”と同じ事。受け入れてついてくる道を与えているだけ、優しいとは思わないか?」


 ぎりり、と奥歯を噛みしめるリノア。

 たまらず、ある男性の名を問いかけた。


「そういうていの良い言葉を並べて、キースを利用したのね」

「奴が勝手に陶酔しただけさ。その上でベラベラと余計なことを漏らすのだから迷惑な男だよ。まぁ、あいつだけではない、それ以外にも色々と根回しはしたからな」

「根回し、ですって?」

「ああ。あのナッシュという男に“ケモノ”を宿してみたり、わざと貴様らが研究しやすいよう“消えないケモノ”を捕獲して持ち帰らせてやったり――こう見えて、健気に努力しているんだよ」


 全て、この男の計画通りだったのだ。


 弱ったナッシュにヴォイドを潜り込ませたのも、そもそもDEUSデウス部隊が基地までヴォイドを捕獲し、研究材料にできていたことも。

 何もかもが「魔王」の掌の上だった、ということである。


 悔しさを噛み潰すように歯を食いしばり、最後に問いかけた。


「あなたはそこまでして、どうしたいの? なぜこんな、手の込んだ“悲劇”を――」


 白い霧の中に、“彼”のため息が聞こえた。

 歯痒さに打ち震えるリノアに向けて、力ない声で「魔王」は告げる。


「多くは望まんさ。ただただ、全てを終わらせたいだけだ。“あいつ”との喧嘩を終わらせて、安らかな世界を迎え入れたい。それだけだ」


 感情の揺らぎのない言葉が、容赦無くリノアの体を叩く。

 ポツンと取り残された椅子の上で、彼女はたまらず頭を抱えた。


 その脳裏に、あの真っ白な青年と銀髪の少女が浮かぶ。

 こちらに着実に近付いて来ているであろう彼らに、白い監獄の中で念じた。


 来ちゃダメよ――どれだけ強がっていても、聡明だからこそ分かることがある。

 この状況すら、なおも“彼”の掌の上だ、ということを。




 ***




 真っ白な霧の海は、ただただ静かだ。

 変わらぬ景色、変わらぬ色。

 リノアが見ているそれと全く同じ白い海の中を、着実に、少しずつ進む四人がいた。

 先頭を行く少女に、最後尾を任されたハルは問いかける。


「エリシオ、大丈夫か。疲れてないか?」


 少女は首を横に振る。

 銀髪がざわざわとなびき、周囲の空間に銀色の文様がいくつも浮かんでは消えた。

 彼女は手を前にかざし、必死に“位置”を探りながら進む。


「全然平気! “あいつ”のいる方向も、ちゃんと分かってるよ」


 振り返ったその顔に、もはや迷いや憂いはない。

 ずんずんと進む少女の横には、護衛役のミオが並んで歩いている。


 その背後をハル、そしてゼノも並んで進んだ。

 延々と続くように見える霧の回廊を、エリシオの力を頼りに突き進む。


 相変わらず白一色に染まった景色に、ハルはたまらず言葉を漏らした。


「どれくらい歩いたんだろうな。もう方角も距離も、全然分からなくなっちまったよ」


 対し、隣を歩く黒人隊長・ゼノが頷く。


「もはや、この霧――もとい『モノクローム』では、距離も時間も方角も、全て無意味なのだろうな。やれやれ、どうもこういった概念は小難しくて慣れない。それこそ、リノア博士のような聡明な解説者が欲しいところだ」

「きっとリノアだって、理解するのでやっとだよ。こんなこと、そもそも人間に理解しろって方が無茶苦茶だ」


 ハルの一言に、ゼノは「確かにな」とかすかに笑う。

 当初出会った時に比べ、随分と彼は自然な笑顔を見せるようになった。


 思わず、初めて彼と出会った時――基地を抜け出そうとして、体術で阻まれた時のことを思い出してしまう。


「なんだかすまないな。元はと言えば、かつての俺ら――40年前の『ウォッチャー』が始めた喧嘩に、巻き込んじまったんだからさ」

「君が謝ることではないさ。そもそも、その争いを始めたベネットや『魔王』は別にいるのだ。それに君がいようがいまいが、私達はやはりこうして『魔王』に挑んでいただろうしな。なにも、巻き込まれたからやっている、ということではないのだよ」

「すげえな、あんたらは。俺らの部隊とは全然違うよ」


 ハルは隣に立つ隊長が、どこか憂いを帯びた眼差しで先頭を行く少女を見つめていることに気づいた。

 ハルが問いかける前に、ゼノは前を向いたまま言う。


「不思議な存在だな、あの子は。まさか、あそこまで見抜かれているとはな」

「どういうことだ、そりゃあ?」

「あの子はかつて、私に言っただろう。息子の写真を見て、『その子はあなたとは違って、大きく生まれた』と」


 言われて、ハルも「ああ」と声を上げる。

 それは基地が霧に包まれる前、四人で交わした他愛ない会話の一幕だ。

 確かに、エリシオはゼノが見せた写真に、そんな一言を投げていた。


 その意味を問いかける前に、隊長自らが答えを示す。


「私はな――“未熟児”として、この世に生を受けたのだ」

「未熟児だって? それってあの、体重が小さく生まれる……」

「ああ。しかも私の場合、未熟児の中でもさらに出生体重の小さい“超未熟児”と分類される、難産だった」


 そうだったのか、と目を丸くするハル。

 少しだけゼノはこちらを見たが、再び視線を前に戻す。


「生まれた当初、私が生き残れる可能性は20%以下だったそうだ。奇跡的に一命はとりとめたが、視覚や筋力などに一部異常が残ってな。本来なら、まともに運動などできない体なんだよ」

「で、でもあんた……現にこうして、DEUSとしてやってるじゃないか?」

「実は、視界は中心以外ほぼ見えていない。10代半ばまで、車椅子生活でもあったしな」


 ギョッとし、息をのむハル。

 その驚く様がおかしかったのか、ゼノはまた少し笑った。


「元々、父が警察組織――今となっては廃れた、DEUSの前身だ――そこで働いていたのだよ。とある事件で足を撃たれて以来、引退したがね。元々家は貧しかったが、それでも父と母は、私を生かすために全てを投げ打って働いてくれたらしい。生き残っても障害を持つと決まっている私を、それでも“生かす道”を選んでくれたのだ」

「そうだったのか……親父さんとおふくろさんにとってあんたは―――大切な存在だったんだな」


 どこか少しだけ嬉しそうに、彼は頷いた。


「ずっと、父が憧れだったんだ。そして、その憧れをとうの昔に、両親にも見抜かれていたんだよ。何ができるかではなく、何がしたいか、自分に正直になれ――その言葉を信じ、私は父のようになることを決意したんだ。障害があるならそれで良い。その上で、どうやったら父のような存在になれるか――だからこそリハビリをし、肉体を鍛え、知識を身につけ――努力を重ねたら、今ここまで来てしまった」


 はぁ、と驚きため息をつくハル。

 恐怖や不安とは違う意味の冷や汗が垂れる。


「あんたが、“超人”って言われてる理由が分かるよ。まじで“努力”だけでそこまできたってのか」

「“努力”以外にできることがないからな。ならば、するしかないさ」


 そんな一言をさらっと吐いてしまうのが、なおさら“超人”たる所以ゆえんなのだろう。

 やがてゼノの瞳に、そこはかとない力強さが宿る。


「もちろん、あの街に戻ることは怖いさ。『魔王』という存在の強大さもな。だが奴は、このまま“世界”を巻き込むつもりなのだろう。なら止めなければいけない。我々の責務が世界を“守る”ことである以上、相手が何であれ、止まるということは許されない。なにより退けば――私の中の“憧れ”に背くことになる」


 今もなお、このゼノという男は追い求めているのだろう。

 かつて見た、力強い父の背中を。

 自身をここまで生かしてくれた、両親の暖かさを。

 それを守るために、この白い海へと飛び込んだのである。


 ハルもまた、前を向きなおす。

 少し離れた位置で歩みを進める少女を見つめながら、告げた。


「あんたの息子さんは――家族は幸せ者だな。こんなとんでもなく強い親父がいるんだからさ」

「私も君には感謝しているのだ。帰ったらこの一連の珍騒動を、たっぷり話してやれるのだからな。その時はぜひ、君にも来てもらいたい。私がホラを吹いていないと、証明して欲しいのだ」


 くすりとハルも笑い、頷く。


「こんなおかしな奴でよければ、お邪魔するよ。息子さん、泣くだろうな。ミオの時みたいに」

「大丈夫だ、静かにしていればな。ミオはそもそもやかましいのだ。あれではどんな子供だろうが泣く」


 苦笑し合う二人の前で、くだんの女性隊員が視線に気付く。

 「なになに~?」と問いかけられ、ゼノが「なんでもない」と笑って返した。


 不思議なものだ――決戦に赴くというのに、恐怖や不安は随分と薄らいでいる。


 前に進むその足に、確かな重みを乗せられる。

 霧をかき分けるその一歩一歩が、まるで今までのそれと違っていた。


 迷い、悲しみ、翻弄され、足掻き――それでもここに、こうしてやってきた。

 きっとそれは、打ちのめされ、己が身に傷を刻んだからこそ繰り出せる一歩なのだろう。


 各々にとって、あの街は戻るべき“意味”がある。

 ある者は“平和”のため、ある者は“家族”のため。

 皆がそれぞれの“決着”のために、こうして進んでいく。


 五里が霧の中であっても、決してその足は牛歩とはならず、ただただ颯爽とまとわりつく白を振り払う。


 その先頭を行く幼き“銀”が、ついに告げた。


「やった――着いたよ、皆!」


 一歩、腕を押し込みながら前に出るエリシオ。

 瞬間、彼女の手を起点として霧がバッと晴れる。

 白い幕が引き、ようやく一同の視界に景色が現れた。


 そこにあったのは、やはり“色”を失った、あの街である。


 色なき石畳の上に立ち、周囲を見渡す。

 まず目についたのは、一同の眼前にたたずむ大きな石像だった。

 天使の羽を持った女性の像は、黙したままこちらを見つめている。


 やはり、以前見たそれとは随分と建造物の作りが違う。

 円柱型の柱をいくつも用いた石造りの大きな建物が並び、テクノロジーやエネルギーというものとはどこか程遠いライフスタイルが垣間見えた。


 ハルは街の様子を伺うように、素早く視線を走らせる。


「ありがとうな、エリシオ。どうやら、前に来たところとは別の場所みたいだな」

「うん。前よりももっと、街の中心に近いよ」


 少女の肉体から、光は消え去っていた。

 彼女の横に立つミオは、目の前の彫刻を斧でつつきながら、声を上げる。


「なんだか、おっしゃれな建物だなぁ。美術館みたい。大昔の貴族とか住んでるんじゃないか?」


 この一言に、腕を組んだゼノが頷く。


「もしかすれば、そういった時代の町並みをモデルにしているのかもしれんな。これも『魔王』の趣味趣向ということだろうか」


 この問いかけに、ハルはため息をつきながら首を横に振る。


「さあな。俺も、なんでこんな作りにしたかまでは分からないよ。思い返してみれば、40年前はもっと簡素な街だったはずだ。それこそ、ボロボロで何もない――俺が生まれ育ったような貧相な場所だったんだ」


 モノクロームという街がここまで変貌を遂げたのは、間違いなく“彼”のせいだ。

 この地に眠る“高次元存在”に“彼”の心が作用した結果、街は姿を変え、より難解に組み替えられた。


 魔王――この街の奥地にいる存在に、誰しもが想いを馳せる。

 そんな四人に、のんびりした、しかし大きく驚いた声が響く。


「これはこれは、ハル様。それに、エリシオ様まで! 皆様、戻られたのですか?」


 懐かしい声に振り向くと、そこにはモノクロームをさまよう“住人”の姿があった。

 初めて出会うゼノとミオが、少し驚き警戒している。

 

 子供にも見える小柄な姿は、灰色の肌と兎のような大きな耳を持つ。

 ぼろに身を包み、すすけたリュックを担いだ彼は、少し眠そうな眼を目いっぱいに開いてハル達を見つめていた。


 かつてハルがこの街で出会った異形の“住人”――ジョナがそこには立っていた。

 驚き目を丸くするジョナに、ハルはかすかに笑みを浮かべる。


「よお、久しぶりだな。元気だったか?」

「ええ、それはもう。ですが、随分とお早いお帰りだったのですね。皆様を見送ってから、ものの数十分しか経っておりませんので、驚いてしまいました」


 少しだけ息をのむも、街の“からくり”が分かったハル達にとっては、うろたえることもない。


 やはりこの場所では、限りなく“時間”の流れが狂っているのだろう。

 ジョナの中では、ハル達との共闘からまだ数十分しか時が経過していないのだ。


 あえてそこに言及はしない。

 エリシオが真剣な眼差しで問いかける。


「ジョナ、街にお姉さんが連れてこられなかった? 明るい色の髪をした、白い服の女の人」


 言わずもがな、それは連れ去られたリノアのことである。

 残念ながら、ジョナはこれに対し首を横に振った。


「さて、そのような方は見ておりません。ただ、先程からどうも“ケモノ”が騒いでいるのです。どうやら、街の奥地の方に集まっているようですね」

「ケモノが?」


 反射的に声を上げるエリシオ。

 たまらず、ハルも問いかけた。


「街の奥、か。以前、“あいつ”は俺に言っていたよ。会いたければ、来れば良いって。つまりこの街の奥に行けば、奴に会えるって事実は変わってないってことか」

「だと思う。きっとそのために、町中の“ケモノ”を集めてるんだよ。私達の邪魔をするために」


 背後に立つゼノとミオも、その事実に声をあげた。


「なるほど。招き入れはしたが、だからといってすんなりと通す気は無いわけか。随分とわがままなものだ」

「ほんとほんと~。でもまぁ、まさに『魔王』って感じだなぁ。ようは、この先にあるんでしょ? 『魔王』の待つ、最後のお城が」


 来たければ来い――その挑戦的な一言を噛み締め、それでもなおハルは前を向く。

 不安げにこちらを見渡すジョナに、再び問いかけた。


「なあ、頼む。ヴォイド――その“ケモノ”が集まっていた場所に、案内してくれないか? 危険だっていうなら、行き方だけでも教えて欲しいんだ」


 ギョッとし、目を見開くジョナ。

 彼はうろたえ、慌てて切り返す。


「本気ですか、ハル様? それは危険です! あんな量の“ケモノ”を相手にしたら、ただでは済みません」

「ああ。きっと、ずたずたにされるかもしれないな。だけど、黙って逃げ帰るくらいなら、初めからこうして戻ってきてないんだ。そいつらぶっ倒してでも――会わなきゃいけない奴がいるんでね」


 かちゃり、と腰の“柄”に触れた。

 何かが行く手を遮るというなら、初めからやるべきことは決まっていたのである。


 ハルの決意を察し、またもジョナは一同を見渡した。


「まさか……皆様、『魔王』に会いにいくつもりなのですか?」


 こくり、と頷いたのはエリシオだった。

 彼女もまた、隣に立つハル同様、確かな強さを瞳に秘めている。


 その光に気圧けおされるジョナに、少女は告げた。


「私達、やらなきゃいけないことがあるの。このまま“あいつ”を放っておけば、もっともっと、大勢の人が悲しむことになる。そんなのだめ。絶対に、ここで止めないと」


 最後に一言、エリシオもジョナに「お願い」と言葉を投げる。


 しばし、ジョナは一同の視線を受け狼狽ろうばいしていた。

 彼もまた、「魔王」がどのような存在かは理解しているのだろう。

 だからこそ、この四名の帰還者達が行おうとしている“無謀”を良しとできない。


 だが、どれだけ見返しても、ハル達の眼差しから“光”は消えない。

 彼らに何があったかをジョナが知る由はないが、それでも再会するまでの間にハル達が固めた“意志の強さ”が、一人一人の体から滲み出る気迫となって伝わってきた。


 かすかにうつむき、ジョナは口を開く。


「そう、なのですね……私には、皆様のやろうとしていることは分かりかねます。ただ、きっとそれは――皆様が命を賭してでも、成し遂げたいことなのですね?」


 力強く頷くハル。

 誰もそれに対し、異論など唱えない。


 顔を上げたジョナとハルの視線が交わる。

 彼の眼に映るその白い男は、数十分前のそれとはまるで別人だ。


 猛々しくも脆い戦士だった。

 がむしゃらに力を振り回し、道を切り開く、そんな男だったはずである。


 だが、今は違う。

 真っ白な姿の中に、凛と燃える一本の“道”が見える。

 戸惑いや不安を飲み込み、なおも前に進もうとする精神の輝きが見えた。


 何があったのか。

 どうして戻ってきたのか。


 それを聞くのはきっと無粋だ――ジョナはため息をつき、頷いた。


「承知致しました、案内致しましょう。ただ、私はいかんせん、戦う力を持たぬゆえ……それ以上のお力添えは出来かねますが」

「ありがとう。道案内だけでも十分、助かるぜ」


 ハルは振り向き、頷く。

 ゼノ達も無言で、その決断に賛同してくれた。


 行こう――その一言で、ハル達は街の奥に向かって走り出す。

 ジョナを先頭に、色を失った街の中をただひたすら突き進んだ。


 大通りを抜け、路地を抜け、橋を渡る。

 進めば進むほど、奇妙なことに街の風景はどんどんと切り替わった。

 建物も、自然も、道の形も、全てがあべこべに組み合わされ、めまぐるしく入れ替わる。

 きっとそれは、ハル達が街の中心部に近付いているという証拠なのだろう。


 数分も進むと、先頭を行くジョナが声をあげた。


「あそこです。この先に、“ケモノ”が集結しています!」


 見れば、空には様々な翼を持つ、鳥型のヴォイドが旋回していた。

 通路の先には霧がかかっており、向こう側の景色は見えない。


 ハルは“柄”を手に取ったまま、ジョナの前に躍り出る。

 霧の中からヴォイドが飛び出してきたら、即座に彼を守れるようにという配慮だった。


 びりり、と肌が痺れる。

 緊張と熱を全身にまとったまま、一同はその霧の中へと突っ込んだ。


 大地を一蹴りすると、霧は一瞬で晴れてしまう。

 真っ白なヴェールをくぐった先の光景に、ついにハル達は足を止めてしまった。


 真っ先に声をあげたのは、ゼノだ。


「これは……この光景は、まさか……」


 ハルも一瞬、警戒心を解いてしまう。

 一同が立つその“場所”に、今までとはまるで違う感覚を抱いていた。


 石畳が消え、足元にはアスファルトが敷き詰められている。

 平らに整った直線の“道路”。

 左右には街頭が並び、2~3階建ての角ばった建物が並ぶ。

 その先にはさらに背の高い“塔”がいくつも見えた。

 それはこの街を外から見た時、中心部の霧の中からせり出していたものと同じである。


 長方形の角ばった黒いシルエット――それは“塔”ではない。

 ハル達もよく知る、“高層ビル”だ。


 道路には色を失った車が止まっている。

 目の前には四車線同士が交わる巨大な交差点があり、信号機や横断歩道も見えた。


 今までの景色から一変、一気に近代的な装いとなった“街”の姿に、言葉を失う。

 だがそれ以上に戦慄したのは、目の前の交差点に群がる“黒”の存在だ。


 無数のヴォイドがいる。


 形も大きさも、様々だ。

 小さな犬型のものはもちろん、猿型、鳥形、巨大な牛型、果ては大蛇や大蜘蛛、恐竜のような個体までいる。

 それらが道路の上でひしめき、ハル達五人を見つめていた。


 ある意味で予想通りの展開に、ハルは歯噛みする。


「手厚い歓迎だな、こりゃあ。まさに総力戦って感じだぜ」


 身構える彼のすぐ横で、ジョナが後ずさる。


「お、恐ろしい……私も長くここにいますが……こんな数の“ケモノ”は見たことがありません。『魔王』が新たに生み出したのでしょうか」


 畏怖するジョナに対し、ハルは視線を前に向けたまま告げる。


「ジョナ、ありがとうな。ここまでで十分だ。ここから先は、俺達だけで行く」

「は、ハル様! 本当に――本当に行かれるのですか?」


 不安げな言葉を背中に受け、それでもハルは視線を揺らがない。


 相変わらず、人が良いな――どれだけモノクロームにいようとも、どれだけ人間離れした奇妙な姿をしていても、ジョナという存在が抱いた優しさはまるでぶれていない。


 その変わらぬ姿にどこか少しだけ安堵あんどし、そして申し訳なく思う。

 彼は本当に、心の底から心配してくれているのだ。


 これから死地へ赴く、ハル達のことを。

 「魔王」という巨悪に立ち向かおうとする、彼らのことを。


 ふっと、ハルは考える。


 たとえどれだけ短い間だったとしても、たとえどれだけ過ごした期間が一時だったとしても。

 彼に取ってハル達もまた、一つの“えにし”だったのだ。


 誰だって不安なのである。

 出来上がった繋がりが、消えてしまうかもしれないというのは。


 そんな思いを馳せながら、それでもハルは背中を向けたまま、告げる。


「世話になってばかりで、本当に悪い。だけど俺達も、やるべきことが分かったんだ。この街の奥に――『魔王』の元にそれがある。だから行かないと」

「それは……それは、命の危険を冒してまで、やらなければいけないことなのですか?」

「ああ。正直なところ、怖くてしょうがないよ。あの化け物達も、もちろんな。けど――過去との決着をつけなきゃ、俺は前に進めない」


 ハルの言葉に、ジョナは息をのむ。

 ゼノやミオ、そしてエリシオも手を持ち上げ、ヴォイド達との激突に備えた。


 ハルは最後に一言、ここまでついてきてくれたジョナに告げる。


「本当にありがとうな。あんたは安全な場所に避難しておいてくれ。あとは、俺達でうまくやるよ。これ以上、あんたを巻き込みたくはない」


 一瞬、ジョナはどうすべきか躊躇していた。

 何度も一同の顔を見渡し、そして考える。


 だが、もはや心のどこかで彼も理解していたのだろう。

 この四人の進軍を、軽々しい言葉で遮ることなどできない、ということを。


 ジョナは元来た道を戻っていく。

 再び霧を超え、街の中心部から遠ざかるために。

 しかし、彼は霧のすぐ目の前で立ち止まり、振り返った。


 ハル様――と呼ぶ声に、四人は彼を見る。

 ジョナは穏やかで、しかし強さを宿した眼差しをこちらに向けていた。


「ご武運を――皆様の歩む先に“光”があることを、お祈りしております」


 ぺこり、と頭を下げるジョナ。

 その奇妙で、しかし暖かい姿に、ハルも手を上げて応えた。

 小さな体は霧の中に消え、見えなくなる。


 再び前を向きなおし、構えを作ったゼノが言う。


「随分と紳士な男だな。人は見かけによらんものだ」

「ああ。全部が終わったら、また会いに行かないとな」


 剣の柄を握りしめたまま、ハルはふぅとため息をつく。


 本当に、奇妙な街だ――怪物がいて、色がなくて、景色があべこべで――だがそれでも、そこにわずかでも住み着いた誰かがいる。


 姿形はおかしくとも、見た目がまるで違っていても。

 それでもあのジョナという男は、立派な心を持つ存在だ。


 これから消そうとするこの街に、ほんのかすかな憂いを抱いた。

 だがそれをすぐに心にしまい、前を向きなおす。

 どんな後ろめたさがあろうと、どんな存在がいようと、ここできびすは返せない。


 決着を――心を決めたハル目掛けて、心を持たない獣が吠える。


 怪物達の群れのその先にそびえたつ摩天楼に、なんだかひどく懐かしく、そして虚しい“感情”が沸き上がった。

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