第24章 NO HERO


 しばらくして、ようやく隊長・ゼノの声が部屋の空気を震わした。


「どういうことだ……『魔王』は……もう一人のお前、だと?」


 狼狽ろうばいする黒人男性に、ハルは大きく頷いた。

 エリシオの手をとったまま、ゼノの顔をしっかりと見据える。


「あいつはずっと、俺の中にいたんだ。ガキの頃から――目の前で両親が殺されるのを見たあの瞬間から、ずっと俺と一緒に歩いてきた」


 ハル=オレホンの真の経歴については、リノアの口から伝えられていた。

 幼少期、彼は紛争に巻き込まれ、家族を失っている。

 村人全員が人質とされ、無差別に殺される凄惨な戦いだったらしい。


 その中でハルが生き残れたのは、まさに幸運と言う他ない。

 もっとも、あと少し軍隊が到着するのが早ければ、ハルは天涯孤独の身とならなくても済んだのかもしれないが。


 これに対し、ミオは首をひねって悩む。


「ん~、ハルの中にもう一人いる? どゆことよ、それは。そんな便利なことできんの?」


 彼女の一言にゼノが気付く。

 目を見開き、拳に力が入った。


「待てよ、確かリノア博士が最後に告げた中に――ハル=オレホンは“疾患”を持っていた、とあったな。まさか――」


 相変わらず、ミオは分かっていない。

 だが、ゼノが気付いてくれたことを察し、ハルは静かに頷く。


 こんなこと、分かるわけがない。

 こんな人物が「魔王」であるなど、理解できる方がどうかしている。


 “心”とは不思議なもの――おおよそ、心理学や人間工学という分野を極めれば、その概要を定義し扱うことはできるのだろう。

 人間という“思考”する生き物がゆえに、個人個人の体内に宿った意思、感情が常に行動を制御する。


 いわば“心”とは、一個人の肉体を突き動かす、人間を人間たらしめる根幹だ。

 時に人はその“心”こそが、人間が持つ“魂”の形なのだと飛躍する時すらある。


 その“心”に、“裂け目”ができる“疾患”がある。


 ある程度のメカニズムは定義されているが、しかしそれはどこか本質ではないのだろう。

 ただ、一般的にそれは、未成熟の幼少期に多く発生する現象だ。


 強烈なショックを受けた時、人はその苦痛から“逃避”しようとする。

 肉体や精神が受けた痛みを、自分ではなく別の誰かが受けていると錯覚することで、“心”が崩壊することを防ぐのだ。


 その“裂け目”が大きくなると、やがて一つしかないはずの“心”は分かれる。

 たった一つの肉体の中に、姿形の異なる別の“心”が同居するのだ。

 時にそれは元となった“心”同様に成長し、はっきりとした形、輪郭を有するに至る。


 ため息をつき、それでもハルはその事実を告げた。

 これこそ、ハルの中に隠れていた確かな“真実”だからだ。


「二重人格――って、言えば良いのかな。幼い頃からずっと、俺の中にもう一人、出来の良い“俺”がいた。根暗で鈍臭い俺とは真逆の、明るくて人当たりの良い“俺”が」


 絶句し、身動きが取れないゼノ。

 真実を告げたハルを、なおもエリシオは悲しげに見つめる。

 力なく、しかしそれでも少女を励まそうと、精一杯笑った。


「大丈夫だよ、エリシオ。全部事実なんだ。もう――目はそむけない」


 驚くほど、心が澄んでいる。

 戦いの熱や刻まれた痛みはあれど、精神はひどく安定している。


 絶句するゼノのその隣で、やはりあっけらかんとミオが声をあげた。

 だがこの時ばかりは、その底抜けに純粋な女性の感性が、物事の“本質”を捉えてしまう。


「ほぇ~、不思議なこともあるんだなぁ。んじゃあ、そのハルの中にいたもう一人の『ハル』が、外に出ちゃったってこと? しかも『魔王』にまでなってさ。超出世だよ、それぇ」


 事態の重さは伝わっていなそうだが、それでも限りなく“事実”に近い内容だ。

 たまらず苦笑するハルに、ゼノは狼狽うろたえたまま言葉を投げる。


「とても、信じられん……だが――真実なのだろうな、きっと。この状況を見るに、それが今回の事件の」

「ああ。40年前――正確な日数はそれこそ覚えてないが、あの街の力で“あいつ”は俺から抜け出した。ハル=オレホンはあの時から――二人いたんだ」


 おもむろに胸元から、あのドッグタグを取り出した。

 銀色のプレートに刻まれた名に、今なら確かに覚えがある。


 これは元々、“二人”のものだったのだ。


 ついにたまらず、少女が悲しげに告げる。


「あの街は……そこに生きる人の強い想いに反応するの。だからきっと、もう一人のお兄ちゃんの願いに反応したんだと思う。“力”が欲しい――そんな声が、私にも聞こえた」


 泣きそうになりながら、また少し強く手を握るエリシオ。


「怖かった……笑顔なのに、少しも心は笑ってない。心の奥を覗けば覗くほど、どこまでも暗くて深い、真っ暗闇――だから怖くなって私……あの街の“力”を隠したの」


 ここでようやくゼノ達も、“もう一つの真実”に目を向ける。


 ハル=オレホンという存在についての素性は明らかになった。

 同時に「魔王」の正体についても。


 となれば残るのは――この少女が何者なのか、ということだ。

 今まで数々の“奇跡”を起こしてきた、この銀髪の少女が。


「ああ。おかげで“あいつ”も、ベネットも、あの街を長い間さまようことになったんだ。あの黒い化け物も用意したが、それでも結局、最後には“やつ”がそれを手にしちまった。俺も止めようとしたんだけど、結局勝てなかった――」


 ハルの告白に、ゼノはたまらず言葉を遮った。


「待ってくれ……あの化け物を“用意した”だと? つまり、それは――」

「ああ。エリシオが力を使って、生み出したんだ。苦肉の策だったよ。“あいつ”を遠ざけるために、あえて街の中に獣――ヴォイドを生み出したんだ」

「そんな……そ、それじゃあ今回、我々が戦っているヴォイドとは……」

「今回のやつは、また別さ。あいつらは『魔王』のやつが利用しているだけ。あの街の力を手にした、“あいつ”がな」


 少し目を閉じ、ハルはさらに思いを巡らす。

 “あの日”の記憶を丁寧に、思い出していく。


 黒い獣がはびこる戦場――エリシオの制止を振り切り、“彼”の元へたどり着いた。

 ハルとてヴォイドを退けるのに必死で、すでに満身創痍だったのである。


 ビルの裂け目から中を覗くと、“彼”がそこにはいた。

 エリシオが隠した“力”――彼女の力によって、銀色の“核”として作り変えたそれを、まんまと“彼”は見つけてみせた。


 その瞬間、ハルは意を決したのだ。

 見覚えのあるその背中めがけて、唯一の武器であるハンドガンのトリガーを引いた。


 そこからは、よく覚えていない。


 怒りに震え、こちらを睨みつける“彼”。

 雄叫びと、あらん限りの罵声。

 そしてライフルの炸裂音が響く。


 必死にあがき、時に掴み合い、殴り合い――ただただ、ハルは止めようとしたのを覚えている。


 目の前でこちらに牙を剝く、もう一人の「ハル」を。


 そしてその結末は――


「俺は――止められなかったんだ。がむしゃらにやってみたけど、駄目だった。あいつは結局、あの街に眠っていた“力”を解き放ったんだ。そして街が作り変えられて、その衝撃で俺は外へと放り出された。40年後の――いや、“現代”の、あの荒野に」


 己が手を見つめる。

 しわと傷が刻まれた、その真っ白な肌に思いを馳せる。


 過去と今が、繋がった――拳を握りしめ、目を閉じた。


 にわかに理解したゼノが、一度大きく息を吸い込む。

 そして高鳴る鼓動を抑えながらも、核心に触れた。


「そして君は、我々と出会った。そうか……君とその子は、ずっと戦っていたんだな。あの街を――その“力”を守るために。この一連の騒動はつまり――“高次元存在”の争奪戦」


 こくり、と頷いたのはエリシオだ。

 彼女は涙をこらえ、告げる。


「私ずっと……ずっとあの場所にいたの。最初は街なんてなかった。それに私だって、こんな格好もしてなかった。なんにもない、真っ白な世界――色んな思いが浮かんでは消える、夢の中みたいな世界。それが一番最初に、お兄ちゃん達が見た街の姿だった」


 恐れながら、迷いながら、それでも少女は語る。

 彼女が――否、かつては人格も、性別も、姿形も持たなかった“その存在”が、体験してきた世界を。


「あの黒い人達が調べだしてから、色々な“想い”が入り込んできて……そしてやっと街ができたの。色んな人の願いやわがままを取り入れて、街は大きくなっていった。私もようやく――“人間”の形になれた」


 息をのむゼノ。

 目を丸くするミオ。


 そして、ただ静かに彼女を見つめるハル。

 もはや言葉にせずとも、誰しもが理解していた。


 エリシオと「魔王」は同じもの――あの街を作り、あの街を操り、あの街を消せる存在。

 そんな“人間”は、簡単には存在しない。


 思えば、最初から分かりきっていたことなのだ。

 あの街の中で、何不自由なく暮らしていける存在など、まるで普通ではない。


 だからこそベネットは、彼女を連れて帰ることに執着したのだろう。

 彼は唯一、知っていたのだ。

 この少女が、自分が追い求めた“力”の一端を担っていると。


 銀髪の少女、そして「魔王」。

 数多の人間が“高次元存在”として崇め、求め、奪い合った“それ”の瞳から――ついに涙が落ちる。


「お兄ちゃん、逃げよう? 今ならまだ、私の力でお兄ちゃん達だけでも、遠くに送ることができるよ。あいつは私がなんとかする、絶対に! だから、お願い……」


 小さい手が震えている。

 人知を超え、時を操り、理を曲げる――そんな巨大な存在が形取った、小さな小さな肉体が、悲しみで打ち震えていた。


「もう嫌……またお兄ちゃんが傷つくところは、見たくないよ……お兄ちゃん、ずっと頑張ってくれたもの。ずっとずっと、逃げずに一緒にいてくれた。本当は痛くて苦しくて、辛くて……なのに、こんなの――」


 ぼろぼろと涙をこぼし、少女はハルを見つめた。


 ぎゅっと握りしめた掌から伝わる、悲しい温度。

 その温もりに皆、ただ悲痛な思いに打ち震える。


 悲しみで満ちたエメラルドの瞳に、真っ白に変わり果てた現在のハルがいる。


「お兄ちゃんが――可哀想だよ」


 彼女一人で、どうにかなるという確証はない。

 むしろエリシオ自身も、それは分かっているのだろう。

 巨大な力を手に入れ、暴君として君臨する「魔王」を前に、たった一人でどうにかできるとは思っていないのだろう。


 たとえその肉体に“超越者”としての力があろうとも、たとえあらゆる“世界”を操作する権限を持っていても、それでもハル達には理解できていた。


 この肉体に宿った心は純粋だ。

 彼女は正真正銘、無垢な少女なのだ、と。


 彼女から目をそらし、ハルは少しうつむく。

 ふと、自身の幼少期――貧しい辺境の村で暮らしていた時のことを思い出した。


「小さな頃から出来が悪かった。鈍臭くてビビリ腰で――だから、ずっと憧れてたんだ。本や映像作品の中に登場する“英雄”に。どんな逆境も打ち倒して、とにかく前に進む存在になりたかった。だから“あいつ”が軍隊に加入することを持ちかけてきた時、不安はあっても拒否はしなかったんだ。けど、“あいつ”にとって軍とは“力”を手に入れるための、踏み台に過ぎなかったんだろう」


 ぎゅっと目を閉じる。

 どうしようもない感情が渦巻き、熱となって胸を締め付けた。


「俺は結局、ずっと利用されてただけだ。強くなるという夢を追い求めていながら“あいつ”はそれを使って、目当ての“力”をどんどん手に入れていったんだ。あいつにとっては“英雄”なんてのは道具に過ぎない。己の目的――野心を満たすために利用する、道具にな」


 “彼”に励まされ、常に前を向いた。

 “彼”が鼓舞してくれたからこそ、死に際に母が望んだ、強く生きる道を選び続けていた。


 だがそれは全て、“彼”が追い求める場所へのいしずえでしかなかったのだろう。

 圧倒的な“力”を持って、彼が“世界”を統べるための。


 不甲斐なさが鼓動に食い込む。

 後悔の念が血流に乗り、肉体そのものを重く支配していく。


「俺はあいつを止めれなかった。必死にあがこうが、歯ぁくいしばろうが、ダメなんだ。俺は結局――“英雄”になんてなれなかった」


 呼吸が荒くなる。

 どうしようもないほど、震えが起こる。

 肉体が今でも確かに恐れているのだ。


 自分が止められなかった、あの存在を。

 あのデタラメな街で待っている、もう一人の自分を。


 うなだれ、震えを押し殺すハル。

 そんな彼を見下ろし、ゼノは問いかけた。


「君はこれから、どうするつもりなんだ。全ての記憶を取り戻して、これからどこへ?」


 顔を上げれないまま、考える。

 歯を食いしばり、それでも暗闇の中で答えた。


「さっきも言った通りだ。これは俺が始めたことなんだ。人格が違うとか、関係ない。これは間違いなく、俺の起こした事件。だからそれを――この子に任せっきりになんかできない」


 言葉を失うエリシオ。

 動揺する彼女を、顔を上げて見つめた。

 切なく、弱々しく、それでも必死に足掻く二人の視線が交わる。


「俺も行くよ、エリシオ。一緒に行く。こんな俺にまた何ができるか分かんない。だけど、君だけに戦わせれない。あいつをなんとかしてみせる。例え俺の――命をかけても」


 エリシオはかすかに、首を横に振っていた。

 目の前の彼が決めたその残酷な決意に、涙が止まらない。

 もはや今の彼は、この場から逃げるという選択肢を捨て去ったのだ。


 例え死が待っていようとも、それでも行く――その重い決断に、少女は泣き崩れてしまう。


 ハル自身、どうすべきなのか分からない。

 記憶を取り戻し、答えが出たとして、それが何だというのだろうか。

 直面した現実はあまりに重く、追いかけてきた過去はあまりにも理不尽だ。


 ハルの“未来”どころか、この世界そのものの行く末を捻じ曲げてしまうだけの、途方もない巨悪。

 その存在を前に、もはやどうしようもない。

 どうすべきかが、考えることすらできない。


 だからこそ、ハルはそう決めるしかないのだ。

 せめて何か、この身を使って傷跡を残したいのである。


 英雄になれずとも、それが今できる唯一のこと――そう心に決め、ハルはエリシオを見つめた。


 静かに泣くエリシオに、隊長・ゼノが問いかける。


「もし――このまま『魔王』を放っておけば、どうなる。あの街は――この世界は?」

「あいつは……きっとあの街を、もっと広げていきたいんだと思う。こっちの世界を街で飲み込んで、世界中を自分の思う通りに“作り変える”つもりなの」


 信じられない事態だが、もはや誰も少女の言葉を疑わない。

 ゼノが歯噛みするのが分かった。


 まさにそれは、“世界征服”だ。

 “高次元存在”の力を利用し、自身が関与できるフィールドを世界中に広げる。

 そうすることでこの世界は実質、全て「モノクローム」に吸収されることになる。


 場所も、時間も、そこに生きる存在も――全てあの「魔王」が意のままに操る、究極の選民思想の国。

 既にこの基地がそうであるように、街は着実に“霧”と共にそのエリアを広げていっているのだろう。


 兵器を駆使したら、人員を揃えたら、国家でぶつかれば――そんな対策が、もはや滑稽に思えてしまう。

 相手は空間も時間も、全て意のままに操る怪物だ。

 そんな超常的な相手を前に、もはやどんな策を講じても“次元が違う”のだろう。


 その絶望的な現実が、ゼノの両肩にも重くのしかかったのだろう。

 「そうか」と彼は微かにうつむく。

 ハルもまた、ため息をついた。


 思えば、子供の頃からの癖だったのである。

 思い通りにならず、不幸が舞い降りても、もはや彼はそれを受け入れてしまっていた。


 自分だから、と。

 こんな自分にはしょうがない結末なのだ、と。


 重く、悲しく、熱い吐息に、誰も何も返せない。

 また一つ、エリシオの涙が落ちる音が、ぽたりと響いた。


 消沈し、足が止まる。

 そんな一同に、多くの精鋭を率いてきた彼が言う。


「それならば、奴は――『魔王』は我々、全人類の敵ということになるのだな。分かった。ならば――我々も行こう」


 えっ――と声をあげ、目を見開くハル。

 エリシオも同時に涙を止め、顔を上げた。


 黒人の男性は、ただ静かにこちらを見下ろしていた。

 腕を組み、凛とした眼差しで二人を見ている。


「今、なんて……」

「再び、モノクロームへ突入する、と言ったのだ。君達は二人で『魔王』と戦おうと言うのだろう? ならばそれを守るのは我々、『DEUSデウス』の任務だ」


 あっけにとられ、ただぽかんと口を開けることしかできない。

 真っすぐで、真っ当な意見だ。

 だがしかし、それがどうにも場違いに思えてしまう。


 何事もない普段の場なら、それは理路整然とした軍人の決断と捉えられたのだろう。

 しかし、今は違う。

 これから戦うのは“神”にも近い存在であり、この世の常識が通じない怪物中の怪物だ。


 たまらず、ハルは首を横に振る。


「奴はすでに『魔王』としての力を使いこなしてるんだ。今度出会ったら、それこそただじゃあすまない。生きて帰れる保証なんてないんだぞ?」

「無論、承知の上だ。そもそも我々の任務は、いつだろうが命がけだったのだからな。戦う相手がテロ組織なのか、暴徒なのか、暗殺者なのか、そして“高次元存在”なのか――その程度の違いだ」


 この一言にハルはなおもうろたえ、「いや、そうだけど……」と言葉を詰まらす。

 あれだけ悲嘆に暮れていたエリシオもすっかり泣くことをやめ、唖然としてゼノを見上げていた。


 その隊長の横で彼女が――たった一人残った“精鋭”が、大きく笑う。


「そうだそうだ、そのとおり! てか、うちらにとってまさに最強の敵じゃんか。『DEUS』の中でも、そんなのと喧嘩したやつなんて、今までいないっしょ! あたしら、一番乗りぃ~」


 嬉しそうに言うミオは、やはりどこか感想がずれている。

 肩の力が抜けるハルとエリシオだが、やはりゼノはうろたえない。

 むしろ、微かな笑みすら浮かべていた。


「とにかくめちゃくちゃで、今だに理解しきれんというのが正直なところだ。だがな、奴の目的が世界全ての支配だとするなら、もはやそれは何であろうが関係ない。そこに住む人々の“平和”を乱すならば、等しくそれは我々『DEUS』の敵であるし、我々は常にそういうものと戦ってきた」


 その眼差しは相変わらず強い。

 どれだけ格闘技術に優れようが、どれだけ強靭な武器を携えようが、きっとそんなものがバカらしくなるくらい、相手は強大だ。

 よもやそれが分からない二人ではない。


 だがその現実を受け止め、それでもなお二人はまるで弱みを見せていない。

 憔悴し、ぶれかけている今のハルに、その強さの意味するところは理解できないのだ。


 そんなうろたえるハルに、ゼノは己の左肩――そこに刻まれたシンボルマークを指差す。


「我々、『DEUS』のシンボルの由来は、誰かから説明を受けたか?」


 ハルは彼の指の先にある“金色の歯車と黒い太陽”を見つめ、首を横に振った。

 隊長のアーマーはずいぶん年季が入っているようで、シンボルも傷やかすれが目立つ。


 ゼノは少し頷き、その意味するところを伝えた。


「世界には様々な人間がいる。人種も、思想も、国籍も、性別も――ありとあらゆる個性、すなわち“色”を持つ者が集うのだ。赤であったり、青であったり、黄色、緑、様々だ。それらを全て混ぜるとどうなる?」


 あらゆる色を混ぜ合わせたその先は――“黒”だ。

 ハルが気づいたのを察し、彼は続けた。


「“世界”は、誰かの思想で塗りつぶされるべきではない。そこにいる皆の思いがあってこそ、明日へと動いていくべきものだ。あらゆる人々の生き方が混ざり合い世界を“照らす”からこそ、世界の“歯車”は動く。いつ、誰がデザインしたかは定かではないが、そういう意味があると聞いている」


 彼の横でミオが「ほえー、そうなの?」と声をあげ、勉強不足の部下にゼノは「覚えておけ、しっかりと」と諭した。

 驚くハル、エリシオに向けて、すぐに毅然とした眼差しを取り戻し、ゼノが告げる。


「『魔王』がやろうとしていることは、ただの独善だ。世界を自身の思想で塗りつぶし、人々の持つ“色”を奪い去る――相手が次元の外にいようが何だろうが、そんな暴虐を前に黙っているわけにはいかないんだ。我々は――その“覚悟”があるからこそ、このシンボルを背負ってここまできた」


 さらに彼は、ハルにその眼差しを向け、力強く続けた。


「君の気持ちは察するよ。誰しもが強くなりたいと願い、そして思い通りにならない自分に挫折するものだ。だがな、それだけで自分を“何もできない”というのはもったいないぞ。君の中に『魔王』がいたのは事実だろうが、それでも君は君の意思でここまで歩いてきたのだろう? 少なくとも、この時代に来て、我々と出会って今日に至るまでは、ずっと」


 ゼノの放つ“強さ”が空気を伝い、肌を伝い、その内側――ハルの肉体の奥の奥へと、それが浸透していく。


「君が進んで来れたのは、君自身が“歯車”を動かそうと決めたからだ。時にはその結果、つまづくこともあるだろう。だがな、ミスもなく、間違いもしない、完全無欠な存在を“英雄”と呼ぶのではない。それはただの“超人”だ。どれだけくじけようとも、その度に蘇り、周りも引き連れ再び前に進む――その力と心を持つものを、我々軍人は“英雄”と呼ぶのだ」


 どくん、と鼓動が跳ねる。

 自身が目指した、とっくに知り得たはずのその単語に、なぜか胸が高鳴った。

 ゼノは驚くハルを見据え、微かに笑う。


「どれだけ言葉を並べようが、理想を見せつけようが、そんなもので人の心は動かんさ。君のようにがむしゃらで、泥臭く、必死に――だがそれでも、誰かを救うために全力で立ち向かう者に、人は心を打たれるものだ。リノア博士の言っていたことは、私にも分かる。二重人格だろうが、過去の人間だろうが、君は――“良い人間”なのだからな」


 息をのむハルに追撃するように、ゼノの隣に座るミオも笑う。


「そうそう~。ハル、私のことも助けてくれたっしょ。この基地でも何回も」

「いや、あれは……ただ、戦いの中で必死に――」

「必死になって誰かを守れるんなら、超かっこいいじゃんか! 助けてもらったなら、私も助けないとなぁ。貰いっぱなしだと、母ちゃんに怒られるんだよ。ちゃんと返さないと」


 えっ、と驚くハルに、ミオの顔がずずいと近寄る。

 見開かれた凶暴な眼に、一瞬たじろいだ。


「てわけで、私も行くー! それに、あの街にいる家族も見つけないとだしなぁ」


 そう言って身を引き、彼女はまたケラケラと笑った。


 言葉が出てこない。

 悲しみと戸惑いに支配されていた心が、ふわふわと宙に浮き上がっている。

 自分自身でも、もはや喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、理解できないのだ。


 こんな絶望的な状況にも関わらず、それでも目の前の“軍人”達は前を向いている。

 軍隊など、大嫌いだったはずだ。

 かつて出会った「ウォッチャー」の誰もを牽制し、警戒し続けていたのだから。


 だが数十年後に出会った、この二人は違う。

 改めて顔を持ち上げたハルに、最後にゼノは告げた。


「“何もできなかった”のなら、それは仕方ないだろう。だがな、自分が今“何をしたいか”までは捨てるな。困った時こそ、わがままになるくらいがちょうど良い。『魔王』だの“過去”だのの前に、自分自身に問いかけろ。どうしたいのか、を」


 きっとそれは、彼が今まで出会った隊員達に諭してきたことの一つなのだろう。


 戦場とは非情な場所だ。

 常に想定外が起こり、痛々しい惨事が襲いかかってくる。

 どれだけマニュアルを叩き込もうが、どれだけのケースを想定しようが、やがていつかその場面に直面してしまう。


 最後の最後、人は考え、決めなければいけない。

 自分が、何をするのか。どこを目指すのか。


 視線を落とし、ハルは考えた。

 今までのこと、そしてこれからのことを。


 悲劇に引き裂かれ、虚ろに生き続け、流れるように成長した。

 そうして辿りついたあの“街”で、自分達はあの“力”を見つけてしまった。


 ハッと気づき、また視線を走らせる。


 そこには、自身の片手を握ったままのエリシオがいた。

 少女は先程までとは違い、悲しみも憂いもない、純粋な眼差しをこちらに向けている。

 彼女もまた、ゼノ達の決意に驚いているのだろう。


 強く――そして、弱い少女。


 ハルはようやく、思い出した。


 かつて彼女を見た瞬間――エリシオと初めて出会った、40年前のあの日を。


 彼女が人ではないことなど、知らなかった。

 彼女が“高次元存在”の一端だなんてことを、知るはずもない。


 そんなハルの抱いた、最初の思い。

 それはなんてことのない、他愛のないものだった。


 こんな場所に一人で彷徨さまよう少女を――守らなければいけない。


 それはきっと、タネさえ明かせば、ただの取り越し苦労だったのだろう。

 少女は人間にとって遥か高位の存在で、ハル達がそれを守るということなどおこがましいのかもしれない。


 だがその正体を知ってもなお、ハルの中の思いは揺らいでない。

 困惑し、逃げ惑い、脅威にさらされるこの少女を、守ろうと思った。


 あれは――あの気持ちは本物だ。


 ぎゅっと、ハルはエリシオの手を握り返す。

 その温もりと力強さに、少女が息をのんだ。


「お兄ちゃん……」

「もっと強くて、もっと格好良くて――俺が本物の“英雄”になれていたら、きっと全てを守れたんだろうな」


 ハルの言葉を、じっと聞くエリシオ。


 思いを打ち明ける白い男の瞳に――もはや弱さはない。


「強くなりたくて、格好つけたくて……だから無駄に正義感だけ抱いて……きっとそんなんだから、“あいつ”に利用され続けたんだろう。“あいつ”の言う通りに選択して、がむしゃらに進んだ結果、“あいつ”の思う通りの道にやってきた。それが俺――弱くて格好悪い、出来の悪い息子・ハル=オレホンだった」


 ゼノ、ミオもその告白を黙って聞く。

 誰も彼の言葉が、自身を卑下ひげする後ろめたいものだなどと思っていない。


 その証拠に、ハルの心が――再び燃える。


「でもさ――強くなりたい、格好よくなりたい――何かを守りたいって思ったあの気持ちは、俺のだ。“あいつ”のじゃあない。俺の気持ちだ」


 ぎゅっと、手に力が込められる。

 強く握りしめるその感触を、エリシオは両手で受け止めていた。


 涙は止まった。

 血流が加速しているのは、緊張と不安からではない。

 体が震えるのは、戸惑いと恐怖からではない。


 肉体の奥底で、熱く、硬い“歯車”が再起動する。


 わかっていたはずだ、最初から。

 だからこうやって、ここにきたのだろう。


 本当に俺は、出来が悪いな――今更になって気付く自分に、ため息をついた。

 そこに乗せられた“色”が違うことを、誰しもが察する。


「このままで、良いわけがない。世界全部あいつが支配して、今いる人間、全員があいつの世界で生きていく――そんなのは違う。そんな強さは――俺が欲しいものじゃあないんだ」


 またぎゅっと、力を込める。

 息をのむエリシオに、じっと見守るゼノ、ミオに、ハルは言う。


 己のわがままを――ハル=オレホンが抱いた、こうありたい“今”を。


「行こう、あいつを止めるために。リノアも取り返して、全部終わらせる。あの街に――俺が進んできた、“意味”があるはずだ」


 「魔王」の凶手によってモノクロームへと連れ去られた、あの聡明かつ快活な女性はいつも言っていた。

 彼女が父から受け継いだその言葉を、ハルにも嬉しそうに告げていたことを覚えている。

 出会った数々の“えにし”が、過ごした確かな“時間”が、今のハルに告げている。


 この先に、自分の探す“意味”がきっとある。


 ハルの決意を間近で受け止め、少女は唖然として口を開いた。


「お兄ちゃん……良いの? またあの街に戻ったら、もう――」

「ああ、分かってる。きっともう“あいつ”は、俺のことを逃がしはしないだろうさ。あの街は、今では“あいつ”の思うがまま。逃げ道なんて、いくらでも絶ってくるだろうさ」


 ハル達が戦おうとしているのは「魔王」だ。

 だがそれは同時に、あの街――モノクロームそのものを相手取るということすら意味している。


 怪物が生み出され、場所と時間を組み替えられる、あの場所そのものに挑む。

 そんな途方もない選択をとりながらも、まるでハルの顔に弱みは見えない。


「なら、それで良い。どのみちこのまま逃げてたって、あいつはいずれ追ってくる。あの街を世界に広げて、どこまでも――なら、ここでやるべきなんだ。次で必ず、“決着”をつける」


 そのあまりにも豪胆な眼差しに、エリシオは言葉を失う。

 先程まで抱いていた犠牲の心は、もはやハルの中にはない。

 あるのは、ただまっすぐ、折れぬ心で前を見据える“勇猛さ”だけだ。


 できるとか、不可能だとか、全て関係ない。

 ただ“やる”と決意した、鋼のような意思である。

 その輝きを見つめ、ゼノもようやくため息をついた。


「たった四人で、『魔王』の軍勢と戦争か。無謀で、どうしようもなく勝ち目のない戦いだな。だがだからといって、“刺し違えても勝つ”などという、捨てっぱちな指示は下さんさ。『魔王』は止めるし、我々も生きて帰る――分かっているな、ミオ?」


 隊長の言葉を受け、嬉しそうに彼女は笑う。


「おー、分かってるよぉ。つまり、いつもどおりってことでしょ? 大丈夫大丈夫、なら全然問題ないって!」


 変わらず呑気に笑うミオに、ゼノはかすかに口の端を緩ませた。


 意思を固めた大人三人を見て、エリシオはただただ唖然としている。

 彼女には分からないのだろう。

 これから進む道がどれだけ無謀だろうとも、まるで弱みを見せず笑みすら浮かべる彼らの、その実直さが。


 そして、同時に感じてもいるのだ。

 彼ら三人から確かに伝わる、気高い精神の輝きを。


 ハルはエリシオの手を握り直し、彼女の大きな目を見つめた。


「エリシオ、頼む。あの街に、もう一度連れて行ってくれないか。“あいつ”を止めるために」

「でも……でも――」

「大丈夫、なんて安易には言えない。だけど、これだけは信じてくれ。もう、“あいつ”から逃げはしない。俺は今、生きているここで――俺にできることをやりたいんだ」


 うろたえ、恐れ、躊躇ちゅうちょする“純粋”な心を、熱くたぎり、より強く輝こうとする“純粋”さが解きほぐす。


 しばし、エリシオは驚いたように、真っ白な青年の顔を見つめていた。

 エメラルドの瞳――少女の姿をとった“高次元存在”の目には、ありとあらゆるものが“視えて”いる。


 ハルの過去が、彼と「魔王」が過ごした日々が、そして彼が歩んできた“今”が。


 一瞬で数多の景色が流れ、それでいてなお彼女に告げる。

 今この場で、こちらを見つめる“彼”の心が、まるで揺らいでいないという事実を。


 少しだけ考え、ようやくエリシオは頷く。

 少女の顔に、今までにない力強さが宿っていた。


「分かった。私、お兄ちゃん達を信じるよ。お兄ちゃんは、“あいつ”を止めれなかったかもしれない――でも、こうしてちゃんと戻ってきてくれた。ちゃんとまた、戦おうとしてくれてる。だから私、信じる。お兄ちゃん、嘘つかないって」


 小さな肉体を持つ、大きな存在。

 そんな彼女の、果てしなく無垢な眼差しを受け、改めてハルもまた頷いた。


 霧に包まれ、ズタズタに刻まれたDEUSの作戦本部。

 怪物がはびこり、霧に包まれたその奥底で、四つの“闘志”の火がごおごおと勢いよく燃え始めた。


 最終決戦――その言葉を胸に、ハルは立ち上がる。


 ゼノ、ミオ、そしてエリシオの顔を順番に見渡した。


 世界を守る組織の隊長と、唯一残った凶暴な部下。

 世界を覆す存在をその身に宿した、幼く無垢な少女。

 そしてこれから向かう街にいるであろう、緋色の髪を持つ底抜けに明るい女史。


 本当に、奇妙な“縁”だ――ハルはため息をつく。


 戦場にありながら、最後の脅威を前にしながら、それでもなおハルの口元には、かすかに笑みが浮かんでいた。


 きびすを返し、ついに一同は籠城していた研究室を後にする。

 通路に入り込み、目の前を覆う霧めがけて、迷わず踏み込んだ。


 向かう先はモノクローム――数十年の時を経て、彼らを待つ“過去”との決着のために。

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