第22章 本質は“霧”の中へ

「さあ、リノア博士。この手を取ってください。我々には輝かしき道が約束されている。あなたも私も“あの方”の元で、人類を覚醒させる先導者となるのです。共に歩みましょう――未来を」


 目の前の黒い怪物は、そんな優しい言葉と共に手を差し伸べてくる。

 ゆっくりと顔を持ち上げるリノア。

 立ち上がり、背を向けたままかつての後輩に向けて告げた。


「未来、か――父がいつも言っていたわ。技術者や科学者が作り上げるのは、道具や理論じゃあない。“未来そのもの”だって。きっとだから父は……最後まで信じたのね。“高次元存在”を解き明かすことができれば、人々は新たな一歩を踏み出せるって。それが“世界”を、前に進ませるってことを」


 キースは手を差し伸べたまま、黙している。


「私とあなた――そして『魔王』が導く“未来”か。きっと、すごい世界が待ってるんでしょうね。今までの常識が全て覆されるような、新しい世界が」


 白衣を纏った背に、キースは無言で頷く。

 尊敬し、羨望した女史が己が手を取ってくれる時を、待ちわびながら。

 その白い衣をなびかせ、彼女は振り返る。


 強い眼差しを宿したまま――女史はえた。


「じゃあ、ダメね。あなた達がやりたいのは、先導ではなくて“独裁”。犠牲はしかたないと切り捨て、はなから選民思想にすがった、ただのひとがりよ!」


 初めて、キースの感情が揺らいだ。


 いつのまにかリノアの手には、銃が握られている。

 それはベネットが殺害された際、床に落としたあのハンドガンだった。

 床にうずくまった際に、ひそかに回収していたのである。


 銃口を向けたまま、迷わず拳で壁のボタンを叩くリノア。

 扉のロックが解除されるも、そのまま両手でハンドガンのグリップを握る。


 キッと睨みつけるその眼差しに、もはや迷いはない。


「どういう、おつもりですか」

「言った通りよ、分からない? 嫌だってこと。父が望んだのは、誰かが人間を分別し行き過ぎた力で支配する、あなた達のような理想じゃあないの。手に入れた技術や知識を、世界に生きる全ての人が手に入れて、自らの足で進んでいく――それを“未来”と呼んだのよ」


 怪物に向けて、一歩前に出る。


 怖くないはずがない。

 また先程のように、肉体を一瞬で破壊されるかもしれない。


 ただそれでも、リノアはもう逃げ惑うのは嫌だった。

 ましてやこのまま、この怪物の思い通りについていくということもゴメンだ。


 何よりも彼女は、このまま黙していたくなかった。

 これ以上、父の想いを――リノアにとって大切な人が抱いた“願い”を、愚弄ぐろうされたくない。


 差し伸べた手を下ろすキース。

 直立した黒い巨人と、小さな銃をたずさえた女史が対峙する。


「未来――そんな言葉のあやに支配された、感情的行動は感心しません。いかにも人間らしく、うんざりするほど人間臭い、忌避きひすべき汚点だ。“心”があるからこそ思想が生まれ、対立が生まれるのです。あのお方の世界ならば、もはや人間がそのような不純物を抱くこと自体が不要。巨大な群れを率いる、圧倒的な“個”がいれば良いだけの話なのです」


 なおもリノアの心を折ろうと、言葉を刷り込ませてくるキース。

 それでも彼女は気持ちを繋ぎ止めるように、歯を食いしばった。


「そうね。進化に感情論を持ち込んだら、いつまでたっても前に進めないわ。でもね、だからって心を捨てて得られる未来なんて、絶対に間違っている! どんなに不完全で不純物でも、そうやって人間は生きてきたの。自分達で考えて、格好悪くても進んできた。それが歴史よ」


 世界とは“歴史”の集合体だ。

 国や大陸という大きなものも、紐解けばそこに生きる無数の人々の、小さな歴史によって成り立っている。


 こうしている今も、どこかの町では仕事をしている誰かがいるのだろう。

 どこかの家では、気ままに休日を過ごす家族がいるかもしれない。


 どこかで笑い、どこかで泣き、どこかで争い――そうやって“世界”が今日も進んでいく。


 目の前の後輩は、それを捨てると言った。

 これから先の“未来”を「魔王」達が手にし、全ての存在を先導すると。


 きっとそうすれば、争いは消えるのだろう。

 穏やかで静かな日々が延々と、途方なく続いていくことになるのだろう。


 そんな無味無臭の道を――“色”を失った人間の姿を、“未来”などと呼びたくない。


 殺されるかもしれない。

 もしかしたら今度こそ、致命傷を負わされるかもしれない。


 だがそれでもなお、リノアは怪物に向かって吠える。

 心の奥底に宿った不可視の“命”が、こん限りの力で燃える。


「あなた、私を止めるために何をしたの? 腕を吹き飛ばして、痛みで制した――やっぱりそうじゃない。それがあなたが隠している答え。気に入らないものは切り捨て、ねじ伏せ、圧する――そんな“真っ黒”な未来はいらないの!」


 引き金を、あらん限りの力で引く。

 弾丸がけたたましい音を立て、怪物めがけて真っ直ぐ発射された。


 キースは何もしない。

 黒い巨人の体に到達する前に、やはりそれは曲げられてしまう。

 流れ弾は全て壁にぶつかり、甲高い音を立てた。


 それでもなお、リノアは発砲をやめない。

 砲音に乗せるように、いつしか女史は雄叫びをあげていた。

 どれだけ無駄になろうとも、ただひたすら、そこに込められた“牙”を打ち出す。


 十数発は全て無効化されてしまった。

 どれだけ引き金を引いても、もはや“カチリ”という無情な音が響くだけである。


 抵抗するすべが消えてもなお、銃口を持ち上げるリノアにキースは告げた。

 感情の波などない、恐ろしく“無色”な声で。


「がっかりですよ、リノア博士――あなたなら、我々の理想を理解できると思っていたのですが」


 ぜえぜえと肩で息をしながら、リノアは身構える。

 無力と分かっている銃を握りしめたまま、しっかり前を向く。


「理想の内容もそうですが、この状況が理解できないわけではないでしょう? あなたは今、極上の怪物と対峙しているのですよ。それに逆らった先に、何が待っているか――分からないわけではないでしょうに」


 微かに見えた本性に、リノアは絶句する。


 やはり、はなから歩み寄る気などなかったのだ。

 彼はヴォイドという己を利用し、リノアに恐怖心を植え付け、操作しようとしていた。

 美辞麗句を並べはしても、結局この男の魂胆はそこに集約されるのである。


 脳裏に響いたのは、微かなため息だった。

 あの真っ白な“彼”が放つものに比べ、遥かに乾いていて、重みがない。


「しかたありませんね、本当に残念です。どうぞ、お逃げなさい。扉から外へと、助けを求めてみてはいかがでしょうか? あなたが逃げた瞬間、両足を粉砕します」


 ぞくり、と背筋が震えた。

 おびただしい汗が流れ落ち、銃を握る手が震える。


「私だって悲しいのですよ。憧れだった人間を“また”、殺さなければいけないのは。あの老人もそうでした。私としては生きていようが死んでいようが、どちらでも良かったのですがね」


 その一言に、リノアの震えがピタリと止まる。


「今、なんて……“老人”ってそれ……まさか――!!」

「元々、私はベネットの腹心でしたからね。彼の手駒として動きつつ、最終的には『モノクローム』に関する全てを総取りする予定でした。ご察しの通り、ドクトルを殺害したのは私――ベネットは指示を下しただけですよ」


 再び、リノアの両肩が震えだす。

 だがそれは、先程までの震えとはまるで毛色が違っていた。


 恐れや不安からではない。

 どうしようもない怒りが、リノアの心の奥底に湧き上がる。


「この――人でなしッ!!」


 ありったけの咆哮と共に、涙が溢れ出る。

 引き絞ったトリガーに、拳銃はまるで反応してくれない。


 ゆっくりとキースが腕を持ち上げる。

 狙いをリノアに定め、一言だけ告げた。


 無味無臭な、感情を載せない言葉で、簡潔に。


「おっしゃる通りですね。私はもう、人ではありませんので」


 来るべき痛みに耐えようと、歯を食いしばった。

 反射的に目をつむると、まぶたの裏に溢れた涙が熱くて仕方がない。


 ギリギリと奥歯が音を立てているのが分かる。

 自分でも信じられないほどの力で、全身が強張こわばっているのが分かる。


 死にたくない――こんな悪党に、こんな外道に、道を断たれたくない。

 終われないのだ、こんなところで。


 こんな奴らに、“父”の理想を利用されたくない。


 バンッ、と空気がぜた。

 耳のすぐ横で風が巻き起こり、見えざる力が炸裂したのを察する。


 だが、暗闇の中で何かが真横からぶつかり、自身の体を弾き飛ばすのが分かった。


 反射的に目を開く。

 流れる景色の中に見えた“それら”に、息をのんだ。


 部屋の扉が開いている。

 そこから駆け込んできた“彼”が、リノアの体を抱きかかえ跳んでいた。

 間一髪、キースの見えざる力は何もない空間に炸裂している。


 “彼”の真っ白な肌が、廊下から差し込む光を受けて立体的に輝く。

 勢いで逆立った黒髪は、まるで獅子のようだ。


 リノアを守るように地面に伏せる“彼”。

 見覚えのある真っ白な男が、すぐに体を起こして問いかけた。


「大丈夫か、おい! しっかりしろ!」


 大きな黒い眼に、銀の瞳。

 その中心で唖然あぜんとする自身の姿が、はっきりと見えた。


 こくりと頷くリノアに“彼”は――ハルは確かに、笑って頷き返す。


「良かった、間に合って。隠れてな、俺らがなんとかする」


 ハルはすぐに立ち上がり、振り返ってブレードを展開する。

 巨大な黒いヴォイドと、向き合う形となった。


「本当に驚いたよ。ナッシュもそうだったが、あんたまでとはな――キース」


 この一言に、リノアだけでなく黒い巨人もうろたえてしまう。

 槍を携えたキースは、ハル、そしてリノアの脳にまとめて言葉を発信する。


「なぜ、私だと?」

「いや、正直ずっと信じれなかったがよ……あの子が教えてくれたんだ。お前が、近くにいるってな」


 あの子――その意味を理解する前に、キースが腕を持ち上げる。

 一撃の正体を察したリノアが、「気をつけて!」と叫んだ。


 何も理解していないハルに、キースの“念動力”が襲いかかる。

 だが、真っ白な肉体が弾け飛ぶことはない。


 ハルの目の前に展開された“銀色の幾何学きかがく模様”が、壁のように力を受け止め、防いでいる。

 再びリノア、そしてキースが息をのんだ。


 黒い巨人が、部屋の入り口を振り向く。

 そこには瞳を光らせ、ハルに向かって手を突き出している少女がいた。


「お前は――」


 瞬間、少女はキースにその矛先を変えた。


 ざわざわと揺らぐ銀の髪。

 幼いその顔は、ありったけの怒りをあらわにしている。


 エリシオは黒い怪物に怖気付おじけづくことなく、咆哮を叩きつけた。


「もうやめて……これ以上、誰かを好き勝手な理由で悲しませないで!!」


 見えない力が、キースの胴体で弾ける。

 巨体が揺らぎ、ついには片膝をついてしまった。

 黒い巨体が行使したのと同様の――しかしその数倍の威力を誇る“念動力”が、怪物を退ける。


 無表情のまま、それでも怒りをあらわにし腕を持ち上げるキース。

 だが、視線を持ち上げ、またも絶句してしまう。


 すでにエリシオの小さな体を黒人の隊長が抱え、走り抜けていた。

 攻撃の軌道から退いた少女の代わりに、見覚えのある女性隊員がこちらに駆けてくる。

 

 念動力ではなく、もう一方の手に携えた槍を突き出すキース。

 矛先を突きつけられた壁に、八つの巨大な傷跡が刻まれた。


 だがその一撃をかいくぐって、“彼女”が来る。

 地面を蹴り、跳躍することでその顔がすぐ目の前にやってきた。


 凶暴な笑みのまま、ミオが吠える。


「よぉ、キース。ひさしぶりぃ――でっかくなったんだなぁ、お前はぁ!!」


 瞬間、両手の斧が一気に走る。

 獣の刃はキースの首元を、ばっくりと切り裂いた。


 おぉぉぉぉぉぉ――と、全員の脳内に悲鳴がこだまする。

 ミオが距離を取ると、黒い巨人はぐらぐらと揺れる首を押さえたまま、立ち上がった。


 表情は変わらない。

 だが脳内に響く声は、ただただ憤怒ふんぬに満ち満ちていた。


「どうして――どいつもこいつも、理解できないんだ……世界のあるべき姿を、見たくないのか?」


 今までの物静かな口調が一変する。

 おそらくそれこそが、キースという人間が隠し続けていた本性なのだろう。


「あの方の威光を――彼の地で得た、様々な真理が手に入るんだぞ! 人類があるべき答えとはすなわち65であり、そこに至るプロセスはあらゆるケースを想定して241のパターンを経由する。やがて到達する非可逆のフィールドこそが、唯一無二のゼロとなり、その果てに――」


 ありとあらゆる言葉が脳内で乱反射する。

 とはいえ、もはや聡明なリノアからしても、彼が何を言っているのかは理解できない。


 きっとこれこそが、数百年という期間を過ごし続けた彼の、脳の中身だということなのだろう。


 わめき散らしながら怪物は暴れる。

 槍と腕を振り回し、その度に不可視の力で部屋中を壊滅させていった。


 ハル達は散開し、とにかくその切っ先に身を置かないように逃げ惑う。

 部屋の中が、見るも無残な瓦礫の山へと変貌していった。


「理解しろ、把握しろ、曲解するな、受諾しろ、苦悩するな、従属せよ、認知せよ、離反するな――これから来たる世界に邪魔な愚鈍者どもが、ちょろちょろとわずらわしい!!」


 突き立てた槍の先で、金属が無数に分断されて細切れになる。

 キースが腕を振り抜いただけで、ガラクタが舞い上がりバラバラに砕けた。


「数十年という短い尺度で考えるから、邪魔な感情が生まれる。真理は不変であり10を統べる王の意志だ。そんなことも理解できない馬鹿に、世界を良き形になど運べるはずが――」


 離れた位置に立つエリシオ目掛けて、槍をかざす怪物。

 その巨大な腕が持ち上がった瞬間、肘から真っ二つに切断された。


 息をのむ怪物、そしてハル達。

 長大な槍は行き場を失い、がらんと音を立てて地面を跳ねる。

 落下する黒い腕の先に、斧を振り抜いたミオがいた。


 笑っている――だが、その張り付いた笑みの中に浮かぶ微かな“憂い”に、今のハルならば気付くことができる。

 目を見開き、彼女は対峙するかつての同僚に告げた。


「わっかんねぇなぁ、さっきから難しいことばっかで。こちとら、頭悪いんだからさぁ。馬鹿にも分かるように言えよ、この馬鹿!」


 その堂々たる振る舞いに、キースが「馬鹿……」と唖然としながら繰り返してしまう。

 知能を極め、知識のその“先”を追い求めた彼にとって、まさかの一言だったのだろう。


 野獣のような女性隊員にとって“知性”というものは、遠くかけ離れた概念なのかもしれない。

 だがそれでも、彼女の言葉が止まることはない。


 立ちはだかる黒い知能の化身に、ありったけの感情の牙が突き刺さる。


「それに頭が良かろうと悪かろうと、基地めちゃくちゃにしたり、人傷つけて良いわけじゃないんだぞ? そんなの、ガキでも分かる。体でかくなって、ついでに真っ黒になっても、今のキースはそんなことも分かんない――“大馬鹿”だ!」


 片腕を再生しつつ、ついにキースは絶叫する。

 怒りという感情が振り切り、すぐさま残った腕を持ち上げた。

 目の前に立つ“愚鈍”達を、ただちに消し去るために。


 だが、彼よりも先にエリシオが動く。

 両手をかざして念じることで、銀色の光が空間を染めた。


 砲撃にも似た“ドンッ”という炸裂音が、立て続けに3発響く。

 キースの胴体部に見えない力が叩き込まれ、黒い胸板が陥没し、衝撃の大きさを物語る。


 がくり、と後ずさる巨人。

 少女の一手をきっかけに、二人の“戦士”が飛び出す。


 隊長・ゼノは突進しつつも、床に落ちていた黒い槍を拾い上げ、腕に力を込める。

 歯を食いしばり、キースが持っていた“ヴォイドの槍”を掴み、逆に利用した。

 パワードアームに渾身の力を込め、槍をキースの胴体に突き立てる。


 予想外の一手に、やはり怪物は動揺してしまう。

 全員の脳内に、男のうめき声が直接刷り込まれた。


 切り落とされた腕は、手首の寸前までが修復されている。

 キースは膝をつきつつも、胸元に突き刺さった槍に手をかけ、力を込めて引き抜こうとした。


 しかし、飛来する“白”を察知し、顔を上げる。

 自身のとった一手が、あまりにも迂闊うかつだったことに気がついてしまった。


 地面を蹴り、跳び上がるハル。

 すでに剣を大きくひきしぼり、獰猛どうもうな眼差しが狙いを定めていた。


 念動力で、向かってくる白い獣を八つ裂きにしようとするキース。

 しかし、動揺が意識をかき乱し、間に合わない。


 ミオの斧も、エリシオの力も、ゼノの怪力も――全てはこの、決定的な一撃へと託された布石。

 知らず知らずのうちに、彼らが作り上げた連携であった。


 至近距離で交わる、キースとハルの視線。

 向かってくる熱と殺意の塊に、キースは冷静に、ただ淡々と考えてしまった。


 ああ、やはり――“あの方”と同じだ。


 瞬間、駆け抜けた剛剣が真横から怪物の首をはねる。

 体ごと振り抜き、雄叫びと共に渾身の一撃を放つハル。


 切断されたキースの頭部が、宙を舞う。

 くるくると回る視界の中で、あの女史の姿を見つけた。


 ガラクタの中に座り込み、口元を押さえて目の前の光景を見つめるリノア。


 怯え、震え、恐れ――だがそれでも、目の前で起こる“真実”から決して目をそむけない、凛とした強さを持った女性だ。


 キースは無表情のまま、微かに口を動かした。

 しかし声が出ない。


 人を辞めた際に捨て去ったそれは、二度と彼の口から発せられることはなかった。


 黒い巨体が塵となって消えていく。

 立ち向かった各々が、未だ構えを作ったまま、その“黒”の行く末を見送っていた。


 ただ一人、斧を両手に携えたままミオが言う。

 金の三つ編みが風に揺れ、なびいていた。


「ナッシュもキースも、逝っちゃった。こっから先は、あの世にいる“神様”の仕事だね。目一杯、叱ってもらえば良いんだ。ゲンコツでも、なんでも使ってさ」


 どこかその横顔に、今まで見たことのない感情が覗いたような気がした。

 どんなに奔放で掴めなくとも、やはり彼女も悲しいのだろう。

 凶暴さを突き詰めても、それでも彼女が心を捨てていないのだから、当然だ。


 重々しい空気の中、それでもここで悔やんでいる暇はない。

 一同を束ねる隊長・ゼノがいち早く、リノアに歩み寄る。


「大丈夫でしたか、博士。お怪我は」


 リノアもようやく我に帰り、顔を上げる。

 うろたえはしたが、一般人にしてはやはり強固な精神力を持っているのだろう。

 すぐに対応し、立ち上がった。


「え、ええ……ありがとう、本当に。もう――ダメかと思ったわ」

「礼は、この子に言ってあげてください。我々もヴォイドと交戦しながら基地内を進んでいたのですが、博士とヴォイドの反応をこの子が察してくれたのです」


 たまらずリノアは、エリシオを見つめる。

 すでに少女の目から光は消え、いつも通りの無垢な輝きしか宿っていない。


「あなたが、私を? そう……じゃああなたは、命の恩人ね。ありがとう」

「ううん。お姉ちゃん、危なかったね。お姉ちゃんの周りに、悪い人ばっかり集まってきちゃってさ」


 やはり少女の瞳は、全てを見透かす。

 リノアは息をのむが、問いかけたのはハルだった。


「なあ、一体ここで何があったんだ? なんでキースが、こんなところに? しかも、バケモノの姿でさ」

「彼だけじゃないわ。ここには元々、私ともう一人いたの。総指揮官のベネットが――この事件の、ある意味での黒幕がね……」


 ハルだけでなく、誰しもが目を見開いてしまう。

 ゼノは部屋の扉を閉め、ヴォイドが侵入してこないようにロックをかけ直した。

 薄暗い部屋の中で、うろたえながら問いかける。


「どういうことなのです。ベネット指揮官は、今どこに?」

「大丈夫、ちゃんと説明するわ。ここで起こったこと――いえ……今まで起こっていたことの“本質”を。私が知り得た限りで、だけどね」


 大きく呼吸を整え、意識を研ぎ澄ませる。

 緊張した面持ちで、皆は女史の言葉を待っていた。


 まだまだ危機は去ったわけではない。

 相変わらず基地の内部は怪物達が跋扈ばっこし、周囲は霧で覆われている。

 本音を言えば、今すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたいところだ。


 だがそれでも、リノアは拳を握りしめて自身を律する。

 彼らにもきちんと伝えなくてはいけない。


 ここで起こった全てを。

 ここで知り得た、何もかもを。


 ゼノ、ミオ、エリシオ――そして最後に“彼”を見つめる。

 不思議そうにこちらを見つめる、真っ白なハル。

 その姿に決意を固め、ついにリノアは語り出した。


 ベネットの真実、ドクの死、キースの裏切り――そして、「ウォッチャー」の正体を。




 ***




 全ての説明が終わり、最初に口を開いたのはハルだった。


「なんだよそれ……そんな……全部、無茶苦茶じゃないか!」

「ええ。実際、私もまだ信じきれないわ。だけどこれは、確かなことでもあるの。この一連の事件を、裏で暗躍していたのはベネットよ。彼は40年前、精鋭部隊の中の暗部『ウォッチャー』を率いていた男。ハル――あなたの当時の上司だったのね」


 ゼノとミオ、そしてエリシオがハルを見つめる。

 真っ白な肌の表面には、すでにじっとりと汗が滲み出していた。

 戦闘による熱からではなく、ざわつく心がそれを湧き上がらせる。


「本気で言ってるのかよ、それ。俺とあいつは元同僚で――二人共、40年間もあの街にいたって?」

「信じられないのも無理はないわ。でも、これまでの現象がすでにそれを証明している。ナッシュもキースも、あの『モノクローム』では特別な時間軸を生きていた。当時、街を発見して突入した『ウォッチャー』達も、同様にあの街の中を彷徨さまよい続けていたのよ」


 顎に手を当て、ゼノも「むぅ」とうなる。


「その上で、なにかをきっかけにこちらの世界にハル、ベネットの二人が戻ってきた――確かに、時間軸や辻褄は合う話ではありますが、それにしても荒唐無稽すぎる。しかもその口ぶりだと、ベネットは『モノクローム』が持つ価値に気付いていたと?」


 こくりと頷くリノア。

 彼女の眼差しが、少しだけエリシオに向けられた。

 少女はどこか不安げに、こちらを大きな目で見つめている。


 焦るな、落ち着け――加速しそうになる自身の考えに、叱咤する。

 今やらねばならないのは、うろたえて取り乱すことではない。


 今起こった全ての“点”を、冷静に“線”へと整形することだ。


「彼の体はすでに、少しだけヴォイドに侵食されていました。そしてその上で、彼は気付いていたんです。あの街に眠る力――私達一部の学者が、“高次元存在”と呼ぶものに」


 誰しもが、その理解不能な単語を口走ってしまう。

 リノアは一度深呼吸し、続けた。


「物体には存在するための座標があり、それが配置されるための空間がある。そしてそこに時間が流れ、一方向に進んでいるのが我々が生きている、よく知る“世界”のあり方。だけど、これに異を唱える学者達が存在したの。我々が体感している世界と並行、あるいは同居するように、“別の次元”が存在しているのではないか、ってね」


 ハル、ミオがあからさまに眉をひそめるなか、またもゼノが顎を撫でながらうなる。


「私も詳しいわけではないが、それはかつて提唱された“超弦理論”のような考え方、と捉えれば良いのですかね? 大雑把で恐縮ではあるが、確かこの世界は空間の9次元と、時間の1次元で構成されている、とか」


 リノアはかすかに頷く。

 その目の真剣な色は消えない。


「そもそもが、こんなのは大昔から続く学者達の論争だった。多くの先人達が独自の解釈で理論を立て、その度に撃沈し、あるいは確証もない持論をうそぶいて――そうやって決着しない、永遠のテーマだったの。この“次元”の謎に、いつしか私の父も魅入られていたのね。だから彼は、彼なりの方法で探し続けた。その果てにたどり着いたのが“高次元存在”――我々の世界と密に繋がりつつ、それでも我々からは干渉できない外の世界にいる存在よ」


 壮大すぎる理論に、もはやハルはついていくのが精一杯だ。

 案の定、ミオが「ぬぅ~?」と首をかしげる。


「ねえねえ、なによそれ。超難しい。さっきからキースもそうだったけど、単語が多すぎんだよなぁ。その“コージゲンソンザイ”って結局、何者?」


 苦笑しつつも、すぐさまリノアは凛とした眼差しを取り戻す。


「私達の世界の、“ことわり”に干渉できる力を持つ存在――我々が生きる次元を形成する“重力”、“空間”、“時”――あらゆるものを操作できる、超越者よ」


 この一言に、ついにハルも自然と声を上げてしまった。


「おいおい……それってまるで――神様じゃないか」


 その言葉を投げかけた瞬間、ハルの脳裏で無数の事実が紐づいていく。

 それはさながら、ベネットとキースの言葉から歩みを進めた、リノアに起こった現象と似ていた。


 理――重力、空間、時間――それらに干渉することができる、言わば世界の外側の超越者である“高次元存在”。


 それを追い求めた者達がたどり着いた“街”。

 色を失い、“場所”が狂い、“時”が自在に漂う場所。


 奇々怪界なる街と、空想・夢想のたぐいと一蹴されかねない超越者の性質が、どこか重なって見える。


 そして、そんな場所を――存在を知ったら、人間達はどう考えるだろうか。

 それが野心家であればあるだけ、彼らはある一つの答えにたどり着くのではないのか。


 気がつけば、ハルも拳を握っていた。

 すでに汗だくになったその奥で、指が痛いほどに食い込む。


 自身の抱いたあまりにもつたない仮説を、慎重に、だが確信を込めて投げる。


「ベネットは“高次元存在”の力を――その“神様”の力を、自分のものにしたかったのか」


 ゼノが息をのむ。

 そんな中、その場の誰しもが抱いたある疑惑を、空気を読まずに彼女が口に出す。


「ってことは、その『魔王』ってのは実は“神様”だったってオチ? うっは、それは無理だわ、無理無理! 勝てっこないよ。だって神様だぞ、ゴッド! うちらがなにしたって、天罰覿面てんばつてきめんでぶっ飛ばされちゃうよ。雷とか津波とか、ジャッジメントなんてよりどりみどりだぁ」


 あっけらかんと言う彼女に苦笑しつつ、リノアは首を横に振ってしまう。


「私も最初はそう考えたの。でもきっと、それは違うわ。『魔王』は“高次元存在”とイコールではない」


 ミオが「あれぇ?」と声を上げる。

 たまらず、ゼノが代わりに問いかけた。


「どういうことですか。あの街を管理し統べるとなれば、奴が“高次元存在”であれば、辻褄は合いそうなものですが」

「もちろん、『魔王』はその力の一端を利用し、あの街を操っていると思うの。だけど、本質はそうじゃあない。『魔王』はきっと――“高次元存在”を利用する“誰か”なんじゃないかしら」


 黒い眼を大きく開き、ハルは驚く。

 喉が渇いて仕方ないが、それでも問いかけることを止めない。


「それってつまり、ベネットよりも先にあの街にたどり着いていたやつがいたってことか? あいつですら、二番煎じだったってことかよ」

「いいえ。ここからはあくまで推測だけど、あくまでモノクロームを最初に発見したのは『ウォッチャー』達だと思う。もちろん当時は、“高次元存在”なんて明確な目当てがあったわけではなかったでしょうけどね。きっと彼らだって、見つけたのは偶然だったんじゃないかしら」


 恐怖や不安より、ハルの脳内に混乱の波が押し寄せる。

 なんだか、リノアの抱いた“真実”に近付いたかと思うと、すんでのところで掴み損ねてしまう。


「だ、だったらやっぱり、ベネットが最初の発見者なのか? でもそうなると『魔王』は一体……」

「正確には、ベネットは最初に発見した“チーム”の一員だったのよ。つまり、第一発見者は複数いた」


 目を見開いたのは、ハルだけではない。

 おそらく、ゼノやミオも同時にその事実に気付いたのだろう。


 ハルの体を、急に熱が帯びる。

 驚き、うろたえる彼の横顔を、不安げにエリシオが見守っていた。


 点が繋がり、線になる。

 そしてその線はさらに伸びていき、残った点を飲み込んでいくのだ。


 事実が明確になればなるほど、“パズル”の完成は加速する。

 余ったピースの居場所は、もはや考えるまでもなく、明確に答えが出てしまうのだ。


 ハルの中に残ったそのピースが――ある一つの結論にたどり着かせる。


 思い出してしまったのだ。

 リノアから聞いていた、ここで起こっていたもう一つの事件を。


 殺されてしまった、聡明な老人・ドクトル。

 彼が死の間際、それでも必死に隠し、誰かに伝えようと足掻いた、ある事実。


 40年前に発足したチームの――ある人物の記録。


 気が付いた時にはリノアだけでなく、ゼノ、ミオまでもこちらを見ていた。

 うろたえる白い男の姿を、どこか恐れおののきながら見つめている。


 辻褄は合わない。

 だがそれでも――ピースがはまってしまう。


 ハルは恐る恐る、高鳴る鼓動を押さえつけながら問いかけた。


「あいつは――『魔王』は、『ウォッチャー』の中の誰かなんだな」


 残ったピースは一つではない。

 一つをはめたことで、また別の一つの場所が決まる。


 ベネットは言っていたのだ。

 ヴォイドと同化した“心臓”を見せ付けながら。


 “あいつ”にやられて、化け物になった――ハルの指先が震える。

 まるで思い出せないことに変わりはない。

 だがそれでも、なぜか怖かった。


 扉が開きかけているのを感じる。

 もしこれ以上、力を込めてしまえば、この強固な扉は完全に開いてしまう気がした。


 それを分かっていながら、あえて女史は頷く。

 そして彼女だけが知り得た、最後の事実を告げる。


 あの時――ベネットに襲われるその直前、しっかりとこの目で見た“真実”。


 今回の事件の核心として、聡明な老人が残し、託した、あまりにも奇怪な記録を。


「ドクが残していた資料――かつての『ハル=オレホン』の詳細には、彼のこんな生い立ちが載っていたわ。彼は幼い頃、内紛に巻き込まれて家族を失っている。それはきっと、少年の頃の彼にはとてつもないショックだったんでしょうね」


 何を言っている――ハルは唖然とし、リノアを見る。


 女史自身、それがどれだけ残酷なことかは分かっていた。

 このまま“扉”を開くことが、目の前の“彼”にとって、とてつもない負荷になると。

 だがそれでも、リノアは自身の決断で言葉をつむぎ出す。


 こんなことは、終わらせなくてはいけない。

 こんな連鎖は、断たなくてはいけないのだ。


 呪いを解かなくては、きっとここにいる全員は――この世界はこれ以上、“未来”に進むことはない。


「それがきっかけとなったのね。彼は入隊時、ある特殊な“疾患”を持っていたの。ドクが私に見せたかったのは、あなたが40年前に存在したという事実だけじゃあない。きっとその、些細なデータだったのよ」

「何が言いたいんだ……一体、何を――」


 いつしか、ゼノとミオも固唾かたずを飲んで見守っていた。

 エリシオは自身の手をぎゅっと握り、うろたえるハルを見上げる。


 張り詰めた空気の中で、ハルとリノアは互いを見つめ合う。

 記憶を失った真っ白な男と、真実に直面した女史。

 奇妙な街と、神に等しい存在で繋がったこの二人は、数秒、視線を交えて立ち尽くす。


 大きく呼吸をし、覚悟を決めるリノア。

 その一言が、この男の人生を大きく捻じ曲げることになるだろう。


 しかしそれこそが、今日まで彼が探し続けてきた“真実”に他ならない。

 ならばそれを知る自分には、それを伝える義務がある。


 ドクの死も、ベネットの告白も、キースとの再会も――全てはここに辿り着くための“意味”があったのだ。

 ゆっくり、汗もかかず、リノアは口を開く。


「ハル。あなたは――」


 女史の顔を見つめるハル。

 ひどく意識が研ぎ澄まされ、周囲の光景や音が緩慢に感じた。


 緋色の髪が揺れている。

 すでに白衣は血で汚れ、ところどころが破れていた。

 強く、凛とした女史の眼差し。


 その目が――見開かれる。


「――えっ?」


 声をあげたリノアの口元から、つぅと紅い雫が垂れた。


 ハルの思考が止まる。

 その奇妙な光景に、頭がついていかない。


 だがやがてハルだけでなく、その場にいた誰もが気付き――絶句した。


 いつからだろう。

 いったいどうして、こんなことになっているのだろう。


 もはや一同の視界に、あの荒れ果てたガラクタだらけの開発室は存在していない。


 真っ白な“霧”が、一面を覆っている。

 自分達が立っている地面ですら、白に埋め尽くされて確認できない。


 リノアの腹部を、腕が突き破っている。

 鮮血が溢れ出し、霧の中に落ちて吸い込まれるように消えた。

 彼女の背後に立つ“彼”が、あの遠雷のような声で告げる。


「よく辿り着いたよ。本当に、ここまで来れるとはな」


 ハル、ミオ、ゼノ――そしてエリシオが総毛立つ。

 “霧”の中、リノアを刺し貫く者の存在に、一気に血が加速する。


 女史の背後に隠れるように立ちながら、黒い影に包まれたまま彼が――「魔王」が言う。


「やっぱり邪魔だなぁ、“えにし”なんて。いつだってそうだった。味方に見えるのなんて一瞬のことなんだ。最後の最後、寄ってきた奴らは皆、邪魔をする」


 ぎょろりと、影の中に浮き上がる瞳が動く。

 すぐ近くで対峙するハルに、彼は告げた。


「お前のことは否定するが、それでも受け入れないつもりではない。前に言った通りだ――来たければ来れば良い。ただ、分かりやすい答えなど、貴様に与えてやるのはしゃくなんだよ。イライラする」


 ぞわり、ぞわりと心に言葉が入り込む。

 しかしそれでいて「魔王」の言い方は、どこか人間臭い言い回しをも含んでいるようだ。


 霧に包まれ固まったままのハルが、必死に言葉を紡ぎ出す。


 何か言わなくては――呪縛を断ち切り、かすかに前に出る。


「おい……何やってるんだよ、おい……リノアを……リノアを離せよ!」


 「魔王」は何も答えない。

 ただ黙ったまま、刺し貫いている腕をひねる。

 リノアの傷口からさらに血が吹き出し、口元から「がふり」と鮮血があふれ出た。


 絶句するハル達に、なおも淡々と「魔王」は言う。


「もはや一緒に歩もうなど、くだらないことは言わないよ。ただ、まだ少し――ほんのちょっぴり、この女に利用価値はある。釣り餌としてのな」

「釣り餌……ふざけるなよ、お前――」

「来ればいいだろう、私の元へ。そうすれば嫌でも分かるさ。自分が何なのか、がな。そのための釣り餌なんだよ。お前を引き寄せるためのな」


 瞬間、背後から風が吹き荒れる。

 霧がさらに色濃く視界を染め、「魔王」とリノアの姿を隠してしまった。


 たまらず前に歩み出て、腕を振り回すハル。

 リノアを掴もうとするが、まるで感触はない。


 白に染まる視界の中で、頭の中に声が響いた。


「本当に罪深いなぁ、お前は。だから誰も幸せになれないんだよ。お前と共に歩んだ人間は、誰もな」


 霧が消える。

 気が付いた時には一同は、変わらずガラクタの散らばった研究室の中にいた。


 薄暗い室内に、リノアの姿はない。

 もちろん、「魔王」の影すら残っていない。


 汗が吹き出る。

 必死に周囲を伺うも、当然どこにもリノアはいない。

 ゼノやミオも何もできず、その現象に立ち尽くすのみだ。


 やがてハルはがくりと膝をついてしまう。

 己の手を見つめ、霧の中で伝わってきた――否、何も掴めなかったと言う空虚に、震えてしまう。


 誰も幸せになれない――たどり着きかけた答えも、再会できた女史も、全て奪われた。


 溢れ出る汗のその中に、かすかに涙が混ざって落ちる。


「なんだよ、これ……あいつは――俺はなんだって言うんだよ!」


 慟哭どうこくし、拳を握る。

 やりきれない衝動の行き場はなく、ただ虚しい感情だけがぐるぐると肉体の中を渦巻いていた。


 ぜえぜえと、肩で息をするハル。

 その背後で、ゼノが唖然としたまま声を上げる。


「連れ去られてしまった……のか。こんな……こんなあっさりと……あっけなく」


 一同は少なくとも、何もできなかった。

 周囲を染め上げた“霧”にも、近付いてきたはずの「魔王」にも、何一つ対応することはできなかった。

 空間も時間も、全ての主導権は「魔王」にこそあったのである。


 それはまるで、神”の所業だ――その圧倒的な存在に、誰も身動き一つ取れない。


 普段は冷静沈着なゼノですら、滝のような汗を流している。

 ミオこそいつも通りに見えるも、やはり口を開けたまま消え去った魔王を見つめ続けていた。


「なんだよ……何を知ってるって言うんだよ……俺は一体――誰なんだよ」


 瞬間、ハルの脳裏に数多の光景が蘇る。


 激痛に頭を押さえ、叫びながらうずくまった。

 エリシオが息をのみ、ゼノがたまらず駆け寄る。

 しかし、外界の音が遮断され、痛みと共に数多あまたの声が聞こえる。


 歯を食いしばり、割れそうになる頭蓋を押さえ込み、まぶたの裏に流れ込む景色を見つめた。


 貧しい生まれ故郷、横たわる家族の死体。

 辛くて、怖くて、悲しくて――母は自分をかばって死んだ。

 頬にはまだ、自身を抱きかかえ守っていた、母の血がこびりついている。

 もう数十秒、救助の手が早ければ、きっと家族は生きていた。


 たったそれだけ――人の生き死にはそんな、秒針がどれだけ動いたかの、些細なことで決められる。


 誰が決めているんだ。

 神なのか?


 もしそうなら、なんて残酷で、無能なのだ。

 毎晩、母の教え通り、祈ってやったのはなんだったのだ。


 保護され、救助され、暖かい寝床を与えられても心など戻ってこない。

 鏡で見つめた自分の顔は、ただ“虚無”が宿った抜け殻だ。


 その鏡の奥底。

 虚ろに立つ自分の背後に――“彼”がいる。


 ああそうだ。

 そうだった。


 あの時からずっと、“彼”が一緒にいてくれたんだ。


 母が死の間際に告げた言葉。


 強く生きろ。

 明るく、人を導けるように、強く。


 その期待に応えたかった。

 逝ってしまった彼女の、教え通りの人間になりたかった。


 そうか、だから――“彼”が一緒にいてくれたんだ。


 激痛が振り切り、脳が揺れる。

 荒れ狂う自身の雄叫びすら、もはや聞こえてはこない。


 閉じた目の裏に広がる漆黒で、幼い自分と共に歩んでくれた“彼”が映る。

 その見覚えのある“彼”の顔が、今もなお苦しむ自分に向けて、変わらず笑いかけた。

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