第21章 高き次元にて待つ存在
一体、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
視線を動かさずにリノアは考える。
端末を見たくとも、まるで身動きが取れない。
肉体は自由であるはずなのに、本能が肉に、神経に働きかけ、その動きを
技術長・ドクの研究室では、リノアともう一つ、大きな黒い影だけが対峙していた。
突如現れ、総指揮官・ベネットを一撃のもとに惨殺した、巨大なヴォイド。
人間同様の肉体構造を持ち、手には槍を
頭部の奇怪な仮面を、リノアはただただ凝視した。
逃げなくては――
乾いた喉が呼吸のたびに張り付く、嫌な感触が伝わった。
戦う
その上、この場から走って逃げるという選択肢すら、今のリノアにはとることができない。
蛇に
もはや肉体と精神が、目の前の存在に抗うという選択肢を諦めてしまっている。
どれだけ聡明な頭脳を持ち合わせていても、今の彼女の頭には“死”というものに対する備えしかない。
これから訪れるであろう痛み、苦しみ、その先にある終末を本能的に考え、察し、身構える。
そんな虚しい生物の足掻きが、彼女の肉体を支配していた。
また少し、怪物が顔を近付ける。
八つ裂きにされるのか、腕力で押しつぶされるのか、はたまた牙で食いちぎられるのか。
いつ来るかも分からないその時を、ただ情けなく、無残に待ち続けるしかなかった。
握りしめていたノート型端末が汗で滑り落ち、ガタンと嫌な音を立てる。
恐れ
「さすがですね。来るべき“死”という未知に、即座に適用しようとする。生き残るという意味では落第点なのでしょうが、しかしながら聡明だからこそ取れる反射行動です。あなたの精神は“死”を受け入れた上で、備えようとしている」
その声は、リノアの脳裏に直接響いていた。
空気の波として鼓膜を揺らすのではなく、脳細胞そのものに信号が刷り込まれるような、不思議な感覚である。
肉体を縛り付けていた恐怖の呪縛が、かすかに和らいだ。
涙は浮かべていても、その目はしっかりと前を見据えている。
「怖がらないでください。と言っても、この姿では無理もないのは承知の上ですが。あなたに危害を加えるつもりはないのです」
言葉の内容から、それが目の前の黒い巨人――すなわちヴォイドが発しているものだと悟る。
今までのような恐怖からくるものではなく、純粋な困惑に汗が滲み出た。
ようやく後ずさるも、すぐ背後のテーブルに腰を打ってしまう。
両手で体を支えながら、怪物を見上げた。
「気をつけてください。この部屋は随分と危険なものが乱雑に置かれている。使用者の感性を疑います。技術長という立場についているならば、なおさら生み出した物の管理まで責任を持つのがあるべき姿だと思いますが」
息をのむリノア。
怪物が
この怪物はドクを知っている――ついにリノアは、意を決してコンタクトを試みる。
「あなた、何者なの……随分と賢いヴォイドなのね。喋って、人の真似事ができるなんて」
「真似事というのは、いささか手厳しいですね。仕方のないことかもしれませんが、警戒は無用です。私はあなたと対話するためにこうして、ここに来たのですから」
「私と対話ですって? どういうこと……なんで、そんなことをする必要が――」
「あなたに理解していただきたいからですよ、博士。今まで起こっていたことを。そして――これから起こるであろうことを」
どくんと、リノアの鼓動が跳ねる。
怪物の話す内容は実に不可解だ。
だがそんなこと以上に、リノアはまた一つ、あることに気付いてしまう。
実に丁寧に、物腰柔らかに語りかける怪物。
その口調に――覚えがある。
いや、それどころか、その声色にすら聞き覚えがあるのだ。
久しく忘れていた声。
リノアの肉体から緊張が消え、汗がひく。
怪物が頷く。
と同時に、頭部を覆っていた仮面がカシャリと音を立て、左右に開いた。
真っ黒な巨人のその素顔が、
一切の体毛はない、マネキンのような素顔だ。
しかし立体感があり、整った顔立ちだということが分かる。
こちらを見下ろす眼もまた黒だが、瞳だけは赤く光り、しっかりとリノアを捉えていた。
その顔を見て、思わず「あぁ」と声をあげ、うろたえてしまう。
静かだ。
怪物がはびこり、混乱のさなかにあるというのに、基地の中は静寂に包まれている。
薄暗い一室で対峙した、リノアとヴォイド。
怪物は表情一つ変えず、口元すら動かずに言葉を告げる。
「お久しぶりです、リノア博士。長かった――いや、そうか。あなたにとってはまだ数十時間の出来事でしたね。失敬しました」
笑わないその顔を、
漆黒に包まれていたとしても、見覚えのある顔にふっと呟く。
「そんな、どうして……あなただっていうの――キース」
ゆっくり、一度頷くヴォイド。
黒い巨体の頭部に据えられたその顔は、かつての
そしてリノアの後輩である聡明な男性・キースであった。
どういうことなのか、まるで見当もつかない。
先日、モノクロームで行方不明になったキースが、こうして目の前にいる。
人の姿ではなく、巨大で黒い、ヴォイドという怪物の姿をとって。
困惑するリノアの心を読んだかのように、キースが語りかける。
「そうですね。この時点で、私がモノクロームではぐれてから、22時間34分52秒が経過しています。本来ならばあと1時間21分11秒後、総指揮官であったベネットによって、あの少女への尋問が始まる予定でしたね」
キースの口元は一切動かない。
無表情のまま眼球のみが微かに駆動し、リノアを中心に据える。
「しかし、私の介入によって――否、“あの方”の手によって未来は改変されつつあります。ベネットは優秀な男でしたが、“あの方”と比べれば所詮は人間。抱いた欲も描く未来も、まるで陳腐でした」
さらりと罵倒するキースだが、あいにくリノアは話についていけない。
自分自身でもスマートではないと思えてしまうような、
「何が……何が起こっているの? あなたは一体――」
「落ち着いてください、リノア博士。先程もお伝えしたように、私はあなたに理解していただきたい。これからこの世界が、どこへ向かおうとしているか、ということを。そうすれば自ずと、ここから何をすべきかは分かってきます」
リノアは巨人を見上げたまま、静かに呼吸を繰り返した。
おびただしい汗が頬を伝うが、それを拭うことすら忘れ、必死にキースの瞳を睨みつける。
「あの街は――モノクロームはとことん、我々の理解を超越した場所です。物体や色、天気や位置という概念が狂い、乱れることはご存知ですよね?」
問いかけられ、リノアはぎこちなくも一度だけ頷いてみせた。
「しかし、それだけではなかったのです。驚くべきことに、あの街では“時間”の概念までもがねじ曲がってしまっている。我々が足を踏み入れた“内郭エリア”ではその乱れは顕著で、あの時、分散された何人かの隊員の間で、体感した“時の誤差”が生まれてしまったのです」
「そんな……で、でも私は……ハル達と数十分で再会できたわ。それに隊長達だって、特に変わった様子は――」
「あなたがたも厳密に言えば、あの霧の中をさまよっていた時間は異なっているのです。リノア博士は16分32秒。隊長は23分57秒。ハルさんは54分28秒――各々が各々の尺度で“同じ時間軸”を歩んでいた――ナッシュに至っては、30日と19時間20分54秒もあの地で逃げ続けていたのです」
息をのむリノア。
思わず体を支える腕に力が入ってしまう。
「信じられない……数分のズレなんてものじゃなくて、1ヶ月も時間がずれていたと言うの? そんな、バカな……」
ようやくリノアも、ナッシュが激しくうろたえていた理由を理解してしまう。
と同時に、ある疑問を抱き、怪物の顔を見つめ直す。
ごくりと唾を飲み込み、喉を潤した。
冷静に、取り乱さずに、問いかける。
「あなたは――あの街で、あなたははぐれてから、どれくらい――」
途切れかける粗末な質問に、キースはすぐには答えない。
表情を変えず、感情の波すら見せず、じっとこちらを見下ろしている。
髪の毛にも似た頭部の触手が、ざわりざわりと空間でうごめいていた。
見れば見るほど、もはや彼の肉体は人間のそれを逸脱している。
やがて静かに、キースは答えた。
脳の中で、リノアの問いかけた“答え”が弾ける。
「460年――142日と21時間、38分19秒。こうしてあなたと再会するまで、私は
言葉を返せない。
目を見開き、ただ情けない表情で怪物と対峙するしかない。
馬鹿げている、と思うだろう。
いつものリノアならば、荒唐無稽なファンタジーだと一蹴するかもしれない。
理論もなく、理屈もないその途方もない言葉を、きっと鵜呑みにはしないだろう。
だがそれでも、この怪物を前にして、リノアは強く否定することができない。
口を開けたまま身動き一つ取れない女史に、かつての後輩は告げる。
「時間とは不変の流れであり、万物に平等なもの――それが、私が人間だった時に悟った絶対の定義でした。しかしあの街では、それがいともたやすく捻じ曲げられる。あくまで時間とは“特異点”となるあるポイントに至るまでの、各々が通った道筋の結果でしかない。あなたのように最短の道を選べた者もいれば、私のように最大の遠回りをしてしまった者もいる――もっとも、故に多くのことを学ぶことができましたが」
「学んだ……その結果が、その姿ってことなの? あなた一体、何を――」
「あなたと同様、私も出会ったのです。彼の地の支配者――『魔王』たる存在に。あの方から全てを聞き、そして理解したのです。長い時の中でその思想に共感し、彼と共に歩むことを決めました」
なんですって――と、衝動的に出たリノアの声に、やはりキースの表情は動かない。
「あの方は、この世界そのものを掌握するおつもりです。モノクロームの支配は、その一端に過ぎない。あの方が真の力を取り戻せば、世界中の人々が“街”の住人として生きていける。悠久の時が流れ、思うがままに作り上げ、組み替えることのできる自在の世界へと昇華するのです」
「何を言っているの……あなた、正気!?」
「ええ、至って正気です。この肉体を得てからというもの、今まで追い求めてきた“真理”など、取るに足らないものだと痛感しました。その上で、私の根の部分――探究心は消えてはいません。あの方についていくことを決めたのも、私自身の意志です」
告げられた事実に、もはや思考が追いついていかない。
かつての後輩は、リノア達と別れてからの果てしない時間を「魔王」と共に過ごしていた。
そしてその中で、彼自身の意思が“道”を定め、選択したのだろう。
「魔王」と共に行く――再会したかったはずの後輩から告げられたその一言が、リノアの感情を揺さぶり、徐々に心を砕いていく。
「“真理”……それが、あの場所に――『魔王』が作る世界にあるっていうの? そのために、あなたは戻ってきたと?」
「おっしゃる通りです。あの“街”との因縁は、今に始まったことではありません。遥か過去から今日に至るまで、奇妙な歯車の噛み合わせによってなりたっていたのですよ」
警戒をしつつも、リノアは必死に考えていた。
今まで浮き上がった数々の事実を、霞の中に逃さぬよう繫ぎ止める。
無数にばらまかれた“点”は、必ず“線”になるはずなのだ。
どれだけ奇怪で、どれだけ常識はずれでも、必ずどこかで繋がっている。
色を失った街、怪物、魔王。
記憶を失った男、少女。
殺された老人、殺した指揮官。
数百年ぶりに再会した後輩――脳細胞が焼き切れそうだ。
度重なる緊張のせいで、激しい頭痛に襲われる。
それでも考えることはやめない。
もっとあるはずだ。
もっと根本的に、この事件を紐解く“鍵”が。
もっと時間が欲しい。
この未曾有の大惨事を収束させるだけの、何かを掴むための時間が。
時間――ぱっと、リノアの脳の奥底で、火種が弾ける。
目を見開き、静かに呼吸を繰り返した。
黒く染まり、怪物と同化した後輩の、その悪夢のような姿を見つめ、口を開く。
「ベネットは言っていたわ。あの街を見つけたのは、“自分達”だって」
何も言わず、ついにキースが頷く。
「ドクが保存していた『ウォッチャー』の記録は――40年前のものだった。つまりそれって――」
点と点が、“線”をなしていく。
事実の解明とは、パズルに似ていた。
バラバラであるうちは、どこから手をつけるべきかも分からない。
絵の概要を知っていたとして、ピースひとつひとつをどこに、どの角度で配置するのかも、ただただ手探りだ。
しかし、ほんの少しの欠片が組み合わさるとパズルは加速していく。
適した色が分かり、適した形が分かる。
必然的に残ったピースの置き場所が定まり、しかるべき形を導き出していく。
パズルとパズルを結びつける鍵――それは、“時間”だ。
リノアは全てを捨て去り、頭の中を一度、“無”にする。
そして改めてそこに、ありのまま、起こったことを全て置いていく。
いつもそうだった。
難解な問題に突き当たった時は、いつもこうして打開してきた。
他ならぬ父が教えてくれた、些細な“コツ”である。
しかしその些細なことが、リノアの曇っていた眼に見せつけた。
今この世界に起こっている、“真実”を。
しっかりと怪物を見据え、拳をかすかに握り――告げる。
「彼は――ハルは“過去”の人間なのね。そしてベネットも……モノクロームに最初に突入したのは『ウォッチャー』。40年前に結成された、DEUSの精鋭達」
大きく、しっかりとキースは頷く。
「あなたなら、気付いてくれると信じていました、リノア博士。モノクロームは、遥か過去から存在していたのです。それがとある事件を経て、こうしてこちらの世界に広がり始めただけ。先住民の土地――ミオの故郷でしたね――それを飲み込み、荒野の中に“染み出した”。それこそ、あの街が存在する事実です」
「なんてこと……じゃあハル達は……あの街の中で――」
「ええ。彼らは40年、あの街をさまよい続けていたのです。だがその中で、ある“衝突”が起こってしまった。モノクロームという存在の均衡を崩す大きな事件が」
「事件……それって、もしかして……」
「ええ。そこに関わっていた人物こそ、あの総指揮官――を演じていた男・ベネットです。ただ――彼もある意味、“被害者”の一人ではありますが」
リノアは直感的に理解してしまう。
ドクはきっと、この事実に気付きかけていたのだ。
ベネットが隠していた「ウォッチャー」の真の記録を探し当て、彼が何かを隠しているという事実を突き止めた。
結果、それは彼が殺害される引き金となってしまうわけだが。
またひとつ、生唾を飲み込み喉を潤す。
リノアは自身を奮い立たせ、ついに核心に迫る問いを投げかけた。
「あの街は、なんなの――『ウォッチャー』達は、一体何をしに街に入ったの?」
きっとそれが、誰しもの中で抜け落ちていた、大きなピースなのだろう。
怪物はやはり隠すことはしない。
キースは深く頷き、脳に直接答えを告げる。
「あそこには、あなたのお父様が探した全てがあったのです。あなたも追い求めている、“高次元存在”の寝床――それがあの街なのです」
きぃぃん――と、音が退く。
加速した意識が外から聞こえる喧騒を遠のけ、無音を錯覚させた。
リノアは緩やかに流れる時間の中で、思い出す。
先程、目の前の怪物によって塵に変えられてしまった男・ベネットも言っていた。
高次元存在――分からないわけがなかった。
忘れたくても忘れられない、重要な言葉だ。
それは他ならぬリノアの父が遺した、最後の“課題”である。
「嘘よ……あれはただの眉唾物――父が空想を盛り込んだ、絵空事よ」
「嘘ではないということを理解していながら、強がるのは良くありません。すぐさま見抜かれてしまいますよ」
「ありえるわけないじゃない。私達が住むこの次元――“外の世界”の存在は、もう何百年も科学者達が追い求めてきたのよ? それでもなお、何の手がかりも掴めてない。誰一人、そんな世界を見た者も、ましてや足を踏み入れた者もいないわ!」
「であれば『ウォッチャー』こそが、その先駆者となるわけです。人類が躍進すべき、偉大なる一歩の担い手達だ」
胸が苦しい。
いつしか呼吸が激しく乱れ、思うように酸素を取り入れられない。
世迷言だ――そう、吐き捨てられれば楽なのだろう。
心を乱すために、怪物がささやきかけてくる嘘っぱちだと。
だが、目の前に立つキースの言葉は、かつて出会った「魔王」のそれと同じだ。
心の隙間を難なくこじ開け、そこにぞわり、ぞわりと立ち入ってくる。
甘く、優しく、静かに。
言葉に抗うのではなく、その波に身を任せてしまう自分がいた。
なによりそうすることで――リノア自身が追い求めていた、“真実”が見えると思ったからだ。
「それじゃあ……『魔王』はその“高次元存在”だというの?」
そうであれば納得がいく。
場所も、距離も、物体も、時間も――全て掌握し、意のままに操るあの「魔王」がそうであったなら、リノアの中で答えが出る。
父が追い求めていた者が、あそこにはいた――しかし、返された言葉はいささか複雑であった。
「残念ながら、純粋なる“高次元存在”ではありません。あの街――座標と言いましょうか――そこに漂う高次元存在の一端を受け継ぎ、その身に宿したお方です」
「その身に宿す……ま、待って。じゃあ、介入した第三者が“高次元存在”が持つ力を行使している、ってこと? そんなこと――」
「できるのです。事実、できているではありませんか。こうして私に力を与えてくださったのも、あの方あってのこと」
あの方――リノアはすぐさま考える。
「魔王」という存在になり得る、誰かの正体を。
だが彼女の思考がまとまる前に、また少しキースはこちらに近付いてくる。
「ここでこうして、言葉を交わし続けるのも一興ですが、実体験に勝るものはありません。さぁ、博士――共に行きましょう。あなたも『あの方』に会えば、その世界の素晴らしさが分かるはずです」
手を伸ばすキース。
だが、リノアはようやく我に帰り、駆け出す。
壁際に身を寄せ、とにかく怪物から身を退けた。
「その口調、本当に魔王の手下って感じね……だけど、あいにく結構よ。どんな思惑があるか知らないけど、怪物を生んで人を襲わせるような存在に、易々とついて行く気になんてなれないわ!」
キースから視線をそらさず、後退する。
足元のガラクタをはねのけながら、リノアは距離をとった。
やはり怪物の表情は変わらない。
だが差し伸べていた手を下ろし、キースは上体を持ち上げる。
立ち上がると、頭頂部が天井すれすれまで近付く。
「発展と進歩には多少の犠牲はつきものです。それは進化論に精通したあなたもご存知でしょう? 数名の命が消え去ることなど微々たること。その先に待つ永劫なる繁栄をもってすれば、大事の前の小事と言えます」
「犠牲を払わなければ進化できない、なんていう昔からの屁理屈はたくさんよ! 私はあいにく、そういうのが大っ嫌いなの。私の――父もそうだったわ」
「“高次元存在”がもたらす新たな世界像こそ、あなたのお父上が追い求めたものでしょう? それを探求すること以上のものがありますか?」
「父を気安く、交渉材料にしないでちょうだい。あの人は、こんな犠牲だらけの世界が欲しいわけじゃない!」
強く言い切り、リノアはついに走り出す。
足がもつれ、ガラクタを撒き散らして転ぶ。
だがそれでも、リノアは歯を食いしばって痛みに耐えた。
メガネがずれるも、構わず前を見据える。
出口の扉に駆け寄り、ロックをかけたボタンに手を伸ばす。
外がどれだけ危険でも構わない。
今はとにかく、この怪物から少しでも遠くに身を隠さなければ。
リノアの背後で、キースはゆっくりと腕を持ち上げる。
そしてリノアを指差し、軽く念じた。
バンッ――という音と共に、リノアの視界が真っ赤に染まる。
一瞬、何が起こったのかをまるで理解できずにいた。
どれだけ手を伸ばしても、壁で光っているボタンが押せない。
「あれ?」という言葉が、無意識に溢れでていた。
不可解な現象に困惑するリノア。
だが湧き上がった激痛と、目の当たりにしたおびただしい量の“赤”で、理解する。
女史の右腕は、肘から先が砕け散っていた。
ぼたぼたと鮮血が溢れ出し、床と白衣を染めていく。
剥き出しになった骨と肉、その断面図を見て、息が止まった。
焼けるような感覚に、ついにリノアは悲鳴を上げてしまう。
傷口を押さえ、うろたえる彼女に向けて、怪物はゆっくりと近付いてくる。
「お父上の尊厳を守ろうとするその意志はご立派です。ですが、今はそんな人間の浅はかな感情では動いていただきたくない。真理は彼の地にあり、あのお方こそがそれを掌握する。私もその偉大なる恩恵を受けたがゆえ、人という未熟な殻を破ることができたのです。人は今こそ――進化せねばならない」
苦しみ、もがくリノア。
そんな彼女に向けて、またも怪物は腕を持ち上げ、念じる。
歯を食いしばり、目を閉じてたえるリノア。
しかし、ふっと腕の痛みが薄らいでいく。
命の危機を感じ取った肉体が、脳内麻薬の分泌を始めたのか。
はたまた思考が停止しかけ、痛覚がパニックを起こしているのか。
恐る恐る目を開き、飛び込んできた光景に息をのむ。
キースによって吹き飛ばされた右肘から先が、あっという間に再生を始めていた。
根元から徐々に痛みが消え去り、触覚が戻ってくる。
十秒もかからず、そこには元どおりの色白でか細い女性の右腕が伸びていた。
唖然としたまま、手を握る。
まるで痛みなどない。
正真正銘、これは元どおりの腕だ。
元どおり――その単語に気付いてしまう。
この不可思議な現象を、リノアは初めて見たわけではない。
他ならぬあの街で、体験しているのである。
あの銀髪の少女が行使した、不思議な治癒術を。
だが、ここにあの少女はいない。
となれば、これをやってのけたのは、背後に迫る巨人――変貌してしまった後輩に他ならない。
うずくまったまま、大きく呼吸を繰り返すリノア。
また一歩、キースがこちらに歩み寄ってくるのが分かった。
「この程度、あの方の力を持ってすれば、誰しもがたやすく行使できるのです。そもそもこれは、ヒーリング能力などという不確かで、不定義な力ではないのですよ。あのエリシオという少女も同じ――“高次元存在”は“時”と“空間”を操作するのです。あなたの
脳に響くその声、言葉に、リノアはまた目を見開く。
たまらず、背を向けてしゃがみ込んだまま、背後のキースに問いかけた。
「エリシオも同じ――ってことは……あの子もなの? あの子もまさか――“高次元存在”の……」
もう一歩、地面が揺れた。
すぐ後ろに、黒い巨体は迫っている。
ちっぽけに身を丸めるリノアの背を見つめたまま、やはり表情は一切崩さずに告げた。
はっきりと、この女史の心を定めさすために。
「あの少女は、根本はあのお方と同じ――『魔王』と同類なのです。その身に“高次元存在”を宿した、似て非なる存在。だからこそ、あのお方の命を受け、私はあの少女を取り戻しにきたのですよ」
どくん、と鼓動が跳ねた。
リノアは少しだけ顔を持ち上げ、すぐ目の前のガラクタまみれの床を見つめたまま、思考を走らせる。
エリシオと「魔王」は同じ――霧の中で出会った、得体の知れないあの影のような男と。
核心に迫るリノアの脳に、キースはさらなる事実を投下する。
そうすることで、この聡明な女史が自分たちの“世界”を理解してくれる、と感じていたからだ。
「数奇な運命と言えるでしょう。そもそも、あの少女と出会わなければ、こんなことにはならなかった。我々がこうして“高次元存在”に触れることができたのも、かの『ウォッチャー』の功績と言えるでしょう。かつての彼らがいたからこそ、今がある――いや、言うならばかつての“彼”がいてくれたからこそ、“あのお方”が誕生した、というところでしょうね」
汗が引いていく。
緊張が振り切ってしまったせいか、はたまた思考が恐怖を置き去りに加速を続けているせいなのか。
リノアは床に視線を落としたまま、想いを吐き出した。
「彼――それって、まさか……」
「すでにお気づきでしょう。あなたは先程、その目で確認したはずです。“彼”の真実を。40年前の世界を生きていたなんて、そんなものは序の口だ。“彼”が持つ、ある特徴を――それがあの街で、少女と出会った瞬間に昇華した。それこそが、この一連の大きなうねりの根底にあるものです」
キースの言葉を受け、リノアの脳はどうしても考えてしまう。
ドクの端末に残っていた事実。
40年前にモノクロームを発見していた、DEUS部隊精鋭「ウォッチャー」。
そこに所属していた、部隊長の“彼”。
そう、全ては――“彼”と出会ってから始まったのだ。
あの荒野で、色を失った“彼”を救出したからこそ、全てが動き出したのだ。
資料に記されていた内容が、記憶の中から雪崩のように溢れ出る。
幼き頃に、内紛で家族を失った“彼”。
明るく周りを楽しませる、異質な軍人である“彼”。
その無数の事実の最後に記されていた、ある一文が蘇る。
ベネットに襲われたせいで、思考することすら忘れていた、ある事実が。
そうか、彼は――やがてそれは、一つの記憶へと結びつく。
なんのことはない、他愛のない出来事だった。
だがそれこそがすでに、リノア達に語っていたのだ。
この事件の“真実”を。
あの時、少女はこう言った。
軍部が保管していた“彼”のデータ――そこに映し出された素顔を見つめて、こう告げたのだ。
『お兄ちゃんはこんな笑い方しないよ。顔は一緒なんだけどなぁ』
点と点が、繋がった。
リノアの思考の中に、輝く一筋の大きな道が見える。
輝く真実のその中心に――あの真っ白な青年の顔があった。
記憶の中でため息をつく“彼”。
見慣れたはずのその異質な姿の上に、もう一つの“顔”が重なる。
二重になったその姿が、今のリノアにはただ純粋に、恐ろしくてならなかった。
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