第20章 満たされぬ秀才

 通路に雄叫びが響き、刃が跳ね上がる。

 ハルが剣を振り上げると蛇型の巨大なヴォイドが吹き飛び、天井に叩きつけられた。

 苦痛に顔をゆがめ、それでも牙をきながら落ちてくる怪物。

 ハルと入れ替わるように、今度は隊長・ゼノが飛び出す。


 ヴォイドの頭部から胴体にかけて、パワードスーツを付けた腕による打拳が5発、つるべ打ちされた。

 鈍い打撃音が重なり、蛇の巨体を波打たせる。

 駄目押しにと飛び出したミオが、螺旋回転しながらヴォイドの長い胴体をズタズタに切り刻んだ。


 3人の連携によって、ヴォイドはちりと化してしまう。

 ハルはたまらず、「うっし」と声をあげた。


「もう、大丈夫だな。エリシオ、こっちだ」


 声をかけられ、通路の奥で見守っていたエリシオが駆け寄ってくる。

 ゼノが素早く周囲を警戒し、敵影がないことを確認した。

 その手足には、兵器庫で調達した愛用のパワードスーツが装着されている。


「ひとまず、近くのヴォイドは殲滅し終えたか。初めて見る個体も随分と多いな」


 ハルも頷きつつ、トリガーを引いて刃を収納する。


「なんていうか、“一斉攻撃”って感じだな。本当にこの基地全体を、“霧”が取り囲んでやがる。どこから襲ってきてもおかしくないぜ」

「これもその『魔王』という者の仕業なのか。霧に乗せて怪物を運べるとなれば、やはり野放しにはしておけんな」


 ガラス壁の外に広がる、白い海を見つめるゼノ。

 そのまなざしは真剣だ。


 彼の背後から、エリシオが不安げに言う。


「そこら中に“ケモノ”がいるよ。それに――なんだか嫌な感じ……あの街でも感じたことのない、すごく変なものがいる」


 きっと彼女は基地の中で暴れまわるヴォイドの存在を、肉体で感じ取っているのだろう。

 ハルも彼女ほどではないにしろ、びりびりとした嫌な感覚を全身で察している。


 逃げ場はあるのか――嫌な予感はするが、その言葉はぐっと飲み込む。


「『魔王』の精鋭が送り込まれてるのかもな。けどまぁ、『ハイそうですか』とやられる気もないけどよ。せっかく自分のことが分かりかけてきたのに、こんなところで死ねないぜ」


 ハルの一言に、くすくすと笑うのはミオだ。


「いいねいいねぇ、“せーえー”っての? わくわくすんねぇ! どんなバケモノなんだろ。超強いのかな?」

「あのなぁ、ゲームじゃないんだからさぁ……」


 のんきな声を上げ、先頭を進んでいくミオ。

 通路から飛び出てきた鳥型のヴォイド二匹をひらりとかわし、まるで緊張感もなく斧で叩き伏せた。

 相変わらずの人間離れした強さ、そして常人離れした感性にため息が漏れる。


 不安げなハルとエリシオに、ゼノは歩みを進めながらも告げた。


「誰しも君と同じ気持ちさ。相手が怪物だろうが『魔王』だろうが、だからと言って死ねるわけはない。いかなる状況だろうが、突破するためにできる全てをやる――それが我々、軍隊というものだからな」


 こういう状況において、やはり彼らの方が気持ちの整理は素早い。

 もっとも、かつての「ハル」もまた、同じような組織の中で同様に気持ちを切り替え戦っていたのだろう。

 少なくとも今のハルは、そのしたたかさについていくのがやっとだ。


 ヴォイドを迎撃しつつ、通路を進む一同。

 基地内部はどこも似た作りにはなっているが、それでもハルにとって見覚えのある部屋にさしかかる。


 それは以前、DEUS隊員達と昼食を共にした食堂であった。

 素早く中に目をやり、生存者がいないかを確かめる。


 入り口の扉を開いた瞬間、部屋の真ん中に一人座っていた影に、全員が目を見開いた。

 真っ先に“彼”の同僚が声を上げる。


「お~、ナッシュじゃんか~! 何やってんのぉ、こんなところで」


 ミオの言葉に続き、部屋の中になだれ込む。


 異様な光景だった。


 食堂の机は薙ぎ倒され、壁や床にもいくつも傷が見える。

 かつてハルが食事をオーダーし受け取った装置は、破壊されてしまっていた。

 き出しになった機械の内部には、自動アームや配線の残骸が見える。


 崩壊してしまったいこいの場のその中央に、一つだけ長机と椅子が置かれている。

 そこに腰掛けて食事をとっているのは、医療室で看護されているはずのDEUSデウス精鋭が一人・ナッシュだ。


 髪は整っておらずバサバサと荒れており、戦闘服ではなく患者用の白いシャツとズボン姿だ。

 足元はスリッパすら履いておらず、素足である。


 それでも彼は愛用のナイフとフォークを使って、食事をしていた。

 ナッシュは一同を確認すると、ぐちゃぐちゃと咀嚼そしゃくしながら声を上げる。


「何って、分かるだろう……ランチだ……もう昼だぞ……」


 虚ろな目でこちらを見たかと思うと、すぐさま手元の食事に視線を落とす。

 だが、皿の上に置かれている品々は、かつて彼が食べていたような“特注品”とは程遠い。


 それは、食堂の機械――確か「フードコンディショナー」といったか――その中身から無理矢理に取り出した、まだ料理に加工されていない“塊”そのものである。


 水気のない乾いたそれを、バリバリと音を立ててフォーク、ナイフで砕くナッシュ。

 その食事姿に以前のような自信も、優雅さもまるで見えない。

 今の彼は一心不乱に、目の前の食料をむさぼっているだけだ。


 奇妙な姿に誰しもが言葉を詰まらせる。

 ナッシュが乱暴に咀嚼する音が響く中、ゼノが一歩前に出た。


「ナッシュ、お前が規則正しく食事を楽しみたいのは知っている。だが、状況が状況だ。ひとまずはもっと安全な場所へ退避するぞ」


 隊員の男は応えない。

 代わりに、食材と破れた包み紙に汚れたトレーを見つめたまま、ブツブツと呟く。


「僕はこんなに……立派にやってるじゃあないか……なら当然だ。良い物を満足いくまで……食べる権利がある……当然だろう、立派なんだから……」


 何かがおかしい――テーブルを挟んで向かい合う誰しもが、そう察していた。


 だからこそハルは、怯えるエリシオを背後に隠す。

 先頭に立つゼノが、かすかに拳を握りしめたのが分かった。


「そんな僕がなんで……なんであんな目に合わなきゃいけないんだ……1ヶ月だぞ、1ヶ月……なんでそんな間……“お預け”を喰らわないと……」

「ナッシュ。まだ『モノクローム』でのショックが残っているのも分かる。だがあいにく、悠長にはしていられない。ランチはまた後だ。すぐに我々とここを脱出――」


 ゼノの言葉を待たず、ナッシュが顔を上げた。

 虚ろな眼差しのまま、男は隊長目掛けて持っていたナイフを投げる。


 息をのむハル、エリシオ。

 顔面に突き刺さる寸前で、ゼノはその刃先を指で受け止めてみせた。


 表情を変えず、じっと睨みつけるゼノ。

 対し、震えながら顔を上げるナッシュ。


 口の周りは、よだれと咀嚼物でひどく汚れていた。

 もはやそこに、かつて彼が持っていたような気品は存在しない。


 その姿は人というより――“獣”のそれだ。


「後――また後? どれだけ待たせれば気がすむんだ、ええ!? あの時だってそうだ……どいつもこいつも勝手にいなくなって……僕がどれだけ耐えたと思ってるんだよ!」


 すでに隊長に対しての敬意も、他人に対しての気遣いもまるで失っている。

 彼はフォークを握りしめた手を、何度も荒々しくテーブルに叩きつけた。

 皿と一緒に、食い散らかされた破片が跳ねる。


「あんな気味の悪い街で1ヶ月――1ヶ月だぞ!? 食べるものなんて、まずい携帯食料が数回分しかない……おかしくなりそうだよ、まったく……どれだけ辛かったか、お前らには分からないだろうが!」


 支離滅裂な言い分に、ハルは眉をひそめる。

 ゼノは受け止めたナイフを床に捨て、再びまっすぐ彼を見据えた。


 ナッシュが言っているのは、先日のモノクローム突入の際のことなのだろう。

 だが、所々理解できない部分がある。


 1ヶ月だと――ハル達がDEUSの面々と隔離されたのは、ものの数時間だったはずだ。

 しかも、ナッシュとは比較的短時間で合流できたと思っていた。


 わめき散らし、その度にテーブルを叩くナッシュ。

 その狂気的な姿を、ハルの体に隠れながらエリシオはじっと見つめていた。


 エメラルドの瞳がかすかに光る。

 彼女は目の前の男から“た”内容に息をのむ。


「お兄ちゃん、もうこの人はダメ。もう――助けられない」


 ハルだけでなく、ゼノ、ミオも少女に振り向く。

 エリシオに宿った眼差しはどこか強く、そして悲しいものだった。


「ダメって……でも別に、ナッシュはどこも怪我もしていないし――」

「この人はダメ。あの時から少しずつ、始まってたの。もう今は人間じゃない」


 少女の強い口調に、絶句してしまう。

 たまらず、再びナッシュを見つめた。


 目の前にいるのは、あの自信家で一言多い、どこか気に入らない態度の目立つDEUS隊員だ。

 だがそれでいて、その身に宿った雰囲気はまるで違う。


 エリシオは彼をにらんだまま、核心を告げた。


「長かったよね……そんな長い間、あの街にいたんだもの。普通の人は平気でなんかいられないよ。でも……だからってダメだよ――“ケモノ”なんて食べちゃあ」


 びりりと、背筋が震えた。

 訓練した軍人達までも、驚きを隠せない。


 あいも変わらず、ガツガツと皿の上の物を咀嚼するナッシュ。

 ついには砕けた皿の破片まで、構わず口に運んでいる。


 ぼりり、めきりと嫌な音を立てて噛み砕く男に、あの女性隊員が声をあげた。


「ナッシュ――それ、本当?」


 男は応えない。

 ついには手掴みで、梱包材ごと口に放り込む。

 メチメチとビニールをちぎる姿は、もはや野獣だ。


 ミオは表情を変えない。

 だがその手がゆっくりと、腰のホルスターに動く。

 数多の“黒いケモノ”を切り裂いてきた、彼女が持つ牙に。


 ハルも意を決した。

 ゆっくりと腰に差した“柄”を手に取る。

 慎重に出方を伺いつつも、背後に立つエリシオに問いかけた。


「なにが……こいつの身に何があったんだ。あの短い時間で」

「短くなんかなかったんだよ。あの街は、お兄ちゃん達が住む世界とは何もかもが違うから。建物も、自然も、生き物も――それと、“時間”の流れも」


 ナッシュから視線を動かさず、それでも動揺を隠せない。

 憂いを帯びた眼差しでハルの裾をぎゅっと握り、エリシオは告げる。


「お兄ちゃん達が過ごした時間と、この人が過ごしてた時間は違う。あの街でずっと、この人は一人で迷子になってたの」


 誰しもがついに理解する。

 いや、理解せざるを得ないという方が正しい。


 理論、理屈は相変わらずさっぱりだ。

 これもまた、あの「モノクローム」という街のいびつなる一面なのだろう。


 なんてことだ――ハルはそのおぞましいカラクリを理解し、全身に脂汗を浮かべていた。


 エリシオの言葉と同時に、ある事実を思い出してしまう。

 モノクロームから帰還した際、確かナッシュの持つ端末は壊れていたのだ。

 一切の記録が残っておらず、何があったかも分からなかったと聞いている。


 だが、時間だけは刻んでいた。


 モノクロームに突入したあの日から――1ヶ月後を。


 少しだけゼノがうつむく。

 拳を握り、かすれるような声で呟いた。


「俺は……お前を救えなかったんだな。本当に……本当に、すまない」


 後悔の言葉は、もはや彼には届かない。

 ナッシュは一同の動揺などどこ吹く風で、ただ思うがままに食料を貪り食う。


「いっつもそうだ……いっつもいっつも、皆は僕に食べさせてくれない……頑張ってるんだよ、ちゃんと。なのになんで……“お父さん”も“お母さん”も、僕を叱るんだよ……僕に食べさせてくれないんだよ……」


 徐彼の言葉は、徐々に支離滅裂になっていく。

 もはやそこに、大人の男としての常識などは存在しない。

 きっとそれは、彼の幼い頃の記憶なのだろう。


「立派になれって……なっただろう? だから……だからご飯をちょうだいよ……たかが、4点間違えただけじゃないか……なんでなんだ……なんでぶつんだよ……」


 ついには、ぽろぽろと涙を流し出すナッシュ。

 現在と過去が混同し、汚れた手で頭をかきむしる。

 あまりに強い指の力に、皮膚が裂けて血がしたたった。


「嫌だよ……完璧なんて疲れた……無理だよ、なれっこない……僕は人間だ――機械じゃあない」


 ナッシュ――そう、彼を率いていた隊長が名を呼んだ。


 だがその最後の一言は、彼に届きはしない。


 男はただ、過去から逃げるように――えた。


「もう僕は――疲れたんだよぉ!!」


 大声を追いかける形で、長机が蹴り飛ばされる音が響く。

 癇癪かんしゃくを起こしたかのように、ナッシュは目の前にあった全てを投げ出した。


 予想外の事態にゼノは防御を固める。

 テーブルが砕け散り、散弾のような勢いで隊長の体に叩きつけられた。


 砕け散った食器や食べかすと共に、宙を舞うゼノ。

 大きな音を立て、彼は離れた位置に瓦礫と共に落ちた。


 一瞬遅れ、息をのむ。

 ゼノの安否を気遣う前に、露わになったナッシュの下半身に絶句した。


 机を蹴り飛ばした足は真っ黒だ。

 全体が肥大化し、指には尖った爪も見える。


 その足同様に、腕が、胴体が、首が染まっていく。

 影を塗り固めたかのような“黒”に――あの街に徘徊する“ケモノ”と同じ色に。


 かつてハルがモノクロームで見た隊員は、その肉体をヴォイドに潜行され、操られていた。

 だが、“彼”は違う。

 目の前のこの男は、そんな生易しいものではない。


 彼はなったのだ――ヴォイドそのものに。


 誰よりも早く動いたのは、風のように刃を駆る彼女だった。

 躊躇ちゅうちょすることなく愛用の斧を引き抜き、目の前の“同僚”目掛けて切り込む。


 しかし首へと叩き込まれた刃は、“ガチン”という鈍い音と共に止まった。

 ミオだけでなく、ハル、そしてエリシオも息をのむ。


 黒く染まったナッシュの首に、もう一つ“口”がある。

 そこに並んだ牙が、ミオの斧を文字通り“食い止めて”いるのだ。


 そのまま、ミオの胴体を殴り飛ばすナッシュ。

 黒く肥大した拳は、一撃で彼女を吹き飛ばしてしまう。


 だが、その拳の先にすら、またもや“口”がついている。

 ミオを殴る瞬間、炸裂した脇腹をばっくりと噛みちぎっていた。


 血が噴き出す傷口を押さえながら、それでもミオは着地して顔を上げる。


「い――ったあ!! まっじか、私まで食べるつもりかよ! 美味しくないっての!」


 倒れているミオに追撃すべく、向き直るナッシュ。

 そんな彼の背後に、すでに復帰した隊長の姿があった。

 高速で至近距離へと近付き、ナッシュの後頭部に鋭い飛び蹴りを放つ。


 ミチリ、という嫌な音が響いた。

 ついにゼノの表情が苦痛に歪む。


 放った蹴りのその先端すら、ナッシュの後頭部に出現した“口”が受け止め、そして食いちぎった。

 一瞬、欠けた足から骨と肉が覗いたが、おびただしい量の出血で覆い隠されてしまう。


 ナッシュは視線をミオから変えないまま、背後のゼノを迎撃する。

 左足の関節が歪に曲がり、上半身を全く動かさないまま、隊長の体に鋭い蹴りが突き刺さった。


 ゼノの体は一撃で打ち上げられ、そのまま天井に叩きつけられてしまう。

 照明が砕け散り、隊長の口からはうめき声と共に血が吐き出された。


 天井のゼノを見上げるナッシュ。

 その全身、いたるところに“口”が浮かび上がった。

 ガチガチと歯を鳴らし、これから落下してくるであろう“食料”を迎え入れるつもりなのだろう。


 その一瞬の隙に、ハルはたまらず切り込んだ。

 駆け出し、すぐさまブレードを展開する。


 床を蹴って飛び、一回転して遠心力を加えた刃を、あらん限りの力で叩きつけた。

 剣先はやはりナッシュの“口”に食い止められてしまうが、さすがにハルの怪力から放たれる剛剣は受け止めきれなかったらしい。

 鈍い音と共に、ナッシュは真横に吹き飛ばされてしまう。


 一旦距離をとった隙に、落下してくるゼノを受け止めた。

 内臓を激しく損傷しているようで、食いしばる歯の隙間から血が溢れ出している。


「おい、しっかりしろ!」

「す、すまない……何なのだ、あの姿は」


 見れば、ナッシュはゆらりと立ち上がり、こちらに顔を持ち上げていた。

 黒い顔の中心で、ヴォイド同様に白く光る一つ目がぎょろぎょろ動いている。


 ナッシュは――否、新たなる“ヴォイド”は、大地を蹴り突進してきた。

 ゼノを離し、再び剣を手に身構えるハル。


 しかし、彼の前にエリシオがおどり出て、両手を突き出した。


 銀の髪がバッと広がる。

 飛びかかってきたナッシュの体が、エリシオの展開する“見えざる壁”にぶつかった。


 ばちばちとエネルギーがせめぎ合う音が聞こえる。

 その目にエメラルドの光を宿し、エリシオは吠えた。


「ダメだよ、どんなに可哀想でも、ダメ――誰かを傷つけて良い理由になんてならない!!」


 腕を押し込むと、ヴォイドの肉体が砲弾のように弾き出された。

 広い食堂を真横に吹き飛び、離れた壁へと叩きつけられる。

 さすがに強烈だったのか、怪物はしばらく壁から脱出できずにいた。


 エリシオはすぐさま、倒れていたゼノに手をかざす。

 念じることで彼女が持つ“力”が発動し、流れ出た血を、欠けた骨を、ちぎられた肉を元通りに繋ぎ合わせた。

 内臓の傷も治癒したのか、ゼノは驚いたように立ち上がってみせる。


「ありがとう、助かるよ。ふがいない姿ばかりで、すまないな」


 ゼノに対し、エリシオは力強い笑みで「どういたしまして」と頷いた。

 彼女は続けて、壁際で膝をついていたミオへと駆け寄り、同じように傷を治療する。

 彼女のおかげで危機は脱したが、それでもまだ脅威が去ったわけではない。


 剣を携えたハル、拳を握りしめたゼノ、そして「ふっかぁーつ!」と叫び、斧を持ち上げたミオ。

 この場に揃った戦士達は、ようやく壁から抜け出してきたナッシュを見つめた。


「強ぇな。少なくとも、今まで見てきたどんな怪物よりも」

「ああ。人間と融合したがゆえなのか。はたまた、ナッシュの心が強く作用したがゆえか。なんにしても、ひどく厄介な状況であることに変わりはない」


 冷静に分析するハルとゼノ。

 対して、ミオは斧を持ち上げながら、いつもの凶悪な笑みと共に吠えた。


「まぁ、残念だってのは本心だなぁ。でもさ、このおチビちゃんが言うように――ダメだよ、そりゃあ。どんなに辛くても、人間辞めて良い理由にはなんないよ。人間に生まれたんだもん、あたしら」


 過去がどうだったかは知らない。

 どれだけ辛い出来事だったかは、今となっては測りようがない。

 だがそれでも、ハル達はこの怪物を野放しにする気は無かった。


 ましてや、人を辞めて人を食らうなど。


 戦う意思を固めたハル達に、ナッシュだったものが吼える。

 瞬間、ヴォイドの背中から無数の触手が伸び、視界を黒に染めた。

 驚く一同に、それは一斉に襲いかかってくる。


 ハルはエリシオを抱えながら、そしてゼノとミオも各々の方向に飛びのく。

 触手は直線的に、時折急に向きを変えて離れた位置の四人に迫ってくる。


 その真っ黒な表面には、いたるところに“それ”があった。

 無数の“口”が、つねにガチガチと音を立てて“餌”を求めている。


 床に突き刺されば、床を。

 壁に当たれば金属板を、容赦無くその“口”が噛みちぎり、歪に破壊していく。


 それはおそらく、ナッシュという男が心に秘めていた、飽くなき“渇望”を具現化した姿なのだろう。

 抑圧され、孤独に耐え忍んだ男が、ただ“欲しい”と願い続けたことが、ヴォイドという怪物の付け入る隙を与えてしまったのだ。


 エリシオを壁際に退避させ、ハルも刃で迎撃する。

 向かってくる触手を必死に叩き伏せ、跳ね返した。

 ゼノ、ミオはというと、とにかく駆け回ることで襲いくる魔の手から身を退けている。


 部屋中が食われ、ボロボロに変貌していく。

 散らばっていたテーブルや椅子、トレーや食器だけにとどまらず、床や天井、壁といった“部屋そのもの”が中央に立つナッシュによって食い散らかされているのだ。


 おぞましい光景に絶句しつつも、ハルは腕だけは止めない。

 また一撃、触手を剣で跳ね返し、距離をとった。

 見れば、エリシオも向かってくるそれを、自身の力で展開した防護壁で防いでいる。


 このままではダメだ――思い切ってハルは地面を蹴り、前へと肉体を押し込む。

 飛来する“黒”を巧みにかわし、ナッシュの至近距離へ踏み込んだ。


 雄叫びと共に刃を振り抜き、その頭部を狙う。

 だがナッシュは腕を振り上げ、そこに張り付いた“口”でまたもや斬撃を受け止めてしまう。


「くっそ!!」


 思わず声を漏らすハルに、真横から触手が襲いかかる。

 刃を引き抜き、すんでのところで盾のように当てがって直撃を防いだ。

 衝撃に体が弾き飛ばされ、壁際へと追いやられた。


 素早く立ち上がりつつも、目の前で展開される光景に歯噛みする。


 黒い触手という直線でさえぎられた部屋――悪夢のような景色に一瞬、背筋がぞわりと撫で上げられた。

 縦横無尽に暴れるその表面で、ナッシュの“口”が物足りなそうに、ひたすらがちがちと音を立てていた。


 刃をゆっくりと持ち上げながら、考える。

 このまま真向から勝負を挑んでも、怪物のポテンシャルを凌駕することは容易ではない。

 こちらのスタミナが切れるか、それともこの部屋ごと食いちぎられるか。


 時間はあまり残されていない――エリシオの側に立ち、ハルは刃を振るい続ける。


 不可思議な力を使う彼女を本能的に選んだのか、はたまた素体となったナッシュの頭脳がそういった戦略を立てたのか。

 とにかく、ヴォイドは執拗にエリシオを狙っていた。

 ゼノやミオは最低限の力で迎撃し、触手のほとんどが少女めがけて襲いかかってくる。


 彼女が持つ“破壊の力”と“治癒の力”を厄介に思ったのだろう。

 エリシオ自身、手をかざしてそれらを弾き、必死に耐えている。

 ハルもまた彼女の前に躍り出て、剛剣の一撃にて向かってくる黒を薙ぎ払った。


 どれだけ息を吸い込んでも、まるで足りない。

 腕を振るうたびに汗が宙に散り、壊れかけの照明を受けて輝いた。


 ハルの長大な刃は破壊力こそあるが、それでも一撃ごとの体力の消耗は激しい。

 このまま長期戦にもつれ込めば、どうしても分が悪くなる一方だ。


 なんとかしなければ――現状打破のため、刃を駆りながらも必死に考える。

 視線を走らせ、その中で活路を見出す“きっかけ”を探した。


 最速の打撃で応戦し、再び喰らいつかれることを避けて戦うゼノ。

 器用に宙返りで触手を避け、斧を鮮やかに叩き込むミオ。

 腕を押し込み、周囲から群がる触手を一撃で塵に変えるエリシオ。

 部屋の中央で、相変わらず黙したまま立ち尽くし、荒ぶる触手で部屋中を喰らいつくしていくナッシュ。


 飛び交う黒い線、線、線――壁を食べ、床を食べ、配線を、砕いた建材を食べる。

 ついには先程、ナッシュが地面にばらまいた固形食料の残骸すら、丁寧に触手が咀嚼し、平らげていた。


 数日前、ここで彼らと食事をとったことを思い出す。

 目の前に広がる瓦礫だらけの光景に、記憶の残滓が重なっては、剣戟の音でただひたすらに現実へと引き戻された。


 ぶれた思考は剣の動きを如実に鈍らせる。

 真横に叩きつけられた触手に対応しきれず、辛うじて刃で防ぐも、ハルは大きく吹き飛ばされてしまった。

 大砲のように瓦礫を撒き散らし、破壊された「フードコンディショナー」の中に叩き込まれてしまう。


 しっかりしろ――痛みと共に自身を叱咤する。

 今は情に流され、狼狽うろたえている場合ではない。


 ハルが強引に一歩を踏み出すと、損傷した機械からパック詰めされた固形食品が雪崩なだれのように崩れ落ちた。

 足元を埋められてしまい、たまらず荒々しく蹴り飛ばす。


 不思議なものだ。

 このような単色の塊に機械で何かしら手を加えれば、鮮やかな色を持つ料理へと変貌する。

 かつてこの食堂で食べたカレーも、元はこうしたパッケージ商品だったのだろう。


 無数の“食料”の海の中を進みながら、ふっと足を止める。


 食料、か――再び冷静になり、部屋の中を見渡す。


 ナッシュが操る触手は依然として部屋を駆け巡り、ありとあらゆるものを“食って”いた。

 彼はきっと、空腹なのだろう。

 どれだけ喰らっても満足できず、延々と本能に任せて何かを取り込もうとする、さながら“餓鬼”のような無限の欲に突き動かされているのだ。


 ハルはすぐさま動く。

 体をひねり、剣を目一杯振りかぶった。

 歯を食いしばり、遠くの怪物めがけて吠える。


「ナッシュ! こっちを見ろ!!」


 その咆哮に、確かにヴォイドはこちらを振り向いた。

 怪物だけでなく、エリシオ達もハルに視線を向ける。


 瞬間、あらん限りの力で刃を振り抜いた。

 ハルの周囲に散らばっていたガラクタと大量のパッケージ詰めの“食料”が、散弾のように打ち出される。

 刃の先は地面すらえぐり、床材をバラバラにして吹き飛ばした。


 空中にばらまかれた瓦礫。

 そして大量の“食料”。


 ヴォイドはそれに対し、今までにない反応を見せた。


 触手がエリシオ達への攻撃を止め、一斉に飛来するそれらを受け止める。

 瓦礫、そしてなによりパッケージ詰めされた食料を受け止め、無我夢中に“口”を使って咀嚼し始めた。


 触手の動きが――確かに鈍る。

 所構わず暴れていたそれらは、今までの鋭敏な動きを捨て、周囲に散らばった食品に次から次へと食らいついている。


 その異様な光景に、ゼノ達は唖然あぜんとしてしまった。


 だが一瞬の隙をつき、剣を携えた“白”がはしる。

 腑抜けてしまった触手の群れをかいくぐり、一気にハルはヴォイドの至近距離へとたどり着いた。


 黒い怪物――ナッシュは飛来するハルに、目もくれていない。

 彼は近くの床に散らばった“食料”に手を伸ばし、それをひたすら喰らっている。


 まるでその姿は、子供のそれだ。

 道具も使わず、ただ手掴みした物を、袋から取り出しすらせずに一心不乱に口元に運んでいる。


 一瞬、ハルは想いを馳せてしまう。


 どうにかすれば、彼を救えたのだろうか。

 ひたすら渇望し、飢餓の中にあえいでいた彼を、救済する道があったのだろうかと。


 奥歯が、ぎりりと音を立ててきしむ。

 剣を振りかぶり、ハルはたまらず目の前のヴォイドに問いかけた。


「ナッシュ――どうだ、満足か?」


 返答はない。


 分かっていた。

 もう“これ”が、ナッシュではないことなど。


 彼はもう――行ってしまったのだと。


 刃がすくい上げるように、低い軌道から跳ね上がった。

 迷いながら、しかし迷いごと斬り捨てる“覚悟”で、切っ先は怪物の胴体を捉え、宙に打ち上げる。


 轟音が大気を揺らした。


 ヴォイドの胴体から肩にかけてが、ばっくりと裂ける。

 だが、絶命させるには至らない。

 怪物は宙に浮き上がったまま、全身の“口”を大きく開いて吠えた。


 離れた位置に立つゼノ達すら、思わず耳を塞いでしまう。

 ヴォイドの一斉咆哮に部屋中が揺れ、軋む。

 増幅され超音波のレベルまで昇華された声は、もろくなった壁や床にびしりと亀裂を走らせた。


 至近距離でそれを浴びた、ハルの鼓膜が裂ける。

 激痛と共に音が消え、肌の表面がビリビリと波打った。


 空中のヴォイドと視線がぶつかる。

 真っ黒な肉体にぽっと光る白い一つ目。

 無機質で感情のない、光なき瞳。


 ハルは剣を担いだまま、跳ぶ。

 飛来する白い姿めがけて、ヴォイドもまた部屋中に張り巡らせていた触手の先端を向け、串刺しにすべく襲いかかる。


 無音の世界の中で、ハルは雄叫びをあげていた。

 至近距離のヴォイド目掛けて、渾身の力で大剣を振り下ろす。


 刃はヴォイドの頭部に炸裂し、そのまま縦一閃に肉体を両断した。


 エリシオ、ゼノ、ミオが、その光景に息をのむ。


 斬撃の破壊力がそう錯覚させたのか。

 巻き起こった風の流動がそう認識させたのか。


 無色透明の大気が、刃の駆動に合わせて割れる。


 一撃の元に斬り伏せられたヴォイドは、ほんのかすかにハルに手を伸ばした。

 しかし、すぐに黒い体が、部屋中に張り巡らされた触手が、ボロボロとちりに変わっていく。


 着地し歯を食いしばったまま、視線を持ち上げるハル。

 やりきれない感情が渦巻くその視線の先で、ヴォイドの――ナッシュの頭部が、完全に消滅してしまった。


 静寂が食堂に戻ってくる。

 誰もが足を止め、刃を振り下ろしたハルを見つめていた。


 廃墟となった食堂の中心で、瓦礫まみれの部屋を見渡すハル。

 足元にはナッシュが食い散らかした、食料が散らばっていた。


 おもむろに腰を下ろし、その一つを手に取る。

 「ビーフカレー」と書かれたパッケージの茶色い塊は、軽く握っただけでボロボロと崩れ、砕けてしまった。


 あの時、ここで食べたあの味を今でも覚えている。

 だからこそ、あの時、ここにいたどこか気に障る“彼”のことも覚えている。


 決して仲が良かったわけではなかった。

 むしろどこか、互いのことを牽制し合う関係だったはずだ。


 それでも彼は――ハルが進む、“今”の住人の一人だった。


 やりきれない思いに、拳を地面に叩きつける。

 砕けたカレーの粉末が少し跳ね、宙に舞う。


 鼻腔をくすぐるスパイスの香りが、こんなにも煩わしく感じるとは思いもしなかった。

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