第18章 襲来

 最初にその変化に気付いたのは、精鋭を率いる隊長・ゼノだった。

 彼の視線に、ハル達も部屋の隅を振り向く。


 モニターを見ながら、研究長の男・ノマドが何やら独り言を呟きつつ、首をかしげている。


「ノマド、どうした? 何か問題でもあったのか」

「い、いいいえ、大したことでは……ちょっと、研究員達との連絡が取れなくなりまして。た、たた、たっ、端末の調子が悪いのかも、しれません」


 首をかしげるゼノ。

 おもむろに、彼も端末から研究員に向けてコールする。

 隊長たるもの、施設に勤めている人間とも連携するためだろう。

 基本的にDEUSデウス関係者であれば、誰とでも即座に繋がることができる。


 だが、やはり反応がない。

 返答がないというよりも、送信したメッセージやコール信号そのものがエラーとなってしまう。

 つまるところ、相手側の端末に何か問題があるということだ。

 研究室に勤める面々に片っ端からコールしてみるが、やはり結果は変わらない。


「確かに妙だな。一人二人ならば端末の不備も考えられるが、こうも一斉にとなると」

「え、ええ……研究員達は随分前に、資料室に行ったはずですが……ちょ、ちょっと、見てきます。も、申し訳ありませんが、戻るまで、こ、ここをお願いできますか?」


 彼のたどたどしい問いかけに、ゼノは「かまわんよ」と快諾した。

 部屋を無人にするわけにはいかないのだろう。

 ノマドは確認が取れたことで、すぐさま部屋から出て行ってしまう。


 ハルは眉をひそめ、問いかけた。


「なんだ、機械の不調かい?」

「そのようだな。しかし、そうそう壊れるものではないのだが」


 この言葉を受け、隣にあぐらをかいているミオも、自身の端末を操作してみる。

 「あら~」と声を上げているあたり、やはり結果は同じらしい。


「変なの~、ナッシュにも繋がらないや。それに、医療室にいる他の奴らにも。端末の寿命かなぁ。それとも、凄腕ハッカーあらわる?」


 これにはゼノも苦笑し、首を振る。


「軍部のネットワークに潜り込めるような存在は、そうそういないさ。だとしたら故障の線が有力だが、これだけ大量の端末が同時に、か。ありえんと思うが」


 ここでゼノはとあることに気付き、問いかけてくる。


「そういえば、君にナッシュのことを聞きたかったんだ。確か、彼とモノクロームで最初に合流したのは、君だったな」

「ああ、そうだけど。それが?」

「その際、何かおかしな点がなかったか? なんでも良い、普段と違う点だ。まぁ、君と彼とは接点がほぼないから、難しいのは承知の上だが」


 ハルは顎に手を当て、思い返す。

 もちろん、妙な点は多々あったのだが、すでにそれらはDEUSには伝達済みだ。


「前に言った通りさ。ヴォイドに追われてるところを、偶然合流できたんだよ。その時、かなり取り乱してはいたけどな。なんだかあいつらしくない、余裕のない感じだった」

「ふむ、なるほどな……」

「あいつ、どうかしたのか? そんな重症なのかよ」


 一呼吸置いて、ゼノは答える。


「身体的には全く問題はないのだ。怪我もしていない。内臓や骨にも、まるで異常がない健康体だ。だが、異様に何かに怯えているんだ。こちらの言葉にもまともに応答できないほどにな。私も彼の普段の様子を知っているが、まずあそこまでうろたえることは珍しい」

「となると、皆とはぐれている時に何かあったか、だな。しかしだからといって、ヴォイドの群れ程度であそこまで動揺するものか?」


 どうも辻褄つじつまが合わない気がする。

 もちろん、ヴォイドに捕まるということはすなわち“死”を意味するのだから、緊急事態ではあるのだろう。


 だがそれでも、ナッシュは特殊な兵器を使い、怪物を一人で駆逐できるほどの猛者もさだ。

 そんな彼が、たかが怪物相手にあそこまで疲弊ひへいするものだろうか。


 ゼノは頷く。


「その点が、我々も奇妙に思っている点なのだ。端末を調べたが、これもダメでな。時刻設定からバイタルサインまで、とにかく狂ってしまっている」

「ミオから聞いたさ。ならまぁ、手がかりなしってことだな。落ち着くのを待つしかねえか」


 うむ、とうなるゼノに、ミオは背伸びしながら告げる。


「変だよねぇ、ナッシュ。今朝も昼も、ご飯全っ然食べなかったんだってさぁ。信じられる? 特注品の食器まで持ってる、あのランチマニアのナッシュがだよ?」


 そんな彼が食事を取らない理由が、“食欲がない”程度ではどこか不自然な気もする。

 なんだかより一層、一同を包む不可解な空気は重くなってしまった。


 そんな中、自動ドアの開く音に一斉に振り向く。

 そこには先程、部屋を出て行ったノマドがいた。

 思わず隊長・ゼノが問いかける。


「どうだった。研究員に確認はできたのか?」


 ノマドは答えない。

 なぜかゆっくり、一歩一歩部屋の中に入ってくる。


「確認……んん~? か、かかかかっ確認?」

「ああ。そのために、出て行ったんじゃあないのか?」

「そう、確認……端末が使えなくて……か、か確認……か、かかか、が――」


 がくり、がくりと、いびつな動きで近付いてくるノマド。

 異様な空気に誰しもが気付き、身構える。


 誰よりも先にその異変に気付いたのは、銀髪の幼い少女だった。

 エリシオが開け放たれたドアの向こう側――通路の外を指差し、叫ぶ。


「あぁ……大変……こんな……こんなこと――」

「おい、なんだ。どうしたんだよ?」

「見て、あれ……“あいつ”の霧だ!」


 ハル、ゼノ、ミオ――その場にいる全員の肌が、ぞわりと泡立った。


 通路の奥に見える外の景色。

 本来ならば赤茶色の岩肌が続くはずのそこには、真っ白な“霧”が立ち込めている。


 それ自体は本来、おかしなことでもなんでもない。

 だが、事ここにいる一同にとって、“霧”とはただの自然現象ではないのだ。


 ハルが戦慄し、える。


「まじかよ……気をつけろ、そいつは既にもう――!」


 瞬間、ノマドの口から真っ黒な吐瀉物としゃぶつが吹き出る。

 それは空中で姿を変え、見覚えのある四つの足で大地を蹴り、跳んだ。

 口を開き、こちらに襲いかかってくるその存在に、絶句する。


 ヴォイド――モノクロームにしかいないはずの黒い怪物が、まっすぐミオ目掛けて落ちてきた。


 虚をつかれたのか、ミオは立ち上がることすらできない。

 ハル、エリシオもガラス壁の向こう側にいるせいで、手出しすらできなかった。


 ガッ、と鈍い音と共に、怪物の牙が食い込む。

 しかし、それはミオにではない。


 血しぶきがガラス壁を染めた。

 エリシオの悲鳴が響き、続いて怪物が骨を砕くバキバキという鈍い音が鼓膜を震わす。

 目の前の光景に、ハルも立ち尽くしたまま絶句した。


 ミオを突き飛ばし、ゼノがヴォイドを受け止めている。

 黒い狼の牙に自身の腕を差し出し、喰らいつかせていた。


 ヴォイドが首を振るたびに、めきり、ばきりと腕がいびつに折れ曲がる。

 歯を食いしばるゼノの顔をも、鮮血が染めていった。


 隊長はそれでも、激痛の中で吠える。


「ミオ――!」


 すぐさま女性隊員は跳ね上がり、腰の斧を振り上げた。

 腕に食いついていたヴォイドの肉体が、首、上半身、下半身の三つに切断される。


 黒い霧となって怪物は消え、ゼノはその場に崩れ落ちた。

 たまらずハルは叫ぶ。


「おい、しっかりしろ! おい!」


 バンバンとガラス壁を叩き、声をかける。

 ゼノはかろうじて意識を保ち、腕を押さえながらうごめいていた。


 見れば、右腕がちぎれかけている。

 おびただしい量の血が床を染め、どんどん広がっていった。


 凄惨な光景に、歯噛みするハル。

 そして言葉を失うエリシオ。

 ただ一人、ミオだけが目を丸くして声をあげた。


「おっほー、まーじかー! 隊長、腕、ボロボロだぞ。やっばいなぁ、これ」


 戦慄する一同に、さらに脅威が迫る。

 開け放たれた部屋の入り口から、さらに数匹のヴォイドが部屋へとなだれ込んできたのだ。


 言葉を失うハル達の目の前で、ミオは迷わず怪物の群れに駆け出す。


「なんでなんでなんで~? なんでこの基地の中に、こんなにバケモノがわんさかいるんだよぉー!」


 斧を振り回し、即座に戦闘モードに切り替えるミオ。

 精神テンションを一気に戦場のそれに変え、向かってくる怪物と交戦する。

 入り口付近で彼女は刃を操り、次々に飛びかかってくる狼を切り裂いた。


 手前には血まみれでうずくまるゼノ。

 奥には、部屋に侵入するヴォイドを薙ぎ払い続けるミオ。


 ハルはガラス壁の中にいながら、何もできずにその光景を睨みつけていた。


 そんな中、すぐ隣――もう一枚のガラス壁を隔てた、エリシオが叫ぶ。


「ここもだめ……やっぱり“あいつ”は、待ってなんかくれない。お兄ちゃん、逃げよう。早く!」


 必死に訴えかけてくる少女に、ハルは目を見開いた。


 逃げる――もとより、この少女は初めて出会った時から、そう告げていた。

 あの街にハルが来ることを拒み、必死にモノクロームから遠ざけようとしていた。


 今もきっとそうなのだろう。

 どんな理由かは分からないが、この基地もまた安全ではない。

 だとすれば、エリシオとハルが取るべき行動は、この窮地から“逃げる”ことなのかもしれない。


 遠くで応戦するミオの頬に、狼の爪が食い込んだ。

 朱が引かれた顔から、ばっと血が吹き上がる。

 それでもなお、ミオという戦士は笑っていた。


 この部屋にいれば、安全だろうか。

 それとも、ここから密かに抜け出せば、安全なのだろうか。


 真っ白な部屋に立ち尽くす、真っ白な男。

 彼の脳裏で、先程まで“黒い”戦闘員達と話していた言葉が蘇る。


 ただ戦っているだけの、人間なんていない。


 ハルは顔を上げ、すぐさま走り出す。

 その方向は前方――すなわち、目の前のガラス壁目掛けてである。


 一撃、あらん限りの力で蹴り込んだ。

 ガラス壁に足型が刻まれ、ピシリとひびが走る。

 轟音と共に揺れた部屋の中で、エリシオが声をあげた。


「何やってるの!? 早く逃げないと!」


 もう一撃、ハルの蹴りが強化ガラスをえぐる。

 ひびが端まで到達し、衝撃を物語った。


 歯を食いしばり、身をたわませるハル。

 前を向いたまま、不安げにこちらを見つめるエリシオに告げた。


「下がってな。大丈夫、もちろん逃げるさ。ただ――その道中にいるやつらも一緒に、だ!」


 三撃目の飛び蹴りで、ガラスが完全に砕け散った。

 降り注ぐ透明のシャワーを突き抜け、部屋から脱出するハル。


 驚愕するゼノの横を通り過ぎ、血の海を走り抜けた。

 斧を弾かれこけてしまうミオの元に、ついにたどり着く。


 ハルのその手には既に、テーブルのトレーに置かれていた、あの“剣”が取り戻されていた。

 トリガーを引くと、巨大な刃が展開する。

 ゼノ、エリシオが息をのみ、尻もちをついたミオが「なんじゃこりゃ」と声を上げた。


 飛びかかってくるヴォイド四匹を前に、ハルは吠える。


「邪魔だ、消えろぉお!!」


 体を回転させ、あらん限りの力で刃を振り抜く。

 一回転した剣の軌道が怪物達を真横に薙ぎ払い、粉々に砕いてしまう。

 相変わらずそれは、“斬撃”というレベルを遥かに凌駕していた。

 斬るのではなく、叩き潰すという表現がしっくりくる。


 怪物の塵を振り払い、剣の刃をしまう。

 まず真っ先に開け放たれているドアを閉め、ロックをかけた。


 肉体が熱いが、そんなことに構ってはいられない。

 すぐ隣で尻餅をついている、ミオに手を貸す。


「大丈夫か? 危なかったな……まさかいきなり襲ってくるなんて」

「おー、びっくらこいたよぉ! いや、不覚とったなぁ。見てこれ、ばっくりいっちゃってんの」


 立ち上がり、己の頬についた傷を見せつけてくるミオ。

 痛みや恐れをまるで感じないその壊れた感性には、相変わらずたじろぎ「お、おぉ」と返すことしかできない。


 比較的軽傷で済んで良かったが、彼女よりも明らかな重傷を負った者がいる。

 急いできびすを返し、血だまりの中でうずくまっているゼノに駆け寄った。


「おい、しっかりしろよ。おい!」


 仰向けに寝かせると、腕から吹き上がった血で全身がくまなく赤色に染まっている。

 歯を食いしばり、湧き上がる痛みに耐えているのだろう。

 意識は途絶えていないが、逆にそれが残酷な苦痛を浴びせ続けている。


 隊長は脂汗を浮かべたまま、それでも必死に言葉を紡ぎ出した。


「相変わらず、凄まじい力だ――お前には、強化ガラスの檻など……意味がないのかもしれんな」

「そんなこと良いよ! とにかく、治療を……医療班のところに連れていかないと!」


 混乱した頭で、それでも必死に考える。

 ここから医療室までは、どれだけかかるのだろう。

 既にこれだけ出血しているのだ。

 そこまでゼノの体力がもつというのだろうか。


 いや、そもそもこの部屋から出て、無事でいられるイメージがまるで湧かない。

 どういう理由かはさっぱりだが、今や基地の中をあの“黒い怪物”が闊歩かっぽしているのである。

 もしまた大群に襲われてしまったら、彼を守りながら戦う余裕などない。


 歯噛みし、脱出経路を探すハル。

 その視界の端で、光沢のある“銀”が揺れた。


 血で覆われた地面に、エリシオがふわりと舞い降りる。

 彼女の爪先が床に近付いた瞬間、砕け散ったガラスや、広がった血が一斉に退く。


 明らかな超常現象にハルは息をのみ、ミオは「おぉー」と声を上げていた。

 一歩、また一歩と歩くたびに、彼女の足の周囲だけが何もない綺麗な状態に変化する。


 ゼノの側にやってきたエリシオは微かに笑い、そして傷口に手をかざした。

 ハルが思い出すと同時に、銀色の幾何学模様が宙に舞う。

 エリシオの発した光が隊長の肉体に――そして周囲の空間へと流れ込んでいった。


 やはり幼子は、“奇跡”を起こす。


 流れ出た血が、まるで逆再生をするかのようにひとりでに集まり、どんどん傷口へと流れ込んでいった。

 砕けた骨が再生し、ちぎれた肉と皮が元に戻る。


 それだけではない。

 食いちぎられた腕部の戦闘服までも、繊維一本一本が再び絡み合い、元ある姿を取り戻す。


 先程まで地面を覆っていた血の海は消えていた。

 それどころか、ハルが蹴破った強化ガラスの壁すらも、かけら一つ一つが巻き戻され、元あった位置に結合される。


 まるで完璧に極められたパズルだ。

 迷うことなく、寸分の狂いもなく繋がりあった透明の壁が、一同の目の前にたたずんでいた。


 目を見開き、再生した己の手を見つめるゼノ。

 何度も指を動かし、感触を確かめている。


 エリシオは光る瞳のまま、柔らかに笑った。


「はい、元どおり! この方が良いよ。あの子は抱っこが大好きみたいだから、腕がないと大変だよ」


 息をのみ、唖然あぜんとするゼノ。

 “あの子”という言葉が指す意味を、その場にいる誰もが理解してしまう。


「なぜ君は……息子のことを――」

「大丈夫だよ。彼はあなたのことも、お母さんのことも大好きなの。あなたは心配してるようだけど、きっとまっすぐ育ってくれるわ」


 困惑を通り越し、絶句するゼノ。

 少女が伝えたかった真意を、彼だけが静かに汲んでいた。


 エリシオはすぐに視線を持ち上げ、今度はミオに手をかざす。

 彼女の頬の傷に至っては、まさに一瞬の早業はやわざだ。

 すぅっと光が走ったかと思うと、ぴったりと傷口がふさがってしまう。


「おぉー、すっげ。まじすっげ! どうやったの、今の。どんなタネがあんの、これ?」


 マジックか何かと思っているらしいが、きっとそんな低次元なことではないのだろう。

 エリシオは何も言わず、ただニッコリと笑った。


 しかし、光が消えたエリシオの眼差しは、少し残念そうにある一点を見つめていた。

 それは離れた位置で倒れている、研究室長・ノマドだ。

 白目を剥き、口を開いたまま絶命している。


「あの人はもうダメ……私、“元に戻す”ことはできるけど、いなくなっちゃった人は戻せない。あの人はもう、行っちゃったの」


 きっとそれは、“死”という概念のことを告げているのだ。

 ハルもまた死体を見つめ、拳を握る。


「なんでこんなことに……一体ここに何が起こってるんだ」

「“あいつ”が動き出したんだと思う。きっと何が何でも、私とお兄ちゃんを取り返すつもりなんだよ」


 立ち上がったゼノが、エリシオに問いかける。


「取り返すだと? ということは、その『魔王』とやらの目的は君達だというのか?」

「そう。私もはっきり覚えてないけど、私とお兄ちゃんは“あいつ”に出会っちゃいけない。でも――“あいつ”を止められるのは、きっと私達だけしかいない」


 新たな事実に、真っ先に声をあげたのはミオだ。


「なんだぁそれ。あ、知ってるよ私、こういうの。あれでしょ、“ふじゅん”って言うんでしょう? ふじゅんだ、ふじゅん」


 首をかしげるハル達の横で、咳払いをしてゼノが正す。


「それは、“矛盾”のことか?」

「あー、それそれ、むじゅん! だって近付きたくないのに、近付かないとどうにもできない? 変だよ、変」


 純粋かつ間の抜けた言葉だったが、しかしながら納得できる部分もある。


 「魔王」の目的はハルとエリシオを取り戻すことだが、同時に「魔王」を止める鍵はその二人が持っている。

 なんだか頭がこんがらがってきそうな、厄介な状況だ。


 エリシオの表情がより一層、曇る。


「でももう、きっとダメだよ。分かるの……この建物はもう、あいつの“霧”に覆われてる。逃げきれないよ……いずれ捕まっちゃう。もう無理……」


 何が起こっているかなど、誰にも分からない。

 この奇妙な状況が、一体どういう意味を持っているのかなど、知るよしもない。


 ただ、エリシオの顔と声から伝わることがある。

 きっとハル達は、よほど絶望的な状況に置かれているのだろう。


 部屋の外から、かすかに悲鳴のようなものが聞こえた。

 基地のどこかで同じように、隊員達が襲われているのだ。


 ハル達が辛うじて繋いでいた“日常”が、音を立てて壊れていく。

 もはやここは、安全でもなんでもない。


 霧に包まれた最新鋭の基地――そういう形の「モノクローム」の一角なのだ。


 言葉が出ない。

 たずさえた武器は強大でも、ハルは少女にかけてあげれる言葉を持ちあわせていない。


 己の情けなさに歯噛みし、かすかにうつむく。


 そんな中、隊長・ゼノが腰を落とし、エリシオと目線を合わせた。


「救ってくれてありがとう。本当に君は、不思議な子だな」


 なおも不安げな眼差しで、男を見つめる少女。

 自然に、そして力強くゼノは笑う。


「無理なんてことはないさ。これから私達はここを脱出する。全員でな」


 息をのんだのは少女だけでなく、ハルも同様だった。

 ミオだけはまるで表情を変えずに、笑ったまま見つめている。


「人間はどこまで行っても、弱い生き物だ。だが、弱いことが悪いことなのではない。時にはつまづくこともあるだろう。思い通りにいくことなど、世の中では本当に少ない。まぁ、まだ小さな君に言うべきことではないかもしれないが」


 彼は治癒した手を、エリシオの肩に添える。

 一瞬、彼女はその手を見つめるが、また前に視線を戻す。


「無理だとか、無駄だとか――それを決めるのはいつだって他人じゃない、自分なんだ。逆に言えばこうともとれる。“大丈夫”と思っていれば、負けることなんてないさ。何が向かってこようと、前に進んでいられるんだからな。困難な時こそ、自分を信じてやるんだ。他ならぬ、自分自身が」


 すくと立ち上がるゼノ。

 ハルは思わず、彼に問いかけてしまう。


「あんた、本気か。この基地から脱出するって」

「ヴォイドは今もなお、他の隊員達も襲っているだろう。できる限り、彼らも救いたい。指揮官がいない以上、ここから先は私自身で判断する」


 この一言に、けらけらとミオが笑った。


「言うと思った~、隊長なら絶対そうするよなぁ! まぁ、私も逃げるって選択肢は絶対ごめんだし。放っておいたらこの建物、バケモノの臭いでくっさくなりそう。害虫駆除は急いでやんないと、大変だぞぉ」


 相変わらず軽いが、それでもはっきりとした戦いの意思がそこには見える。

 彼らのやりとりに、エリシオの顔から不安の色が消えた。

 ただかすかに口を開き、大人達の顔を見ている。


 ハルの手に、託された“剣”の感触が伝わった。

 その重みをきっかけに考え、そして顔を上げる。

 

 翻弄されてばかりじゃないか――あの街に、あの怪物に、あの「魔王」という存在に。


 今もそうだ。

 退き、わずかに謳歌しようとしていた平穏すら、ついには“あいつ”に支配され、奪われようとしている。

 無遠慮に、無作法に、ただ一方的に。


 自分はどうしたいのか。

 それを考えた瞬間、驚くほど肩の力が抜けた。


 答えなんて、とうの昔に分かっていたからだ。

 だからこそ、あの時――ガラス壁を、再び自身の肉体で砕いて、飛び出したんじゃあないのか。


 ふぅ、とため息が漏れる。

 そこに今までのような、陰鬱な色はまるでない。


 気持ちと肉体、意識と視線の方向が一致した。


「やられっぱなしは――『魔王』だかなんだか知らないが、やりたい放題されたまま、それで終わりってのは――嫌だよな」


 ゼノ、ミオ、そしてエリシオの顔を眺め、頷く。


「行こうぜ。俺もこいつでぶった斬るくらいしかできないけど、手伝うよ」


 この一言に、ミオが嬉しそうに笑う。


「いいねいいねぇ。ほらこれ、RPGみたいになってきたじゃんか! 剣士と格闘家と暴れん坊と――あと魔法使い! 良いバランスだよ、これぇ」


 相変わらず、無茶苦茶な役割分担だ。

 そもそも自分で自分を“暴れん坊”だと理解しておいて、隠す気もないらしい。


「やれやれ」とため息をつくゼノ。

 彼はその目に力強い光を宿した。


「まずは武装を確保するために、このエリアの格納庫を目指すぞ。装備を整えたのち、近接エリアから捜索する。ヴォイドは――とにかく、襲ってくるやつを叩き潰せ」


 ミオの「イェッサー」の声が、部屋中に響いた。


 沸き立つ大人達を前に、エリシオはどうして良いか分からないらしい。

 ハルは彼女に向けて、静かに告げた。


「俺らから離れるなよ。大丈夫、黙ってやられたりなんかしないさ。ほんの少しだが――やり返してやろうぜ。なっ?」


 エリシオは唖然として、ハルの顔を見上げていた。

 白い男の顔が、エメラルドの瞳の中に浮かんでいる。


 だがやがて、彼女も決意したのだろう。

 その目に強い光を宿したまま、頷く。


 ハルが踏み出した“一歩”が、エリシオという“えにし”を引き連れ、前進した。


 少女を中心にし、それを守るようにハル達が布陣する。

 ゼノを先頭とし、扉の前に構えた。


「いくぞ。ハル、ロックの解除を頼む」


 ハルは「ああ」と答え、壁際のボタンに手を伸ばす。


 この部屋にこもっていれば、もしかしたら危機は去るのかもしれない。

 これは一時的なもので、ほとぼりが冷めるまでどこかに隠れていた方が良いのではないか。


 そんな“安全策”が、とってつけたように心の中に湧き上がる。


 またため息をつき、ボタンを押した。

 自動ドアが開き、廊下へとゼノ達がおどり出る。


 待ってるだけは、もう飽きた――ハルもまた、エリシオの後に続いて部屋を出た。


 トリガーを引き、剣を構える。

 ビリビリと肌を刺す緊張感と共に、一同は安息を捨てて駆け出した。

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