第17章 進む者、終わる者
暇を持て余していたハル達の耳に、またしても自動ドアの音が響く。
顔を上げるハルとエリシオ。
ガラス壁の外で端末を操作していた研究室長・ノマドまでも、登場した一人の女性隊員に息をのんだ。
相変わらず“彼女”はぎょろりと開いた目でこちらを見つめ、大きな犬歯を覗かせながら笑う。
「おっじゃまっしまーす。おー、ハルにおチビ。閉じ込められちゃってんのね。まるで動物園だなぁ。でも、何にもないから退屈そう~。タイヤとかぶら下げてあげりゃ良いのに」
いつも通り、言いたいことを自分の勢いで、まるで気にせず一気に吐き出す。
「こ、こここれはミオ様。ど、どういったご用件で――」
「ちょっと暇だったから寄っただけぇ。気にしないで~」
簡潔に返されてしまい、ノマドは「はぁ」と情けなく退散してしまう。
ガラス壁に近寄ってくるミオに、ハルはため息が漏れてしまった。
強化ガラスのすぐそばに「どっこいしょっと」と、しゃがみ込むミオ。
エリシオは今まで以上に警戒し、彼女を
たまらずハルも、微かに不機嫌に返してしまう。
「なんだよ、なにしに来たんだ」
「暇だから。だって部隊の皆、ほとんどいなくなっちゃったしさぁ。キースはどっか行ってるし、ナッシュは帰ってきてからずっと医務室のベッドだよ。相手してくれるやついないの、つっまんねぇー!」
その返答に肩の力が抜ける。
この女性は本当に、嘘偽りなく“暇”なのだ。
そんな単純な理由に、今度はハルが「はぁ」と返してしまう。
「そりゃあ、災難だな……というか、まだナッシュは復帰できそうにないのか?」
「うんー。私も会いに行ったけど、なんか変なんだよね。ずっとベッドにうずくまって、ブルブル震えてるの。独り言、言ってたなぁ。『しかたなかった』とか、『もっと早く助けに来いよ』とかさぁ」
思えば、ハルがナッシュと再会した時も、彼はかなり取り乱していた。
モノクロームが起こす超常現象にあてられたせいだと思っていたが、それにしてもここまで動揺を引きずるものか。
「こう言っちゃなんだが、バラバラになっていた時間なんてものの数十分だったろ? ヴォイドに襲われてたか……けどあいつだったら、一人で簡単に倒しちまいそうな気もするんだが」
「ナッシュがバケモノ程度で、あんなにならないよぉ。何があったか調べてるっぽいけど、全然無駄。端末も壊れちゃってるっぽいし。すげーハイテク機械なくせして、簡単に壊れるんだなぁ。時間なんか狂っちゃって、1か月先にずれてたりとかさぁ」
隊員達が携帯している端末は自動的に周囲の状況や、装着者のバイタルなどを記録してくれるのだが、それが壊れているとなれば手がかりはかなり少なくなってしまう。
その間に何があったかは、ナッシュ当人しか知り得ないのだろう。
ここでミオは、視線をエリシオに移す。
「そっちのチビっ子も、記憶がないんだってぇ? でも、あの街の中でずっと過ごしてるなんてすごいよね。超暇でしょ、あそこ。私なんてこの基地でもこんなに暇なのに、きっと耐えられないよ」
ケラケラと笑うミオを、微かに後ずさりして見つめるエリシオ。
ガラス壁越しに、ミオは更に問いかける。
「でさあ、おチビちゃんに聞きたかったんだよ。あの街の中でさ、他にも人間とかいなかった? そうだなぁ、だいたい20人くらい」
突然の質問に、ハルも首を
エリシオはしばし言葉に迷っていたが、やがて不安そうな眼差しと共に答えた。
「時々、外から入ってくる人はいたよ。でも、そんな大勢は知らない。ずっと住んでたのはジョナくらいで、皆、いつのまにかどこかに行っちゃうし」
やはりモノクロームの中には、エリシオら以外の人間がいるのだろう。
ハルはふっと、あの奇妙ないでたちの男性・ジョナのことを思い出す。
こうしている間も、彼はあの街の中でさまよっているのだろうか。
ミオはどこか少し、残念そうに笑う。
「そっかぁ。もしかしたら、おチビちゃんなら知ってるかもって思ったけど、無理かぁ。無念~」
「他の人間ってのは、DEUS隊員のことか? それなら残念だけど、もう無理だと思うぜ。俺が見た時、ヴォイドに取り憑かれたやつにやられちまってたしさ」
しかし、ミオは首を横に振る。
「いんやぁ、それもそうなんだけどさぁ。気になってるのは、“元々、あそこにいた人達”ってこと」
首を傾げてしまうハル。
ミオは微笑んだまま、迷わず告げた。
「あそこ、元は小さな村があった場所なんだ。私の生まれ故郷がさぁ」
あっけらかんという彼女に対し、ハルは言葉が出てこない。
エリシオも目を丸くし、凶暴な女性隊員の顔を見つめている。
「生まれ故郷……じゃあ元々あそこは、誰かが住んでいた場所だったのか?」
「そだよ。私のひいひいひい――飛んでもっとひいひい爺ちゃんくらいから、住んでたんだって。皆して、自給自足で生活してんの」
ふっと、ハルは思い出す。
かつてリノアが言っていた。
この辺境の地には“先住民”がいた、と。
「私、上京して、DEUSに入る試験を受けたんだけどさぁ。帰ってきて驚いたよ。私が住んでた街が、消えちゃってんの。その代わりに、あのわけわかんない街ができちゃっててさ。もう、おったまげたね」
にこやかに語る彼女に対し、ハルとエリシオは言葉が出ない。
ただ汗を浮かべ、黙って彼女の“過去”を受け止めることしかできない。
「意味分かんなくて、とにかくモノクロームに一人で入ろうとしたの。でもまるでダメ! この前みたいに“霧”に包まれて、気がついたら出口に戻されちゃってさ。わっけわかんないっしょ。どれくらいうろうろしてたんだろうなぁ。なんか最後は気を失っちゃったみたいで、目が覚めたら都心にあるDEUSの本部に搬送されてたんだ」
「そんな……村が消えたって……そ、そこにはあんたの――」
「知り合いがいたよ。もちろん家族もねぇ。父ちゃんは小さい頃に死んじゃったから、母ちゃんと兄ちゃんと、弟が4人。あと犬が3匹と、鶏が6羽。大家族っしょ!」
ケラケラと笑うミオ。
そして、なぜ笑えるのか分からないハル。
つまりそれは――この女性が、“すべて”を失ったということに他ならない。
「だから、気になってたんだよ。もしかしたら私の故郷ごと、あの街の中に吸い込まれちゃったんじゃないかな、ってね。だからこうしてDEUSの中でも、モノクロームに突入する部隊に入れてもらってるわけ」
「そんな……そんな過去があったんだな、あんた……」
正直なところ、ハルは彼女のことを“狂人”という二文字にまとめてしまっていた。
戦闘狂、奇人、例える言葉はいくらでも湧いてくる。
だが今となっては、もはやそんな言葉で彼女を測れない。
それほどまでに告げられた過去は重く、言葉を詰まらせてしまう。
彼女は戦いたかったから、あの場所に赴いているのではない。
探していたのだ。
生まれ育った故郷を。
そして――共に過ごした、家族を。
深刻な顔のハルに、なおもミオは笑う。
「私はさ、皆、あの街で迷っちゃってると思うんだよね。ってことはさ、街を解明しちゃえば、皆とまた会える気がするんだ。だから本当は、また早く行きたいんだけどなぁ。そうもいかないかぁ」
「あんた……信じてるんだな。その……家族のことを」
ハルはすでに、あのモノクロームという場所で見てしまっている。
籠城していた隊員達が、無残にもヴォイドに食い散らかされている様を。
そんな危険な土地に放り込まれた人間がはたして何日、もつというのだろうか。
言葉にこそしないが、絶望の色にハルの顔が染まる。
それでもなお、ミオという女性は止まらない。
「そりゃあ、死んじゃってるところ見たら、もうアウトだけどさぁ。でもまだ会えてもないわけじゃん? じゃあ、きっとどこかにいるんだよ。可能性、ゼロじゃないもんね。私、見たものしか信じないんだ。だから、幽霊だのUFOだのは信じない! 会ってみたいけどなぁ、どっちも~」
驚き、目を開くハル。
ミオは腰に
「それまでは私、絶対死なないんだ。“死にたくない”じゃない、“死なない”の。誰がなんと言おうと、そう決めちゃったんだもん。そりゃあ無敵よ、無敵」
ケラケラ笑う彼女の声が、なぜかひどく辛い。
心を締め付けるその波長に、ハルはなんと返すべきか、適切な言葉をまるで持ち合わせていない。
初めからなのか、はたまた度重なる精神への負荷がゆえなのか。
彼女のこの奔放すぎる性格が、何に起因するものかは知らない。
だがそれでも今のハルには、ミオという女性のその底抜けに前向きな考え方が、ただただ辛い。
輝いて見えるその実、彼女が奥底に抱えてきたものを察し、息をのむことしかできない。
うろたえ沈むハルを、エリシオも不安げに眺めていた。
透明のガラス壁の隔たりが、ハル達とミオを明確に、痛々しく分かつ。
前に向かおうとしている者と、立ち止まりかけてしまう者。
両者の空気は、今は決して交わることはない。
その淀んだ部屋の空気が、またも響いたドアの音でかすかに前進した。
「あれぇ、たぁ~いちょ~!」
ミオは振り向き、
DEUS特殊部隊の隊長を務める黒人男性・ゼノが姿を現した。
「お前までこんなところにいるとはな。医務室から消えていたから、もしやと思ったが」
「だってナッシュがあんなんじゃあ、どうしようもないよぉ。あっ、もしかして元に戻った?」
「いや。残念だが、容体は変わらずだ。どうにも精神をやられてしまっている。引き続き、医療班が他の隊員同様に看病しているよ」
その返答に、ミオは「ちぇ~」とつまらなそうに口を
ゼノもミオ同様にガラス壁へと近付き、ハル達を見つめる。
ハルはミオの時よりもより一層、不機嫌に返した。
「なんだよ。隊長さんまで、暇を持て余してるってわけか? あいにく揃って観察されても、面白いことなんざできやしねえよ」
「様子を見にきただけだ。その様子だと『ハル=オレホン』の素性を知ってなお、記憶の方は特に進展がないようだな」
「ああ。いつもと変わらずだよ。期待に添えず、申し訳ないが」
「かまわんさ。焦ってどうなるというものでもないからな」
ハルの尖った態度も、ゼノはいたって淡々と処理してみせる。
どうしてもハルが彼に突っかかってしまうのは、隊員を街に残して撤退するという道を選んだ、ゼノの判断に納得がいかないからだろう。
もちろん、それを決めたのは軍の上層部だとは知っている。
しかしそれでも、現場にて総指揮をとっていた彼があっさり引き下がったのは、どうにも腑に落ちない。
「再突入はしないのかよ。手をこまねいている暇なんざ、ないと思うんだけどな」
「それも重々承知している。だがまずは、こちらも状況を整理したいのだ。君の過去やその子についても、まずは情報を集め、その上で次の一手に出たいと思っている」
「そういう命令ってことか。慎重なんだな、どいつもこいつも」
「それだけ危険なエリアだからな、あの街は。安易に動くと、真実を見失う」
真実ねえ――あえて言葉には出さず、あぐらをかいたまま「ふんっ」と荒々しいため息をついてみせた。
「現在、君――『ハル=オレホン』の周辺についても引き続き、こちらで調査しているところだ。君の家族や知り合いがいれば、もっと有力な手がかりが得られるだろう」
家族、という言葉にハルは少なからず反応してしまう。
今まで自身のことについて追い求めてきたが、その周囲を取り巻く人間達までは頭が回らなかった。
きっと自分にだっていたのだろう。
自分と血を分けた、両親や、兄弟が。
そこでふっと、ゼノの横でいまだに床に座ったままのミオと目が合った。
ニヤニヤと笑っている彼女の、先程の言葉を思い出す。
彼女にだっていたのだ――失ってしまった家族が。
思いがけず、ハルは隊長に向けて問いかけてみる。
「なあ、あんたにもいるんだよな。家族が」
自分でも唐突で、
ただそれでも、ハルは目の前に立つゼノに聞いてみたくなったのだ。
今まで、DEUSの面々を取り巻く環境など、考える余裕もなかった。
任務だからこそここにいて、やるべきことだから街へ赴く――きっと、人が“戦う理由”というのは、そんなに簡単ではない。
腰を下ろし、剣を置き、ようやくハルはそんな当たり前のことを考え始めていたのである。
ゼノはどこか一瞬、驚いたようであった。
だが腕を後ろに組んだまま、頷く。
「いるさ。妻が一人と、息子が一人。半年前に生まれたばかりだ」
そうか、と答えるハル。
だがここで、ミオがことさら嬉しそうに笑った。
「隊っ長の奥さん超美人だよ、まじで。あと子供、こんなちっこいの! 前に写真で見せてもらったけど、不思議だよね。あんなチビ助が、もっとでかくなって、ヒゲとか生えるんだぞ。生命の神秘だ」
相変わらず勝手に喋りきるミオだったが、おかげで随分と緊張していた空気が緩む。
ここでさらに空気を読まず、ミオが隊長に矛先を向ける。
「ねえ、隊長。見せてよ、あの写真。いっつも持ってるじゃんか」
明らかに、ゼノの表情に動揺が見えた。
ハル、そしてエリシオまで、ぽかんとしてそのやり取りを見つめている。
今まで鉄仮面だった黒人男性が、初めて感情をあらわにしていた。
「何を言い出すんだ、こんな時に。この前、食事の場でも見せたばかりだろう」
「じゃあ、ハル達に見せてあげなよ。まじ、超可愛いよ、がきんちょ! ねっ!」
とんでもない女性だ――今までの重々しさはどこ吹く風で、ハルは苦笑してしまう。
場の空気も人間関係も、まるで興味がない。
彼女はただ自分が良いと思う方向に、転びながらでも突っ走る。
きっと、そういう女性なのだ。
しばし、ゼノは考え込んでいるようだった。
だがミオのギラギラした眼差しに耐えきれなくなったようで、「やれやれ」と呟き、懐から一枚のラバーケースを取り出す。
開くと1枚だけ、写真が入れられていた。
思わず、ハルもガラス壁に近付く。
写真の中では、赤ん坊を抱き上げた女性が笑っている。
亜麻色の髪をまとめた、穏やかな表情の母親だ。
その手の中で、まだ髪も伸びきっていない幼子が眠っている。
ようやく肩肘を張らずに、嫌味も何もない純粋な一言が漏れた。
「へえ。確かに、こりゃあ可愛いな」
「でっしょ、でっしょ! 隊長の家、一回だけ行ったことあんだよね。こいつ、私が近付くとギャンギャン泣くんだよ。なんでだろ? キースには笑ってたんだけどな。あんなメガネの方が良いのか?」
そりゃあ、しかたないよ――とは言えず、ハルは苦笑で返す。
ゼノはどこかバツが悪そうに、ため息をついた。
「気は済んだか? これで」
「ああ、まぁ……そうだよな。あんたらだって、家族がいて――何かのために、あの街に行ってるんだよな」
意味のないことなんて、ない――リノアの父が託したその言葉は、ハルの心の奥深くに
だからこそ、問いかけてみたくなったのだろう。
目の前の軍人達が、あの街へ赴く“意味”を。
ゼノが微かにため息をつき、先程の写真をケースに戻そうとした。
だが、ある一つの視線に気付く。
いつの間にかエリシオがガラス壁に張り付き、まじまじとその写真を見つめていた。
少し驚き、隊長は少女に語りかける。
「何か、気になるかい?」
「その子は、あなたとは違うんだね。おっきく生まれたんだ」
ハル、ミオにはその言葉の意味するところが分からない。
だがゼノは、明らかに少女の言葉に動揺している。
ようやく、エリシオが
「少し不器用だけど、それでも優しい子だよ。それにすごく強い――あなたの心をちゃんと受け継いでくれる、良い子だね」
少女の笑顔に、なんと返すべきかが分からないのだろう。
なんの根拠があるのか、どうしてそう感じるのか、皆目見当がつかない。
だがそれでも、少し遅れてゼノは写真をケースにしまい、
仏頂面に、微かな笑顔が宿っている。
「ありがとう。もう任務漬けで、3ヶ月ほど会えていないんだ。今回の一件が終わったら、まずは妻と息子に謝らないといけないな」
「大丈夫だよ。彼女はあなたのことを分かってくれてる。だから一緒にいてくれるんだよ」
「そう――かな。そうだと、嬉しいものだがな」
なんだか、意外な光景である。
ゼノという鉄仮面が、今や少女相手に困ったように笑い、たじろいでいた。
たまらず、ハルは呟いてしまう。
「あんたも笑うんだな」
「笑うとも、人間なのだからな。うちの隊員が笑い過ぎなだけだ」
誰のことを指しているかは、もはや明確だ。
当の本人はあぐらをかいたまま、「誰のこと?」ととぼけている。
ミオはきっと、本当に理解できていないのだろう。
ゼノは少しだけ寂しそうな眼差しで、しかしはっきりと告げた。
「戦場や任務において、感情は度々邪魔になる。だが、感情を消してしまえば人は鋭くなり、そして脆くなる――ここにいる者は誰だって同じだ。皆、支えがあるからこそ前に進んでいる。そんなやつらばかりだ」
はっとするハル。
ゼノはこちらに視線を投げかけている。
「この後の軍議で、再突入を急げないか進言してみるつもりだ。その場合、君達は待機してもらうことになるかもしれないがな。とにかく、街に取り残されている面々の救出を急ぎたいのだ。彼らを、君が“出会った者達”のようにしてやりたくない」
それはハルがモノクロームで見た、あの凄惨な光景を指し示しているのだ。
籠城した挙句、最後はヴォイドに利用され事切れた、あの隊員の顔が浮かぶ。
この隊長は、きちんと考えていたのだろう――任務という最重要事項と、人命という最重要事項を、常に自身の中でせめぎ合わせながら。
矛盾と思われるその実、そのどちらも守らなければいけないという、無謀であり、そして気高い道を模索し続けたのかもしれない。
あの鉄面皮は、だからか――ハルはなんだか、自分が少し愚かしく思えた。
表面に流され、その奥に潜む彼らDEUSの内面を、まるで見ようとしていなかったのだ。
「そうだよな……絶対にあるよな、あんたらにも。進む理由ってのが」
なぜかふっと、心から“重み”が消える。
警戒や意地、敵意や疑りを捨て、久々に本音が漏れる。
「嫌なもんだな、“自分”が分からないってのは。それに――その周りにいてくれた、誰も彼もまで忘れてるってのは」
ゼノ、ミオ、そしてエリシオがハルの顔を見つめる。
ことさら重々しいため息が、その口から溢れ出た。
「自分の過去が分からなくても、生きてくことはできる。食うもん食って、寝るときゃ寝て――そうしてりゃ、とりあえずこの先もどうにかこうにか生きていけるんだろうさ。だから最初は、“自分”なんていずれ見つかるって思ってたんだ。そこに焦りもあまりなかったし、そもそも実感できてなかったんだろうな」
ハルは一瞬、一同の顔を流し見た。
誰も何も言わず、じっと言葉を待っている。
この際だ、とため込んでいた全てを吐き出した。
「だけど、やっぱり駄目だな。何も知らないってことは――きっと自分って“場所”そのものが消えてるってことなんだろう。自分の存在だけが、世界からすっぽ抜けるみたいに、ぽっかりと穴が開いたままなんだ。それだけは、放っておいても塞がらない。そこに元々あったものを当てはめないと、戻ってはこないんだろう」
あの街に行けば――モノクロームを探せば、きっとそこに自分の過去はあるのだろう。
そう己を奮い立たせ、今日まで生き延びてきた。
怪物を前にしても必死にあがき、前へととにかく歩みを進めた。
だが、その中で手に入れた『ハル=オレホン』の姿を見ても、空いた“穴”が埋まることはなかった。
そんな虚無感が、ハルの肩にはずっしりと覆いかぶさっている。
本当にこの世界に、自分はいたのだろうか。
エリシオとミオは、ただじっと真っ白な男の姿を見つめている。
深い心情を
いずれにせよ、二人は返す言葉を持ち合わせていない。
がむしゃらに進み続けてきたその足が、ふっと止まりかけてしまう。
しかし、それを前に押すのは、ガラスを隔てて立つ黒人男性だった。
「君の言う通りだ。何をやったとて、それが“過去”そのものに成り代わることはない。だがな――だからといって“今”が無意味だなんていうのは、良くない考え方だ」
厳しい一言に、はっとして顔を上げる。
ゼノは冷静に、ただ真っすぐこちらを見据えていた。
「どんなにあがこうが、人は一人では生きてはいけない。そしてそもそも、一人になんてなれんものだ。どうやったって、周りには誰かがいる。こんな風にな」
軽く手で促すその先には、目を見開き笑うミオがいる。
理解していない彼女は、「あたしぃ?」と
微かにゼノは笑みを浮かべるが、すぐに真剣な色を取り戻す。
「君が自覚しようが、望ままいが、自然と“
それは以前、他ならぬミオから告げられた言葉に似ていた。
過去がどうであれ、それで“今”が無駄になるわけではない――もしかしたら、この言葉の根底には、彼女が隊長から受け取った“思い”が含まれていたのかもしれない。
「一人になろうと思えば、人はいくらだって孤独を背負い込める。だが繋がろうと思えば、いくらだって繋がれる。その程度のものだ。目的や方角がどうであれ、共に歩む人間がいるのだ。どうせならば、その“縁”を支えにしたほうが、人というのはただ楽なものだぞ」
それは彼が、作戦を共にする全ての隊員に告げている、彼なりの“モットー”なのだろう。
戦場とは非情な場所だ。
だからこそ“情”を捨てたら、人は一気に“獣”に堕ちる。
その最後の一線だけは、守り続けなくてはいけない。
そのための支えであり、そのための縁なのだろう。
ハルとエリシオ、そしてゼノとミオ。
強化ガラスを隔てて向き合う彼らは、生まれも、出身も、組織も、進む理由もまるで違う。
しかし不思議なことに、先程までこの部屋にあった緊張感は、随分と薄らいでいる。
物質はたやすく形は変えない。
だがそれでも幾分か、互いを隔てる無色の壁が、厚みを失ったように感じてしまった。
***
暗い通路を慎重に進む。
時折、壁の向こうから機械の唸る音が響き、空気を不快に揺らした。
まるで巨大な生き物の体内を進んでいるかのように、錯覚してしまう。
空調はいつも過ごしているエリアとそう変わらないはずなのに、吸い込む空気がなぜか重々しく感じた。
リノアは手にした古いGPS端末の座標と、端末に映し出した基地の見取り図を頼りに、ひたすら進む。
高さを表すZ軸については、この階層で間違い無い。
だが、だからこそリノアは、歩みを進めば進むほど混乱していってしまう。
そんなバカな――エレベーターや階段をいくつも使い、たどり着いたのは基地の地下深く。
普段、こんなエリアに足を踏み入れることはそうそう無い。
どれだけ権限を持っていても、この先に待つ部屋に入ることなど、まずありえないだろう。
医療班のような、ある特定の“役割”を持った人間でなくては、とても。
角を曲がると、一本道だ。
遠くに、目当ての部屋が見える。
間違いなく、このGPS信号はあの部屋の中から発せられている。
汗が止まらない。
呼吸が荒くなり、微かに肩が震えた。
何が起こっているの――エレベーターに乗り込んだ瞬間は、ただの胸騒ぎだった。
しかし今や鼓動は加速し、肌は鋭敏に空気の波を捉えている。
研ぎ澄まされた感覚が、肉体に絡みつく闇すら知覚させるようだ。
もうどれくらい、下降したのか覚えていない。
少なくともここまで誰ともすれ違わず、DEUS隊員や職員の姿すら見なかった。
当たり前である。
このエリアに人が立ち入らねばならない時というのは、明確なのだ。
リノアは知っている。
これから侵入する部屋が、何のために使われているかを。
だからこそ、汗が止まらない。
なぜそんな地下の奥深くに備えられた部屋から、この反応が出ているのかと言うことを。
扉までの距離は、すぐにゼロになる。
両開きのうち、片方のドアを静かに押した。
自動制御すらされていない扉は、ある意味新鮮である。
しっかりとした重みを感じながら、部屋の中に入る。
薬品の匂いがそこら中に漂っていた。
移動のためにホイールがついた医療台が、いくつか並んでいる。
壁際に等間隔に敷き詰められた小さな扉は、一見すればロッカールームのようにも見えた。
だが、その中に収納されているのは、決して荷物などではない。
GPSを慎重に辿る。
マップの中で明滅する信号までの距離が、どんどん近づいていく。
リノアは壁際に立ち、その無数の扉へと向き合った。
嘘よ、こんなの――自身の呼吸が、ぜえぜえと部屋の中に響く。
流れ落ちる汗を拭うことすら忘れ、ただ目の前の扉を見つめた。
小さなガラス戸の中は暗くて見えない。
しかし、GPS信号の座標まではもう、1mほどしか無い。
答えは間違いなく、この扉の中にある。
開閉スイッチを押す手が、ひどく震えた。
指先の焦点が定まらず、何度も
混乱に次ぐ混乱。
疑惑に次ぐ疑惑。
聡明なリノアの頭脳が完全に麻痺し、感情の波に溺れる。
意を決して彼女は、壁際のボタンを押した。
“プシュウ”という空気音と共に、扉が開く。
中からせり出してきた細長い“ベッド”の上には、群青色の袋が横たわっていた。
GPS信号までの距離が、さらに縮まる。
目の前に横たわっているこの袋の中に、間違いなく信号を発生している装置がある。
勘違いであって欲しかった。
何か奇跡的な偶然が重なり、たまたま、このような奇妙な出来事が起こってしまった。
そんな運命のいたずらで、全てが終わってくれることを願う。
だが、リノアという人物は賢い女性だった。
感情が願う奇跡や偶然なんかよりも先に、今この場で起こっている真実を、数々の事象を照らし合わせ導き出してしまう。
唐突に基地から姿を消した、技術長の老人・ドク。
彼の部屋で見つけた、旧式のGPS装置。
それが指し示した、基地のはるか地下に位置するこの部屋。
袋のチャックをつまむ手が、震えた。
ハァーと、何度も深く、かすれた呼吸を繰り返す。
なぜこれが、この部屋にある。
なぜこの袋の中に、そんな反応がある。
この袋の中に――誰がいる。
意を決し、一気にチャックを開く。
袋の中身が、切れかけて明滅する照明に、それでもはっきりと照らし出された。
横たわっている男性の体に、水気はない。
目は閉じているが、口だけはだらりと開かれ、所々抜け落ちた歯と桃色の舌が覗く。
荒々しく繰り返されていたリノアの呼吸が、確かにその時、止まった。
ひどくゆっくり駆動する時間の中で、リノアはついに悲鳴をあげてしまう。
乾き尽くした喉から放たれたそれはかすれ、ほんのわずか、部屋の空気を震わすことしかできなかった。
男性の眉間、そして肩には穴が空いている。
見覚えのあるその顔に――しかし初めて見たその無残な姿に、涙まで溢れてきた。
“死体安置室”で横たわる、冷たい男の体。
技術長・ドクの口から、あの快活な笑い声が響くことはなかった。
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