第13章 戦場の喰人

 ばしゃり、ばしゃりと、水溜りを踏み抜きながら近付く小さな影。

 ハルはすぐにそれを察知し、目を見開く。

 再びライフルを手繰たぐり寄せ、銃口を持ち上げようとした。


 警戒する彼に、黒い布を頭からかぶった、小柄で奇妙な生物が声を上げる。


「おんや、まぁ。これはこれは珍しい。まぁた旅人さんがやってくるなんてぇ」


 独特のイントネーションで喋る生物を、ハルは目を丸くして見つめた。

 雨をぬぐうことすら忘れ、ずぶ濡れのまま目の前の存在を見下ろす。


 身長はハルの腰くらいまでしかない。

 人間の子供のようにも見えるが、灰色の肌や、兎のように巨大で垂れ下がった耳は明らかに異質だ。

 なにより尻からは巨大な尾が生えており、それを引きずるせいで水たまりがバシャバシャと音を立てているのだ。


 奇怪な生物の表情は穏やかだ。

 少し垂れた目の中心には、青色の瞳が覗く。


 声の調子から恐らく男性なのだろう。

 丸みを帯びた顔は、一見すれば“カバ”のそれに近い。


 巨大なリュックを背負い、黒いぼろに身をくるんだ彼は言う。


「おや、その紋章。あなたも『でうす』の旅人さんですかなぁ?」


 彼の目は、ハルの戦闘服に刻まれたシンボルマークを見つめている。

 肩に刻まれた“黒い太陽と黄金の歯車”は、雨にじっとり濡れていた。


 人語を解す奇妙な生物が、それでも「DEUSデウス」という言葉を知っていたことで、ハルは自然と言葉を返す。


「なんだ、あんた? DEUSを知ってるのか?」

「ええ。最近、この街にやってきた旅人の方々です。皆さん、街に翻弄ほんろうされて困っておりましたからねえ」


 随分と柔らかく、そしてゆったりと喋る生き物だ。

 警戒するハルに、彼は穏やかに語りかける。


「怖がらせてしまったなら、申し訳ございません。私、ジョナと申します。この街で細々と暮らす小市民ですので、どうか警戒なさらないでください」


 丁寧に自己紹介する奇怪な生物・ジョナ。

 なんだか見た目と中身のギャップに、調子が狂ってしまう。

 とはいえ、ハルは微かに警戒心を残したまま名乗った。


「ハル様もまた、この街の調査に来られたのですかな?」

「ま、まあそんなところだ。あんた随分と、俺らのことを知ってるんだな」

「ええ、それはもう。皆様、この街に来られてから困惑されておりましたので、老婆心ながら街の安全な地域をお伝えさせていただきました」


 ライフルを下ろし、ようやく顔を濡らす雨を拭った。

 目を丸くし、小さなボロを纏う姿を見つめてしまう。


 この男は、DEUSの面々とコンタクトをとっているのだ。

 思わず身を乗り出し、問いかける。


「そいつら、今どこにいるか分かるかい? まだ――生きてるのか?」

「皆様がしばらく暮らしておりました場所については、存じ上げております。しかし、私も随分とお会いしていないため、現在はどうされているかは……」


 立ち話もなんだろう――と、ジョナの配慮によって、二人は並んで歩きだす。

 瓦礫と色のない炎が残る廃墟の中を、水たまりを押しのけながら進んだ。

 とにもかくにも、DEUS隊員達が隠れていたエリアに連れて行ってくれるらしい。


 ジョナは背負っている大きな鞄から、傘を取り出す。

 おもむろにそれを、ハルに差し出してくれた。


「どうぞ。私はもう慣れていますが、体が濡れてしまっては大変です。風邪をひいてしまいますので」

「お、おお。悪い」


 うろたえながら受け取るが、開いてみると傘の骨はいくつも折れ、穴まで開いてしまっている。

 これではとても雨粒をしのげはしない。


 目を丸くするハルに対し、ジョナは残念そうな眼差しを浮かべている。


「おぉ、申し訳ありません。壊れてしまってましたか。情けない話ですが、私がガラクタをつぎはぎに作ったものでして、丈夫ではなく……」


 壊れた傘を受け取るジョナは、どこか寂しそうだった。

 ハルは慌てて励ますも、いまいち彼の表情は晴れない。


 なんだか友好的にされたらされたで、距離感を測りづらいものである。

 ここは思い切って、話題を切り替えてみた。


「いろんな風景がごちゃまぜになってるとはいえ、このエリアは何なんだ……まるでこれじゃあ戦場だよ。相当、どんぱちやった後のな」

「この街は『魔王』の心が作り出しているものですからねぇ。きっと彼の持つイメージが、ところどころに反映されているのでしょう」

「心が街を作る、だって?」


 信じられないが、同時にどこか納得しだしている自分がいるのも事実だ。

 内部の構造が組み替えられたり、色を失った建造物があったり。

 なにより、定期的に出現・消滅を繰り返す時点で、この街は既にまともではないのだ。


「私も、古くからこの街で暮らしておりますが、時折皆様のような外界からの旅人がやってこられるのです。しかし多くの方は、“ケモノ”によって命を落としてしまいます。ですので、こうしてガラクタを探して放浪しながら、旅人の方を見かけては安全な場所まで誘導しているのです」

「ありがたいことだな、そりゃあ。昔から住んでるって言ったが、そんな前からこの街はあるのかい?」

「ええ。私も正確な年代は分かりませんが、少なくとも数十年はこの地を放浪しておりますね」


 そんなバカな――言葉にこそ出さなかったが、ハルは失笑してしまった。

 彼の言葉が本当ならば、このモノクロームという街もまた数十年という年月、こうして存在し続けたことになる。


「驚いた。あんた俺なんかより、はるかに年上なんだな」


 正確に言えば、ハルは自身の年齢すら覚えていないのだが、それでも数十年も歳を取っている自覚はない。

 あくまでジョナは優しい笑顔で頷く。


「ここには様々な年齢の方が来られますが、多くがあなたのように黒い装束を身につけています。特に『でうす』という組織の方々は、大勢来られましたね」

「その言い方だと、他にもここに来た奴らがいるってことか」

「ええ、ほんのわずかですが。もっとも、その方々が今どこにおられるかまでは、私にもなんとも」


 どこまでその言葉を信用すべきか、ハルは慎重に考えていた。

 ジョナは一見、黒い怪物・ヴォイドとは別の生き物に見えるが、それでも得体が知れないことには変わりがない。

 言葉が通じ、親切ではあっても、やはりまだ全幅の信頼は置けそうにない。


 そうこうしていると、ようやくジョナの足が止まる。


「この辺りです。ここは比較的建造物も壊れておらず、雨風をしのげると思いましてねぇ」


 見れば確かに、先程まで歩いてきた景色とは違い、白壁の建物は比較的綺麗なままだ。

 とはいえ、それでも“廃墟”と言わざるを得ないくらいには、破壊されている。


 長方形をいくつも連ねただけの、なんとも簡素な建造物だ。

 今まで見てきた光景と比べ、ただ“最低限住むための箱”が並んでいるという印象である。


 雨粒をまたぬぐい、ハルは目を凝らす。

 建物の中をうかがうも、どうにも人の気配はしない。


「誰もいないみたいだな。やっぱり、脱出しようと移動したのか」

「かもしれませんねぇ。この間まで、ここに10名ほどおられたのですが」


 そうなると、かなりの数の隊員達がこの建物に避難していたらしい。

 近付いて窓から覗き込んでみると、そこには血のついた包帯や、空の薬莢やっきょうが転がっている。


 それらが隊員の物であるということは“色”がついていることから、すぐに分かった。

 白黒の中に転がる品々は、なんとも鮮やかに浮き上がって見える。


 おもむろに建物の一つに入り、とにもかくにも雨をしのぐ。

 家具が整えられていた今までの家屋と違い、石製の床や壁、天井しかない簡素すぎる作りだ。

 本来は誰かが住んでいたのだろうが、まるでもぬけの殻になっている。


 ぽっかり空いた窓の外を覗くと、暗がりの中で色のない炎が雨粒を受けて揺らいでいた。

 粉々に砕かれた建物と、所々に見える地面の穴。

 それらを統合して、ハルはある単語を思い浮かべる。


 まさに戦場だ――いままでの町並みと違い、ここは人が住む場所ではないのだ。


 何かに襲われ、住民が消え去った抜け殻。

 その凄惨な場を再現しているのである。


 ジョナも中へと入ってきて、ブルブルと体を震わした。

 雨粒が地面を濡らし、ふぅとため息をつく。


「この街は外から来られた方々からすれば、馴染むことができないようですからねぇ。きっと皆さん、元来た場所を目指して旅立たれたのでしょう」


 ハルはライフルを持ったまま、ジョナに問いかける。

 あくまで警戒心は捨てていない。


「なあ、あんた。この街の住人ってのは他にもいるのかい?」

「ええ、一応は。ただほとんどもう、ここには残っておりません。私を含め、何人が暮らしているか……」

「その中に“女の子”はいるか? 髪の毛が銀色の、まだ小さい」

「おや、エリシオ様のことをご存知ですか」


 よし――心の中でほくそ笑みながらも、さらに続ける。


「ああ。以前、この町で出会ったんだ。俺らの目的は、もう一度あの子に会うことでもあるんだよ。どこにいるか知らないか?」

「さて、どこにおられるのでしょうねぇ。エリシオ様も奔放なお方で、街の中をあちこち移動されてますから。もっとも『魔王』に目をつけられてしまっているので、しかたないのでしょうが」


 どうやら、よほどあの少女と「魔王」には因縁があるらしい。

 ここはひとつ、率直にずばり聞いてみる。


「『魔王』はなんでまた、あんな小さな子を追いかけ回すんだ? そんなに、あの子を捕まえないといけない理由があるのかよ」

「私も全ては知り得ないのですが、なんでも『魔王』にとってはエリシオ様は“鍵”なんだそうです」

「鍵ねえ……いまいちこう、抽象的な表現だな。そんなに重要人物なのか」

「ええ、それはもう。なにせ『魔王』とエリシオ様のやろうとしていることは、真逆ですからね。そういった意味では、エリシオ様のことを敵視しているのかも知れません」


 壁にもたれかかり「ふうん」と一瞬、外へ視線を走らせた。

 何かが近付いている気配はない。

 相変わらず雨粒は音を立て、戦場を叩く。


「とはいえ、エリシオ様も今の状況では、目的を果たすことは困難でしょう。必死に奮闘されたというのに、いたたまれないことです」

「よほど、なにかやりたいことがあったわけか。あんな小さな子が、一体何を?」

「エリシオ様はこの街を消そうとしているのです。そして『魔王』はその真逆――この街を拡大させたいんだとか」


 ぞわり、と背筋が震えた。

 思わず、銃を握る手に力が込められる。


「この街を――消すだって?」

「はい。もとより、エリシオ様はずっとそれを望んでいたのです。この街は存在してはいけないものだ、と。だからこそ、お一人で『魔王』の追撃を逃れ、奮闘なさられた。しかし、もはやそれは叶わぬ夢なのです。あのお方の力は、日に日に弱まっている。それこそ『魔王』に捕まるのも時間の問題でしょう」


 なぜか、酷く喉が乾く。

 口を閉じるということすら忘れ、じっとジョナの顔を睨みつけた。


 ある意味、確信とも取れる些細な質問を、ハルは直立したまま投げる。


「あの子は――エリシオはなんなんだ、一体」

「なにと申されましても、困ってしまいますねぇ。ただこの街にとって、とても大切なお方です。なぜなら、この街を“作った方々”の一人でもあるのですから」


 なんだって――たまらず声を荒げたハルに、ジョナはびくりと驚く。

 鼓動の音が、煩わしいほどに大きい。


「あんた、この街に長年住んでるって言ったな」

「ええ。数十年は、こうしてのらりくらりと暮らしております」

「この街はあの子が作った……作り上げた奴らのうちの一人。そうだな?」

「ええ、おっしゃるとおりです」

「じゃあ、あの子は――この街ができた時から、ずっといる――最初から」


 ジョナは「はい」と静かに頷く。


 嘘ではない――ジョナというこの奇怪な男を信用したわけではない。

 だがしかし、それでも分かることがある。

 この小柄で獣じみた男は、決して嘘など言ってはいない。


 今までのことは全て、まごうことなき真実だ。


 それを、どう受け止めれば良い。


 あの無垢で、幼い少女がこの街を作り上げた。

 そしてその街に、このジョナという男は数十年間、住み続けている。


 だとすれば、あのエリシオという少女は――いったいどれほど、ここにいるというのだろう。


 自然と、それらの会話の中の“嘘”を探していた。

 だが、探せども探せども、まるで見つからない。


 あの少女は、一体なんだ。


 戦慄し、言葉を失うハル。

 困惑する彼を、ただじっと穏やかに見つめるジョナ。


 雨音のみが響く廃墟の中に、がたりという荒々しい音が響いた。

 慌てて振り向く二人。

 奥の部屋で、何かがもぞもぞと動いている。


 ヴォイドか――ライフルを構えるも、暗闇の奥から男の声が響いた。


「待て……待ってくれ……撃つなよ、頼む!」


 もぞもぞと、暗闇の中から男が這い出てくる。


 見ればそれは、DEUSの戦闘服を身につけた隊員の一人だ。

 負傷しているらしく、足には包帯を巻いている。

 壁に寄りかかるようにして、彼はゆっくりとこちらに近付いてくる。


「頼む、やめてくれ……撃たないでくれ! 俺は化け物じゃねえ、人間だ!」

「お、おい。落ち着けって。大丈夫、撃ちゃしないよ」


 ライフルを下ろし、手を上げて抗戦の意思がないことを示した。

 男は安堵あんどしたのか、がくりとその場にへたりこむ。


 思わず駆け寄ると、血と体臭が入り混じったひどい臭いがした。

 男は衰弱しているようで、ヒゲだらけになった頬は痩せこけている。


 濁った眼差しの隊員に、ハルは問いかけた。


「おい、しっかりしろ。何があったんだ?」

「あんた……DEUSの人間か? なんだよ、その姿……人間なのか、本当に?」


 微かに男の体が震えている。

 ハルは大きくうなずき、答えた。


「ああ、こんなナリしてるけど、一応人間だよ。今はひとまず、DEUSに仮に入隊させてもらってる。ほとんど捕虜みたいな状態だがな」

「た、助かった……良かったぁ……諦めないで、良かった……」

「前に、モノクロームに突入した部隊の人間だな? 他の隊員達はどうしたんだ」

「皆……皆、いなくなっちまった……誰も残ってねえ……俺しかもう、いねえ……」


 冷静に見ると、男の体は所々がどす黒い血で濡れている。

 右手にも包帯が巻きつけられており、損傷が激しい。

 どうやら指は数本、欠けてしまっているようだ。


 ぜえぜえと肩で息をしながら、男は訴える。


「あぁ…腹……腹が減った……頼むなにか……なにか、食い物を……」


 ハルは慌てて、腰のポーチの中を探る。

 中には携帯用の固形食料と、わずかな水のみがある。

 すぐさま、それを男に手渡した。


「ほら、こんなもんで良ければ、食えよ。もっとも、味は保証できねえだろうが――」


 ハルの言葉を待たず男はそれを奪い取り、貪るように口に放り込んだ。

 鬼気迫る姿に、唖然あぜんとして後ずさってしまう。

 隣で見ていたジョナも、これには驚いたようだ。


「随分とお腹が空いていたのですねぇ。こちらの方は、ハル様のお知り合いですかねぇ?」

「まぁ、同じ部隊の関係者ってところだ。なあ、あんたもなにか食い物はないか? 俺、これだけしか持ってないんだ」

「残念ながら、私は食料品は持ち合わせておりません。どれもがらくたばかりです」


 そうか、と答えながらも横目で男を見つめた。

 粘土のような携帯食料を、必死に食いちぎり咀嚼そしゃくしている。

 味などほぼ無いようなものなのだが、涙を流しながらそれを頬張っていた。


「あぁ……美味い……美味いなぁ……ありがとうよ、助かった……もう、何日も食ってなくって……」


 水を飲み干し、随分と落ち着きを取り戻したらしい。

 男は呼吸を整えながら、座っている。


「俺らを助けに来てくれたのか、あんた?」

「まぁ、そんなところさ。ただ、悪い知らせですまないが、俺も実は本隊とはぐれちまったんだよ。ついさっき、こいつと出会ったところだ」


 男が見つめると、ジョナはぺこりと礼儀正しくお辞儀をした。

 やせ細った男は、少しうつむき歯噛みする。


「そうか……この街は一体、なんだってんだよ……何から何まで、わけの分かんねえことばかりだ」

「その点は俺も同意するよ。あんた、ずっとここで粘ってたんだな」

「ああ。元々は部隊の仲間達もいたんだ。俺らもここにきて、そいつから安全な場所だって教えられてな。確かに、ヴォイド達はほぼこのエリアには生息してなかった。籠城するにはちょうど良かったんだよ」


 やはり、ジョナの言っていたことは真実だったらしい。

 彼が安全地帯を教えたからこそ、隊員達は怪物に襲われずに済んだのだろう。


 だが、そうなると少し妙だ。

 ハルは冷静に問いかける。


「だけど、他のメンバーはどうしたんだ? いなくなった、って言ってたが」

「そうなんだ……最初は助けが来ることを信じて、この周辺で耐えてたんだよ。出口がないか、交代で外を探索にも行ったりした。だけどいつからかな……食料も底を尽きて、体力も精神もすり減ってさ……それから、少しずつ皆がいなくなっていったんだ……気がつきゃ、俺一人……」


 ジョナの話では、確か10名ほどがこの地区にいたはずだ。

 それだけの大人数が姿を消すとは、いったいどういうことなのか。


 いやがおうにも、ハルは悪い想像を働かせてしまう。

 なにせ、ここはモノクローム――黒い怪物がいつ、どこから現れるかも分からない異形の戦場だ。


 きっともう、彼らは――あえてそこは、触れないでおいた。

 目の前のこの生存者の心は、もう擦り切れる寸前なのだ。

 これ以上の負荷は避けるべきだろう。


「俺はここに来てすぐ、足を負傷しちまったんだ……最初は籠城してた場所でじっとしてたんだが、他の奴らがいなくなったんで、不安になってなぁ。様子を見に行こうと外に出たら、傷が開いちまってこのざまだよ。端末も壊れちまって使いもんにならねえしな……」

「なるほど。それで、じっと耐えてたわけか。良く頑張ったな」


 ハルの励ましは素直に心に響いたらしい。

 また涙まじりに、男は頷く。


 ここで、ジョナが二人に提案する。


「ひとまず、籠城されていた場所に戻ってみるのはいかがでしょうか? 何か使える物資などもあるやもしれませんし、少なくともここよりは安全でしょう」

「確かにな。まぁ、とはいえ、その傷で無理もできねえか。よし、ひとまずあんたは待っててくれるか? 仲間の奴らがいるか見てくるよ」


 しかし、この提案に男は首を横に振った。

 ハルの手にすがりつき、大声で訴える。


「い、嫌だ! もう一人は嫌なんだよ! 頼む、頼む頼む! 置いていかないでくれ!」


 突然掴みかかられ、思わず身を引いてしまった。

 たじろぎつつも、ハルは冷静に対処する。


「お、落ち着けって、なあ。大丈夫、分かったよ。なら、ゆっくりだが全員で移動しよう。俺が肩貸すからさ」


 男はまたも涙を流し、「ありがとう」と何度も頭を下げていた。

 よほど孤独がこたえたらしい。

 ハルが肩を貸して立ち上がらせると、大の大人の肉体だというのに驚くほど軽い。


 ハル達は周囲に警戒しつつ、建物から建物へと雨を避けて進んだ。

 廃屋同士が密に繋がっているようで、ほぼ体を濡らさずに移動することができるのは幸運であった。

 場所によっては壁や天井が崩れているが、その穴を潜って隣の建物へと侵入できる。


 ゆっくりと進みながらも、男はハルに礼を述べた。


「本当に、感謝してるよ……もうダメかと思ってたんだ。二度と帰れないんじゃないかって」

「体が弱れば、気持ちも衰えるもんさ。それでも、本当に良く耐えたよ。こんな場所で、飲まず食わずでいたわけだろ?」

「ああ……仲間が残してくれた食料があったから、少しはなんとかなったんだがな。それにしても腹が減ったよ……帰ったら、とにかく腹一杯食べたい」


 男はまだ衰弱しているが、それでも随分と表情は明るくなった。

 涙を浮かべながら彼は微笑んでいる。


「何が良いかな……とにかく甘いものが食べたいよ……近所で売ってる、生クリームの乗ったドーナッツが美味いんだぁ。あれを抱えきれないくらい買って帰りたいよ……」

「良いじゃねえか。そういう気持ちが、生きるための活力になるんだからよ」


 また一つ、「そうだなぁ」と男は微笑む。

 彼と面識はないが、それでもハルは彼が救われたことに、どこか嬉しくなってしまった。


 やがて、隊員達が使っていたという別の建物へと辿りつく。

 二階建ての廃屋で、男に促されるまま崩れかけの階段を慎重に上った。

 ゆっくり歩みを進めつつ、男は息を荒げている。


「おい、大丈夫か? どこか痛むのか」

「い、いや、すまない……怪我はしてないんだが、とにかく腹が減ってなぁ……あんた、他に何か持ってないのかい……」

「そういうことか。けどあいにく、あれしか持ってきてないんだ。もうちょっとだけ、我慢してくれ」

「そうなのか……ああ、腹ぺこだよ……なんでも良い……とにかく腹に入れたい……」


 よほど空腹だったらしい。

 先程、携帯食料を完食したにも関わらず、再び男は出会った当初と同様に、虚ろな目で前を見ていた。


 なんとか二階にたどり着き、先へと進む。


「あの、一番奥の部屋だ……あそこに、皆いたんだよ」

「なるほど、了解だ。とりあえず中を見てみよう。もしかしたら、物資だけは残ってるかもしれねえ」

「だと良いんだがな……せめて食料だけでもあれば……」


 弱々しく呟く男に肩を貸したまま、ゆっくりと前進する。

 確かにDEUSの部隊が中継基地として利用していたようで、入り口にはリュックや即席の土嚢どのうが積まれ、バリケードが敷かれていた。


 ハルが足で押しのけようとすると、先回りしてジョナがそれをどけてくれる。

 思いがけない気遣いに、驚いてしまった。


「悪いな。そもそも、あんたまで付いてきてくれなくても良かったのによ」

「いえいえ。困った時はお互い様です。この街では協力しないといけませんからね」


 見た目こそ人間のそれからはかけ離れているが、ハルにとっては彼の中に宿った心に、随分と救われる部分がある。

 かすかに笑顔を浮かべ、頭を下げた。


 バリケードを突破し、部屋の中へと入っていく。

 室内は随分と暗く、それでいて妙に足元が汚れていた。

 DEUSが持ち込んだ器具が部屋には散乱しており、黒いシルエットだけが浮かび上がっている。


 なにやら液体がこぼれているようで、歩くたびにニチャリと嫌な感触が伝わった。


「なるほどな。確かに、ここを作戦室として使ってたようだな」

「あぁ……ど、どうだ……生存者は?」


 ハルは部屋の中に、「誰かいるか」と声を投げかける。

 しかし、希望を求めた問いかけは、暗闇に溶け込んで消えてしまった。


「ダメだ、そもそも部屋が暗すぎて良く分からねえな。それに――なんだ、この臭いは?」


 ハルの一言に、背後についてくるジョナも頷く。


「先程から妙ですね。何の香りなのでしょう。随分と不快な臭いです」

「ああ。とにかく、灯りになりそうなものがないか探そう。あんた、ちょっと待っててくれよ」


 そう言って、ハルは男をひとまず壁際に座らせた。

 彼はなおも、虚ろな瞳で訴えかけてくる。


「あぁ、頼む……急いでくれ……何か、せめて……食べ物を……」

「分かってるって。すぐに探してくるからよ」


 これ以上衰弱させると、男の命に関わる。

 そう判断し大至急、部屋の中で灯りになるものを探した。

 ついでに食料があれば、すぐにでも与えるべきだろう。


 ここでいち早く、ジョナが声を上げる。


「ハル様、これを。確か『でうす』の方々が持っていた、灯りではないですかな」


 見れば、ジョナが発見したのは電動のランプだ。

 天井に設置されたそれは、まさに即席のルームライトである。


 でかした、とハルは照明から続く配線を追った。

 テーブルの上の電源装置に、しっかりとそれは繋がれている。

 おそらくここを利用していた隊員達が、即席で作り上げたのだろう。


「よし、これだ。これをつければ、ひとまずは明るくなるはず――」


 迷うことなくスイッチを入れる。

 ぶぅぅん、という低いうなり声と共に電力が供給され、部屋がポォッと明るくなった。


 ようやくあらわになった作戦室の光景に――絶句した。


 照らし出された廃屋の床には、様々な器具が転がっている。

 ライフル、ハンドガン、カートリッジといった戦闘用のものはもちろん。

 ボロボロになったブーツや、書類の束、使い終わった救急スプレーの缶、そして携帯食料の空のパッケージ。


 だが、そんな散らかり具合など、もはやどうでも良い。


 隊員達の荷物が散らばるその床は――真っ赤であった。


 ぬらりと広がったそれが、かすかな灯りを受けて鈍く光る。

 かすかに乾き水気を失った液体は、音を立ててブーツに張り付いていた。


 血だらけの作戦室のそこら中に、死体が転がっている。


 真っ当な姿をしている者などいない。

 もはや遺体というよりも、ただの肉片だ。

 肉が削ぎ落とされ、骨が露わになった隊員達の粉々の体が、そこら中に落ちている。


 びりり、と全身が緊張した。

 歯を食いしばり、精神の暴走に耐える。


 なんだ、これは――隣に立つジョナが、「あぁ」と恐怖におののいていた。


「こんな……こんなことって……一体、ここでなにが」


 そこら中から、沸き立つような血の匂いが立ち込めている。

 部屋に入る際、鼻腔をくすぐった異臭の正体を理解し、戦慄した。


「ひどいものです……こんな、無残に……」

「ヴォイドにやられたのか。ここに侵入されて――」


 だが、それではどこかがおかしい。


 入り口のバリケードは破壊されていなかった。

 窓から怪物が侵入したとも取れるが、なにか噛み合わない部分が出てくる。

 部屋に荷物は散らばってこそいるが、壁や床、そもそも道具類に損傷が見られない点も違和感として残っていた。


 生存者など、残っているわけもない。

 視界をどれだけ走らせても、あるのはただ無残に食いちぎられた死体の群れだ。


 混沌が極める一室のその中に、あの男の声が響く。


「本当さぁ……腹が減って仕方なくてさぁ……他のやつに聞いても、皆、食料は食べちまったっていうんだよ……もう、我慢できなくて辛くて……」


 ぞわり、と背筋が凍る。

 いつのまにか、壁際にもたれかかっていた男が、ブツブツと呟きながら何かを咀嚼していた。


 ちぎれた隊員の右腕だ。


 彼はがつがつとそれにかぶりつき、残った肉片を引きちぎっている。

 びちゃり、みしりという繊維が千切れる音が、ハル達の体に悪寒をもたらす。


「ああ、うまいなぁ……やっぱりそうだ、ここを出たらステーキにしよう……肉だ、肉。腹いっぱい肉が食いたいなぁ……」

「おい、何してるんだ。おい!」

「この肉ももう、随分時間が経っちゃって、まずくなってるからなぁ……新鮮で、血がしたたる暖かい肉が食いたいよ……あの時はまだ良かったなぁ、皆、どれも暖かいままだったから」


 息をのみ、言葉を失う。

 ハル、そしてジョナは同時に、ここで何が起こったかを理解してしまう。


 戦場とは、えげつないものだと理解している。

 おそらくそれは、記憶を失う前のハルという人格に備わった知識がゆえだろう。

 自身のことは何一つ覚えてなくとも、戦場というものの非情さはなんとなく分かる。


 物資がなくなり、疲弊し、傷付いた者達の世界に常識など通じない。

 人が人を殺す空間とは、人が作った多くのことわりの立ち入れない領域だ。


 そう、理解している。

 だがそれでも――こんなことが、あって良いわけがない。


 ゆっくり、ライフルを持ち上げた。

 なぜあの時、気づかなかったのだろうと、ハルは自身を責めてしまう。


 この男はなぜ、怪我もしていないのに“血まみれだったのか”と。


 バリバリと肉を引きはがし、食らう男。

 ハルは汗だくになりながらも、必死に呼吸を整えた。


「あんた……食ったんだな……こいつらを」


 瞬間、男の目がカッと見開かれた。

 そしていびつに痙攣しながら、一気に立ち上がる。

 その異様な姿に、ハルとジョナは息を飲んだ。


「腹……減ったんだぁ……もう、腹が……食べても食べても……もう駄目なんだよ……冷えたこんな肉じゃあさぁあ……ましてや俺の“指”なんて……まずいチキンみたいで、もぉさぁああああ……」


 彼は“欠けた指”をぷるぷる震わせながら、虚空を見ている。


 人間の精神が戦場で狂うことは、ままあるのだろう。

 だが、それを差し引いても、この男の様子は異常だ。


 ハルはライフルの照準を合わせたまま、少し後ずさってしまう。


「もっと……新鮮で……ぐぶっ…あ……ったけぇ……ぶげっ……」


 ガクガクと痙攣しながら、男の喉が膨らんでいく。

 何かが彼の腹から喉へと沸き上がり、外へと吐き出されようとしていた。


 緊張した構えを作るハルの背後で、ジョナが気付き、声をあげた。


「あぁ……あぁ……なんということでしょう。気づけなかった……こんなところに、いるなんて。この方は――」


 瞬間、男の口から全てが吐き出された。


 咀嚼された人間の肉ではない。

 ましてや、ハルが与えた食料でもない。


 ありったけの“黒”が、音を立てて噴水のように宙に立ち昇った。


「“ケモノ”の隠れみのにされていたなんて――!」


 ジョナの叫びと目の前の光景に、ハルも理解する。

 ライフルの切っ先を向けたまま見上げたそれに、とうとう言葉が漏れた。


「なんてこった……」


 男は天に向けて口を大きく開けたまま、ふらふらと立っている。

 吐き出された“黒”は空中で形を作り、一つのヴィジョンを生み出していた。


 男の口から生えた大樹のように、もう一つの人型がそこにはいる。

 口の中から上半身だけが外に迫り出し、長い腕と三つの角を持った頭部が、男から“生えて”いた。


 ヴォイド――黒い獣はいつからか男の体内に潜り込み、残った隊員達を喰らい尽くした。


 それが獣の思考だったのか、それとも飢餓にあえぐ彼の願いだったのか。

 今となっては分からない。


 だが、ハル達にとってはもはや、そんなことよりも優先しなければいけないことがある。


 怪物が大きく吠えた。

 甲高く、ともすれば女の声ともとれるような波長が、ビリビリと空気を揺らす。


 歯を食いしばり、ハルは迷わず引き金を引く。

 何よりも色濃く香った火薬の匂いを頼りに、気絶しようとする自分をただただ律して。

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