第12章 霧の中の魔王
また一つ、“ギュゥン”という独特の発砲音が響いた。
キースのライフルが不可視のエネルギー弾を射出し、向かってくる怪物を射抜く。
胴体に大穴を開けられたヴォイドが、
それを追うように、隊員達の弾丸が次々に発射される。
互いの背を守るように陣形を組み、襲い来る“黒”を迎撃していった。
群れの中にはライフルを携えたハル、そしてハンドガンを構えたリノアもいる。
素早くリロードし、ハルは再び照準を合わせた。
左右から飛びかかってくるヴォイドを、鮮やかに射撃してみせる。
「お見事、すごいわね! あなた、かなり優秀な軍人だったのかも」
「そうかもな。けど、戦場で人殺しまくってたりしたら、気持ちの良いもんじゃあねえぜ」
銃口を持ち上げ、今度は空中の一匹を叩き落とす。
相変わらず、銃を撃つ際のタイミングや呼吸は体が覚えている。
深夜11時きっかりに、ハル達は再び色持たぬ街・モノクロームの中へと侵入していた。
以前の突入から、丸二日が経っている。
随分と念入りな準備をしたものだ。
それもそのはずで、今回は“外郭エリア”よりさらに先へと進軍することを決意したのである。
ハル、リノア、そして
加えて基地から招集した数名を加えての、大所帯となっていた。
隊員の一人が焦り、弾倉を落としてしまう。
群がるヴォイドに怖気付いてしまい、指先が震えてしまっていた。
情けない声を上げる彼の元に、ヴォイドの一匹――細長い手脚を持った“猿”のような姿の怪物が飛びかかった。
悲鳴すら上げることのできない彼の目の前を、“風”が吹き抜ける。
真横から飛来したミオが横回転しながら、たっぷり威力を乗せた斧をヴォイドに叩き込んだ。
頭が砕け散り、一撃で怪物が消えてしまう。
「冷静に冷静に、あっせんなよ~。戦場じゃいつもクールな奴が勝つ! んでも、時に熱く! その調整がむっずかしいの」
マイペースにけらけらと笑う姿は、やはり異常だ。
左右から同時に襲いかかる猿に対し、彼女は開脚してしゃがみこみ、回避してみせる。
そのまま跳ね起きながら、まるで竜巻のように回転し、二匹をズタズタに切り裂いてしまった。
四方から群がってくる黒い猿の群れ。
そして頭上からは、巨大な翼を持つ“鳥”のような個体も襲いくる。
巨大なカラスのように見えるが、翼は四つあり、
弾丸で迎撃しようとしても、高速で飛来するそれになかなか命中しない。
一匹が隊員目掛けて降下し、襲いかかる。
圧倒的速度で落ちてくる黒い塊に、身動きが取れない。
そんなカラスの真横から、あの光る球体――「ウィスプ」と名付けられた、脳波感知システム搭載の鉄球が突き刺さる。
緑の光がヴォイドの肉体を分解し、粉々に砕き割った。
キースの「パルス・アンチ・ライフル」同様、ヴォイドという怪物が持つ肉体の構造を打ち消す、いわば抗体配列を利用した特殊なエネルギーを鉄球は纏っている。
人間には無害だが、ことヴォイドに対しては目覚しい特攻効果を発揮していた。
二つの鉄球は続けて、空中に飛び交うヴォイド達を叩きのめしていった。
胴体を的確に狙い、貫くことで無に帰していく。
その真下で腕組みをしたまま、鉄球の操作者・ナッシュが気だるそうな表情を浮かべていた。
「やれやれ。今日のは随分と、やかましいじゃあないか。猿と鳥……この前の犬も揃えば、どこかで聞いたお
ナッシュの耳に取り付けられた装置が、彼の脳波を増幅して鉄球とリンクさせる。
指一つ動かしていないにも関わらず、特殊鉄球・ウィスプは空中戦を制していた。
相変わらずの“精鋭っぷり”に、補充要員として参加しているDEUS隊員達はたじたじだ。
こうして見ると、彼らとの戦力差はあまりにも大きい。
ハルはリロードしながら、思わず視線を走らせた。
これだけの精鋭のその最前線で活躍する、“彼”に注目してしまう。
中でも彼の実力は、明らかに“異質”なのだ。
ミオと同じく、集団から一歩外に出たエリア――近接戦闘のために彼は身構え、向かってくるヴォイドを見据えている。
スキンヘッドの黒人隊長・ゼノは静かに、動じることなどまるでなく、自身に向けられた殺意の群れを受け止めていた。
彼は武器を携えていない。
握りしめた拳を高い位置に構え、徒手空拳にて向かってくる怪物達に対峙する。
飛びかかってくる猿の一撃を、上半身のみ動かしスレスレで避けるゼノ。
すれ違いざま、握りしめた拳が怪物の胴体を、文字通り貫く。
飛来する鳥にも容赦はしない。
嘴や鉤爪で襲いかかるそれらを、今度は力強く、しなやかな蹴撃で迎え撃った。
一匹を真横から、
乾いた音と共にヴォイドの体が歪み、真っ二つに分断された。
すぐさま体重移動し、爪先が石畳を擦る“ギュッ”という音が響く。
跳ね上がった蹴りが槍が如く天を貫き、黒い凶鳥を見事に捉えて見せた。
強い――近接戦闘の実力であれば、今まで二つの斧を用いたミオが圧倒的だった。
しかし、隊長・ゼノのそれは根本的に、ミオの戦闘スタイルとは方向性が異なる。
相手の出方を見極め、そのスレスレを攻めることで的確に急所をえぐる。
ハルはかつて、彼に制圧された時の記憶を呼び覚ましていた。
腕力、
だが、そんなステータスの有利が無に帰してしまうほど、ゼノの
加えて、ゼノの武器が格闘技のみではないということを、ハルはこの戦場で理解する。
彼の両手両足には、他の隊員とは異なる奇妙な武装が見受けられる。
一見、肌を覆うインナースーツかと思ったが、黒地になにやら光り輝く“葉脈”のようなラインが無数に走っていた。
ゼノが体を動かすたびにそれが明滅し、彼の肉体に力を与える。
それはかつて技術長・ドクトルが使っていた「パワードアーム」の応用品だった。
肌に吸着して神経と連動する“人工筋肉”であり、ゼノの肉体が持つポテンシャルを何倍、何十倍にも飛躍させている。
空中二段蹴りで猿、そして鳥をまとめて砕くゼノ。
スキンヘッドには汗一粒たりとも浮かんでおらず、まだまだ彼が余裕だということが見て取れた。
「駆逐しながら進軍するぞ。負傷者は直ちに陣形の中央へ退避。輪を崩さないまま、このまま北を目指す」
隊員達が「イェッサー」と返事をする。
群がる怪物を着実に対処しながら、一同は町の奥へと歩みを進めた。
怪物の勢いが弱まったところで、ハルはたまらず隣にいるリノアに問いかけた。
「すげえもんだな。テクノロジー使ってるとは言え、武器なしであそこまで戦えるなんてよ」
「ゼノのことね。私も初めて見たときは驚いたものよ。あれでいて、格闘技自体はDEUSに所属してから始めたんですって。かっこいいわよね、私もあんなキックが打てるようになりたいわ。痴漢とか一撃でしょうね」
「のんきなもんだな、あんた。けどそれにしても、とんでもねえ体捌きだ。隊長だってのも、なんだか納得だぜ」
続いてハルの目線は、先頭を行くゼノではなく、周囲の町並みに向けられた。
「しっかし、本当におかしな街だな、ここは。今日の気分は“中華”ってことか」
「私達も初めて入るエリアね。一応、区分けでは“内郭”と呼んでいる場所で、多くの隊員が消息を絶ったのもこの辺りからよ」
二人が歩く街並みは、かつて怪物に襲われたあの中世の古民家を模したものではない。
一転、今度は実に派手な家々が姿を現し、ハル達を出迎えた。
柱や瓦屋根にはいたるところに彫刻が施され、竜やら虎やらが見る者を
窓から覗く室内には丸テーブルや細い足の椅子、壁際には陶器製の瓶や壺が並んでいた。
レンガはあまり使われておらず、泥を固めたどこか丸みを帯びた壁が特徴だ。
通りには荷車や自転車などが立てかけられているが、やはりここに人の気配はない。
ハルの記憶では、かつて「中国」と呼ばれた大陸エリアの風景に酷似している。
色こそモノクロだが、本来は原色をふんだんに使った派手な建築物が多かった。
もっとも、それは観光地のような場面が大半なのだろうが。
様変わりした町を歩きつつ、狂犬・ミオは斧をくるくる回し、笑う。
「面白い街だねえ。もしかして、世界中の観光スポットが集められてるんじゃないかな。そうしたら、すっごいお得じゃんか! 世界旅行ができる街って言えば、皆、来たがるよ」
その隣を歩くナッシュは、「やれやれ」とため息をついてみせる。
彼の頭の横に、二つの脳波連動兵器「ウィスプ」が光を帯びて浮遊し、ついてきていた。
「こんな化け物だらけの、それも色もない街に客なんて来ないさ。そんなんで集客した日には、ただの詐欺だよ」
「でも色がないなら、上から塗っちゃえばいいんじゃないの? 派手にしちゃえば、目立つでしょ」
「色がないのが問題じゃないんだ、危険だってのが問題なんだよ」
相も変わらずの噛み合わない会話である。
戦場に身を置いているというのに、このでこぼこコンビのペースはまるで変わらない。
ハル達を挟んで反対側では、キースが建物めがけてライフルを数発、発射していた。
エネルギー弾は壁や柱を貫通し、建物の反対側に群がっていたヴォイド達を貫く。
予想外の事態に怪物といえど混乱しているようで、路地の裏から悲鳴がこだました。
愛用のバイザーから敵影が消えたことを確認し、ようやくキースがライフルを担ぎ直す。
「どこもヴォイドの反応ばかりですね。その他の生命反応や、端末が放つシグナルなどは確認できません」
「ってなると、行方不明の隊員も近くにはいないってことか」
「ええ。それにあの少女も、ですね」
今回の突入には、大きく分けて三つのミッションが課せられていた。
一つは言わずもがな、モノクロームという街を紐解くための“調査”である。
そして二つ目が、消息を絶った隊員達の“救出”であった。
そして最後に課せられたのは、エリシオという少女を見つけ出し、連れて帰ること――正直、ハルにとってはこれこそが、街に戻ってきた最たる理由でもあった。
屋根の上に群がっていた猿型のヴォイド数匹を、ライフルで撃ち抜くハル。
キースがかすかに笑い、「お見事」と告げた。
リノアはハンドガンを携えたまま、真剣な眼差しで考える。
「キースの言葉が本当なら、あの女の子の反応はこちらでは感知できないはず。そうなると、どうやって探し出すべきなのかしらね。それこそ、しらみつぶしに歩き回るしかないのかしら」
「あまり現実的ではないですが、実はそれが最善かもしれません。なにせ、かつてハルさんが少女を見つけた時だって、レーダーは正常に機能していたのです。ハルさんが目視で確認できる距離ならば、間違いなく僕が真っ先に気付いているはずですから」
あの時、誰よりも早くエリシオを見つけたのはハルだ。
おそらく隊員の誰もが、彼女の存在を感知できていなかったはずである。
あの少女は、どこからやってきたのだろう。
それとも、あの黒い怪物達と同様に、何もない場所から沸いて出てきたのだろうか。
悩んでも答えが出るわけではない。
一同は向かってくる怪物達を迎撃しつつ、色を失った中華街の中をひたすら進む。
歩き続けて10分ほどで、広い庭園へとたどり着いた。
庭師によって手入れされているのか、様々な草木が形を整えられ、いたるところに群生している。
もっとも、葉っぱも花も茎も、全て等しく“色”は失っているわけだが。
ゼノは周囲を見渡し、部隊を停止させた。
「しばし、ここで小休止をとる。各員すみやかに補充を行い、引き続きの進行に備えろ」
そこら中から「イェッサー」と声が上がった。
隊列を崩さないようにしつつも、DEUS隊員達は各々の武器の手入れを行なったり、傷の手当てをしている。
ミオ達精鋭はさすがなもので、ここに至るまでにかすり傷すら負っていない。
ふぅ、とため息をつき、ハルも芝生の上に腰を下ろす。
背負っていたライフルを置き、空を見上げた。
鈍い灰色の太陽が、まるで位置を変えることなく君臨している。
雲一つない架空の空を見ていると、頭が混乱してならない。
一体自分たちは今、どこを歩いているのだろう。
物体は有限であり、必ず終わりがある。
だというのに、歩けども歩けども、この街の最深部に近付いているという感覚が、まるで湧いてこないのだ。
はたしてこの行軍に意味はあるのか。
そんな疑問を抱くハルの横に座るのは、あの女史だ。
緋色の髪がふわりと揺れると、シャンプーのかすかな香りが伝わってくる。
慌てて顔を上げると、女史が小さなボトルを差し出してきた。
キョトンとして見つめるハルに、リノアはいつもどおり笑顔を投げかける。
「はい、お水。補給班からもらってきたの。飲めるときに飲んでおかないと」
「ああ、ありがとう」
思わぬ気遣いに戸惑いつつも、それを受け取った。
キャップを開けて口にすると、刺すような冷たさが肉体に滑り込んでくる。
「この保温ボトルも、ドクが開発したものなのよ。DEUSが使っているもののほとんどが彼の発明品ってわけね」
「すげえ爺さんだな。あんたもそうだけど、あの基地には怪物級の脳味噌持ったやつばかりだ」
「私なんて、ドクには及ばないわよ。彼と私は思考するジャンルが違うしね。どれだけ勉強してても、あんなふうに何かを生み出すためのロジックは出てこないわ」
ふぅん、と肩の力を抜くハル。
ふと気が付き、少し慎重なトーンで問いかけてみた。
「そういや、あんたの親父さんとドクは知り合いだったんだってな。本人が言ってたよ」
「昔話が好きよねぇ、ドクは。ドクと父は昔、街のバーで出会ったの。ドクったら、
「厄介な爺さんだな、そいつは。んで、あんたの親父さんも巻き込まれたわけか」
「いいえ、そうじゃないの。むしろその噂を聞きつけて、父の方からコンタクトをとったんですって」
目を丸くし「なんでまた」と、間抜けな反応をしてしまう。
リノアは思わず苦笑した。
「ドクが話した内容に、興味があったんでしょうね。バーで絡まれた連中からしたら、全部老人の
「そんで興味があって自ら、ってことか。あんたの親父さんも、なかなかだな。そんなタチの悪い酔っ払いに、自分から突っ込んでいくなんて」
「父もそういう意味では、ちょっとずれてたのよねぇ。でもそれ以来、意気投合しちゃって、毎週のように暇さえあればそこで飲んで話をしてたとか。私の母と出会う、まだずっと前の話ね」
また少し喉を
なんとなくその行動力は、この目の前の女史に引き継がれているのだと理解できてしまう。
「親父さんはまだ研究者とか、学者とかをやってんのかい?」
「いいえ。父は数年前から、行方不明でね。もう随分会ってないの」
思わず「えっ」と息をのんでしまう。
リノアの表情はなおも変わらない。
ハルはとっさに、謝ってしまう。
「すまない、嫌なことを聞いたな……」
「良いのよ、そんな。気にしないで。もう随分前の話だし、慣れちゃった自分もいるしね」
笑ってはいるが、それでもどこか彼女の放つ光に陰りが見えた。
たまらず、ハルは視線を手元のボトルに戻す。
「最後に会ったのは、私がまだ学生だった頃よ。元々父は、研究に没頭すると長く家も空けていたから、最初は実感がなくてね。いきなり行方不明って告げられても、ピンとこないのよ。もちろん、母は随分と悲しんだけれど」
「なんでまた……その、手がかりとか、何かないのか?」
「最後に残っていたのは、父が没頭していた研究結果だけだからね。それも『高次元存在』なんていう、半分オカルトみたいな超理論だから、手がかりとは言いづらいかも」
苦笑するリノアを見て、ハルはふと思い出す。
そう言えば、かつてこの街を探索していた時、どこかでその単語を耳にした気がする。
確かあれは、リノアとキースの会話の中だったろうか。
明るく振る舞うリノアのその奥に、ほんの少しだけ影が覗いていた。
どうして良いか分からず、ハルは言葉を飲んでしまう。
そんな二人に、スキンヘッドの黒人が歩み寄った。
「リノア博士。お怪我などされていませんか?」
「あら、隊長。お気遣いどうも。でも平気よ。ちゃんと皆さんが、守ってくれてるからね。感謝してるわ」
精鋭部隊をまとめる隊長・ゼノは「ふむ」と頷いた。
「それはなにより。やはり“外郭エリア”に比べて、ここは敵の攻勢が激しい。くれぐれも、我々から離れないようにお願いします」
忠告を素直に受け入れ、笑うリノア。
ゼノのぶれない視線が、続いてハルを捉えた。
「以前のように、たとえ少女を発見したとしても単独行動は謹んでもらう。良いな?」
感情の起伏の見えない、どこか事務的な言い回しだ。
ハルは少しむすっとしつつも、逆らわずに頷く。
「分かってるって、この間は悪かったよ。勝手な行動すれば、あんたらに迷惑がかかるからな」
「理解、感謝する。我々は身を
ここでゼノは、広場で休息をとっている隊員達を流し見た。
キースは負傷した隊員の治療を手伝い、ナッシュは縁石に腰掛けて水を飲んでいる。
ミオはというと、草を刈り込んで作られたオブジェが気になるのか、様々な角度から眺めては声を上げていた。
思わず皮肉混じりに、ハルは言葉を投げる。
なにより、リノアとの間に感じる微妙な空気を
「前々から分かってたけど、あんた強ぇんだな。さすが、濃い連中のトップに立つ人間だ」
「この程度の芸当は、誰でもできるものだ。私だってドクトルが提供してくれたテクノロジーがなければ、怪物と戦うなどとてもとても」
感情をあらわにしないまま、淡々と会話を処理しているように見える。
個性が尖っている隊員達とは対照的に、この隊長の心はまるで読めない。
その無機質な態度が、ハルにはどうにも心地が悪いのだ。
そんな張り詰めた空気を察したのか、リノアがゼノに明るい調子で問いかける。
「かつて突入した隊員達は、皆、この辺りから反応が途絶えたってことだけど。周囲に生体反応は?」
「今のところ、まるでダメですね。群がってくるヴォイドの数は、明らかに“外郭”よりも多いようですが」
「良くない知らせね、それは……最後に突入したチームは、どれくらい前に?」
「もう、2週間ほど経ちます。仮に生存していたとして、携帯食料程度では食いつなぐのがやっとでしょう。早く探し当てないと、どんどん生存確率が低くなっていく」
そう語るゼノの横顔に、やはり苛立ちや戸惑いはない。
冷静に――否、冷徹に言い放った彼に、ハルはたまらず声を掛ける。
「怪物まみれの中華街に数週間、か。考えたくもないね。俺だったら、どうにかなっちまうよ」
「戦場においても精神の覚醒が維持され続けると、いずれ心は壊れる。たとえ帰ってこれたとして、正常な状態ではないだろう」
「とはいえ、今まで一人も見つかっていないわけだろう? それはつまり――」
「もちろん、生存率が微々たるものであることは理解している。だが、だからといって諦めるという道はない。この街を解明することは、ここに迷い込んだ者達の足取りを追うことにも繋がる」
はっきりと言い放ったゼノの顔に、やはり迷いはない。
解明、か――なんだか、ひどくはてしない道のりに感じてしまう。
この街全体を把握するのに、あと一体どれくらいの日時がかかるのか。
そして、それだけの時間を“遭難者達”が耐えきることができるのか。
ため息をつき、どうしてもハルはネガティブな意見を述べてしまう。
「もうちょっと、はっきりとした手がかりが欲しいところだよな。俺の記憶か、あの女の子の記憶か――それか、この街の主と話すか」
少なくとも「魔王」を含めた三者は、核心に近い何かを持ってはいるはずだ。
そこにある事実が出揃えば、もう少し明確に街の全体像が見えてくるのだろう。
額に浮かんでいた汗を手で拭う。
じっとりとした嫌な湿気が、ぬらりと手のひらを濡らした。
湿気を感じているのは、リノアも同様だったのだろう。
たまらずポーチから小さなタオルを取り出し、顔を拭いていた。
だが、彼女の手がはっと止まる。
「湿気……妙ね。モノクロームに入ってすぐは、暑さも寒さも、それこそ風一つ吹いてなかったっていうのに」
ハルとゼノも、遅れて異変に気付く。
このモノクロームという街に、こと天候という概念は存在していないはずだった。
常に
中華街で抗戦していた時とは、明らかに違う。
いつの間にか広場全体を妙な“湿気”が包み込み、隊員達の肉体をじわりと濡らしていた。
即座に吠えたのは、隊長・ゼノである。
「キース、周囲にヴォイドの反応は?」
その一声に、隊員達の視線が一斉に集まる。
キースはバイザーを覗き、真剣な眼差しで答えた。
「特に変化はありません。少なくとも、この広場付近に反応はゼロです」
となれば、敵が近付いているということではないのだろう。
ゼノは口元に手を当て、考える。
「湿度の変化など、通常の世界では取るに足らないことだ。だが、ここはモノクローム――本来の“
ハルはふと思い出す。
かつて、銀髪の少女・エリシオに出会った時のことを。
確かあの時も、急に“風”が吹いたのだ。
妙な緊張感が一同を包む。
そんな中、誰よりも先に声をあげたのは、少し離れた位置にいたあの狂犬のような女性だった。
「うっはー、なんじゃありゃあ! 皆、見て見て。“津波”がくるぞぉ!」
目を丸くし、誰しもがミオの指差す先を見つめた。
そして、その奇妙な光景に絶句する。
津波ではない。
しかし、なにか白い
四方八方から、ハル達を取り囲むかのようにじわりじわりと。
警戒しつつ、ナッシュが眉をひそめる。
「なんだあれは、霧か? だが、奇妙な動きだな。まるで意思を持った生き物のような――」
彼の言う通り、なんだかその白い“霧”の動きは、自然現象のそれとはかけ離れている。
それこそ、ミオが言う津波のような速度で迫り、しかしそれでいて足取りもまばらなのだ。
まるで建物の間を縫うように、こちらへと近付いてくる。
ゼノが前線に立ち、吠えた。
「総員、警戒態勢! 散開せず、固まって動け!」
隊員達が「イエッサー」と呼応した、次の瞬間であった。
まるで機を見計らったかのように、白い霧の波が加速する。
慌てふためき、うろたえる隊員達目掛けて、瞬く間に距離を詰めてきた。
ハルとリノアも立ち上がり、ライフル、ハンドガンを引き抜く。
しかし顔を上げた時には、すぐ目の前まで霧が迫ってきていた。
隊員数名が飲み込まれ、姿を消す。
続いてナッシュやミオ、キース、ゼノも白い海に姿を隠されてしまった。
慌てて顔を覆うハルとリノア。
景色が白一色に染まり、空中に浮かぶ細かな水滴が、無数に肌を撫でた。
音が消えていく。
あれほど騒いでいた隊員達の声が、一つたりとも聞こえなくなった。
「お、おい……何が起こったんだよ。おい、誰か?」
ハルもたまらず問いかけたが、返事はない。
それどころか、自身の放った音が反響しているかのようにも聞こえる。
おかしい――熱を帯びた汗が、頬を伝っていた。
すぐ隣には、すくなくともリノアがいたはずである。
だが一歩を踏み出そうとも、彼女の姿は見えてこない。
これだけの大声を出せば、そもそも彼女からも何か返答があっても良いはずだ。
「リノア、聞こえるか? おい、リノア!」
無音だけが存在する霧の中で、ハルはひたすらに叫ぶ。
恐ろしいほどの静寂に、ライフルを構え直した。
何かが起こっている。
しかし、別段ヴォイドが襲いかかってくる様子もない。
しばらく白一色の世界の中で、武器を携えたまま大きく呼吸を繰り返していた。
どくっ、どくっ、と肉体の中央で鼓動が響く。
異常事態に全身の神経が過敏になり、これから襲いくるであろう怪物に備えていた。
しんと静まり返った世界に響いたのは、獣の
遠くから笑い声が響く。
右から、左から、後ろから――それらは次第に大きさを増していき、白い霧の世界を取り囲んでいく。
あまりにも奇妙な事態に、視線を走らせる。
だが、人影は見えない。
笑い声が近付いたかと思えば、今度は一気に遠のき、数もぶれていく。
先程までここにいた、隊員達のものではない。
一人はこちらに背を向け、なにやら手をせわしなく動かしている。
身にまとっている衣服は、DEUSのものとは少し形状の異なった戦闘服だ。
骨格から、それが男性だと読み取れる。
黒髪の男が奇怪な身振りをするたび、その向こうからあの笑い声が響いた。
さらに視界が開ける。
霧の中、前方に見えてきた景色に絶句してしまった。
小さな部屋の中で、数名の男女がたむろっている。
先程まで確かに開け放たれた広場だったはずなのに、その光景は霧の海の中ではっきりと浮かび上がっていた。
散らかった部屋だ。
壁に立てかけられた銃や防弾ベスト。
投げ捨てられるように置かれた雑誌や灰皿。
お菓子の袋がはみ出したゴミ箱。
汚され、整頓されていないその劣悪な環境に、それでもハルはどこか見覚えがある。
また一つ、背を向けた男性が大げさに動いた。
パイプ椅子に座って彼を見ていた、女性隊員が笑う。
「ほんっと、何度見ても似てるわ。そっくり! その声、どうやって出してんの?」
反対側に座る大柄な男性隊員も、笑顔で頷く。
「いやぁ、鬼教官は得意じゃねえけど、お前がやると笑えてくるんだよな。なんでだろ。その“絶対に言わないシリーズ”が、マジでツボに入っちゃってさ」
その言葉を受け、また大きく手を動かして何かを返す男。
ドッと二人が声を上げて笑う。
背を向けた“彼”は終始部屋の中を
暖かいムードを見せつけられ、それでもハルは霧の中に立ち尽くすことしかできない。
なんなんだ、これは――霧を使った幻覚作用か、はたまたトリックを使ったものなのか。
目の前で起こっている状況を、いまだに理解しきれない。
そんなハルを前に、部屋の中の隊員達は笑顔で言葉を交わす。
「ここ最近、任務続きで帰れてないから、バラエティ番組なんてとんと見れてないんだよ。そういう意味では、お前がいてくれて助かるぜ。マジで飽きない」
「そうそう。ほんっと、芸達者だよね。『ハル』ってさ」
どくん、と鼓動が高鳴った。
ライフルを下ろし、
隊員達が呼んだその名に、身動きが取れない。
「マジで、お前みたいなタイプって珍しいよな。俺らみたいな“暗部”の人間って、こう根暗だったり、馴れ合いを嫌う奴らが多いけど、その点『ハル』は真逆だぜ」
「最初会った時から、っぽくないなぁ~って思ってたんだよね。でも『ハル』がいたからこそ、こうしてこの部隊でやってるのかもって思うよ。任務任務で張り詰めた毎日なんて、多分ギブアップしてたかも」
背を向けた“彼”は、どこか照れ臭そうに後ろ頭をかいた。
その姿を見て、またも隊員達が笑う。
一歩、恐る恐る霧の中へ踏み出した。
まるで足の先の感覚がない。
それこそ、重さのない雲の上を踏みしめているようだ。
何度歩みを進めても、“彼”に近付かない。
自身が進んでいないのか、はたまた彼らが遠ざかっているのか。
決して縮まらないその距離に、たまらず手を伸ばす。
口の中がカラカラだ。
言葉を吐き出そうにも、まるで音が形をなしてくれない。
汗だくになりながら、それでも必死に進むハル。
背を向けた“彼”を知っている。
あの部屋を、あの隊員達を、あの場面をハルは知っている。
大きく息を吸い込み、ありったけの声で彼に――光の中にいる「ハル」を呼ぼうとした。
声が発せられる寸前で、目の前の光景が消える。
再び白い霧の海が視界を多い、静寂が戻ってきた。
唖然とするハル。
だが、歩みを止めた彼の背後で、“彼”は
「そうか。覚えてはいるんだな」
汗が引いた。
静寂がさらに濃度を増し、神経を鋭敏に研ぎ澄まさせる。
どんどん熱を帯びていくハルのその背中に、なおも“彼”は言う。
「“別物”になったと思ったのだがな。やはりまだ、少しはお前の中に残っているらしい」
鼓動が胸を打つ音が、痛々しいほどに大きい。
慎重に、冷静に呼吸しようとしても、どうしても吐息の音は加速していってしまう。
たとえ乾いた眼がびりびりと痛みを放っても、決して瞬きはしない。
背中に叩きつけられる男の声に――覚えはある。
「逃げおおせた“罪人”が、よくもまあ堂々と戻ってきたものだ。だが馬鹿というわけではない。お前は昔から――奇妙な勇猛さがあった」
ついに意を決し、歯を食いしばって振り返る。
ライフルを握りしめ、声の主めがけて突きつけた。
目の前には、白い霧の海。
虚空に向けられたライフルの銃口が、ガクガクと上下に震えている。
「安心しろ、いずれ元に戻るさ。人の持つ記憶の価値など、そうたいしたものではないからな」
再び振り向く。
やはり睨みつけた先にあるのは、無限とも錯覚する白の連続だ。
「しかし、少し期待外れだ。その様子だと、“やつ”の居場所は知り得ないんだろう? せっかくこうして出向いてやったが、がっかりだ」
おそらく、再度振り向いても“彼”はいない。
ハルはおびただしい汗を流しながら、必死に考える。
何が目的だ。
攻撃もせず、こうして語りかけてくるのは何故だ。
急激な速度で、脳細胞が活性化していくのが分かる。
「進むも戻るもお前次第だ、好きにすれば良い。お前が会いたいというなら、会ってやるさ。だが、もうこちらから出向きはしない。なにせ――『魔王』には玉座がふさわしいからな」
呼吸をすることを、忘れてしまった。
静寂の海のその中心で、テクノロジーの牙を携えたまま立ち尽くす。
図らずも知り得てしまったその存在に、ただ、ただ戦慄する。
魔王が、いる――ついにハルは雄叫びをあげ、振り返った。
ライフルを持ち上げ、すぐさま引き金を引くべく、激突の時を覚悟する。
何故だか理解できない。
顔も見ていない、声しか聞いたことのない存在に、何故ここまで敵意を抱くのかが分からない。
まるであの時と同じだ。
少女・エリシオをあの巨大なヴォイドが襲おうとした、あの時と。
否、むしろ自身の肉体に怪物の拳が叩き込まれ、反撃したあの時と。
本能が
振り返ったハルの目に映ったのは――廃墟だった。
霧が消えている。
視界は白ではなく、むしろ真逆の色濃い黒に染まっていた。
いつの間にか太陽が消え去り、モノクロームという街を夜が支配している。
ざぁ、という音と共に降り注ぐ雨が、瞬く間に体を濡らしていく。
瓦礫まみれになった建物の隙間に、めらめらと燃え盛る残り火が見えた。
放り出された色無き廃墟で、雨の冷たさを浴びながら拳を握りしめる。
目の前にあれこれをちらつかされ、それでもやはりハルには何もできなかった。
思わず目をぎゅっとつぶり、湧き上がる苛立ちを噛み殺す。
俺に、何をさせたい――真っ暗になった視界のその奥に焼き付いているのは、霧の海に浮かんだ“彼”の後ろ姿だった。
変わらず翻弄され、世界に一人取り残されたハル。
立ちすくむ彼に、雨音をかき分けながら近づく“小さな影”があった。
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