第8章 ケモノの群れ

 通りを駆け抜け、エリシオが消えた路地裏に入り込む。

 後ろを振り返らず、ただ一心不乱に奥へと足を送り込んだ。

 背後から聞こえてくるけたたましい足音と、獣のうめき声がじわじわと近付いてくる。


「こっちだよ、早く!」


 見れば、民家の窓から身を乗り出し、エリシオが手をブンブンと振っていた。

 ハル達は中へと飛び込み、急いで窓を閉じる。

 問いかけたい気持ちを抑え、まずは身をかがめて息をひそめた。


 外から獣の足音がその大きさを増すが、どうやらハル達を見失ったらしい。

 気配はあるものの、徐々にそれがまばらになっていく。

 足音が遠ざかったことを確認し、床に伏せたまま小声でハルは問いかけた。


「あれがヴォイド……本当に黒い姿以外は、野獣のそれだな」

「焦ったわ……DEUSのメンバーがいない時に遭遇するなんて。で、でもハル。あなたやっぱり、銃の使い方が分かってたのね。あれだけ高速で動く相手に命中させるなんて」


 ハルは手元にあったライフルに目をやる。

 DEUS特製品なだけあって、想像していたよりもずっと反動は少ない。

 肉体に染み付いた“銃の感覚”とは随分と異なる武器だ、ということは理解できた。


「不思議だよ。気がついたら体が動いてた。やっぱり俺は、どうやらあんたみたいな賢い人間よりも、鉄砲振り回す野蛮な仕事をしてたらしいな」

「野蛮だなんてとんでもない。おかげで命を救われたわ、ありがとう」


 にっこりと笑う彼女の顔を見ていると、なんだか調子が狂う。

 たまらず、テーブルの下に隠れているエリシオに視線を移した。

 暗闇の中でも、その瞳のエメラルドだけは光り輝いて見える。


「大丈夫か? あいつらが来ること、知ってたのか?」

「なんとなくだけど……ケモノの嫌な感じだけは、すぐに分かる」


 それはやはり、ハルが抱いたものと同じ感覚だ。

 どういうわけか、ハルとエリシオだけは奇獣・ヴォイドの出現する気配を察知できる。


 たまらずリノアが少女に問いかけた。


「本当に何者なの? 今までもこうやって、逃げたり隠れて暮らしてたのかしら」

「うん。お外を歩くと見つかっちゃうから、いつもどこかでじっとしてた。でも、今日は街がざわついていたから、なにかがあったのかと思って見に行ったの。そしたら、あなた達が大勢で入ってきてた」


 それが、あの噴水広場での邂逅かいこうに繋がるのだろう。

 椅子の足に背をもたれながら、ハルは考える。

 荒石を敷き詰めただけの台所の床からは、やはり冷たさすら伝わってこない。


 このエリシオという少女は、見るからにハル達を街から遠ざけたがっている。

 「魔王」という街の管理者とハルを引き合わせることを頑なに拒み、なんとか事を穏便に済ませたいのだろう。


 そうなると、あの感覚はどうにも妙だ。

 ハルがエリシオを見つけた瞬間、本能に訴えかけてきたあの感覚。

 まるで街の中へといざなうような直感と、辻褄が合わない。


 あれは一体――悩むハルの隣で、リノアがエリシオに問いかけていた。


「ねえ、あなた。街を出る方法もそうだけど、私達が元いた場所に戻ることはできないかしら? 噴水のある綺麗なところなんだけど」

「それは分かんない。なんでそんなところに戻るの?」

「私達と一緒に来たメンバーが、そこにいるのよ。脱出するにしたって、彼らと合流しなきゃ」


 DEUSの面々も、いまやハル達と寸断され行き場を失っているはずだ。

 こちらを捜索しているのかもしれないが、構造が組み変わる街でそう簡単に再会することなどできそうもない。

  あいにく、エリシオの表情はすぐれないままだ。


「どこだか分かんない……ケモノが来ちゃったから、もう時間がないよ。あなた達だけでも外に逃げないと」


 再び立ち上がり、少女はすぐに駆け出そうとする。

 リノアはぎょっとし、慌てて引き止めた。

 急いで立ち上がったせいでテーブルの淵に頭を打ち、鈍い音が響く。

 一瞬、女史の顔がとてつもない形に歪む。


「だ、大丈夫か、おい……」

「お、オッケー……かなり痛いけど問題ないわっ。それより、時間がないのはこちらも分かってるの。でも、だからといって隊員の人達を放ってなんておけないわ」


 涙目で食い下がるリノアに、なおもエリシオは頑なに抵抗し続ける。


「“あいつ”があなた達を捕まえたら、大変なことになる! この街をもう止められない……そうなったら、全部終わりなんだよ!?」

「街を止める、ですって? どういうこと、それは一体――」


 二人共が、完全に冷静さを欠いていた。

 幼いエリシオはもちろん、普段聡明なリノアも危機的状況に放り込まれ自分を見失っている。

 もっとも彼女の場合は、エリシオの口から次々に語られる未知なる事実に、意識を奪われているというのもあるのだろう。


 モノクロの民家のダイニングで、大小二人の女性が必死に攻防を続けていた。

 さすがに収拾がつかなくなることを恐れ、ハルも割って入ろうとする。


「なあ、落ち着けって。言い合いしてても始まんないだろう。時間がないっていうなら、とりあえず早くDEUSの奴らがいるところに移動――」


 ヒートアップしていたリノア、エリシオが、キッとハルを睨んだその瞬間であった。


 あの悪寒が再び背筋を撫で上げる。


 やはりエリシオも同様のようで、ぞくぞくと沸き立つ感覚に目を見開いていた。

 二人の変化をいち早く察したのか、リノアが声を上げる。


「どうしたのよ、二人共?」


 先程の“狼”の時のそれより、さらに強烈だ。

 凍てつく氷そのものを肉体に叩きつけられるような、直接的で、どこまでも冷たい感覚が芯まで響く。


 たまらずエリシオを見つめた。


「おい、これって……」

「大変――ほら、早くしないから、とんでもないのが来た!」


 エリシオは泣きそうだった。

 どうして良いか分からない、といった様子でキョロキョロと周囲を伺う。


 変化はすぐに起こった。


 まずはずしん、と地面が揺れた。

 転びそうになり、三人はたまらず膝をつく。

 ダイニングの机や調理器具が跳ね、ガシャガシャと音を立てた。


 また一つ、ずしんと大地が揺れる。

 さっきよりも大きなそれは、テーブルの上にあった皿を落とし、割ってしまう。

 エリシオの口から甲高い声が上がった。


 ハルはゆっくりと、床に落ちていたライフルを取り上げる。

 リノアもまた、慌てて護身用のピストルを握りしめた。


 ずしん、ずしん、ずしん――衝撃は定期的に響き、かつ徐々に大きくなっている。

 エリシオは息を荒げ、わなわなと震えながら机の下に隠れた。


 汗が一筋、ハルの頬を落ちる。

 狼の次は、一体なんだ――警戒し視線を走らせていると、奇妙な光景に気付いた。


 窓の外が妙に暗い。

 モノクロームの街は常に昼間同様の明るさを保っていたはずだが、閉じたすりガラスはいつからか暗く濁っている。


 おかしな状況にゆっくりと立ち上がるハル。


 そんな彼に、ついにエリシオが悲鳴をあげた。


「逃げてぇぇーーーーー!!」


 瞬間、ハルとリノアは気付いてしまう。


 外が暗くなったのではない。

 その証拠に、他の窓からは変わらず日の光が差し込んでいる。


 なにかが向こう側にいる――ハルが身構えた瞬間、轟音と共に窓が砕け散った。


 リノア、エリシオの悲鳴が響き渡る。

 吹き飛ぶガラスの中央に見えた“それ”に、ハルは息をのんだ。


 巨大な、雄々しい腕だ。

 握り拳を作ったそれが、窓ごとハルの体を真横から撃ち抜く。

 ガラスと石壁の砕ける音、肉が肉を打つ音、家具が吹き飛び散らかる音。


 音、音、音、音。


 混乱を極める民家のその中で、密閉された空気が一気にかき回される。

 横殴りの衝撃にハルは歯噛みし、ただ耐えた。


 胸部から腹部にかけて激痛が走る。

 吹き飛んだハルの体は反対側の壁に叩きつけられ、後頭部で窓を砕き割ってしまった。


「が――っはぁ」


 膝から崩れ落ちるハル。

 呼吸が止まり、肉体が動こうとしない。

 必死に腕に力を込め、そのまま突っ伏してしまわないように耐えた。


 偶然か、それとも肉体に染み付いた反射行動なのか。

 とにもかくにもハルは一瞬早く、叩きつけられた巨大な拳に向かってライフルの銃身を当てて防いでいた。


 おかげで強烈な一撃ではあったが、なんとかまだ意識を保っていられる。

 しかし代わりに、特製のライフルは真ん中でぐにゃりとへし曲がり、使い物になりそうにない。


 唾液が口の端から漏れる。

 意識を失わないように歯を食いしばり、顔を上げた。

 焦点の合わない銀の瞳で、必死に状況を把握する。


 リノア、エリシオも絶句していた。

 破壊され、ぽっかりと空いた壁の穴から、ハル達を襲った“破壊者”の姿が見える。


 やはりその姿は真っ黒だ。

 頭から爪先まで、一切の色を持たない漆黒。

 影そのものが起き上がり、実体を持って動き出したかのようでもある。


 二本の足で立ち、隆起した筋肉を持つ巨体がこちらを見下ろしていた。

 頭部には一つだけ、白く光る器官が目のように動いている。


 “牛”の頭部を持った、巨大な人間だ。


 湾曲した脚部とひづめを持った足、曲がった二本の角、細く長い尻尾はまごうことなく牛のそれである。

 だが、二足で立ち上がり、岩のような胸板と腹筋、盛り上がった腕と五指持つ手は人のそれでもある。


 怪物としか、言葉が浮かばない。

 一同を発見したその巨大な“ヴォイド”は、あらん限りの声で吠えた。


 ゔぉおおお、という人ならざる叫びが突風を生む。

 瓦礫が吹き飛び、立ち上がろうとしていたリノアが再び尻餅をついてしまった。


 ヴォイドの目は、壊れた机のすぐ側にいるエリシオに向けられていた。

 一歩を踏み出すと、大地がずしんと揺れる。

 エリシオは悲鳴を上げ、後ずさった。


「いやぁ……来ないで……あっちいって!」


 逃げようにも、背後はキッチンと瓦礫で退路を断たれている。

 一歩ずつ、着実にヴォイドは少女へと近付いていく。


 まずい――ハルは立ち上がろうとしたが、まだ足に力が入らない。

 情けなくこけてしまい、うつ伏せに倒れこむ。


 少女に近付くヴォイド目掛けて、尻餅をついたままリノアは銃を構えた。

 呼吸を荒げたまま、狙いを定めている。


 己の中に湧き上がる恐怖と、必死に戦っているのだ。

 もはや、流れ落ちる生ぬるい汗すらぬぐうことを忘れてしまう。


 呼吸を止め、トリガーを引いた。

 三発放たれた銃弾は巨体の胴に突き刺さるが、まるで効果がない。

 表面に白煙こそ残したが、黒い怪物の皮すら穿うがてていない。


 ヴォイドにとってその行為は目障りだったようで、巨大な腕をリノア目掛けて振り抜く。

 間一髪、リノアは後方に飛びのくことで直撃を避けたが、周囲の瓦礫と共に弾き飛ばされてしまった。


 怪我はしていないが、砕けた椅子の残骸に押しつぶされ身動きが取れないリノア。

 怪物は彼女に目もくれず、再び怯えるエリシオへと近付いた。


 巨大な腕が伸び、少女に迫る。

 エリシオは自身を守るかのように、両手を突き出して黒い巨体に向けた。

 しかし、恐怖から目を反らしてしまっている。

 ブルブルと震え、奇跡を待つかのように。


 ハルはなおも体を起こそうとするも、その足は動いてくれない。

 怪物の腕がさらに近付く。

 震える少女との距離は、もう1メートルもない。


 ぎゅっと閉じたエリシオの目から一筋、涙がこぼれ落ちた。

 震える手の先と黒い怪物の指先が、触れ合おうとしている。


 前に進もうとして、がくりと倒れ込むハル。

 歯を食いしばり、己の無力さに目を閉じた。


 やめろ――声ならぬ声を、咆哮として吐き出す。

 それでもなお、熱い吐息が漏れ出るだけで、叫びは生みだされない。


 肉体に宿った熱と、無機質な硬い床の感触。

 真っ暗な視界の中で感じるそれらに、意識が加速し、覚醒する。


 どこの誰だかもしれない、ただの少女だ。

 色のない世界で出会った、赤の他人。

 血縁でもなければ、大切な存在でもない第三者。


 痛いのは大嫌いだ。

 苦しいのも、辛いのも。

 だからこそ今のハルが取るべき行動は、この怪物の隙を見て逃げ出すことなのかもしれない。


 だが、なぜなのだろう。

 ハル自身もまるで理解できない感情が、闇の奥底に湧き上がる。


 ヤメロ――体に覆いかぶさる硬い感触を、たぐり寄せた。

 目を開き、力を込める。


 動かない足に、ではない。

 まだ辛うじて動く、己の腕に。


 瞬間、ハルの指が床の敷石を砕き、食い込む。

 メキリという音と共にひびが走り、かすかに大地が揺れた。


 歯を食いしばり、それを思い切り引き寄せる。

 超人的な腕力は地に伏せていた体を加速させ、前へと放り出した。

 無理矢理、前転するような形でハルの肉体が宙を舞う。


 瓦礫から脱出したリノアが、その光景に息をのむ。

 少女に手を伸ばす怪物の真横から、砲弾のような速度でハルの肉体が襲い掛かった。

 高速回転する視界の中で、それでも卓越した動体視力が“的”の位置を捉える。


 回る世界のその中に、確かに見えた“駆逐すべき者”。


 爪が割れ、どす黒い血液が溢れ出す拳を握りしめ、彼は吠える。


「お――ぉおおおおおおお!!」


 固めた右拳を、あらん限りの力で振り抜いた。

 無骨で無策なその一撃はまっすぐヴォイドの右脇腹に炸裂し、巨体へとめり込む。

 黒い肉体が衝撃で一瞬、波打ったのをリノアは確かに見た。


 ねじ込んだ拳をその先――肉体を貫いた奥へと振り抜いた。

 轟音と共に怪物の脇腹がぜ、衝撃で巨体が吹き飛ぶ。

 怪物は大きく口を開けたまま、木製のタンスを破壊しながら倒れ込んだ。


 驚き、目を見開くエリシオ。

 彼女の前には、いつの間にか立ち上がり、拳を握りしめたままのハルが立っていた。

 必死に呼吸を繰り返し、倒れた怪物を睨みつけている。


 全身から流れ出る汗が日差しを受けて光り、その白い肌をより一層、輝かせた。

 ボロボロになり必死に立つ姿を、それでもエリシオは弱弱しいとは思えない。


 一瞬、少女の脳裏にある光景が浮かび上がる。

 記憶の奥底に眠る“彼”と、目の前に立つ“彼”が重なった。


「お兄ちゃん――」


 その小さな呟きは、怪物の雄叫びでかき消されてしまう。


 ヴォイドは立ち上がりざま、腕を伸ばしてハルの体を掴み取った。

 怪力に圧迫され身動きができないハルを、黒い怪物はあらん限りの力で放り投げる。


 壊れかけの石壁を砕き割り、ハルは外へと投げ出された。

 粉々になった瓦礫の中で、激痛に呼吸が止まる。

 歯を食いしばって立ち上がると、すぐ目の前にヴォイドは駆け寄ってきていた。


 再び放たれる、巨大な拳。

 ハルはたまらず両腕でガードを作り、迎え撃つ。

 直撃した一発が白い肉体を再び弾き、通路を挟んだ向かい側の家屋へと叩き込んだ。


 放物線ではない。

 まるで砲弾のように、真横の軌道で白い体は宙を飛ぶ。


 激痛に次ぐ激痛に、意識が断ち切れそうになる。

 だがそれでも、なんとか瓦礫を押しのけて立ち上がり、石畳の上で息を荒げる怪物を睨みつけた。


 まるで神話だ――色を失った世界に降り立った、牛の頭部を持つ黒い巨人。

 人間という肉体の規格を遥かに逸脱した存在は、また濁った雄叫びを上げながら突進してきた。


 怖くてたまらない。

 なぜあんな怪物がいる場所に自分はやって来たのか、後悔すらしてしまう。


 だが、不思議な感覚でもあった。


 逃げたくて、逃げたくて、しかたがないはずだ。

 ただ、それでもなおハルの心の奥底に、たった一つの感情が渦巻いている。


 だからこそ、こうして彼は立っている。

 だからこそ、彼は足に力を込め、前へと体を送り出した。


 ただただ、しゃくなのだ。


 やられっぱなしは――嫌だ


 ついにハルは雄叫びを上げ、怪物と真っ向から向き合った。

 突進してくる黒い塊めがけて、瓦礫を蹴散らして加速する。


 大地を蹴り、あらん限りの力で跳び上がった。

 一蹴りで石畳が砕け散り、ハルの肉体は空高く舞う。


 ドクン、ドクンと肉体の中心で、ほむらたぎる。

 血液に流れ込むそれが、真っ白な肉体を作り上げる細胞、すべてを連鎖的に着火していく。


 銀色の瞳が、ついに光を放った。


 追いついたリノア、そしてエリシオは、浮世離れした光景に絶句してしまう。


 跳躍したハルはそのまま、両足で怪物の顔面に蹴り込む。

 凄まじい音と共に大気が揺れ、ヴォイドの頭部が弾き飛ばされた。

 怪物は突進の勢いを殺せず、転がるように石畳を砕きながら街路に倒れ込む。


 ずんっ、と音を立てて着地するハル。

 鼻や口、拳からは血が流れ落ちていたが、いずれも赤ではなく墨のように黒い。

 ぜえぜえと肩で息をする彼に、リノアとエリシオは声をかけることすらできなかった。


 血濡れの肉体から、陽炎かげろうが沸いている。

 異常なまでの熱が、その白い身体から立ち昇っているのが見えた。


 二人に気付き、逆にハルの方が声をかける。

 体力をいちじるしく消耗したせいか、視界がふらついてしょうがない。


「あぁ、二人共……大丈夫か?」


 一瞬遅れて、我に返ったリノアが声を上げる。


「え、ええ。むしろ、あなたの方こそ大丈夫なの? それに一体――なにをしたのよ?」

「なにをって――ええっと……いや、別に特別なことは……」

「そんなわけないわ! あんな怪物と生身で殴りあうなんて……弾丸も効かないような怪物を相手に!」


 やはりリノアは、この異常事態に取り乱さざるをえない。

 どれだけ聡明でも、今この街で起こっているそれは、彼女の常識を遥かに逸脱してしまっている。


 言われて、思わず己が手を見つめるハル。

 戦闘服はところどころが破れ、その下の真っ白な肌がズタズタに切り裂かれていた。

 じわりと滲み出る血の色は黒で、鈍く輝く姿まるでコールタールのそれである。


 特別、か――きっとそれは、“普通じゃない”ということなのだろう。


 並の人間ならば、あの巨体から放たれる拳の一撃で、あの世行きだったのかもしれない。

 どれだけ防御したところで、固めた腕ごと肉を、骨を、そして内臓を潰されてしまうのだろう。


 度重なる衝突でハルの全身はボロボロだ。

 防護服はその下のインナーまで切り裂かれ、全身至る箇所から出血している。

 ぽたぽたと黒い血が地面に落ち、足元を濡らした。


 自分でも、なぜあそこまでの力が発揮できたのかは理解できない。

 ただ、襲いくる恐怖や圧から逃げようとする心を、内なる“なにか”が押しのけ、前へと進ませた。

 ハル自身、深く呼吸を繰り返しながらようやく冷静さを取り戻し、先程までの攻防に理解が追いつかない。


 怪物――今まで、それは街にはびこる謎の黒い生物を指す言葉だった。


 だがしかし、今となってはこの場に立つ真っ白な“彼”もまた、同じ言葉でくくられようとしている。


 そんな中、リノアの陰から歩み出た少女がつぶやく。


「やっぱり、そうだ――お兄ちゃんだったのね」


 エリシオの顔から、不安や恐怖の色が消えている。

 逆に目を大きく開き、笑みすら浮かべて近付いてきた。


「格好も変わっちゃったけど、やっぱり変わらない。あの時のまんま!」

「お、おい……なんだよ。一体どういうことだ?」

「ずっと怖かったの。なにも覚えてないし、見た目も変わっちゃって……もしかしたら、別の人なのかもって。でも“心の形”は一緒だった。私を助けてくれた、あなたのまんま」


 にっこりと笑う少女に、どんな表情を返して良いか分からない。

 彼女の言葉の意味するところも、まるで謎のままだ。


 それでも、きっと彼女は嬉しいのだろう。

 どういう関係かは分からないが、それでもハルがこの場所に帰ってきたことを、心のどこかで喜んでもいたのだ。


 ほんのかすかに――それでも自然に、ようやくハルは笑顔で返すことができた。


 肉体を包んでいた獣気が、わずかに静まる。

 少女のあどけなさが、ハルを奇妙な日常へと引き戻してくれた。


 そんな一同の背後で、大地が爆ぜる。


 雄叫びと共に黒い巨体が跳ね起き、突進を始めた。


 息をのむリノア、エリシオ。

 ハルも慌てて振り返り、絶句する。


 巨大なヴォイドが、なおも咆哮を放ちこちらに向かってきていた。

 ハルの蹴りの影響で、頭部の角は一本へし折れてしまっている。

 砕けた角の端がぼろぼろと宙に霧散していくが、そんなことはお構いなしに拳を振り上げ、襲い掛かってきた。


 エリシオの悲鳴が、再びハルの意識を覚醒させる。


 なぜだろう――初めて会った、かつて“知り合いだったはず”の少女の声を、意識が酷く敏感に受け止める。


 彼女の悲しい声だけは、とにかく聞きたくない。

 だからこそ、ハルは再び人から“ケモノ”へと意識を加速してしまう。


 少女の体を突き飛ばし、同時に向かってくる巨体目掛けて一歩を踏み出す。

 振り下ろされた黒い巨拳をかいくぐり、前に出た。


 すぐ耳元の空気が穿うがたれ、風が鼓膜を揺らす。


 渾身の一撃は空を切り、石畳を砕き割る。

 飛来した瓦礫は散弾のような威力で、戦闘服と肌を切り裂いた。

 だが、駆け昇る痛みに構わず、ハルもまた意識を研ぎ澄ます。


 加速した精神が、卓越した動体視力が、周囲の景色をスローで再生していた。

 しっかりと左拳を握りしめ、すぐ近くにあるヴォイドの胴体めがけて、渾身の力で突き上げる。


 ずどん、という雷鳴のような炸裂音が大気を揺らした。

 雄牛の頭を持つ怪物が肉体をくの字に曲げ、うめき声をあげる。


 引き戻し、さらに一撃――同じ軌道で叩き込まれた素拳による打撃が、またも轟音と共に怪物を悶絶させる。


 ヴォイドは震えながら、それでもなお巨大な腕を振り上げ、目の前の“怨敵”を破壊すべく力を込めた。

 その姿は獣というよりも、闘争本能そのものの化身である。

 痛みに屈さず、ただ相手を駆逐するという目的のみで行動する、機械のような存在だ。


 だがもう一人、己の中に宿る“本能”のおもむくまま、拳を握りしめる人物がいる。


 ハルはさらに踏み込み、右拳を振りかぶる。

 黒い巨拳が叩き落されるよりも前に、がら空きになった胴体目掛けて、迷うことなく打ち込んだ。


 ぼっと、心の奥に湧き上がる感情――ハル自身がどうすることもできないほど熱く、巨大で、純度の高い、極上の“殺意”。


 その感情の赴くまま、咆哮と共に小さな拳が突き刺さる。


 黒い怪物の肉体が爆ぜた。


 少なくともリノア、そしてエリシオの目にはそう見えたのである。

 ヴォイドの体が衝撃で歪み、背中から破裂する。

 血液のように“黒”が宙へ吹き上がり、ほろほろと崩れ、消えていった。


 その一撃がとどめとなったのだろう。


 牛の頭を持つ巨大なヴォイドは活動を停止し、がくりと崩れ落ちた。

 肉体そのものが崩壊し、やがて跡形もなく消え去ってしまう。


 拳を握りしめたまま、ゼエゼエと息をするハル。

 黒い眼球に浮かぶ銀色の瞳が、消え去った怪物をいつまでも睨みつけていた。


 呆然とし、尻もちをついたまま彼を見上げるエリシオ。

 その横で同様に、腰を抜かして動けないでいるリノアの背筋を、冷たいものが撫で付ける。

 危機は去ったというのに、目の前に立つ“彼”からもっと恐ろしいものを感じ取った。


 理解しがたいほどに巨大な、破壊衝動――まるでその姿は、先程まで対峙していたヴォイドのそれと同じだ。

 色も形も違えども、この通りの上で二匹の“獣”が互いを喰らい合っていたのである。


「ハル……ねえ……」


 恐る恐る、彼を呼んだ。

 自然と彼女の手は、ホルスターに収まっている自身の銃へと伸びる。


 もしこのまま、彼が牙を剥いたら――緊張から酷く喉が渇き、ごくりと生唾を飲み込んだ。


 無味無臭の街に立つが故だろうか。

 それとも、戦慄し研ぎ澄まされた嗅覚が、鋭敏になっていたからだろうか。


 血だらけで立つ青年のその肉体から確かにその時、“バケモノ”の匂いがした。

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