第7章 管理者と駆逐者
行けども行けども、景色に色が灯ることはない。
だが、そんな街の光景には目もくれず、ただひたすら路地の奥へとハルは駆けていく。
脇道を抜け、左右を民家に囲まれた大通りへと躍り出る。
そこでようやく、追い求めていた“彼女”を見つけ、足を止めた。
肉体に宿った熱を吐き出すように、必死に呼吸を繰り返す。
汗をぬぐい顔を上げると、離れた位置で同様に足を止めている少女と目が合った。
街を駆け抜ける風に遊ばれ、光沢のある銀髪がかすかに揺れている。
瞳を彩るエメラルドがそれ自体、光を放っているかのように煌々と輝いていた。
裸足のまま石畳の上に立ち、じっとこちらを見つめる少女。
ハルは必死に呼吸を整えながら、小さなその姿に対峙する。
風になびく銀の髪と白いワンピースを見つめ、考えていた。
なにを問いかけるべきか――必死に追い求めたくせに、いざ辿り着くとなぜここまで彼女に執着したのか、自分自身の気持ちがうまく理解できない。
ただあの一瞬、少女を目にしたその刹那で肉体がなにかを悟ったのだ。
この少女には会わなければいけない、と。
鼓動が徐々にリズムを取り戻していく。
意識を研ぎ澄まし、ようやく一言目を投げかけた。
「その……君は、ここの住人か? こんな街で一体――」
「なんで戻ってきたの?」
言葉を
風に運ばれ、少女の透き通るような声が通りに響いた。
「せっかく……せっかく生き残れたのに。なんで戻ってきたの?」
「ちょっと待ってくれ。どういうことだ? 戻ってきたって……君、俺のことを知ってるのか?」
どこか、少女の眼差しには陰りが見える。
ハルを見つめたまま、かすかに唇を噛みしめているようだ。
「“あいつ”はあなたを、あれからずっと探してる。あなたが遠くに逃げていれば、いくら“あいつ”の力を使っても追いかけきれない」
少女は途端、こちらへと駆けてくる。
驚くハルの手を少女は両手で握った。
しっかりとしたぬくもりが、小さな手から伝わる。
久しく忘れていた人の手の感触に、思わず動機がしてしまう自分がいた。
間近で見上げる幼い瞳の中に、困惑した自身の真っ白な顔が映りこんでいる。
「逃げて、早く! ここにいちゃダメ。出口まで案内するから!」
「お、おい。待てよ。なんだよ、いきなり。“あいつ”って誰だよ?」
「『魔王』に決まってるでしょ、あなたこそなに言ってるの?」
魔王――その単語を思わず繰り返し、どんな表情をとるべきなのか分からず困惑してしまう。
少なくともハルは素直に驚き、そして言葉を失っていた。
日常の中で、そんな単語を耳にするとは思わなかった。
遠い昔のおとぎ話か、はたまた創作物・エンターテインメントの世界ですら、もはや滅多に聞かない呼称である。
子供の
だが、自身の手を握りしめる少女の真剣な眼差しが、それが嘘偽りなどではないと告げていた。
冷静に一つ一つ、少女の言葉を噛みしめる。
「マオウ――そ、そいつがこの街の……なんて言えばいいか……管理者ってことか? そいつが、俺を探してるだって? ってことは、そいつは俺のことを知ってるのか?」
何から何まで疑問しか投げかけれない自分が、少しだけ嫌になる。
ハルの問いかけに、少女はどこか不安な眼差しを浮かべた。
握りしめた小さな手から伝わる力が、かすかに弱くなる。
「どうしちゃったの、あなた? なんだか変。“あいつ”のこと、あなたが一番知ってるでしょう?」
「そう――なのか。けど、残念だ。実は今の俺には、何一つ覚えてることがないんだ。この街についても、その魔王ってやつについても」
少女が「えっ」と驚き、手を離す。
大きな瞳がわなわなと震えていた。
たたずむ真っ白な生き物を見上げ、困惑している。
「そんな……そんなことって……」
動揺し、うろたえる少女。
彼女がなにを知っているのかは分からないが、それでもハルはどこか申し訳ない気持ちになってしまう。
だが、この少女がその“記憶”を呼び覚ます鍵になると、これまでの態度で確信した。
膝を落とし、まずは目線を彼女に合わせる。
状況に飲まれてはいけない。
とにかく冷静になり、この少女の話を受け止めなければ。
「本当にすまない。俺自身、困ってるんだ。なにが起こってるのか、さっぱりなんだよ。頼む、なにか知っていることがあるなら、教えてくれないか?」
記憶を失う前、自分がどんな人間だったかは見当がつかない。
だが感覚で分かるのは、こういう時に笑顔を作るのは下手くそだったのだろう。
精一杯笑みを浮かべるも、それが実にぎこちないということを自身で理解してしまう。
その慣れていない引きつった笑みに、なおも少女は不安げな眼差しを向けている。
自身の不器用さに、ハルは思わずため息を漏らしてしまった。
「あなたも、あいつに奪われたのね」
今度はハルの方が驚き、目を見開いてしまう。
少女はワンピースの
「あなたも……それは、一体どういう――」
「“あいつ”はずる賢くて、性格が悪いの。だから街を組み替えて皆を迷子にしたり、あの怖い“ケモノ”を作って、街に放ったりするの。私だけじゃあない、ここに住んでいた皆の思い出を奪って、全部分かんなくして楽しんでる」
息を飲むハル。
感情的にならないよう、一度深呼吸をして言葉を選ぶ。
「それはつまり……君も同じってことか。その……記憶が?」
こくり、と微かに頷く少女。
告げられた事実にハルは歯噛みしてしまう。
掴みかけた手がかりが途絶えてしまった。
もしかしたらこの少女は、ハルとこの街の関係性を知る唯一の存在だったかもしれないのだ。
そんな彼女もまたハル同様、記憶を失い街を
やりきれなくなり、思わず目を細めうつむく。
しかし、諦めるのはまだ早い。
彼女が記憶を失っていたとしても、それだけでは片付けられない奇妙な点にハルは気付いていた。
ハルも少女も、記憶は穴だらけだ。
だがそれでも、互いが互いの知らない“なにか”を知っている。
「そうか……だけど、ずっと君一人でこの街にいたのか? その“獣”ていうのは危険なんだろう。今まで逃げていたってことかい?」
またも、少女は頷く。
獣――それはおそらく、DEUS達がこの街で遭遇した黒い怪物・ヴォイドのことだろう。
その凶暴性、危険性は基地で十分に説明されていた。
だからこそこうして、ハル自身も特殊武装のライフルを背負っているのである。
キースが告げたことが、今ようやく冷静に受け止められていた。
そんな奇怪で危険な街の中に、こんな無防備な少女が一人いること自体がそもそも不可解なのだ。
聞きたいことは山ほどある。
しかし、この子供を警戒させないよう、まずは一つ一つ紐解く必要があるとハルは判断した。
「一体、どれくらいこの街にいるんだ?」
「ずっと」
「ずっと……えっと、何日くらい前から?」
「ずっとだよ。最初から、ずっと」
どうにも要領を得ず、思わず後ろ頭をかく。
具体的なことは分からないが、随分長い間、一人で行動しているということだろう。
焦らず、次の質問に移った。
「確か君も、俺と同じで記憶がないんだよな。どれくらいのことは分かるんだ? 自分のことは理解できる?」
「名前と、やらなきゃいけないことは分かるよ」
「やらなきゃいけないこと、か――俺はハル。今はそう呼ばれてる。君は?」
「エリシオ。“あの人”がそうつけてくれたの」
「へえ、名付け親がいるのか。両親とは別の?」
「うん。“あの人”は凄く優しい人。私がここで、初めて出会った人なの」
先程から“あいつ”や“あの人”といった
無理を承知で、ハルは少し踏み込んでみた。
「その人の名前は?」
「分かんない。でも、優しい男の人。私に外のことをいろいろ話してくれた」
そうか――と、少しだけ残念に思い、微かにため息をついた。
おそらく少女・エリシオの記憶の所々にぽっかりと空いた穴が、このしどろもどろな問答に繋がっているのだろう。
内容を広げても、混乱するだけか――ハルは少なくとも、今明確になっている部分だけを切り取って質問してみる。
「なあ、エリシオ。俺らはDEUSって組織――あぁっと……チームの者なんだ。この街を調べに来てる。ついでに、俺のなくなった記憶も探しにね」
エリシオは素直に耳を傾けていた。
できるだけ難しい言葉を使わないように努める。
「俺達はこの街がなんなのかを知りたいんだ。それに俺が誰なのか。なんでも良いんだ。分かってることを、教えてくれないか」
しばし、エリシオは考えているようだった。
自身の手元、地面、そしてハルの顔を代わる代わる見つめている。
その眼差しに宿るのは警戒か、はたまた困惑か。
やがて少女はゆっくりと口を開く。
「この街はずっと前からある……でも、今まではこんなに大きな街じゃなかった。全部、“あいつ”が来てから変わったの」
「“あいつ”――さっき君が言ってた、その『魔王』ってやつか?」
「うん。“あいつ”はこの街を乗っ取ったの。だから、街がおかしくなっちゃった」
少しだけ合点が行き、ハルは微かに頷く。
どうやら、この奇妙な街の裏側でその「魔王」とやらが暗躍しているらしい。
どういう理屈かは分からないが、街を奪い意のままに操っているのはその謎の人物なのだろう。
「あなたもこの街にいたの。でも、あなたはここから出ることができた。“あいつ”は外に逃げたあなたを取り戻そうと、色々な手を考えてたわ」
「俺がこの街に――じゃあ俺はやっぱり、その『魔王』ってやつとなにか関係があるのか?」
「はっきりとは覚えてない。だけど、あなたにとって“あいつ”――ううん、“あいつ”にとってもあなたは、大切な人だったはず」
なんだって――と思わず身を乗り出した。
口元に手を当て、必死に事態を整理する。
モノクロームと名付けられた奇妙な街の中で、延々とヴォイドから逃げ続けていた少女・エリシオ。
彼女もまた記憶を失ってはいたが、それでもハルとこの街についての概要はある程度把握している。
彼女の言葉が真実であれば、この街の統治者――「魔王」というとんでもない存在と、ハルは知り合いということになる。
大切な人――必死に思い出そうとしても、やはり見えてこない。
まだまだ記憶の海は
ここで再び、エリシオはハルの手を取ってうったえる。
「“あいつ”に見つかったら大変。だから、早く逃げて! この街からできるだけ遠くへ行かないと」
「お、おい。待ってくれよ。そんなに俺とその『魔王』ってのを会わせたくないのか?」
「はっきりとは覚えてない……でも、それは確かなこと。あなたは“あいつ”に会っちゃダメ! もし会ってしまったら、大変な事になる!」
エリシオは全身を使い、グイグイとハルの手を引っ張る。
一刻も早く、ここから連れ出そうとしているのだろう。
「ねえ、早く! 出口なら案内できる。だから――!」
「わ、分かったよ。ちょっと待ってくれ。落ち着けって、なあ」
真剣なまなざしで、小さな体を目いっぱい使い、エリシオは導こうとする。
一体、なにをそこまで必死になることがあるのだろう――腕を引っ張られながらも、ハルは考えた。
“あいつ”とは、彼女の言葉が真実であればハルにとって重要な人物なのであろう。
だがそんな深い関わりのある人間と会うべきではない、というのはどういう状況なのだろうか。
今のハルには皆目見当がつかない。
声を荒げるエリシオ、それをなだめるハル。
大通りの真ん中に、また別の女性の声が響く。
「ハル、その子が生存者?」
びくりと驚き、動きを止めるエリシオ。
ハルが振り返ると、離れた位置に見慣れた緋色の長髪が揺れていた。
戦闘服姿の博士はぜえぜえと肩で息をし、汗をぬぐっている。
ハルを追いかけ、ここまで走ってきたのだろう。
「リノア……」
「驚いた、本当だったのね。まさか、こんな街に子供がいるだなんて!」
大きく深呼吸し、前髪を軽く整えてリノアは笑う。
だが、対照的にエリシオはおびえてしまい、ハルの陰に隠れてしまった。
「お、おい。どうした?」
「誰、あの人。知らない人……」
「俺と同じ部隊の人間さ。ああ、ごめん。同じチームの、な?」
ハルの顔を見上げ、エリシオは「本当?」と不安げなまなざしを向けた。
なにかにひどくおびえている。
とにかく安心させるため、ハルはまたもぎこちない笑みを作って頷いた。
リノアは離れた位置から、隠れている少女の姿を分析する。
「ふ~む、見た目はどこからどう見ても普通の女の子ね。でも、だったらなおさら妙だわ。こんな無防備な格好でずっと街の中にいたなんて」
「それについては、さっき俺も色々と聞いていたところさ。この街、思った以上に色々なやつが関わってるらしい」
「ってことは……なにか、街についての情報を知ってるのね?」
「ああ。それに俺の身の上についてもな。どうやら俺は――『魔王』さんの知り合いなんだとか」
この一言に、思わずリノアは「ええ?」と驚いて見せた。
その大げさなリアクションに、たまらず苦笑してしまう。
やはり、大の大人が聞けば誰しもが耳を疑う単語なのだろう。
しばらくリノアは考え込んでいたが、やがて頷く。
「なんとも興味深い話ね。だけど、こんなところに長居しているのは危険よ。一度、その子を連れて皆と合流できないかしら?」
この提案に、素直にハルは賛成する。
だが、こちらの思惑を察したのか、エリシオは再びハルの手を強く引いた。
「ダメ、そっちじゃない。そっちにいったら危険!」
「お、おい。大丈夫だって、俺達は元々あっちから来たんだ。俺らのチームの奴らが、他にもいるんだよ」
「そうよ、安心して。ちょっと顔の怖いおじさん達だけど、皆良い人達だから」
目線を下げ、にっこりと笑うリノア。
しかし、なおもエリシオは首を横に振る。
「ダメ……ダメ! もう、そっちは“組み替えられてる”。早くしないと、あいつらが来ちゃう!」
その一言にハル、リノアが息をのむ。
恐る恐る、ハルは問いかけた。
「組み替えられる……待てよ、確かこの街は“構造が入れ替わる”って言ってたよな」
問いかけられたリノアが真剣な眼差しでうなずいた。
彼女はすぐさま周囲を見渡す。
「そういうこと……まずいわね、その子の言う通りかも。さっきまで皆がいた場所とこの場所は、もう繋がっていないのかもしれない。第一、おかしいわ。キースや後続の部隊が追いつかないのは、妙よ」
「おいおいおい、まじか。つまりなにか? 同じ町の中にいても、互いの場所が入れ替えられたせいで元の場所に戻れない、と」
リノアは腕の端末を操作し、なにやら隊員達に向けて呼びかける。
だが、一向に応答はない。
通信自体が切断されているようだ。
「ダメだ、通じないわ……やっぱり、エリアごと彼らと切り離されたのかも」
それがいかにまずい事態かは、
思えばこの街に突入してから、そこそこの時間が経過していた。
当初聞いていた情報によれば、この街は約2時間の周期で消滅を繰り返している。
それに巻き込まれたら、はたして帰ることなどできるのだろうか――防護服の下にじっとりと嫌な汗が伝う。
まさに今、ハルとリノアはかつて突入した隊員達と同様、この街で遭難しかけているのかもしれない。
困惑し、呆然とするハル。
しかし、その腕に伝わった小さな手の感触が、現実へと意識を引き戻す。
「ここはもう危険……“あいつ”があなたの存在に気付いたの。とにかく早く出口に行かないと!」
エリシオの声で、ハルは我に返った。
そして彼女が必死に伝えようとしていた、ある事実に気づく。
「なあ、確かさっき“出口を教える”って言ってたよな。もしかして、街から出る方法を知ってるのか?」
リノアが「なんですって」と声を上げる中、エリシオはこくりと頷く。
なぜ、君が――と問いかけるハルに、少女は告げた。
「私はずっとこの街にいたから、どこがどうなってるか分かる。私は“あいつ”とおんなじ――ここにずっと昔からいたから」
ずっと――先程から、ハルはその一言が気になっていた。
この少女は「魔王」というこの街の主を知っている。
そしてその口ぶりからすれば、ハル達よりも遥かに長い期間、この街で過ごしているのだろう。
当初はこのエリシオという少女を、奇怪な街の住人だと思い込んでいた。
しかし、今となってはその認識も随分と変化している。
この子供は、DEUS達が解き明かせないでいる街のロジックを把握し、そしてその中で怪物から逃げ続けている。
何者なのだ、一体――さらなる質問を投げかけようと、かすかに身を乗り出した。
風が止む。
背後でリノアがなにやら声を上げているが、まるでそれが遠くに聞こえた。
ハル、エリシオだけがその変化に気づく。
肌がぞわりと粟立った。
背後からなにか強い感覚が、精神に直接訴えかけてくる。
おもむろに振り返る。
二人の動作、表情が全く同じだったことにリノアも首を傾げていた。
「ど、どうしたの、二人とも?」
恐る恐る、リノアも振り返った。
大通りのその奥、民家が左右を囲む石畳の上で、空間が歪む。
熱持たぬ空間に、真っ黒な炎がぼっと湧き出したようだった。
宙に開いた穴の中から、一匹、二匹と“それ”が踊り出てくる。
モノクロな街のその景色の中に、一点の曇りもない“黒”が浮かび上がった。
漆黒を塗り固めた“ケモノ”――DEUSらによって“ヴォイド”と名付けられた奇怪な生物達が、通りの中心に出現する。
四つ足で立ち、牙が並ぶ裂けた口は狼のそれだ。
ヴォイドの群れはハル達三人に向けて、ゆっくりと歩みを進めてくる。
息を飲むハル、リノア。
その背後で、エリシオが叫ぶ。
「いや……いや! 早く逃げよう、こっち!」
一度だけぐいっと強く手を引き、エリシオは通りの奥へと駆けて行ってしまう。
慌てて振り返るハル。
逃げ出したエリシオに反応したのか、ヴォイド達の群れが雄叫びと共にこちらに走り出した。
一瞬反応が遅れたハルに対し、先に動いたのはリノアだ。
ホルスターに収めていた拳銃を引き抜き、構える。
狙いを定め数回、引き金を引いた。
乾いた音と共に放たれた弾丸は、獣達には命中しない。
それでもなお、リノアは後退しながら発砲する。
「ハル、逃げて! あいつらと戦うなんて無謀よ。早く!」
なおも放たれる弾丸は、向かってくる黒い影を捉えることはない。
石畳や民家の壁に当たり、白い建材を削り取るのみだ。
こんな距離から拳銃を命中させられる腕前を、リノアは持ち合わせていない。
あくまでこれは全て、威嚇のための発砲に他ならない。
とうの昔に、ハルもそんなことは気付いていた。
少し振り返ると、すでにエリシオは大通りから脇道へと姿を消していた。
そうこうしているうちにも、向かってくる黒い“狼”はまた一発、弾丸を軽快に避けて見せる。
後ずさるリノアの横で、ハルは片膝を立てて腰を落とす。
すぐさま背負っていたライフルを構え、狙いを定めた。
その予想外の行動に、リノアが驚きの声を上げる。
「ちょっと、なにしてるのよ!?」
「分かってる、戦う気なんかねえさ。すぐ逃げるよ。ただ――ちょっとだけ、やれることをやるだけだ」
鼓動と共に揺れる銃口を、筋肉と骨で支えた。
呼吸を整え、酸素を行き渡らせることで緊張をほぐす。
焦るな、引き付けろ――記憶がなくとも、肉体が覚えている。
なにかを射抜く、この感覚を。
本当に自分は一体何者だったのか。
そんな邪念を振り払うように、ハルは引き金を引いた。
リノアの拳銃よりも大きく、連続した発砲音が通りに響く。
獣の咆哮を銃器の雄叫びがかき消し、弾丸の雨を叩き込んだ。
一匹の肉体が細切れになり、
思わぬ戦果に唖然とするリノア。
だが、残る三匹は決して足を止めず、高速移動で弾丸の雨の中を進んでくる。
ちぃ、とハルは舌打ちし、連射したまま立ち上がって吠えた。
「ここまでか……走れ、あの子を追う!」
掃射しながら一気に駆け出すハル。
その姿に戸惑いつつも、リノアもまた一心不乱に走り出した。
ブーツが石畳を蹴り、乾いた音が響く。
それをかき消すのは鉄のいななきと、黒に塗り固められた獣の咆哮。
無色の街のど真ん中で、無数の音が互いにぶつかり合い、宙へと散る。
何が何だか分からない。
掴みかけた真相はより一層、色濃い謎と混乱で上塗りされてしまった。
だが今は、考えている暇も余裕もない。
ハルとリノアは応戦しつつも、ただ一心不乱に足を動かす。
誰もいない静かな町の中心で、迫りくる“死”の予感から逃げ切るために。
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