第3章 刻まれた名

 高い位置から降り注ぐ照明の光が、微かに肌を焼く。

 よどんだ意識の中には人造の太陽が四つ並び、部屋全体を白く染め上げている。

 殺菌効果のあるライトに照らされると、青年の肉体が持つ“白”もまたくっきりと空間に浮かび上がった。


「手荒な真似をしてしまってごめんなさい。でも、安心してほしいの。私達はあなたの敵ではないわ」


 投げかけられた言葉に、青年は一気に覚醒した。

 全身を拘束具で縛られ、座らされたまま、すぐ目の前で腰掛けている眼鏡の女性を見つめる。

 彼女の背後には口ひげを蓄えた男と、先程格闘戦を繰り広げた黒人の男が立っていた。


 少し離れた位置では白衣の集団が計器を見つめている。

 中でも特に額が広く、線の細い男性が弱々しくマイク越しに告げた。


「リノア博士。やや、やっぱりその……危険すぎます。防護壁も挟まないなんて」

「問題ないわよ、大丈夫。この人はそんな凶暴じゃあないわよ」


 少しだけ胸を張り、彼女は自信満々に笑った。

 緋色の髪の毛の表面をライトの輝きが滑る。

 リノアのこの言葉に、すぐ横に立つベネットがどこか呆れた表情を浮かべた。


「凶暴じゃあないですって? 先程の“アレ”をご覧になったでしょう。博士ご自身も体験なさったはずだ」

「ええ、たしかに。並の人間は強化ガラスを蹴破ったり、防護スーツが変形するほどの握力で、人間を吊り上げたりなんかしないわよね。あともうちょっと離すのが遅かったら、私もいまごろ医務室のベッドに横になってたかも」


 笑いながら、リノアは自身の首元をさする。

 ベネット達はもちろんのこと、目の前に座らされている真っ白な青年も彼女を見つめていた。


「だけど、だからこそ分かったわ。この人は“良い人”よ。私が苦しんでいるのを感じて、わざと手を緩めてくれたんだもの。彼からすれば目を覚ました瞬間、見たこともない研究室で監視されているってこの状況に、混乱しただけなんじゃないかしら。ね?」


 唐突に視線を投げかけられ、青年はどう答えるべきか悩む。

 先程、あのゼノという男性にやられた箇所はズキズキと痛むが、それ以上に今置かれている状況を把握することに必死だった。


 正方形をガラス壁が取り囲むように配置されている点は、目を覚ましたあの部屋にどこか似通ってもいる。

 だが、体に取り付けられているのは計測器ではなく、明らかな拘束具の数々だ。

 両手足はもちろん、全身をまるで“さなぎ”のような形で徹底的に束縛し、まともに駆動させることができるのは首から上くらいである。


 一同の視線が集まる中、真っ白な肌の青年は慎重に、それでいてはっきりと口を開く。


「敵ではない、と言ったな。何者だ、あんたら」


 男が声を放ったことに、全員が驚いている。

 リノア達からすれば、この真っ白な“人型”がなんなのかすら、まだ確証がなかったのだ。

 

 しかしこれで少なくとも、人語でのコミュニケーションが取れるということが理解できた。

 すぐに笑みを取り戻し、リノアが答えてくれる。


「我々は『DEUSデウス』に所属する者達よ。正式名称は『特殊防衛事項処理班第8部隊』。長ったらしくて覚えにくいわよね。ああ、えっと……分かるかしらね、DEUSって?」

「『DEUS』……世界防衛機構の軍隊か」

「わぉ、ご存知なのね? 光栄だわ」


 難なく会話する二人を見て、周囲の面々も唖然あぜんとしていた。

 恐る恐る、ベネットも問いかける。


「ここはカリート山脈北部に位置する、我々の中継基地だ。もっとも本来の目的はある“特殊事項”に対応すべく、専門家を集結させた特捜チームの根城でもある」

「はあ……なんだか分かんねえが、俺はその特捜チームに捕まったわけか」

「何か心当たりがあるのかね。君は一体、何者だ?」


 率直な問いかけに青年は少しだけうつむく。

 ライトを浴びて真白く輝く、己の足を見つめながら口を開いた。


 何者――か。


「分からない。俺が誰なのかも、一体今まで何をしていたのかも」


 リノアを始め、その場にいた全員が息を飲んだ。

 誰よりも早く我に返ったリノアが、なおも問いかける。


「分からないですって? それはつまり、一切の記憶がないってこと?」

「なんだろうな、これは。なんでここにいるかも知らない。それ以前に、そもそも俺は最後にどこで、何をしていたのかも。俺自身がどこの出身で、なんて名前なのかも、まるで分からない」

「なんてこと……」


 一瞬、リノアは壁際にいる研究者・ノマドに視線を投げる。気弱な男は合図に対し、首を横に振った。


 この研究施設は一種の“尋問室”としての役割も兼ね備えている。

 部屋の中に張り巡らされたフィールドがその場にいる人間達の各種データを感知し、常にノマドの手元のモニターへ反映している。


 バイタルサインはもちろんのこと、細かな精神の動揺による肉体の変化も見逃さない。

 いわば大掛かりな“嘘発見器”としても使えるのである。


 先程からの彼の言葉に“嘘”はない。

 となれば本当に、一切の記憶を失っているということになる。

 計測している波形は実に穏やかで、彼の精神状態が落ち着いていることを指し示していた。


 むしろ、リノアやベネットらの動揺のほうが顕著けんちょである。

 再び、ベネットが青年に問いかけた。


「となれば厄介だな。おそらく、その異様な姿の理由も分からないということになるか」

「さっき鏡で見て驚いたよ。まるでこれじゃあ、動くマネキンだ。ああ、そういう意味では、この姿が“まともな人間じゃない”ってことだけは、分かるわけだな」


 力なく皮肉を言う青年に誰も言葉を返せない。

 彼はすぐ目の前に座るリノアを見つめる。


「なあ、あんたらは知ってるのか? 俺が誰なのかを。俺は一体、何をしてたのかを」


 リノアはしばし、じっと考えていた。

 男の銀色の瞳を見つめ、まばたきすらせず。


「知ってるわ。ただ、“ある程度は”、ね」


 彼女の一言に、やはりそれ以外の面々が動揺する。

 たまらずベネットはリノアを制した。


「博士、それ以上は。まだこの男が安全だと判断できたわけではないのです」

「だけど、データの上では“安全判定”なんでしょう? 違うかしら、ノマド」


 声を張り上げ、壁際にいるひ弱な研究者に問いかける。

 慌ててバインダーを落とす音が聞こえ、少し遅れて「一応は」と返事があった。


「私は心理カウンセラーの体験はないけど、それでも彼の様子から分かるわ。彼、本当に何も覚えてないのよ。もし私達に敵意があるなら、さっき研究所を抜け出した時にまずは私を殺せば良かったんだもの」

「しかし、それはたまたまとも取れます。事実、ゼノに対しては攻撃を仕掛けている」

「あれはそちらの隊長さんから構えを見せたんでしょう? 戦う意思を見せてる相手が目の前にいるのに、何もしないっていう方が不自然じゃない?」


 ベネットは思わず「ぬっ」とたじろぐ。

 横目にゼノを見るが、黙って「おっしゃるとおり」とでも言いたげに頷いた。


 リノアは口元に笑みこそ浮かべていたが、毅然きぜんとした強い眼差しで告げる。


「責任はこの私が持ちます。彼も“あの場所”を紐解く上では、重要なサンプルよ。協力してもらうに越したことはないわ」


 予想外の提案に研究員達もざわついていた。

 だが、肝心の真っ白な青年はただ目を丸くすることしかできない。

 あいにく、“あの場所”が何を示しているのかも、今の彼には分からないのである。


 困ったことになった、とベネットは腕を組み、あごひげを撫でた。


「しかし、はたして役に立ちますかな。我々も“あの街”については一部分しか解明できていない。どこの何者かも分からない男に、そんなシークレットな内容を伝達して良いものやら」

「彼は“あの街”の外で倒れてたんでしょう? なら、関係がないとは思いにくいわ。もちろん、全権限を与えられるほど信用しているわけじゃないから安心してちょうだい。拘束具はあくまでつけたまま、いつでも制御できるようにしておけば良いでしょう?」


 恐ろしい事実をさらりと口にする女性だ。

 ベネットは苦笑し、根負けしてしまう。


 研究の――否、“真実”の追求のためならば、軍人すら寄せ付けないほどに真っすぐな姿勢は、まるで変わらない。


 そんな一同の決定を、青年はただ呆然として見つめることしかできない。


 リノアの合図と共に、部屋の中に研究員達が入ってくる。

 まずは青年の全身を包む拘束具を緩め、代わりに手にした装置を両手足に装着していく。

 彼らはテキパキと役目を終えて、すぐにまた持ち場へと帰っていった。

 研究長・ノマドの操作により、椅子そのもののロックも解除される。


 リノアが椅子から立ち、驚いている彼に告げた。


「立てるかしら? 一応、最低限の拘束具だけは残させてもらうわ。ちょっと動きづらいでしょうけど、信頼が置けるまでは我慢してちょうだい」


 真っ白な青年はゆっくりと地面を踏みしめ、立ち上がる。

 手首、足首には研究室に横たわっていた時と同様の制御装置が取り付けられており、ずっしりと重い。


 鋼鉄のかせを見つめたのち、再び視線をリノアに戻す。


「良いのかよ、解放なんかして」

「椅子にくくりつけたままだと、色々とやり辛いしね。あなたには是非、見てもらいたいものがあるのよ」


 見てもらいたいもの? と首をかしげる青年に対し、リノアはすぐさまきびすを返してついてくるよううながした。

 彼女は部屋を出る際に、軍人であるベネット、ゼノにも笑いかける。


「作戦室まで彼を連れて行くわ。“あの場所”についての諸々を見せるためにね。もし彼が暴れたら、その時はお願いします。なにせ私、勉強はしてても体力はからっきしなんで」


 そう告げ、リノアは颯爽さっそうと部屋を出て行ってしまう。

 立ち去る彼女の白衣姿を、ベネットはため息をついて見つめていた。


 なんともしたたかなことだ――ベネットはゼノに目で合図をし、同様に部屋を出て行く。

 研究員達もまた慌てて機材の用意を始めた。


 ただ一人、手枷と足枷をつけられた真っ白な青年は、研究室の中央で立ちすくむ。

 だが混乱している彼に一人残ったゼノが手で合図をし、ついてくるよう促した。


 あの場所――全く真意の分からない単語がぐるぐると回る。

 だがそれでも、今はその重々しい一歩を踏み出すことしか、彼にできることはなかった。




 ***




 リノアを先頭にベネットとゼノ、そして増員された隊員達に取り囲まれたまま、青年は別の部屋へと移動させられる。

 真っ白なその姿に基地内部に在中している隊員達は興味津々なようで、皆立ち止まってはこちらを唖然として見つめていた。

 色合いが目立つこともあり、なんとも仰々ぎょうぎょうしい一団になってしまったものである。


 たどり着いた“作戦室”では多くの隊員が作業にあたっており、射るような視線が一斉に青年目掛けて降り注ぐこととなる。

 居心地の悪さを抱きながらも、今はただ大人しく「DEUS」部隊の面々と共に奥へと進んだ。


 リノアがカードキーで三つ、扉をくぐる。

 ようやくたどり着いたのは、やはりライトによって昼のような明るさを保った小さな部屋だった。

 中央に大きなテーブルがあり、奇妙な装置やファイルケース、ペンやケーブルがそこかしこに置かれている。


 周囲の壁には無数の資料が貼られており、コンテナのようなものもいくつも積まれていた。

 乱雑に置かれたそれらは、この部屋が頻繁に利用されていることを表している。

 先程までの研究室とは違い、ある意味で人間臭さが垣間見えた。


 部屋の中には一人、ゴーグルをつけた年老いた男がいる。

 彼は部屋に入ってきたリノアに挨拶をするも、その後ろに続く面々を見て驚嘆してしまう。


「おいおい、なんだいこりゃあ。随分とまぁ、大勢連れてきたもんだ」

「ドク、いきなりごめんなさいね。久々の再会だっていうのに、いきなりゴタゴタしてて」

「別に構わねえが、DEUSのお偉いさんに隊長、それと――そいつはあの“サンプル”じゃねえか」


 老人はゴーグルを外し、まじまじと真っ白な青年の姿を見つめる。

 白い眉毛と目元のシワがあらわになるも、青い瞳に宿った光は実に力強い。


 工具を携えた謎の老人・ドクにベネットは笑う。


「我々もとんでもないことになった、と参っているんだ。リノア女史の行動力に男達は振り回されてばかりだよ」

「綺麗なツラして男顔負けだからなぁ、リノアは。しっかし、何をおっぱじめるつもりだい? こいつを解剖でもするってのか?」


 青年はその一言にぎょっとするも、すぐ目の前に立つ女史は苦笑いしながら首を振る。

 リノアは机の上の資料を片付けながら、問いかけた。


「ドク、“サンプル”――いえ、“彼”が身につけていた品物、すぐに出せるかしら?」

「おお、良いとも。全部きっちり、滅菌消毒して保管してあるさ」


 一同が机を囲んで席につく中で、老人は壁際のコンテナの一つを開き、おもむろに中から銀色の袋を取り出す。

 アルミ質のギラギラした袋の中身を、彼は丁寧に机の上に並べていった。


 一方、連れてこられた青年はどうして良いかが分からず、ただ立ち尽くすことしかできない。

 そうこうしていると、机の向かい側に座るベネットが声をかけてくる。


「座ったら良い。このまま立ち話もなんだ。なにせ君にとっても重要な話になるだろう。じっくりと腰をえたほうが無難だ」


 提案した男の顔を見つめるが、逆らう理由もない。

 大人しく椅子に腰掛け、机の上に視線を投げる。


 ベネットはおほん、とせきをして仕切り直した。


「先程、そちらのリノア女史からも説明があったとおり、我々は『DEUS』に所属する『特殊防衛事項処理班第8部隊』の者だ。この基地は現在遂行中のとある任務のため、攻略拠点として使われている。君が収容されていたのは施設の南側に位置する“研究セクター”だ」


 足早に説明するベネットの言葉を聞き、男はまた「DEUS」という組織の名前に思いをせる。


 記憶がない彼にとっても、その名は聞き覚えがあった。

 約50年前に発足し“星その物の正義、平定を目的に活動する軍”を作るべく、かつての警察組織、自衛隊といったものはこの「DEUS」に置き換えられることとなった。

 価値観、人種、領域といった溝を取り払い、人類として世界全体の治安を維持すべく、DEUSという組織は生み出されたのである。


 そんな歴史だけはしっかりと覚えているというのに、やはり考えてみてもそれを学んだはずの“自分自身”についてが、記憶の中からすっぽりと抜け落ちている。

 世界の土台は知り得ていても、その中央に立つべき自分というものが虚ろなままだ。

 ベネットやゼノ達が身につけている黒を基調とした戦闘服も、青年のおぼろげな“記憶”の中にあるDEUS部隊のそれと同様である。


「君が我々に発見されたのは3日前。この基地から東へ約20kmほどいった、とある“場所”だ。その荒野に君は倒れていた。ドクが今、机の上に並べているそれは、その際に君が身につけていたものなのだよ」

「なんだって」


 思わず立ち上がり、ドクが並べた品を見つめた。

 DEUSのそれに似ているが、しかしどこか形状の違う黒い戦闘服である。

 軍服もラバー質のアーマーもボロボロで、切り傷や穴がいくつも見受けられた。

 そして、なにやら“真っ黒な液体”が付着した跡もある。


 その傷跡は実に妙だ。

 鈍器や刃のような人造物でついたというよりも、荒々しく獰猛に“噛みちぎられた”かのような独特の痕跡である。


 牙――横たわった戦闘服に、どこか本能的に獣の匂いを感じ取った。


 ここでリノアが口を開く。


「DEUS部隊のものとは違うわ。だけど形状や繊維から、明らかに軍隊用に仕立て上げられた装備だと分かる。あなたはこれを着たまま、荒野のど真ん中で意識を失っていたの。何か、覚えてないかしら?」

「俺が、これを……」


 おもむろに指を伸ばし、触れてみる。

 なにかに一度焼かれたのか、アーマーの端は少し変形して固まっており、弾力のない乾いた感触が伝わってくる。

 かすかに撫でたり、押したりしても、まるで記憶が染み出てくる様子はない。


 力なく首を横に振る。

 そして顔を上げ、リノア達に問いかけた。


「あんたら、たしか俺を見つけた場所のことを“街”と言っていたな。じゃあ、俺はそこの出身ってことじゃあないのか?」


 街――その何の気ない一言が、室内の空気を一変させる。

 

 リノアはあくまで微笑んだまま答えてくれるが、やはり眼差しは真剣だ。


「そう思うのが自然よね。でもその“街”っていうのが、ちょっと特殊でね。あなたがそこの出身だっていうなら、それは私達にとって大発見なの。だからこそあなたを保護し、こうして基地に連れて帰った」


 リノアはベネットを見つめ「でしょ?」と問いかける。

 リノアもまた、つい先程、この基地に到着したばかりなのだ。

 現場の指揮をとっているのはベネットに他ならない。


「博士のおっしゃられる通りだ。君を保護したのはその“街”の近辺だ。我々はその“街”の謎を解き明かすために、こうして日夜、奮闘している」

「街の謎? そこに犯罪組織だの、秘密結社だのが隠れてるとかかい?」

「いや、そういうことではないのだ。街の中が問題なのではない。“街そのもの”が問題なのだ」


 妙な言い回しに首を傾げてしまう。

 混乱する青年の気持ちを汲んだのか、ベネットは壁際に待機していた隊員に合図を出した。


 部屋が暗くなり、空間にディスプレイが浮き上がる。

 そこに映し出されたのは、荒野の中に孤立した“街”の姿である。

 黒い建物が群がり、霧が濃いのか細部までは確認できない。


 その“街”の巨大な影を見つめたまま、ベネットははっきりと告げる。


「我々はこの街を『モノクローム』と呼んでいる。君は、この場所で我々に発見された。もっとも、我々がたどり着いた時にはすでに街は“消えていた”がね」

「消えていた……なんだと?」


 思わず食ってかかる。

 ベネットの妙な言葉に、眉をひそめた。


「そのままの意味だ。この巨大な街『モノクローム』は突如として現れ、また突如として消える――3ヶ月前、我々DEUSの調査隊が偶然にも発見したのだよ。元々は土地を開拓するための実地調査だったのだが、こんな大発見をするとは夢にも思わなかった」

「そんなおとぎ話を信じろっていうのか? 何も知らないからって。出たり消えたりする蜃気楼の街がある、だって?」

「信じがたいのは良く分かるが、君のその姿だって十分にファンタジーだとは思うがね。ましてや電気ショックに耐えきり、強化ガラスを蹴りで打ち抜く人間など、少なくとも私の人生では初めて見る。それこそ、ヒーロー映画の世界でなら似たような存在は珍しくないのだろうが」


 ベネットの不敵な笑みが、どこかしゃくだった。

 視線を再びモニターの写真へと戻す。


 このピリついた空気を察したのか、リノアが助け舟を出した。


「私はかねてからこの『モノクローム』の調査に協力していたんだけど、あなたのように街の近くで人間が発見されたという例は、過去に一度もなかったの。それだけに、今回緊急でヘリを飛ばしてやってきたってわけ」

「この街を調べているって言ってたが、中はどうなってるんだ? 建物が見えるんだから、住人がいるんじゃないのか」

「それが、分からないのよね」


 分からない、と反芻はんすうする青年。

 リノアは一呼吸置き、続ける。


「無論、我々も何度も調査部隊を送り込んだわ。入口付近は、まるで中世の世界のような石畳とレンガの建物が並んでいるの。でも、そこから先のエリアは調べれていないわ。いや、正確には――調べて帰ってきた者がいない」


 また少し、空気が重みを増す。

 薄暗い部屋の中で、物怖じすることなく青年は問いかけた。


「死んだのか。行った奴ら」

「分からないわ。ただ、ある一定のラインを超えてから、戻ってきた者はいない。連絡もつかないし、GPSでの位置情報も途絶えたわ」

「そりゃあ、妙な街だな。殺人鬼か、人食いの化け物でもいるのかもな」


 肩の力を抜き、言葉を投げたつもりだった。

 しかし、周りの面々がその“化け物”という言葉に反応する。


「なんだよ。お前も化け物みたいだろう、ってか?」

「いいえ、とんでもない。偶然とはいえ、鋭い指摘をするなぁって」


 リノアの不敵な笑みに首を傾げてしまう。

 彼女は部屋を明るくし、ドクに声をかけた。


「例のサンプル、見えるかしら?」

「おうよ、ちゃんと用意してるさ。なるほどね。このためにわざわざ、ひっぱり出させたわけか」


 ドクが壁際のリモコンを操作すると、一同の真横の壁が音を立てて開きだした。

 先程の研究室と同様、隣の部屋が強化ガラス越しに見えるようになっている。


 真っ白な部屋の中には、何かがいる。

 はじめは距離が遠いせいで、動物のシルエットだけが見えているのだと思っていた。

 とことこと四つ足で歩き、何かが部屋の中をうろうろしている。


 数秒で青年は理解し、息を飲んだ。


 その生き物が“なんなのか”は分からない。

 毛並みも、表情も、器官の形も、分からない。

 唯一見て取れるのは、それが四つの足で立っているということと、光る一つの目玉のようなものを持っているということだ。

 そういう意味では、形は“犬”のそれに近い。


 真っ黒なのだ――頭から足に至るまで、まるで影そのものが浮かび上がり、立体化されたかのようないびつな存在。

 それは奇しくも、ガラス越しに見つめる“真っ白”な彼とは真逆な存在であった。


 黒い“なにか”は歩いたり、その場に座り込んだりしている。

 動くたびにまるでもやのように“黒”が空間に湧き上がり、揺らぐ。


 ガラスに手をつけ、青年は呟いた。


「なんだい、ありゃあ」


 その真横に並ぶように立ち、リノアが言う。


「数少ないサンプルの一体よ。『モノクローム』で我々が遭遇して、捕獲することに成功したの。そこにいるゼノ隊長の部隊が連れて帰ったわ」


 目をやると、スキンヘッドの黒人隊員・ゼノが少しだけ頭を下げる。

 彼もまた、当時の作戦内容を振り返っていた。


「我々が『モノクローム』に突入した直後、あれらがそこら中から湧き出てきたのだ。何もない空間から次々と。当時、10名いた隊員のうち6名が重傷を負った。私もこの個体を捕獲する際、右腕の骨を複雑骨折している」


 非常に生々しい戦果をさらりと言ってのけるゼノ。

 青年は少しだけ眉をひそめ、視線をガラス壁へ向ける。

 先程までの話と、この“黒い生き物”を結びつけていた。


「つまりなにか。あの出たり消えたりする謎の街の中には、こんな怪物がうじゃうじゃいる。それで、中に入った隊員達は怪物にやられて、消息を絶っている。そんな街のすぐそばに倒れてたのが、こんな体も記憶も真っ白になった俺。そういうことか?」


 リノアが「ご名答!」と声をあげた。

 突然の一言に驚き、青年はたじろいでしまう。


「はじめは『モノクローム』から脱出した隊員がいたのかと思ったの。でも、身につけていた装備の形式があまりにも違うから、私達とは違う“第三者”がいるんだと予測しているのよ」

「第三者……その正体も、俺の記憶が戻れば明かされるってことか。ある意味、俺はあんたらにとって貴重な“人質”だってことだな」


 一同を睨みつけるように見渡した。

 誰も返事はしないが、おおよそ間違いではないのだろう。


 ただ一人、リノアは困ったように首をひねる。


「そう、ネガティブな言い方されるとがっかりね。これはあなたにとっても、有益な情報だと思うわよ? 記憶を失っていると言うなら、あの街にその鍵があると思うし」


 リノアはまたもやドクに合図し、何やら小さな箱を受け取る。

 彼女は青年にそれを差し出した。


「その戦闘服の他に、これがあなたが唯一持っていた物なの」

「なんだよ、これ」

「いいから開けてみて。結構、重大なヒントになるはず」


 なぜかもったいぶるリノアを不可解に思いつつも、恐る恐る箱を開けた。


 無機質なアルミケースの中には、これまた似たような銀色のタグが入っている。

 千切れた鎖と共に横たわるそれは、兵士が戦場におもむく際に己の経歴を記す「ドッグタグ」という識別証だ。


 ゆっくりと手に取り、銀色の刻印を見つめる。

 表面は傷つき、一部の文言は判別すらできないが、唯一刻まれた名前を口にした。


「『ハル=オレホン』――これって……」


 どことなく聞き覚えがある。

 刻まれた名前をじっと見つめ、青年は考えた。


 確かにこの名前は知っている。

 よどんだ記憶の海の中に、その響きがしっかりと残っている。


 リノアは少し嬉しそうに、問いかけた。


「どう、何か思い出した?」

「いや……ただ、なんだか……聞いたことのある名前ではある」

「そう、それは良かった! あなたが持っていた以上、これはきっとあなたの名前だと思うのよね。ただ、私達DEUSのメンバーに『ハル=オレホン』なんて隊員はいなかったわ。だからあなたは、何か別の目的で派遣された部隊の人間だったんじゃないか、って推測しているのよ」


 別の部隊――と繰り返す青年に、リノアはなおも笑う。


「だから、とりあえずはあなたのこと『ハル』って呼ぼうと思ってるのよね。このドッグタグだけじゃなくて、もっと明確な記憶の種が、あの街には眠っている――そうは思わない、ハル?」


 唐突に名前で呼ばれ、どうして良いかわからずたじろぐ。

 かすかに記憶に残ってはいても、それが自分の名だと言う実感がまるで湧いてこない。


 手にしたドッグタグを再度見つめた。

 何度視線を向けても、無機質な印字が変わることも、それが答えを出してくれることもない。


 お前は一体、何を知っているんだ――傷んだドッグタグの中に、鈍い光を受けて浮き上がる「ハル=オレホン」に、真っ白な青年の銀色の瞳が問いかけた。

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