第2章 忘却と逃走

 二人の視線が交わって、1秒にも満たない刹那。

 青年の腕がリノアの首を掴み、絞め上げる。


 パワードスーツが一気に圧迫され、指が強化繊維ごしに肌に突き刺さった。

 激痛に叫び声をあげようにも、気管が圧迫され呼吸すらできない。

 血の流れが寸断され、顔面がビリビリと痛みに包まれるのが分かる。


 真っ白な青年はむくりと上半身を起こし、さらに高くリノアの体を釣り上げた。

 リノアもその手を外そうともがくが、万力のような力にまるでなすすべがない。

 足をバタバタさせながら、気を絶しないように歯を食いしばって耐えた。


 青年は大きく目を見開いたまま、まばたきもせずに周囲を見渡す。

 黒い眼に銀の瞳がぎょろぎょろと動き、様々なデータを読み取っていく。

 真っ白な部屋に並ぶ無数の器具と、自身の肉体に取り付けられた装置。

 強化ガラスの向こうでは白衣の男達と、体格の良い二名の軍人が大騒ぎしている。


 部屋の内部に声は届かないが、ベネットが大声で研究員達に命じた。


「何をしている、早く制御システムを起動しろ!」


 だが、この一言に眼鏡のずれたノマドが狼狽える。


「し、しししかし、あの状況では――リノア博士はまだ、つ、掴まれて――」

「防護服に電流は通らん、躊躇ちゅうちょするな!!」


 判断の速さは、さすが軍人というところだろう。

 ベネットの咆哮ほうこうに背を押され、ノマドはただちに制御システムの作動ボタンを押す。


 数秒の間もなく、男の四肢に取り付けられた“かせ”のような装置が高圧電流を肉体に流し込んだ。

 閃光が何度も室内を染め上げる。

 リノアはようやく手放され、金属の床に仰向けに倒れた。


 尻餅をついたまま、かすんだ目で前を向くリノア。

 診療台の上に座ったままの青年の肉体を電流が貫き、体をのけぞらせた。


 危機一髪――安堵あんどしかけた一同の眼差しが、再び驚愕の色に染まる。


 真っ白な男は電流を受けながらも大きく腕を振り上げ、それを壁目掛けて叩きつけた。

 鈍い音と共に一撃で装置が砕け、部屋そのものが揺れる。

 破壊された枷は意味をなさず、ただ無残なガラクタになって地面を転がった。


 一つ、二つと残った装置も同様に壁や地面に叩きつけ、破壊していく青年。

 驚くべきことに、常人ならば意識を失うであろう高圧電流を流されても、彼は全くひるむ様子もない。

 あっという間に四肢の枷が外れ、自由の身となってしまった。


 一同が驚愕していたのは、彼の耐久力だけではない。

 枷を破壊するために腕や足を叩きつけた床、壁は大きくへこみ、表面を覆う金属板が陥没している。

 ピストルやライフルの弾丸程度ならば、容易たやすく弾く合金性の内装は、青年の肉体による純粋な腕力によっていともたやすく捻じ曲げられてしまったのだ。

 そもそも、大の男が力を込めた程度で破壊できる“拘束具”ではない。


 誰しもの肉体から、さぁっと血の気が引いた。

 青年は立ち上がり、しばらくまたガラス壁から外の様子をうかがっていた。

 電流のせいでかすかに皮膚が焦げ、白煙が上がっている。

 そんな熱も物ともせず、無表情に周囲を伺っている。


 次の一手を――誰よりも早く軍人・ベネットが我を取り戻すが、それよりも早く青年が動く。

 白い姿が地面を蹴って跳躍し、外と中をへだてるガラス壁目掛けて迷うことなく蹴り込んだ。

 ずん、という鈍い音と共に研究室が揺れる。


 バカな、壊せるわけがない――誰もが、その無謀な特攻を見てそう感じていた。


 研究室の壁同様、強化ガラスも合成繊維とワイヤーを組み合わせた特注品である。

 たとえロケット砲の直撃を受けてもびくともしない。

 いかに研究施設といえど、テロや災害、予想外の事態への備えは万全なのだ。

 DEUSデウスという機関はそこまで軟弱ではない。


 さらに一発、迷うことなく男は蹴り込む。

 真っ白な爪先がガラスに突き刺さった瞬間、びしりと音を立てて亀裂が広がった。


 見ていた全員の心、もとい“自信”にも同様のヒビが刻まれる。

 全員の表情が凍りつき、ベネットが「まさか」と声を上げてしまう。


 もう一発――たったの三撃で、絶対の信頼を置いていたガラス壁が砕け散った。

 白い男はそのまま砕けたガラスと共に飛び出し、けたたましい音を立てて降り立つ。

 スティール製のキャリーが跳ね飛ばされ、乗せられていたバインダーやフラスコが薙ぎ払われる。


 砕けるガラスの音、跳ねるプラスチックの音、悲鳴。


 それらの中央に立つ真っ白な姿に、ベネットとゼノ、そして未だに研究室の中でへたりこんだままのリノアが唖然あぜんとしてしまう。


 密閉されていた研究室の空気が外気と交わった。

 生暖かくかき混ぜられたその中を、男は迷うことなく疾走する。

 再び床を蹴り、ベネットらには目もくれずに入り口のドアへと駆けていった。


 即座に行動できたのは、軍人であるベネットとゼノだけだった。

 拳銃を引き抜き構えるも、すでに男はロックされた金属扉すら破壊し、廊下の外へと逃げていってしまう。

 ガラス壁同様、人間の力では大人数名でも押し開けれない金属扉が、蹴りの一撃でたやすく粉砕されていた。


 騒然とする部屋の中に、ベネットの怒号にも似た声が響く。


「き、緊急事態だ! 管制室に伝えろ、ランクAだ。即座に対応しろ!!」


 慌ててノマドが端末を操作し、震える手で必死に連絡を入れる。

 そんな喧騒けんそうの中、一人だけ部屋の中央に座り込んだまま、防護服をまとったリノアは深く呼吸をしていた。


 たまらずパワードスーツの頭部を脱ぎ捨てる。

 群れていた空気が風にふわりと拭われ、冷たい感触が頬を撫でた。

 光沢のある長い髪に、じっとりと汗が滲む。


 首元に残る強い感触を確かめながら、息を吸い込んだ。

 無菌室の中に微かに漂うのは、自分のものか、あの男のものか――とにかく、ひどく濃厚な人間の香りが鼻をついた。




 ***




 けたたましい警報が鳴り響き、いまや基地内部は完全なパニック状態であった。

 戦闘員達は武器を携え、フル装備で廊下をあくせくと駆け巡っている。


 警戒ランクA――“実験中の危険生物の脱走”という事態に隊員達は神経を尖らせ、捜索を開始している。

 ここ半年ほど、基地内部でランクAの事態が発生したことはない。

 それだけに、誰しもが「異常事態だ」ということを認識している。


 また一つ、足音の群れが立ち去ったのを確認し、青年はロッカーから外に出た。

 真っ白な肉体とは対照的な漆黒の髪の毛。

 銀色の眼差しはキョロキョロと駆け巡り、周囲を注意深く警戒している。


 まずいことになった――彼はその実、ひどく混乱している。

 まずなにしろ、ここはいったいどこなのか。なぜ自分はこんなところにいるのか、まるで見当がつかない。

 それどころか、ロッカーに取り付けられた小さな鏡を見て唖然とする。


 俺はいったい、誰なんだ――目の前に映っているのは、驚いた顔をした異常に白い人間だ。

 だが、そんな顔にまったくもって見覚えがない。

 同様に真っ白な指先で恐る恐る頬に触れるが、乾いても、湿ってもいない。

 なんとも無機質な感触にまた一つ、寒気がしてしまう。

 マネキンほどの光沢も硬さもないが、冷たく、感情のない質感は限りなくそれに近い。


 何一つ思い出せない。

 なぜここにいるのか、今まで何をしていたのか、自分が何者なのか。


 とはいえ全裸の己自身を見て、ひとまず“まずい”ということだけは理解できる。

 肉体の色合いはもちろんのこと、この格好ではどう見ても不審者のそれだ。


 何か着るものを――ロッカーの中に入っていた灰色の検査着をとりあえず着用する。

 確認もせずに入ってしまったが、どうやらこの施設の人間の健康状態を管理するための病棟らしい。


 目を覚ましてからここまで、彼は自身がとった行動にも困惑せざるをえなかった。

 防護服に身を包んだ謎の人物を掴み上げたのも、角ばった部屋のガラスを突破したのも、全て“本能的”にとった行動だ。

 身に迫る危険をとっさに回避すべく、なりふり構わずに突進していたのである。


 危険――その正体すら今では思い出せない。


 もしかしたら、目が覚めた瞬間はそれを覚えていたのかもしれないが、たかだか数分、この部屋に逃げ隠れるまでの短い時間の中でその重大な危険についての記憶が、脳の奥底へと沈んでしまっている。


 なぜ、何一つ覚えていないのか。

 自分で自分が分からない。

 だからこそ、もうここから、どこへ行くべきかが分からないのだ。


 深呼吸し、まずは冷静に考える。

 おそらくここは病棟内に設けられた更衣室なのだろうが、換気口があるだけで窓はない閉め切った部屋だ。

 仮に誰かが入ってきたら、どうあがいても鉢合わせになる。

 このまま延々とロッカーの中に身を潜めるのも、いずれ限界は来るだろう。

 そこまで考え、直ちに行動に移った。


 外の気配に注意しながら、扉を少しだけ開けて覗き込む。

 また一つ、武装した集団が廊下を駆けていくのが見えた。

 彼らが角を曲がったのを確認し、思い切って外に出る。


 壁伝いに、できるだけ姿勢を低くしながら移動した。

 時折、通路に配置された監視カメラの位置に気付き、臨機応変にルートを変更する。


 不思議な感覚であった。

 自分についての記憶は一切ないのに、あの軍隊の制服も、監視カメラという概念もしっかりと理解している。

 ある程度の年号だって思い浮かべられるし、過去の事件や偉人の名前まで脳内のデータは揃っている。


 だというのに、自分自身に関する内容がまるで浮かんでこない。

 嫌気がさし、たまらず頭を振った。

 自分の脳みそだけが何かにすげ替えられたかのような、気持ち悪さを覚える。


 とにかく、建物の外部に出なければ――ここがどこなのかは謎だが、このまま内部を駆け回っていてはいずれ捕まる。

 連中は重火器も携帯しているため、素手で相手取るのも現実的ではない。

 いまはとにかく誰にも見つからない場所を探し、身を潜めるべきだと判断した。


 階段を駆け下り、ロビーから通路へと入る。

 妙に耳がえ、周囲にいる人間の足音や気配が手に取るように分かった。


 通路を覗き込むと、奥のガラス扉ごしに外の景色が見える。

 どうやら、出入り口の一つを発見できたらしい。


 もはやここまできたら、気にする必要もない。

 おそらくドアはID認証で開くのだろうが、無論そんなものは持ち合わせていないのだ。

 警報は鳴るだろうが、とにかく扉を破壊し、そのまま外へと逃げ去ってしまえば問題はない。


 大地を蹴り、加速していく。

 ぐんぐんと近づくガラス扉に焦点を合わせ、全身に力を込めた。


 だが唐突に、その足が止まってしまう。

 扉の脇に隠れていた人物が姿を現し、男の前に立ちはだかった。


 見覚えのある顔だ。

 確か先程、研究室を脱出する際に目にした男である。

 スキンヘッドと少し分厚い唇の特徴的な、黒人の男だ。


 戦闘服を身にまとった彼――ゼノは拳を軽く握り、こちらに向けてファイティングポーズをとった。

 表情からは気持ちを読み取ることができない。

 ただ冷静に、毅然きぜんとした瞳でこちらをめつけていた。


 その明らかな敵意を受けても、真っ白な男の意思は変わらない。

 阻むというならば振り払い、切り抜けるしかないのである。

 再び床を蹴り、前へと突進した。


 ガラス扉を砕き割る前に、まずはこの黒人の男に再起不能になってもらう。

 どこの誰だかは知らない。

 だが今は、知りもしない他人の安否を気遣ってやれるほど、彼にも余裕はない。


 あらん限りの力で飛びかかり、男の胸部めがけて蹴りを放った。

 強化ガラスを数発で粉々にする強烈な一撃が、空気を貫いて襲いかかる。


 しかし、ゼノは素早く腕を動かし、蹴りにそれをぶつけることで軌道を反らした。

 爪先は空を切り、見事にさばかれてしまう。

 かきまわされた空気の音だけが通路に響く。


 ギョッとし、着地する青年。

 至近距離で構えたままのゼノに、今度は握りしめた拳をあらん限りの力で振り抜いた。


 武器を使う気はないらしい。

 あくまで肉体のみで立ち向かってくるこの黒人男性に、青年も肉体のポテンシャルのみで立ち向かう。


 一発、二発と空振りする。

 空気こそかき乱すが、それでも鈍い感触は伝わってこない。


 雪のように白い肌の奥から、じんわりと汗がにじみ出てくる。

 透明の雫が腕を振るたびに宙に散り、ゼノはその飛沫すら柔軟かつ高速のフットワークで避けてみせた。


 訓練された、それもかなり高度な体術である。

 向かってくる暴力に対し、最小限の動きを最速で行うことで、最大限の効果を発揮している。

 飛来する一撃に臆することなく冷静に軌道を見極め、柔軟な体捌きで防御すらすることなくかわして見せた。


 歯を食いしばり、獣のような眼差しで腕を振りかぶる青年。

 再度放たれた白い打撃は空を切るが、それに合わせるようにゼノが初めて打って出た。

 脇腹にゼノの鋭いフックが突き刺さり、激痛とともに呼吸ができなくなる。


「かっ――」


 青年の口から苦痛のうめき声が漏れた。

 それを追うようにゼノの拳が加速し、みぞおちに更に二発がめり込む。

 白い肉体は完全に動きを止め、うずくまってしまった。


 呼吸ができず、体が言うことを聞かない。

 激痛もさることながら、的確に急所に打ち込まれた打撃の数々が、身体機能を一時的に麻痺させている。


 脂汗を浮かべたままなんとか顔を上げると、こちらを感情なく見下ろすゼノがいた。

 最後に彼が放ったのは、真横に薙ぎ払われた回し蹴りだった。

 鈍い衝撃が視界を真横から叩き、意識を弾き飛ばす。


 激痛よりも何よりも、肉体の感覚が消え、ぞわぞわと全身が散っていくような喪失感に襲われた。

 苦痛ではなく、まるで眠りに落ちるかのような安堵が脳を痺れさせる。


 黒に染め上げられる視界の中で、すぐ目の前にあのガラス扉が見えた。

 その奥に続く薄暗い岸壁――外の世界を見つめ、青年はただ力なく横たわる。


 もう少しだったのに――たった数秒で湧き上がったその言葉も、完全にシャットアウトされ意味をなさない。

 最後まで肉体に残っていたのは、無機質な金属の床が放つ、冷たい氷のような感触であった。

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