6-3 怒りの矛先

 その日を切欠に眠れなくなった。寝ると悪夢を見て飛び起きるのだ。我ながらメンタルが弱すぎる。

 母ちゃんからの連絡に、あれ以来急かす雰囲気はない。ばあちゃんは思ったよりも元気らしい。すぐ退院できそうだ。心配するなと言われている。


 俺が勝手に気に病んでいるだけだ。俺が虫籠でぼんやりしている間に取り返しのつかないことが起こってしまう可能性に、やっと気づいて怖くなっただけなんだ。


 入院し始めの頃は届いていた友達から連絡はずいぶん減った。こっちは病気のことを隠しているから言えることは限られるし、お見舞いに来たいと言われても身内以外の面会は基本禁止。

 なんの病気になったのかも、どこにいるかも分からない。連絡がとれない相手のことをずっと待ち続ける相手はいない。友達っていったって、たまたま学校が一緒だっただけの奴らだ。俺だって、新田と天野のつるむうちに入院前の友達のことは忘れていった。最初の頃はしていた連絡もしなくなった。薄情なんて責められない。


 ここにいるとどんどん社会においていかれる気がして焦る。

 そう言っているやつがいた。聞いたときはよく分からなかったが、今なら分かる。俺が悩んでいる間に時間はどんどん進んで、入院する前の知り合いには忘れられて、俺はあっという間に大人と呼ばれる年齢になってしまうのだ。患者の中にはそういう奴が何人もいる。


 この頃、幼稚園で読んでもらった浦島太郎を思い出す。竜宮城から戻って、家族も知り合いもみんな死んでいると気づいた時の浦島太郎の気持ちが、今ならわかる気がした。初めて聞いた時は鶴になるなんて怖いと思ったのに、今は鶴になった浦島太郎が羨ましい。鶴になったら自由に空を飛べる。今の俺みたいに悩む事もないんだろう。

 虫籠から出なければ、俺は鶴みたいになれるのかもしれない。ずっと温室で飛んでいる蝶に。

 

 そう思うと頭に家族の顔がちらついて、小口さんの笑顔が浮かぶ。せっかく連絡先を交換したのに一度も連絡してない。それでも変わらず、控えめな笑顔で笑いかけてくれる小口さん。蝶になるなら、顔を思い浮かべるだけで翅が震える恋心はいらない。捨てれば蝶になれる。楽になれるのに、決めようとすると「でも」と自分が待ったをかける。

 重たくて邪魔だから捨てたいと思う自分と、捨てちゃダメだと止める自分がいる。もう自分がどうしたいのかも分からない。寝不足の頭は上手く回らなくて、寝れない日が増えるにつれて体も心も重くなる。

 これじゃ飛べない。

 

「翔ちゃん、今日は飛ぶのやめた方がいいって。顔色悪いし」


 新田の声でぼんやりしていた意識が引き戻された。いつもと変わらない虫籠の廊下。温室へと続く道。振り返れば新田と天野が心配そうな顔で、俺についてきている。いつ起きたのかもうろ覚えだというのに、無意識に体が温室に向かっていたらしい。


 光に群がる虫みたいだなと思ったら、なぜか急に怖くなった。

 飛びたい。この感情は俺の意思なのか、背中に生えた蝶の翅の意思なのか。


 ふいに浮かんだ考えにゾッとする。だから俺に向かって伸びてきた手をとっさに振り払ってしまった。

 肉と肉がぶつかる、乾いた音が響く。思ったよりも大きな音に驚くと、目を見開いた新田の顔がよく見えた。ショックを受けた顔に見えて、俺は中途半端に手を払った状態で固まった。

 

 そんなに強く振り払うつもりはなかった。そう言えばいいのに言葉が出てこない。

 怒ればいいのに、新田の顔はすぐにこちらを心配するものへと変わる。新田の後ろに同じように心配そうな顔をする天野が見えて、俺はなぜだか腹が立った。


「ほっといてくれよ! お前らには関係ないだろ!」


 思ったよりも大きな声がでて、周囲の視線が集まるのが分かった。その視線も今は腹が立つ。見るなという圧を込めて周囲を睨み付ければ、近くにいた奴らは気まずそうな顔をしていなくなった。

 けど、新田と天野はいなくならない。相変わらず心配そうな顔で俺を見つめている。

 その顔にイライラした。何に対してイライラしているのか分からないのに、全てに対して当たり散らしたいような、暴力的な感情が暴れまわる。


「なんで飛んじゃいけないんだ! 俺に飛ぶ以外価値なんてないだろ! 飛べない俺なんてただのチビなんだから!」


 もっと身長があれば。

 何度も言われた言葉がフラッシュバックする。うるさい。それは俺が一番思ってる。なのに、何で他人がいうんだ。身長で悩んだこともない奴らが知った風な口でいうんだ。

 悔しさで涙が出る。でも泣きたくなくて、俺は感情のままに叫んだ。


「寝不足で落ちて死んだって、そんなのお前らに関係ないだろ!」

「本気で言ってる?」


 冷たい声で一気に熱が冷えた。あまりに温度がなくて、冷たい声だったから、誰が話しているのか分からなかった。

 驚いた顔をしている天野は違う。となれば目の前にいる新田に違いない。

 いつも笑顔を浮かべている新田の表情は、別人に思えるほど無表情で、死んでいるのかと思うほど冷たく見えた。


「翔さ、死ぬってどういうことかわかってる?」


 形は疑問形だったが、声は言っている。お前は死というものがどういうものか分かってないと。

 いつもだったら反論の一つも出たが、今はなにも言葉が出ない。まずいことを言ってしまったのだというのは、いつもと違う新田の様子でよく分かった。空気が重たい。初めて新田が本気で怒っている所を見た。

 人の柔らかい所。誰にも触れて欲しくない部分。新田のそういう部分に知らずに踏み込んでしまったのだ。


 謝らなければいけないのはわかっているのに、声が震えてでてこない。何に対して謝ればいいのかが分からなかった。新田の逆鱗がどこなのか、さんざん姉にデリカシーのないと言われた俺には分からない。分からないまま謝っても余計に怒らせるだけだというのは、姉に何度も怒られたから分かっている。

 だが、無言でいるのもよくないと分かっているから気持ちが焦る。焦っている間に、無言でこちらを見つめていた新田が動く気配がした。


「お、おい、新田!」


 天野が焦った声をあげる。天野の慌てた声も初めて聞いた。

 新田は無言で俺に背を向けて、止める天野の横を通り過ぎて歩いて行く。見捨てられた。

 後ろ姿だけでも新田の怒りが収まっていないことは分かるのに、俺は追いかける勇気もなければ、謝る言葉も出てこない。


 自分が悪いことはよく分かっていた。寝不足だからとか、機嫌が悪かったとか、そんなの言い訳だ。どんなに気分が悪かったって、調子が悪くたって、言っちゃいけない言葉がある。


 拳を握りしめて床を睨み付ける。真っ白い廊下に水滴が落ちる。気づいたら目から涙が流れていて、男なのにみっともないと思うのに止まらない。自分が悪いのに、俺が被害者みたいな顔して泣いていいわけがない。

 ゴシゴシと腕で目を拭っていると、誰かに腕を止められた。振り払おうとした体をギリギリで止める。短い間に同じことを繰り返したくない。


「すまん。声かけてから止めれば良かったな」


 困った顔で俺を見下ろしていたのは四谷だった。「こすると目が腫れるぞ」といいながら四谷は俺の腕を放す。


「大空さんと新田さんが喧嘩してるって聞いてきたんだが」


 四谷はそういいながら周囲を見渡した。もう新田と天野の姿はない。廊下に間抜けにつったっているのは俺だけだ。


「珍しいな。新田さんが怒ったのか?」

「違う。俺が、怒らせた」


 声に出したら胸が苦しくなった。

 怒らせたのだ。あの新田を。いつも明るくて、ふざけてて、誰に何を言われても軽く受け流すような奴を。新田と出会って一年。一度だってあんな風に感情をあらわにする所なんて見たことがなかったのに。


「とりあえず、医務室いくか。目冷やせ。あと寝ろ」


 そういって四谷は俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。普段だったら触るなとか、上からおさえるなとか文句も言えたけど今はいう元気がない。それどころか少し父を思い出して安心した。そういえば、一年以上頭を撫でられることもなかったのだと気づいたら、また涙が出そうになる。俺の目はすっかりおかしくなってしまったみたいだ。

 俺は乱暴に目を拭うと医務室へ向かって歩き出す。四谷の言うとおり、俺に今必要なのは眠ることだ。

 

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