6-2 夜のスタッフルーム

 消灯後の暗い廊下を、天窓からの明かりと足元にあるライトの光を頼りに進む。今日は晴れているから月明かりが差し込むが、それでも薄暗い。人気がないこともあり、自分と天野の足音がよく響いて、自分たち以外は誰もいなくなったような錯覚に陥る。

 まだ夢の続きを見ているんじゃないかという不安が湧き上がってきた頃、スタッフルームの人工的な明かりが見え、俺は心底ほっとした。消灯時間後に部屋を抜け出すのはいつものことなのに、今日はやけに心細い。悪夢が俺の心を重くしているのがよく分かった。


 天野がスタッフルームのドアをノックする。新田だったら遠慮なく開けているだろうから、こういうところで性格の違いがハッキリ出る。そんなことをぼんやり考えながら、中から返ってくる「どうぞ」という男の声を聞いた。

 

 ドアを開けると並んだデスクの一つに四谷が座っていた。ノートパソコンが開いているから、こんな時間だと言うのに何かの仕事をしていたのかもしれない。

 他にスタッフの姿はない。もう十二時を過ぎているし、夜勤は四谷だけらしい。

 今園さんや長谷川は苦手だから、四谷だけだとわかったら肩の力が抜けた。どちらかしかいなかったら、何を話せばいいんだろうとひそかに不安だったのだ。


 今園さんは妙な迫力があって、じっと見られると逃げ出したくなる。カウンセラーという仕事柄、いまの俺を見たらあれこれ聞いてくるに違いない。

 長谷川は単純にノリがバカっぽくてイヤ。こちらはデリカシーのなさから遠慮もせず、色々聞いてくるだろう。

 新田もバカ陽キャだが、アイツは陽キャをよそおっているだけで、実はそんなにバカじゃない。空気は読めるし、踏み込んじゃいけない所はわきまえてる。それに比べると長谷川は全く気づかずに他人の地雷を踏み抜くタイプだ。


 二人に比べると四谷はクソ真面目で面倒くさいだけで、ほっといて欲しいところはほっといてくれる。飛び過ぎはどんな影響があるのか分からないから控えろと言いながらも、蝶乃宮さんのように俺が飛ぶのを止めようとはしない。怪我したときには鬼のごとく怒られたけど、もう飛ぶなとは言わなかった。それを言われたらどうしようと身構える俺に対して、四谷が言ったのは気をつけろの一言だけだった。

 本心を表に出さない新田と天野が四谷に懐いているのは、踏み込まれたくない部分に触ってこないという信頼からだと思う。


 四谷の姿に俺が安心している一方、四谷の方は深夜の来訪者に驚いたようだ。メガネ越しでも目を丸くしているのが分かった。天野の方が前にいるのに、俺に視線が突き刺さっている。

 

「大空さん? なにかあったのか?」

「寝れないって廊下ウロウロしてたから連れてきた」

 天野の言葉を聞いた四谷は一瞬険しい顔をして、すぐにデスクから立ち上がった。


「飲み物用意してくるから、適当に座っててくれ」

 そういって四谷は奥の方へ歩いていく。四谷の向かった先にはコーヒーメーカーやポットが置かれるスペースがあった。給湯室なのだろう。

 

 適当にも言われてもと戸惑っていると、天野は迷わずに動き始めた。向かう先にはソファとテーブルの置かれたスペースがある。学校であれば来客用のスペースなのだろうが、虫籠に来客が来ることは少ない。

 天野が迷いなく向かっていることをふまえても、天野のようにスタッフルームに訪れる患者用だろう。


 俺はなぜか、足音を殺して天野を追いかけた。姉貴がいたら借りてきた猫みたいと笑っただろう。自分でも何にびびっているんだと呆れる気持ちはあったけど、俺にとってスタッフルームは居心地の悪い場所だ。

 机と棚の配置が職員室を連想させるのも良くない。俺にとっての職員室は、もっと勉強しろと怒られ、休み時間にはしゃぎすぎて怒られた場所。怒られた記憶しかない場所にいい印象を持つはずもない。

 

 虫籠は学校を意識した場所がいくつかある。入院するのが子供ばかりだからなじみのある学校って考えたんだろうけど、子供だからって学校が好きなわけじゃない。ずっと学校に行ってないと懐かしくなるし、同級生とか友達とか、今どうしてるんだろうって思うこともあるけど、学校そのものに思い入れがあるわけじゃない。こういうとき大人の考えってズレてるよなって思う。


 俺がやけにゆっくり近づいている間に天野は、はしの方に置いてあったクッションを俺が座りやすいように並べていた。

 中途半端に近づいた俺が固まっているのに気づくと、自分の隣に置いたクッションを軽く叩く。置かれたクッションは天野と微妙に離れていた。たぶん、無意識。

 こういうとき距離を感じてちょっと傷つくけど、これでも打ち解けているのだと知っている。あったばかりの天野は隣に座ることすら許してくれなかった。ハリネズミみたいだと言っていたのは新田だ。中身の柔らかい部分を守るために、必死に針を尖らせ、近づいてくるなと威嚇しているのだと。


 初めて聞いた時は意味がわからなかったけど、今はなんとなく分かる。天野の不良みたいな見た目もきっと威嚇なのだ。中身は穏やかで真面目で、柔らかいから、攻撃されないように必死に怖そうな自分を作っている。


 姉には散々、あんたには繊細さが足りないと言われてきた。そんなのなんの役に立つんだよと思っていたけど、虫籠に来てから姉の言うことが少し分かった。

 蝶の翅は繊細だ。うかつに触れたら壊れてしまいそうなほど。あの翅が患者の心のようなものだとしたら、虫籠に来る前の俺のようにガサツに扱ったら壊れてしまうだろう。壊れた翅を修復するのがどれほど難しいか、翅が傷ついた時の危険性を嫌というほど教え込まれた俺はよく知っている。

 それが心だとしたらなおさらだ。


 天野の背で桃色の小さな翅が揺れる。初めてみた時、似合わないと思ったそれが今は妙にしっくりきた。だからこそ心配にもなる。こんなに小さくて脆い翅を抱えて、天野は傷つかずに生きていけるのだろうかと。

   

 クッションを背もたれにしてぼんやりしている間に四谷が戻ってきた。トレーの上にはマグカップが三つ。二つはテーブルの上に並べられる。トレーと残りの一つを持って、四谷は少し離れたデスクに座った。ソファはテーブルを挟む形でもう一つ置かれている。そこに座ればいいのに変だなと思ったが、近くに座れば良いと言うと、四谷に近くにいて欲しいと言っているみたいだなと気づいて口に出すのはやめた。

 

 カップには茶色の液体が入っている。甘い匂いからして、天野が言っていた通りココアだ。四谷のマグカップの中身は確認していないが、たぶんコーヒー。甘いものは得意じゃないと、前に話しているのを聞いたことがある。


 座り直した四谷は無言でマグカップを口に運んでいる。眠れない原因を問いただされるのは嫌なのに、静かな空間が落ち着かず、何か話してくれないかと我が儘なことを思う。


 昼間、他の患者に対して怒っている四谷を見慣れているせいか、無言でコーヒーをすする四谷がやけに大人に見えた。

 子供が多いこともあり、虫籠は笑い声や話し声が途切れることがない。そういう環境に慣れてしまったので、時計の音がやけに響く現状が落ち着かない。


 チラリと天野を見れば、平然とココアを口に運んでいた。この空気に慣れている。そもそも天野は良い奴だから新田に付き合っているだけで、性質的には大人しい方だ。部屋の隅でずっと本を読んで、一日を終えられるタイプ。俺とは真逆。

 そう考えたら天野と並んで座っている状況が、とても奇妙なことに思えた。少なくとも虫籠に来なければ、天野のようなタイプと親しくなることはなかっただろう。


 虫籠を出たらもう会うこともないのだろうなと思ったら、急に寂しいという感情が押し寄せてきた。まだ翅は落ちてないのに気が早いと自分に突っ込んで、そんなことはないのだとすぐ気づく。

 俺の覚悟さえ決まれば、すぐに出られるのだ。

 それを自覚したら、白い布をかぶせられたばあちゃんの姿がフラッシュバックして、俺はマグカップをぎゅっと握りしめた。


「ココア嫌いだったか?」


 マグカップを握りしめたまま、いつまでも飲まない俺を不信に思ったらしく、天野が心配そうな顔で俺を見つめていた。俺は慌てて「そんなことない」と答えながらココアを勢いよく傾ける。

 甘ったるい味が口の中に広がって、思ったよりも熱かったことに驚いた。なんとかマグカップは落とさずにテーブルの上に置けたが、口の中が熱でビリビリする。口に含んだものを吐き出すのは嫌で、熱さを我慢して無理矢理飲み込んだが、そうすると喉まで熱い。口を押さえる俺を見て、天野が慌てて背中をさすってくれる。四谷の「何やってんだ」という呆れた声が聞こえた。

 本当に何やってんだろうと自分自身に呆れて、熱さだけが原因じゃない涙が出てくる。


「水だ。舌、やけどしてないか?」


 熱さを飲み下そうとしている間に四谷が水を持ってきてくれた。無言で受け取って一気に飲み干す。ビリビリした感覚が落ち着いて俺は息を吐き出した。


「ココアは一気飲みするものじゃないぞ」

「……知ってる」


 四谷に返す自分の声は、自分が悪いというのにふてくされた、子供っぽいものだった。四谷は心配してくれているのに、なに八つ当たりしているだと、自分が嫌になる。

 悪夢で目覚めてからというもの全てが上手くいかない。動揺していることを自覚するほかなく、ただでさえ悪かった気分がさらに悪くなる。


 四谷に貰ったコップをテーブルの上に置き、俺は意味もなくコップを睨み付けた。コップは悪くない。

 それどころか俺を救った水が入っていたのだから感謝すべきなのに、今は何かに八つ当たりしないとやってられない気分だった。人に当たるのは嫌だから、そうなると理不尽な感情は物に向ける他ない。

 本当にどうしようもないと、嫌悪感が膨れ上がって、俺は膝の上に置いた自分の手をぎゅっと握りしめた。

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