【四谷颯介】花に群がる

4-1 異常のない異常

 虫籠には医務室、学生が多い患者には保健室と呼ばれる部屋がある。休むためのベッドに作業用のデスク。薬や包帯、カルテなどが並べられた鍵付きの棚。たしかに内装は学校の保健室を思わせる。

 この部屋の内装を考えた人間があえて保健室に近い形にしたのかは分からない。ただ、ここで長い事仕事をしていると自分が学校の先生になったような錯覚に陥る。俺がとったのは医師免許であって、教員免許ではないはずなのに。


 しばしの現実逃避から目の前の患者に意識を戻す。村瀬直。一ヶ月前に入院してきた患者である。背中には薄紫の翅。入院前の検査、本日行った健康診断でも異常はなし。健康そのもの。

 

 それに安堵を覚えると同時に毎回俺は不可解さに頭が痛くなる。背中に蝶の翅が生えているのに異常がないとはどういうことなのか。いっそ、異常があってくれた方が病気解明の糸口になるというのに、クピド患者は背中に翅が生えている以外の問題はない。いや、背中に翅が生えてる時点で問題だろ。どういうことだ。


「あの、四谷よつやさん……僕、どこか悪いんでしょうか?」


 カルテを睨みつけていた俺は不安そうな声に顔を上げる。眉を下げ、声と同じく不安そうな顔をした村瀬さんの姿に俺は慌てた。


「すまない。君は健康そのもの。どこにも異常はない」

「それなら何で難しい顔してたんですか?」


 村瀬さんの不安は拭いきれなかったようで、じっとこちらを見つめている。それはそうだろう。俺は村瀬さんのカルテを見ながら顔をしかめていたのだから。ここは正直に話す他ないと俺はため息を付いた。


「君に問題はない。ただ、人間に蝶の翅が生えるなんて異常な状況で、なぜ人体になんの影響もないのかと考えていた」

「それは……たしかに」


 村瀬さんは考えたことなかったという顔で瞳を瞬かせると難しい顔をした。自分の体に起きている異変。他人よりも危機感がありそうなものだが、クピド患者は最初こそ戸惑ってもだいたいの子は慣れる。それは痛みがないからであり、最初に感じた違和感が少しずつ薄れていくからだ。

 それが俺からすると気味が悪い。外見からは分からない大きな変化が内側で起きていたとしても、患者たちは気づかない。だからこそ定期的に健康診断が行われているのだが、いくら調べても異常は見つからない。背中にあり得ないものが生えているというのに。


「翅に問題はないか?」

「最初は違和感がありましたけど、もう慣れました」


 他の患者と同じことを村瀬さんはいう。村瀬さんの返事にあわせて背中の翅が揺れるさまを俺はなんともいえない気持ちで眺めた。


 クピド患者は自分の意志で翅を動かせる。身体能力と同じで個人差があり、大空翔おおぞら かけるのように空を自由に飛べるほど自在に動かす患者もいれば、壁や障害物によくぶつかる患者もいる。それでも患者は全員、当初抱いていたはずの違和感を忘れ、体の一部として受け入れる。それは翅との付き合いが長ければ長いほど顕著であり、入院歴が一年以上になると翅を最初から生えていた手足と同等に感じるようになるという。

 蝶乃宮病院が出来てからずっと入院している患者の中には翅の生えていなかった頃が思い出せないという者もいる。それが俺には不気味で仕方ない。


 自然と動かせることを考えても翅と神経はつながっている。検査によって確認された翅から人体へ伸びる細い糸。それが神経に伝わり痛覚などの感覚、翅の制御を可能にしていると推測される。しかし、これがどのような物質で、どういう経緯で出来たのかは何もわかっていない。翅が落ちるともに神経に伝わる糸も綺麗に消え去る。最初から何もなかったように。

 

 好意的に見るべきだとは分かっている。生存率が低い数々の病気に比べれば未知の部分が多いとはいえ治る病気だ。それが分かっていても、言いようのない不気味さと不安が消えない。調べれば調べるほどに自分は何と対峙しているのだろうという未知への恐怖で足がすくむ。真っ暗な洞窟をひたすら進んでいるような、大きな底なしの穴を覗き込んでいるような。とにかく言いようのない不安が俺の胸を時折支配する。


 恐怖を振り払うように大きくため息を付く。村瀬さんがビクリと体を震わせたのを見て、悪いことをしたなと謝った。患者の前でこんな態度を見せるのはよくないとわかっているが、十年も調べ続けてなんの成果も得られないと気が滅入ってくる。


「ここには慣れたか?」


 カルテとは別、患者の精神面についての記録を眺める。村瀬さんの場合は大人しい性格や、入院当初の不安そうな様子から心配されていたが、スタッフの報告によれば今は楽しそうにしているらしい。最初の数日はそれこそ塞ぎ込んだ様子だったらしいが、それ以降は積極的に人に話しかけていると報告されている。

 あまりの変わりようは少し気にはなるが、積極性があるのは良いことだ。恋をしなければならないという性質上、人との接触を避けたがる患者はなかなか退院できない。村瀬さんもそうなるかと心配していたが、この様子だと早めに退院できそうだ。


「天野くんと新田くんはよく話しかけてくれますし、吉田くんとは話が合うんです」


 入院初日の白い顔ではなく健康的な顔色で楽しそうに話す村瀬くんに安堵する。あげられた名前も報告にあがっているものだ。本人の認識とスタッフ側の認識に違いがないことを確認しているとふと気になることがあった。


「女性で気があう相手は居ないのか?」


 いろいろな患者に話しかけるようになった村瀬さんだが親しげに話す相手となると同性が多い。患者の交友関係に口を出すのは不躾で配慮に欠けると分かっていても、医者という立場上聞かなければいけない。この、他人のプライバシーに土足で踏み込まなければいけない瞬間が俺は嫌いだ。


 村瀬さんは案の定、身を固くした。気持ちは分かる。親しくもない大人に無遠慮に恋愛に対して口を出されたくはないだろう。しかも、村瀬さんの恋愛対象が必ず女性であるとは限らない。その確認も兼ねての問いなのだが、恋愛対象が同性であると自覚している患者の多くは正直に話さない。この間退院した三雲キララが特殊例だ。あの子の場合は少し隠した方がいい。異性愛だってあまりにおおっぴらにしていれば非難されるのだから、同性愛となれば余計である。


「俺に言いにくいなら他のスタッフでもいいから、何かあったら気軽に相談してくれ。こちらとしてもあまりプライベートなことに口は挟みたくないんだが……」

「……わかってます。恋をしなければ治らない病気ですからね」

 村瀬さんは困ったように笑う。冷静で思慮深い性格で良かったと俺は息を吐く。


「恋は出来そうか?」


 俺の問いに村瀬さんは一瞬固まった。それから笑みを浮かべる。その笑みが今まで浮かべていた大人しくて気弱な少年のものとまるで違う、夜の生き物のような艶やかさを感じさせるもので俺はゾッとした。

 その笑い方に嫌というほど見覚えがある。


「わかりません。恋をするって難しいですね」


 今までと違いなめらかに動いた口元を見て俺は確信した。村瀬さんは嘘をついている。目の前の子はすでに誰かを好いている。

 クピドの翅は恋をすれば落ちると言われているが、正確にいえば恋を受け入れれば落ちるのだ。これが恋であると本人が自覚した時に落ちる。三雲さんのように本能で生きている患者は自覚と同時に落ちるが、奥山さんのように本能をコントロール出来る患者はすぐに翅が落ちない。奥山さんのカウンセリング記録を確認したが同性愛者であることはずっと隠していた。翅が落ちることで周囲にそうだと知られてしまうことを恐れていたと退院後のカウンセリングで語っていた。そんな奥山さんが恋を受け入れたのは三雲さんの翅が先に、目の前で落ちたから。それがなければ彼女は今も入院していただろう。


 目の前で笑みという分厚い壁をつくった村瀬くんも奥山さんと同じように本能をコントロールするタイプだ。

 翅が落ちて退院したら恋した相手とは離ればなれになる。それを恐れて翅を落とさない患者は少なからずいる。大空翔と小口雫もそうだし、新田隆二に実りの薄い片想いを続けている荻原瀬玲菜もそう。退院しても本人たちが本気であれば遠距離恋愛という選択肢もあるのだが、人生経験が少ないうえ、病院という隔離空間に閉じ込められている患者たちは視野が狭まっている。

 

 村瀬さんも離れたくないという感情から恋心を受け入れないのだろうと俺は判断したが、そうなると気になるのは相手だ。恋心を綺麗に隠す患者もいるが、村瀬さんの場合、演技が得意とは思えない。患者をよく見ているスタッフ、噂好きの子供たちの間で一切話題にあがっていない状況には違和感がある。そして見覚えのありすぎる妙に大人びた、子供が浮かべるには色香の強い笑み。


 嫌な予感に俺は額をおさえる。「また翡翠か」という呟きをなんとか飲み込んだ自分を誉めたい気分だ。

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