幕間 悲劇の夢
悲劇が起きたのは、幸樹が高校二年生の夏休みだった。
幸樹には毎年の恒例行事があった。それはパイロットである父親の隆次が機長を務める機に乗ることだった。
常ならば母親の由樹と乗るのだが、この年は違った。
幸樹の隣に乗るのは、付き合い始めて一年と少しとなる彼女。春日汐音だった。
「飛行機に乗るのは初めてだから楽しみ」
汐音は小窓から外を眺めながら言を弾ませる。
彼女である汐音と飛行機に乗るのは両親のはからいだった。
恒例の行事である隆次が操縦する飛行機に乗るのだが、由樹と乗らなかったのは、キャビンアテンダント業務につく彼女が仕事を休めなかったからだ。
毎年休めていたことのが僥倖だったのだ。
ただ一度だけ、休めなかった年は乗ること自体が中止になっていた。
が、今年は違った。初めの提案は由樹であった。
『なら汐音ちゃんと乗ればいいじゃない』
初めは驚きだった。遠くに出かけたいと願った時は拒否をした由樹が承諾したのだ。当然の反応を幸樹はした。
しかし由樹が提案したのは拒否をしたことが理由だった。
危険だからと止めたが幸樹と汐音は既に高校二年生なのだ。束縛が強くては自立を妨げてしまう。危惧の念が湧いた由樹は、隆次に相談をした。そこで提案されたのが恒例行事に汐音にも参加して貰おう、と言うモノだった。
これならば行きと帰りは安心でき、無理な移動をさせることもない。泊りまで許せなくても日帰りのちょっとした旅行ならば許容の範囲。
タイミングが良いと言って良いのだろうか考え物だが、両親ともに仕事が忙しかったのも後押しをした。
幸樹に提案を断る理由はなかった。
そして今、隆次と由樹のはからいを快く受け入れ、幸樹と汐音は飛行機の席に座っていた。この機は隆次が機長を務めるだけでなく、由樹もキャビンアテンダントとして搭乗しているため、幸樹も汐音も安心しか感じていなかった。
発進は目前になる。安全ベルトを締めるランプがつき、アナウンスが機内に響く。
何度も乗っている幸樹はすんなりつけることができた。
だが初のフライトで緊張しているのか、隣に座る汐音はなかなかに手こずっていた。
「こうやるんだよ」
ベルトを汐音の手から取り、幸樹は代わりにしめる。
「ありがと……」
出来なかった恥かしさなのか、汐音は顔を赤らめていた。
下を向く汐音を、幸樹は微笑みながら愛おしげに見ていた。
二人が些細なやりとりを続けていると、飛行機が動き出す。
とうとうの発進。幸樹が隣の汐音を見れば当然ながら不安と緊張の顔をしていた。
先程までの振る舞いは気丈から来ていたのだ。もしくは幸樹に迷惑をかけないためか。
どちらにしても幸樹のとる行動は一つだった。
そっと汐音の左手を握り、
「大丈夫だよ」
ニコリ、と笑いかける。幸樹が初めて飛行機に乗った時に由樹にして貰ったことだった。
よくある行動であったが、何よりも安心できたのだ。
だからこそ、幸樹は汐音に言った。
自分だけかもしれない、と幸樹は不安にも思った。だが、
「あり……がと」
と不安と緊張が安らいだ顔で感謝を述べる汐音に、先程まで感じていた不安はなくなった
また無理矢理な元気かと不安になりかけもしたが、違う、と感じられた。
違いが分かるくらいには、幸樹は汐音を分かっていたからだ。
幸樹と汐音両人の気持ちが整う。
そして、飛行機は加速する。速度をどんどんと上げ、ついに、
「…………浮いた」
汐音がポツリとつぶやいた。
かすかな言葉だったが、そこには確かに興奮が混ざっていた。
来てよかった。この時、幸樹は心の底から思った。
離陸からのフライトは快適だった。汐音は楽しく過ごしており、幸樹も笑顔の彼女と楽しい一時を過ごしていた。
事が起きたのは離陸から三十分経った頃だった。
爆発音が、突然に響いたのだ。
機体が空中にいながら浮き上がるような振動。
幸樹も含め、乗客はどよめく。次の瞬間、乗客の誰かが叫ぶ。
「見ろ! も、燃えてる! エンジンが燃えてるぞ!」
すぐさまに皆は外を見る。
幸樹も同様に外を見た。そうして視認できたのは言葉通りのモノだった。
エンジンから火が噴き、黒煙が立ち上っているのだ。
事故、と言う単語が幸樹の脳裏に瞬時に浮かぶ。
だが浮かんだのは幸樹だけでなく、他の乗客もだった。
機内は戦々恐々となる。
「……幸樹」
汐音も不安な面持ちであった。
幸樹は彼女を安心させるために、大丈夫、と言い続けた。
「機長をしてるのは一万時間以上を乗っている俺の親父だ。副機長だって五千時間を超えてる。この喧騒だってキャビンアテンダントの人がすぐにおさめてくれる。
大丈夫。心配いらないから」
安心を促す言葉。それに、
「…………うん」
汐音は頷く。だが、不安を完全に払拭することは出来なかった。
周りを見れば、幸樹自身が言った通りCAがなだめ、ベルトをするよう促している。
幸樹は汐音にもベルトをするよう言い、理解させる。
自身もすぐにベルトを着用する。
後に汐音を見れば、やはりうまくベルトを入れることが出来ないでいた。
恐怖で、手が震えていたのだ。
離陸の時と同様に手を貸そうと幸樹が手を伸ばした時だ。
二度目の爆破音と機体の大きな揺れが起きた。
「きゃっ!」
叫ぶ汐音。幸樹は彼女に手を伸ばす。が、大きく機体が揺れるために汐音の体に触れることが出来ない。
つかめないまま、汐音の体は前方へ大きく吹き飛んだ。照明が消え、質感を持った闇の中。汐音は腹の中に吸い込まれるかのように闇に飲み込まれた。
轟音が鳴り響く。幸樹たちが乗った飛行機が、墜落をしたのだ。
墜落の衝撃で幸樹は頭を強く打ち、気を失った。
目を覚ましたのはどれだけの時間が過ぎた頃か、幸樹にはわからなかった。
しかし周りの状況が地獄だと言うのは理解出来た。
衝撃で曲がり、折れた機体。吹き飛んでいる座席。宙にぶら下がる酸素マスク。
そして人間が、ゴミの様に転がっていた。
地面に実際に転がっている者。
座席に布団を干すときと同様な形でぶら下がる者。
壁に突き刺さっている者。
様々に力なくいる人間。
うめき声が聞こえるため、生き残っている人もいると理解出来た。
が、どうしても目に映る人間全員が死んでいるように思えた。
それだけの強い印象が、目を覚ました幸樹の周囲に広がっていた。
幸樹自身も頭から血を流し、胸には激痛が走っている。
だが彼は自身の怪我を気にすることなく、歩き始めた。
目的はただ一つ。汐音を探すために。
歩く度に幸樹の体には激痛が走る。しかし構わず歩を進める。
通る道には呻く人間が時折いた。
助けてと。死にたくないと。
けれども幸樹は目線を移す事すらしなかった。
助けられる力がないと言う理由もあった。だがそれ以上に、幸樹には助ける余裕がない、が一番の理由だった。
止まったならば、幸樹は二度と動き出せない。
その現実は彼自身が良く分かっていた。
だからこそ、幸樹はどれだけ助けを求められようが。どれだけ嘆きを聞こうが。見ることも、ましてや助けようなどとはしなかった。
十数メートル、幸樹が進んだところで、
「……こう、き……」
自らを呼ぶ声が聞こえた。呼ぶ声もいつも聞きなれた、愛する人の声。
やっと見つけた、と幸樹は進むスピードを速める。
「……こう……き……」
名前を呼ぶ声は小さい。だがすでに直前まで近づいていた。
一個先の椅子を覗けばいる。声はその場所から出ているからだ。
「汐音!」
やっとの思いで見つけられた。嬉しさのあまりに幸樹は名前を呼びながら微笑んでしまう。
しかし笑いはすぐに消え、瞬間に絶望へと変わってしまう。
確かに汐音はそこにいた。見つけることができた。
だが、そこに居たのは、
「うそ……だろ……」
両腕と両脚が無くなっている汐音だった。
なぜ四肢が全てないのか幸樹にはわからなかった。
けれども、ない、と言う事実は視認しているために揺るがない。
四肢が無くなった断面からは泉が如く血が流れ出ている。
汐音の顔を見れば血の気が完全に失せ、目には光の一切を写してはいない。
「うぁああああああああああああああ!」
幸樹は叫んだ。
そして、周囲を探す。汐音の腕を。脚を。
幸運にも近くにあった一本の腕を取り、幸樹は汐音に駆け寄る。
「つけ! つけよ!」
無理な願い。だが、幸樹は叫びながら腕を合わせては離す。合わせては離す。
「つけよ……ついて、くれよ……」
抱く汐音の体は温もりを失い、氷のように冷たくなっていた。
冷えた彼女の体に、幸樹は涙を落とす。
涙を垂らしながら、幸樹は腕を合わせ、離す。
願い、行われた行為は彼が気を失うまで続いた。
次に目を覚ました時、幸樹は見知らぬベッドの上にいた。
周囲を見回し、病院にいるのだと幸樹は気付いた。
近くに居た看護師が幸樹の意識回復に気付き医師を呼ぶ。
駆け付けた医師により、幸樹は現状を知った。
今が事故から四日後だと言うこと。事故から幸樹は長らく眠りについていたこと。生存者は幸樹を含め、四百六十人中六人だけだったこと。
そして、生存者の名前を全て聞いたが、幸樹の家族も、汐音の名前も無かった。
目を覚ました日、幸樹は悲しみで涙し続けた。
幸樹の当初の退院は九日後の予定だった。
本当ならばもう少し早く退院することもできた。しかしそれが出来ない状況であった。
体は確かに治っていた。
だが、幸樹の胸には未だに治しがたい傷が残ったままだった。
そこに追い打ちが幸樹にかかったのも理由の一つだった。
世間の誹謗中傷だ。
各テレビ局の報道陣や記者は、機長の息子で奇跡的に助かった幸樹を格好の標的にし、質問攻めにした。
アレは事故だったのか。どうやって助かったのか。機長の息子だから優遇されて助かったのか。多くの人が死んだ中、助かった感想は。
一度だけ行われた会見。そこではフラッシュと共に続く質問。しかしそれらに幸樹は一切口を開かなかった。
心ない行動はそれだけではなかった。
病院に大量の手紙が毎日のように送られた。内容は、幸樹が生きているのにどうして娘が死んだのか。お前の父親が家族を殺した。妻を返せ。お前が死ね。お前が死ね。
誹謗中傷や心ない行動。
だが幸樹は一切心を痛めることが無かった。いや。痛める余裕が無かった。
幸樹自身も家族を亡くし、好きだった人を失くしていたのだから。
そんなある日。幸樹に面会をしに来た人物が居た。
汐音の両親だった。
「やあ。元気そうで何よりだよ」
汐音の父である圭一の開口一番の言葉に、幸樹はコクリと会釈をする。また座ることを勧め、汐音の母である初音が椅子を用意して二人は座った。
そこから、長らく無言が続いた。
無言は、面会時間ギリギリまでだった。帰る時間になり初音が、
「……お父さん、そろそろ」
「あぁ……」
二人は立ち上がり、初音は早々に部屋を出て行く。
圭一も、失礼するよ、と言って部屋を後にしようとする。
何しに来たのだろう。ふと疑問が幸樹の頭を過る。
その時、圭一が入り口近くで立ち止った。そして振り返ることなく、
「君は、汐音の最期を見たのかい?」
唐突に質問を幸樹に投げかけた。
のどに詰まる問いに、幸樹は間を作りながらも、
「………………はい」
肯定した。
「そうか……」
圭一は幸樹に背中を見せながら天井を見上げる。
そして、
「なら」
数瞬の間を作り、圭一は告げる。
「どうして娘と一緒に死んであげなかったのかね」
「⁉」
最後まで言い切った圭一は、幸樹の返答を聞くことなく去って行った。
残された幸樹は、異様な胸の重みを感じていた。
どれだけの誹謗中傷にも痛みを感じなかった心が。
どれだけ心ない言動をされても反応しなかった感情が。
『どうして娘と一緒に死んであげなかったのかね』
圭一の言葉に、大きく穿たれた。
ただ死ねと言われるよりも。
なぜ生き残ったのかと言われるよりも。
一緒に死んであげなかった。この言葉は、重かった。
自分がすればよかったであろう行動。
今更ながらの提示ではあった。
しかし、
『……こう、き……』
飛行機で聞こえた汐音の声がした。
彼女が呼んでいる、と幸樹は思った。
幸樹はベッドから下り、左足を引きずりながら歩き出した。
行く先は既に決まっていた。汐音の声もその方角から聞こえていた。死んでもなお、気持ちは繋がっていたのだと、幸樹は嬉しくなった。
幸樹は微笑みながら、屋上へと向かった。
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