椿、です。
迫る拳。避ける。迫る拳。避ける。拳。避ける。避ける。避ける。避ける。
肌を掠める拳。耳元で鳴り響く風切り音。
避ける。避ける。避ける。
目の前には黒いスーツを身にまとった男──正確に言えば、戦闘型ヒュアミス。それが放つ一撃をくらってしまえば、本物である僕でさえただでは済まない。
だから避ける。
ただただ避ける。受けようとは考えてはいけない。下手に受ければ骨が折れかねない。
目の前のヒュアミスはまるで台風だ。とすれば、僕は今暴風圏に立っていると言った所だろう。
誰かが言っていた「自然に逆らうのは愚か者がする事だ」と。その意見には同意する。事実として、自然災害の前では、人間は無力だ。
だが、目の前の台風は、生憎と人工物である。逆らう事が出来てしまう。
そもそも──どうしてこうなった?
僕はクレスさんに、ひいてはセルパーに協力して違法薬物取引現場を抑えに来たはず。なのに何故、よりにもよって戦闘型ヒュアミスの相手なんてしているのだろう──一人で。
「話が違う」
いや、違うと言う事もない。だが、クレスさんが風見鶏に来た時点ではこんな事になるとは思っていなかった。あの時の僕は、こんな危険な仕事になるなんて思っていなかった。
『たった一人』で囮にされるなんて、一ミリたりとも考えていなかった。
あの人は鬼だ。
「じゃ、こいつは任せた」とだけ言って、何人かのセルパーを引き連れて颯爽と去っていった後ろ姿を、しばらくは忘れられないだろう。
あれから十分程経った。ヒュアミスの後ろにそびえ立つ西洋の城を思わせる建物。今頃あの中では、大捕物が行われているのだろうか?
とまぁ、色々と考える事はあるのだが、今一番に考えなくてはならないのは、目の前の台風をどうするかである。
「おっと」
拳が額を掠めた。
危うく頭を砕かれる所だ。
さて、どうしたものだろう?
関節技──効かない。打撃──さっきからしているが、一向に効果が現れない。
打撃だけで戦闘型ヒュアミスを沈黙させる知り合いがいるのだが、あの人の様にはいかないらしい。
クレスさん達が戻って来るのを待って何とかする──論外である。
ならばどうすべきか? 正直詰みである──なんて事もない。
使うか?
拳の嵐を避けながら、腰から提げた『椿』を一瞥する。
切り札である椿を簡単に使うべきではない。だが、これ以上ここで時間を費やすべきではないだろう。先に行ったクレスさん達の事も心配である──大丈夫だろうけど。
バックステップでヒュアミスと距離を取る。と同時に椿の柄に右手をかける。
「いいかい要。椿は刀だ。刀である以上凶器だ。出来る事ならば、椿をあまり使わないでほしい」と言って椿を手渡してくれた、父さん。
わかってるからね、父さん。
「椿、抜刀」
柄を握った右手の人差し指に、ちくりと痛みが走る。
「声紋認証、指紋認証、血液認証──オールグリーン。椿の抜刀を許可します」
機械的な音声が流れた後に、かちゃりと鍵の開く様な音。それに合わせて椿を引き抜くと、その白銀の刀身が煌めいた。
時刻は午後七時を回り、日はとうに落ちている。それでも建物から漏れる僅かな光を反射して輝く椿は、暗闇の中にその存在を主張していた。
「侵入者の武器を日本刀と断定。脅威度をCからBに引き上げる。任務遂行問題無し」
問題なし……ね。
僕を排除しようとするヒュアミスには、椿が『ただの』日本刀にしか見えていないらしい。
ぱっと見は刀で、特殊な科学兵装等も付いているわけではないから、その判断は正しいとも言える。
しかし、椿はただの刀ではない。
今から二十年前。ある科学者がそれまで存在しなかった新たな金属を作り出した。
強度・硬度・耐熱性。その全てがそれまで存在していた金属を上回る。その金属は『オリハルコン』と名付けられた。
神話やファンタジーに登場する鉱石の名を付けられたその金属は、瞬く間に世界に広まる──はずだった。しかし、そうはいかなかった。
何故か?
答えは簡単である。
オリハルコンの作り方はデータとして存在しなかった。一人の人間の頭の中だけに保存されていた。そしてその科学者は、オリハルコンの大量生産を望まなかった。
それどころか、オリハルコンはその後一切作られる事はなかった。
幻の金属。
神話やファンタジーに登場する幻の金属は、現実世界でも幻の金属となった。
その幻の金属が、椿の刀身を形作っている。
世界に『二振り』しかないとされるオリハルコン製の刀。ダイアモンドさえ、砕くのではなく斬るとされる刀──それが椿。
何時だったかアーリスと椿について話をした。
『もし
『じゃあ、それが
『S……もしくは格付け不能でしょうね』
僕としてもアーリスの意見に同意である。だからこそ、僕以外が扱う事が出来ない様に、椿にはロックがかけられている。
斬れない物がない刀。そんな刀は、ただただ危険なのだ。
大昔の有名なアニメに出る何でも斬れる刀には、こんにゃくが斬れないという欠点があったらしいが、椿にはそんな可愛らしい欠点が無い。
「斬れない物が無い刀……か」
柄を握る両手に力を込め過ぎず、全身からも出来るだけ力を抜く。
脱力──これが意外と難しい。
戦闘型ヒュアミスはこちらの動きを伺っている様だったが、それも僅かな時間だった。
どん!
と地面が震える踏み込み。
右手を振りかぶり正面から高速で迫るヒュアミス。椿の事などまるで眼中に無い。
それは当然と言えば当然だった。ヒュアミスの人工皮膚の下は、特殊な鋼で覆われている。斬られるなんて微塵も考えていないだろう。
顔面に迫る拳を避け、ヒュアミスの胴体に狙いを定める。
一閃。
手に伝わった感触は、まるで豆腐を切った様な感触だった。
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